学位論文要旨



No 121841
著者(漢字) 賀川,史敬
著者(英字)
著者(カナ) カガワ,フミタカ
標題(和) 擬2次元有機導体κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Clにおけるモット臨界性 : 輸送研究とNMR研究
標題(洋) Mott criticality in the quasi-two-dimensional organic conductor, κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Cl : transport and NMR studies
報告番号 121841
報告番号 甲21841
学位授与日 2006.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6371号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 助教授 長田,俊人
内容要旨 要旨を表示する

研究要旨

 モット転移は電子の運動エネルギーと相関エネルギーの競合が端的に現れる、強相関物理における基本的な問題である。モット転移近傍に現れる現象は多彩であり、モット転移を理解することは、この転移近傍で発現する現象を理解する上でも重要だと考えられている。本研究は、擬2次元有機導体κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Clが対称性の破れを伴わない理想的なバンド幅制御型モット転移を示すという点に着目し、バンド幅制御型モット転移の臨界性を中心に、磁性・輸送特性の両面から、定性的・定量的に研究したものである。バンド幅を制御するには、圧力が有効な手段として知られている。有機物は無機物と比較して格子が柔らかいという特徴がある。このため低圧にしか使用できないが、精密かつ系統的に圧力、すなわちバンド幅を制御することを可能にするヘリウムを圧力媒体として用いることができる。これにより低温環境下において等温圧力掃引が可能となっていることが本研究の大きな特色である。本研究では、この圧力印加法を用いNMR測定、電気抵抗測定を行った。NMR実験ではバンド幅制御型モット転移の臨界終点周りの磁性を系統的に調べることに成功した。これは物質を問わず、バンド幅制御型モット転移の臨界現象をNMRで捉えた初めての例である。一方電気抵抗測定からは、この表題の物質におけるバンド幅制御型モット転移の臨界指数が異常な値(δ,β,γ)-(2,1,1)であることが示唆された。さらに得られた臨界指数は通常のスケーリング則を満たすことを見出し、これは表題の物質におけるモット転移が非従来型の普遍性クラスに属することを示している。

0.はじめに―κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Clの圧力温度相図

 擬2次元有機導体κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Cl(以下κ-Cl)の圧力温度相図を図1に示す。κ-Clは常圧下でモット絶縁体であるが、圧力印加によってモット転移を起こし(1次転移)、金属化(低温で超伝導)する。過去の輸送特性の実験から、モット転移は臨界終点(Tc〜39.7K)を持つ1次転移であることが示されている。

1. κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Clのモット絶縁体相の磁性

1.1 背景

 κ-Clは常圧下でモット絶縁体であり、〜27Kで弱強磁性を伴った反強磁性に転移することが過去の静磁化率・NMR測定から明らかにされているが、本来比例関係にあるべき静磁化率とナイトシフトが常磁性領域においても著しくスケールしていないなどの未解明の問題もある。モット転移及びその臨界性を磁気的な側面から観測・理解する(次章)ためには、κ-Clの常圧下における磁性をより深く理解することが必要と考え、常圧下のκ-ClについてNMR測定、静磁化率測定を行なった。

1.2 結果と考察

 κ-Clは任意の軸に磁場を印加すると、結晶の対称性を反映して最大16本の(13)C-NMRスペクトルが得られるが、a軸という対称軸に平行に磁場を印加した場合スペクトルが2本のみになることが知られている。本研究では(13)C-NMRシフトを正確に知る必要があったので、磁場7.4Tをほぼa軸に平行に印加した状態で、常圧下(13)C-NMRシフトの温度依存性を重点的に測定した。加えて7T環境下における静磁化率の温度依存性を鹿野田研及び理化学研究所におけるSQUIDでそれぞれ測定し、信頼のできる7T下での静磁化率のデータを得た。まず静磁化率と(13)C-NMRシフトを見比べてみると(図2)、常磁性領域 (T>TN〜27K)、特に30-50Kにおいて、静磁化率は温度ともに減少しているにもかかわらず、(13)C-NMRシフトからは局所スピン磁化率の増大(高周波側へシフトすることに対応)が示唆され、矛盾する振る舞いとなっていたが、これらは反強磁性相互作用・Zeeman相互作用・Dzyaloshinsky-Moriya (DM) 相互作用の3つの相互作用を考慮すると矛盾なく説明できることがわかった。すなわちDM相互作用を持つHeisenbergスピン系は磁場によって、non-collinearなスピン状態が誘起されることが実験結果及び考察から示せた。NMR測定においては反強磁性転移時に(他のグループのNMR測定も含めて)常に同一のスピン構造が誘起されており、「秩序相には縮退した相があり、相転移時に縮退した相のうちの1つが自発的に選ばれる」という自発的対称性の破れの概念の矛盾するように思われる結果が得られた。しかし、この現象も磁場によってnon-collinearなスピン対称性が誘起され、縮退が解けると考えれば自然に説明できることがわかった。これらの実験結果・考察から、κ-Clのモット絶縁相において、高周波側にシフトするのは反強磁性揺らぎの発達によるものと結論づけた。このことから常磁性領域においても静磁化率とナイトシフトは必ずしも対応する振る舞いを示す必要はないことがわかった。

2. κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Clの常圧下及びモット臨界点近傍の磁性

2.1 背景

 κ-(ET)2塩については過去多くのNMR研究があるが、パラメータの精密制御が困難であったため、モット転移に伴い、NMRシフトや1/T1がどのように変化するのかは明らかになっていなかった。さらにモット臨界点近傍におけるNMR実験は物質を問わず、今まで測定例がなかった。そこでモット転移及びその臨界性を磁性の側面から系統的に観測・理解することを目標とし、ヘリウムガス圧下でNMR測定を行った。

2.2 結果と考察

 臨界温度よりも低温域(T = 31.6 K)におけるNMRスペクトル、1/T1などの圧力依存性を図3に示す。モット転移近傍で金属相(M)と絶縁相(I)の相分離が観測されており、モット転移が1次転移であることを示している。これは過去の輸送特性の実験とも矛盾しない。また臨界点においては1/T1が実験精度の範囲内で磁気転移時のcritical slowing downに見られるようなピークを作らないことが確認された。臨界終点は連続転移点であるため、電荷の揺らぎのcritical slowing downが期待されるが、NMRの結果は、スピン揺らぎは顕著なcritical slowing downを起こしていないことが示された。また、この結果はBrinkman-Rice描像に代表されるような、フェルミエネルギーにおける状態密度の発散が臨界終点で起きていないことを示している。これは臨界終点が有限温度にあるため、臨界終点におけるモット転移(連続転移)は、フェルミ流体からの絶縁体への連続転移ではなく、非フェルミ流体から絶縁体へ連続転移であることに由来していると考えている。

 これらの結果に加えて、NMRでモット転移の臨界性がどのように観測されるかも明らかになった。臨界終点に低温側から近づくと、金属相と絶縁相のシフトの違いが減少し消失するという臨界性が、高温側から近づくと、クロスオーバー線上における1/T1のシフトの圧力に対する変化率が増大するという臨界性が観測された。すなわち、モット転移及びその臨界性をNMR特性から初めて観測し、後述する輸送特性に対応する振る舞いが見出されることがわかった。

3. κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Clのモット臨界点の輸送臨界指数

3.1 背景

 モット転移の臨界現象は半世紀近くにも渡る研究テーマであるが、その定量的側面については精密なパラメータ制御の困難さゆえに未解明の問題であった。近年の理論研究の進展により、モット転移は液体気体転移と同じ臨界指数を持つことが指摘され(2000年)、実際遷移金属酸化物(V(1-x)Crx)2O3(3次元系)におけるモット転移の臨界指数は液体気体転移と同じものをもつことが実験から示された(2003年)。しかし、モット転移の臨界指数をスケーリング仮説に基づきながら導出・検証した実験はこれ1例のみであり、さらに言えば擬2次元系におけるモット転移の臨界指数については未だ手付かずであった。擬2次元系におけるモット転移は高温超伝導などの興味深い物性の舞台でもあるため、その臨界指数を明らかにすることは物性物理学において重要な課題であると思われる。そこで我々はκ-Clにおけるモット臨界点近傍で詳細な電気伝導度測定を行い、伝導度の特異性から擬2次元系におけるモット転移の臨界指数を評価することを目標とした。

3.2 結果と考察

 電気抵抗測定からは、臨界点において抵抗の跳びの消失、抵抗の圧力微分の発散、といった臨界現象が観測された。これらの臨界現象は、電気抵抗の特異性は現象論的にキャリア数の特異性に由来すると仮定すると、臨界点でキャリア数の揺らぎが発散することを示している。キャリア数の揺らぎの発散は、バンド絶縁体−金属転移には見られない現象であり、モット転移に特徴的な臨界性と考えられる。

 臨界性を特徴づける臨界指数を伝導度測定から求めると、(δ,β,γ)〜(2,1,1)という値が得られた。これらの値は 臨界指数が満たすべきスケール法則δ=1+γ/βを満たしている、(2)圧力と温度の関数である伝導度G(P,T)の全データのスケール関数へのプロットがほぼ理想的にT>TC,T<TCの2本の曲線に帰着する。(1)、(2)の実験事実より、スケーリング仮説を満たす、信頼のおける臨界指数が得られたと結論できる。しかし驚くべきことに、これらの指数の値はよく知られている臨界指数の値とはかけ離れている。すなわち擬2次元におけるモット転移が非従来型の普遍性を持つ相転移である可能性を強く示唆している。

4.スケール変数のmixingがあるときの臨界指数の評価

4.1 背景

 前章でκ-Clのモット転移の臨界指数を求める際、温度と圧力がスケーリング変数として見なせるという仮定に基づいて解析を行い、異常な臨界指数が導かれた。しかし、バンド幅制御型モット転移において温度と圧力はスケーリング変数には厳密には対応せず(スケーリング変数のmixing)、従って前章で用いた解析方法はある種の近似的なものである。これに関して、数人の研究者から「異常な臨界指数が得られたのは、解析に用いた近似が正しくないためである」との指摘を受けた。そこで我々は解析の際に用いた近似が誤った臨界指数を導くかどうか、スケーリング仮説に基づく解析的な手法、及び実験データを用いて様々な手法で臨界指数を導出し、これを検討した。この臨界指数を導出する際の解析手法の問題は、モット転移のみに留まらず、対称性の破れを伴わない相転移全てに関わってくる、広範なものである。

4.2 結果と考察

 スケーリング仮説に基づいた解析的な手法により、臨界点近傍では解析手法によらず正しい臨界指数が得られることを証明した。実際我々が実験から得たデータを用いて様々な手法で臨界指数を導出してみたところ、ほぼ同様の臨界指数δ〜2が得られ、よく知られた臨界指数が得られるようなことはなかった(図4)。このように、スケーリング仮説に基づいた解析的な手法、及び実験データを用いた様々な解析により、異常な臨界指数(δ,β,γ)〜(2,1,1)が解析の際に用いた近似によって誤って得られたものではなく、κ-Clのモット転移における輸送臨界性を正しく反映しているものであることが示された。

5.結論

 バンド幅制御型モット転移の臨界性を擬2次元有機導体κ-Clを用いて、NMRから磁気特性を、電気伝導度から伝導特性を調べた。この際有機物であることのメリットを利用し、この研究を行う上で最も理想的な手段である、任意の温度で圧力を増減可能なヘリウムガス圧方式を用いた。

 その結果、今まで疑問点としてあった、静磁化率とNMRシフトの不一致の問題を解決し、またモット転移及びその臨界性の磁気特性をNMRで観測することに成功した。

 さらに臨界点近傍における詳細な電気伝導度測定から、モット転移が特異な臨界指数で特徴づけられることを見出した。

 これらにより擬2次元モット転移近傍の臨界性の磁気特性・伝導特性を明らかにした。

図1 κ-(ET)2Cu[N(CN)2]Clの圧力温度相図

図2 κ-Clの磁化率(左軸)と(13)C-NMR共鳴周波数(右軸)の温度依存性

図3 T=31.6K(<Tc)における(a)NMRスペクトル,(b)体積分率,(c)I/T1,(d)NMRシフトの圧力依存性

図4 様々な解析方法による臨界指数δの導出

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は擬2次元有機伝導体κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Cl (BEDT-TTFは分子名BisEtyleneDiThioTetraThiaFulvaleneの略)が示すモット転移の臨界性を電気伝導度の測定及び核磁気共鳴(NMR)実験により調べた結果を報告している。全7章で構成されている。

 第1章では、導入として、フィリング制御型モット転移とバンド幅制御型モット転移の研究の現状が述べられている。前者は、高温超伝導体をはじめとする遷移金属酸化物等で広く研究されているが、後者の研究例は少なく、特に2次元系においては、転移の臨界性は全く分っていないこと、加えて、有機伝導体はバンド幅制御型モット転移の研究に格好のモデル物質であることが、有機物質の特徴を挙げて解説されている。本研究の目的は、有機伝導体を加圧することで起こるバンド幅制御型モット転移を電気伝導度測定とNMR実験により観測し、その臨界性を明らかにすることであると述べられている。

 第2章では、試料作成法とNMR及び電気抵抗測定の実験装置について述べられている。低温で精密な圧力制御を行うために圧力媒体としてヘリウムを用いる加圧装置と圧力セル、BEDT-TTF分子の(13)C核NMR実験と吸収線の特徴、さらに電気抵抗測定法が述べられている。

 第3章は、モット転移をNMRで観測するに当たり、まず、常圧下絶縁体、すなわち局在スピン状態におけるNMR実験の結果とその解析にあてられている。そこでは、通常の常磁性状態で期待されるNMR吸収線のシフトと磁化率との線形関係がこの系で成り立っていないことが明確に示され、それが、Dzyaloshinsky-Moriya相互作用によって説明できると主張されている。すなわち、NMRシフトがこの系では必ずしもスピン磁化率のみを反映しているのではなく、反強磁性短距離秩序に伴う交替磁化成分も超微細結合テンソルの非対角成分を通して寄与することが述べられている。

 第4章では、加圧で起こるモット転移をNMRシフトとNMR縦緩和率の測定により調べた結果が述べられている。低温では、圧力変化で起こるモット転移が、シフト、緩和率が共に不連続に飛ぶ1次転移であること、この飛びが温度上昇とともに徐々に減少し臨界温度付近で消失すること、さらに高温ではクロスオーバーとして連続変化を示すことが明らかにされた。これは、バンド幅制御型モット転移を初めてNMRで観測したものである。しかしながら、臨界点付近における電荷密度の長波長揺らぎが、NMR緩和率の増大を生むはずであるとの当初の期待に反して、それを示す兆候は観測されなかった。これは、臨界点付近における電荷密度の揺らぎとNMR観測にあずかるスピン自由度との結合が極めて小さいことを示す事実として理解されると述べられている。

 第5章では、加圧で起こるモット転移の臨界現象を電気伝導度の測定により観測した結果が述べられている。低温で一次転移に伴う伝導度の明確な飛びが観測され、この飛びは一次転移線に沿って昇温と共に徐々に減少し臨界温度で消失する(臨界現象1)。電気伝導度の圧力微分がクロスオーバー線に沿って降温とともに増大し臨界点に向かって発散的になる(臨界現象2)。臨界温度において電気伝導度の圧力依存性が臨界圧力に向かって発散的な勾配を示す(臨界現象3)。これらは、擬2次元系モット転移の臨界現象を初めて捕らえたものである。さらに、それぞれを特徴づける3つの臨界指数の決定に成功し、その値は平均場理論やIsing, XY, Heisenbergモデル等のスピン系の臨界指数とは大きく異なることが明らかにされた。この事実が最近の理論研究と比較され、モット転移の量子性を示している可能性が議論されている。

 第6章は、臨界現象の解析の際に問題になる、パラメータの混合についての議論にあてられている。一般に臨界現象は、温度と外部パラメータ(本研究では圧力)の2次元平面で、2つの軸に沿っての臨界振る舞いを議論するが、本実験のように一次転移境界線とクロスオーバー線が、この平面で斜めに走っている場合、臨界現象解析の真の軸は温度と圧力の一次結合軸となる。この章では、臨界指数δを求める際に実際に行った圧力軸に沿っての解析が、真の軸での値と同じものを与えることを解析的及び実験的に示し、本研究で得られた臨界指数がこの問題に依存しないことを明らかにした。

 第7章は本論文のまとめである。

 以上を要すると、本研究は、擬2次元有機伝導体κ-(BEDT-TTF)2Cu[N(CN)2]Clの圧力誘起モット転移を、精密に制御された圧力環境下における核磁気共鳴実験と電気伝導測定によって調べ、モット転移の一次転移性とその臨界点における臨界現象の観測、さらにその異常性を明らかにした。これは、擬2次元強相関電子系の基本問題であるモット転移そのものの性質を初めて明らかにしたもので、強相関エレクトロニクスという観点から物性物理学および物理工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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