学位論文要旨



No 121800
著者(漢字) 岡崎,久美子
著者(英字)
著者(カナ) オカザキ,クミコ
標題(和) ラン藻Synechocystis sp. PCC6803のリゾホスファチジン酸アシルトランスフェラーゼとグリセロ脂質sn-2位脂肪酸の役割に関する分子生物学的研究
標題(洋) Molecular biological studies of lysophosphatidic acid acyltransferases and the significance of sn-2 fatty acids of glycerolipids in Synechocystis sp. PCC6803
報告番号 121800
報告番号 甲21800
学位授与日 2006.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4915号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 米田,好文
 東京大学 助教授 和田,元
 東京大学 助教授 園池,公毅
 東京大学 教授 佐藤,直樹
 埼玉大学 教授 西田,生郎
内容要旨 要旨を表示する

序論

 生体膜の主成分であるグリセロ脂質の脂肪酸のsn-位置特異性は生物に特異的に厳密に制御されている。ホスファチジン酸(PA)はすべてのグリセロ脂質の前駆体であり,グリセロール-3-リン酸アシルトランスフェラーゼ(GPAT, EC 2.3.1.15)はsn-1位に,リゾホスファチジン酸アシルトランスフェラーゼ(LPAAT, EC 2.3.1.51)はsn-2位に脂肪酸を転移することによりPAのsn-位置特異性を決定する。現生のほとんどのラン藻では,グリセロ脂質のsn-2位は炭素数16(C16)の脂肪酸で占められており,これはラン藻のLPAATがC16脂肪酸に特異性を有するためと考えられている。また,葉緑体で合成されるPAもsn-2位はC16脂肪酸を結合しており,ラン藻と起源を同じくするLPAATが存在すると考えられている。しかし,ラン藻のLPAAT遺伝子を単離しその生化学的性質を調べた研究は今までになかった。そこで,ラン藻のLPAAT遺伝子を単離し,上述の膜脂質脂肪酸のsn-位置特異性が広くラン藻類で保存されている意義を明らかにする研究を行った。

 ラン藻ゲノムデータベースの解析からSynechocystis sp. PCC6803は3つのアシルトランスフェラーゼ様遺伝子sll1848, sll1752,slr2060を持つことがわかっている。また,研究の途中でWeier (2005)らはsll1848がC16脂肪酸特異的で必須のLPAATであることを報告した。しかし,本研究では,sll1848は遺伝子破壊が可能であり,その破壊によって膜脂質のsn-2位のC16脂肪酸の割合の減少とC18脂肪酸の割合の増加がおこることを見出した。また二重破壊株(Δ1848 Δ2060株)ではC18脂肪酸を基質とするLPAATであるsll1752遺伝子の発現が上昇することを明らかにした。Δ1848 Δ2060株では野生株と比べて低細胞密度条件下および低温での増殖速度の減少が見られ,これは光阻害の増大が一因であると考えられた。また,複数のタンパク質の量にも変化が見られた。以上のことからラン藻にとってsll1848遺伝子を主要なLPAATとしてsn-2位にC16脂肪酸を取り込むことは光合成環境における生育にとって重要であると考えられる。

結果

1. ラン藻アシルトランスフェラーゼ遺伝子の単離と解析

 Synechocystis sp. PCC6803の3つのアシルトランスフェラーゼ様遺伝子sll1848, sll1752, slr2060をゲノムからPCRで増幅し,マルトース結合タンパク質(MBP)と融合させたキメラタンパク質MBP-1848, -1752, -2060を調製した。アミロースアフィニティカラムで精製した画分を用いてLPAAT活性を測定し(表1),MBP-1848がC16特異的なLPAATであることを確認した。一方,MBP-1752は16:0-CoAに対してコントロール変異タンパク質(MBP-1752D66G)より高いLPAAT活性を示さなかったが,18:0,18:1-CoAに対しては有為な活性が検出された。また,MBP-1752は大腸菌LPAAT遺伝子変異株SM2-1の温度感受性を相補した(図1)。以上の結果はsll1752がC18特異性を有する第二のLPAATであることを示している。

2. ラン藻のアシルトランスフェラーゼ遺伝子破壊株の作成:sll1848遺伝子破壊による脂肪酸組成の変化

 Synechocystis sp. PCC6803の遺伝子破壊株Δ1848, Δ1752, Δ2060および二重破壊株Δ1848 Δ2060, Δ1752 Δ2060を作出した。一方,Δ1848 Δ1752は繰り返し試みたが完全な破壊株は得られなかったことから,sll1848とsll1752はこのラン藻の主なLPAATであると考えられる。破壊株の脂質分析を行ったところ,いずれの破壊株でも膜脂質の組成に大きな変化はなかった(図2A)。しかし,脂肪酸組成はΔ1848株およびΔ1848 Δ2060株で16:0が大きく減少し,18:0,18:1が増加した(図2B)。これらの変化はsn-2位の脂肪酸の割合の変化を反映していたが,sn-1位の脂肪酸の不飽和度の減少もみられた(表2)。このことはsll1848がsn-2位に16:0を持つ主要なグリセロ脂質の合成に関与するLPAATであるという主張を裏付けるともに,sll1752が18:0および18:1に特異性を持つLPAATであるという上の結果と一致する。また,sn-2位の脂肪酸組成の変化がsn-1位の脂肪酸変化を引き起こしたと考えられる。

 Δ1848 Δ2060株ではsll1752遺伝子の転写産物量が野生株に較べて増加していた(図3)。また,膜画分の16:0-CoAに対するLPAAT活性はΔ1848株およびΔ1848 Δ2060株で野生株や他の破壊株に較べ大幅に減少したが,18:0-CoAに対するLPAAT活性は逆に増加した(図4)。以上の結果はsll1752がC18脂肪酸を基質とするLPAATであることを支持し,またΔ1848 Δ2060株ではsll1752の発現量を増大させることによりLPAAT活性の低下を相補していることを示している。

3. LPAAT遺伝子破壊がSynechocystis sp. PCC6803の光合成依存増殖にもたらす影響

 野生株とΔ1848 Δ2060株をOD=0.02で植え継ぎ30℃で培養したところ,Δ1848株とΔ1848 Δ2060株ではOD<0.3までで増殖の遅延が見られた。一方,OD=0.1で植え継ぐと,野生株とΔ1848 Δ2060株で生育にほとんど差が見られなかった(図5)。以上の結果はΔ1848 Δ2060株では低細胞密度での増殖速度が低下することを示している。次に20℃で培養すると,Δ1848 Δ2060株では野生株に較べ増殖速度が顕著に減少した。低温や低細胞密度条件下での生育遅延は光強度に依存した光阻害が起きていることを示唆している。そこで,通常の光条件からより強い光条件に細胞を移したときのPSII活性を測定した。PSII活性の低下は30℃,20℃ともに野生株に較べ,Δ1848 Δ2060株で大きくなっており(図6),光阻害をより受けやすくなることが示された。

 Δ1848 Δ2060株が光阻害を受けやすくなっている理由を明らかにするためにΔ1848 Δ2060株と野生株の光合成特性を比べた。Δ1848 Δ2060株では野生株に較べてクロロフィル量,最大光合成活性の減少が見られた(図7,8)。また,野生株とΔ1848 Δ2060株のタンパク質をSDS-PAGEによって解析したところ,複数のタンパク質の量に変化が生じていることがわかった(図9)。このうちΔ1848 Δ2060株の膜画分ではおよそ95kDaのフィコビリソームコアメンブレンタンパク質(ApcE)が減少していた。また,可溶性画分では43kDa前後のタンパク質バンドの減少も見られた。しかし,生細胞のフィコビリソームに由来する吸光は野生株に較べほとんど減少していないことから(図10),Δ1848 Δ2060株ではこのタンパク質が精製中に膜から外れやすくなっている可能性が考えられた。細胞の蛍光発光スペクトルを測定したところ,植え継ぎ後24時間目の細胞ではΔ1848 Δ2060株は野性株に較べてApcEとPSII反応中心に由来する蛍光の増大が見られた(図11)。また,フィコビリソーム,PSIに由来する蛍光のピークにも変化が見られた。一方,植え継ぎ96時間目の細胞ではApcEとPSII反応中心に由来する蛍光のピークは減少していたことから24時間から96時間の間に光阻害の影響が軽減したことが示唆される。しかし,96時間目の細胞では24時間目と同様に野生株に比べてフィコビリソームに由来する蛍光のピークの形の変化とPSIに由来するピークのシフトがみられた。以上から光化学系タンパク質複合体の構造に変化が生じている可能性が考えられる。

まとめ

 本研究で私はラン藻Synechocystis sp. PCC6803には16:0を基質とする主要なLPAATであるsll1848のほかに,18:0,18:1を基質とするLPAATであるsll1752が存在することを明らかにした。また,sll1848の破壊によってsn-2位の16:0の多くがC18脂肪酸に置き換わることを示し,この破壊株では種々の光合成条件下での生育特性(増殖速度,クロロフィル量,最大光合成活性,低温,光阻害に対する感受性)が野生株に比べて低下することを示した。したがってsn-2位にC16の脂肪酸をもつことは,このラン藻にとって光合成環境下のより最適な生育に重要であると考えられる。他のラン藻類においてもsn-2位のC16の脂肪酸が同様の働きをしている可能性が考えられる。今後は高等植物葉緑体でも同じことが起こっているかを検証することが重要であり,そのためにはsll1752遺伝子は重要なツールと考えられる。

表1. MBP融合タンパク質のLPAAT活性

sll1848, sll1752, slr2060, PlsCとMBPの融合タンパク質を大腸菌で発現させ,アミロースアフィニティカラムで精製しLPAAT活性を測定した。それぞれのタンパク質のアシルトランスフェラーゼモチーフのD残基をGに置換した変異タンパク質も同様に調整し,活性測定した。

図1. 大腸菌LPAAT遺伝子PlsC変異大腸菌SM2-1の相補

1, MBP;2, MBP-PlsC;3, MBP-1752

図2. 野生株と遺伝子破壊株のグリセロ脂質の脂質組成,脂肪酸組成

A,野生株と遺伝子破壊株の脂質組成 B,野生株と遺伝子破壊株の脂肪酸組成

表2. 野生株とΔ1848Δ2060株のグリセロ脂質のsn-1,2位の脂肪酸組成

図3. 野生株と遺伝子破壊株でのsll1848, sll1752の発現量の比較

図4. ラン藻膜画分のLPAAT活性

図5. 野生株と遺伝子破壊株の増殖速度の違い

上段,植え継ぎOD(730)=0.02,培養30℃;

中段,植え継ぎOD(730)=0.1,培養30℃;

下段,植え継ぎOD(730)=0.1,培養20℃

図6. 野生株とΔ1848Δ2060株の強光下のPSII活性の変化

細胞を30℃(A)および20℃(B),60μmol m(-2) s(-1)で2日間培養した後,220μmol m(-2) s(-1)に移してPSII活性の変化を調べた。

図7. 野生株とΔ1848Δ2060株のChl a量の違い

A,植え継ぎOD(730)=0.1,培養30℃

B,植え継ぎOD(730)=0.1,培養20℃

C,120 hでの培養液の様子

図8. 野生株とΔ1848Δ2060株の最大光合成活性の違い

A,植え継ぎOD(730)=0.1,培養30℃

B,植え継ぎOD(730)=0.1,培養20℃

図9. 野生株とΔ1848Δ2060株のタンパク質のプロファイル

野生株とΔ1848Δ2060株の細胞破砕液(1,野生株;2,Δ1848Δ2060),可溶性画分(3,野生株;4,Δ1848Δ2060),膜画分(5,野生株;6,Δ1848Δ2060)のSDS-PAGEによる解析。

図10. 野生株とΔ1848Δ2060株の生細胞の吸収スペクトル

図11.野生株とΔ1848Δ2060株の77Kでの生細胞の蛍光発光スペクトル

A,植え継ぎ後24時間目

B,植え継ぎ後96時間目

縦軸は721 nmを1としたときの相対値。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなる。第1章はグリセロ脂質の多様な分子種の生合成とその生理的な意義に関する総説である。グリセロ脂質は結合する極性基と脂肪酸の種類において多様であり,脂質クラス,分子種の生物学的役割を解明するための研究が進められている。一方、グリセロ脂質の脂肪酸のsn-位置特異性に関しては、生物グループごとに特徴ある結合パターンが見受けられる。しかし,このような特徴の生物学的意義の考察はこれまで報告されていない。

 現生のほとんどのラン藻は,グリセロ脂質のsn-2位に炭素数16(C16)の脂肪酸を結合しており、これはリゾホスファチジン酸アシルトランスフェラーゼ(LPAAT, EC 2.3.1.51)の基質特異性によると考えられている。また,原始ラン藻類を進化的な起源とする葉緑体のホスファチジン酸も、そのsn-2位はC16脂肪酸で占められている。ラン藻と葉緑体での脂肪酸のsn-位置特異性の一致は、両者が光合成という同じ膜機能を司ることと何か関係があるのであろうか?この疑問に答えるためには,まずラン藻のLPAAT遺伝子を単離する必要がある。論文申請者はラン藻Synechocystis sp. PCC6803のLPAAT遺伝子を単離し,その遺伝子破壊株の研究から、グリセロ脂質の脂肪酸のsn-位置特異性の生物学的意義に関して、新たな発見をしている。

 第2章では、ラン藻Synechocystis sp. PCC6803の3つのアシルトランスフェラーゼ様遺伝子sll1848, sll1752, slr2060を単離し,マルトース結合タンパク質(MBP)との融合キメラタンパク質MBP-1848, MBP-1752, MBP-2060の性質から、MBP-1848がC16特異的なLPAATであることを確認している。一方,MBP-1752は18:0および18:1-CoAに対してのみ有意な活性を有し、また,大腸菌LPAAT遺伝子変異株SM2-1の温度感受性を相補することを示している。従って、sll1752はC18特異的な第二のLPAATであると結論している。

 第3章では、Synechocystis sp. PCC6803の遺伝子破壊株Δ1848, Δ1752, Δ2060および二重破壊株Δ1848 Δ2060, Δ1752 Δ2060を作出し、これら遺伝子破壊株の膜脂質および脂肪酸組成について述べている。Weierらはsll1848の遺伝子破壊は出来なかったと報告したが,論文提出者は3つの遺伝子がいずれも必須ではないことを明らかにしている。Δ1848株およびΔ1848 Δ2060株では、膜脂質のsn-2位の16:0が大きく減少し、かわりに18:0,18:1が増加している。また,sn-1位の脂肪酸の不飽和度の減少もみられている。Δ1848 Δ2060株では、sll1752遺伝子の転写産物量が野生株に較べて増加し、また,膜画分の18:0-CoAに対するLPAAT活性が野生株や他の破壊株に較べ大幅に増加している。従って、sll1752はSynechocystis sp. PCC6803で18:0および18:1に特異性を持つ第2のLPAATである。

 第4章では、sll1848遺伝子破壊のSynechocystis sp. PCC6803の光合成環境下での生育への影響について述べている。Δ1848 Δ2060株は野性株と較べて低細胞密度,低温で増殖の遅延を示すが、その原因の一つとして、Δ1848 Δ2060株の光阻害に対する感受性の増加を見いだしている。Δ1848 Δ2060株が光阻害を受けやすい理由は明確にはできていないが,Δ1848 Δ2060株は野生型よりもクロロフィル量および最大光合成活性が低く,野生型に較べ余剰の光エネルギーに曝されやすいと予測される。また、この細胞の蛍光発光スペクトルは光化学系タンパク質複合体の構造に変化が生じている可能性を示唆している。実際,Δ1848 Δ2060株の膜画分ではフィコビリソームコアメンブレンタンパク質(ApcE)は精製中に膜から外れやすいことを明らかにしている。以上の研究から、sn-2位のC16脂肪酸はラン藻の光合成環境下でのより良好な生育に重要であることを明らかにしている。

 第5章は3つのsll1848、sll1752、およびslr2060遺伝子の役割について総括すると共に,将来の研究の展望について博士(理学)としてふさわしい考察を加えている。また、実験の過程で得られたその他の興味ある現象についても考察している。

 本論文の第2,3,4章は佐藤典弘,辻紀子,都築幹夫,西田生郎との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって,博士(理学)の学位を授与できると認める。

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