学位論文要旨



No 121858
著者(漢字) 阿部,穣里
著者(英字)
著者(カナ) アベ,ミノリ
標題(和) 相対論効果を考慮した高精度分子理論の開発
標題(洋)
報告番号 121858
報告番号 甲21858
学位授与日 2006.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6388号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 川合,真紀
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 中嶋,隆人
 東京大学 助教授 常田,貴夫
内容要旨 要旨を表示する

 重たい原子を含む分子系の物性は、系の不安定性や有毒性も影響して、いまだ謎につつまれている部分が多い。実験が難しい系において、複雑な電子状態のもつ化学的な物性や、電子と原子核との相互作用などが理論化学的に解明できれば、重原子化学の新しい描像をつかむことができるはずである。

 重原子を含む分子系において相対論効果の影響は大きく、Schrodinger方程式ではその電子状態は記述できず、特殊相対性理論を満たすDirac方程式を解く必要がある。Dirac方程式には4次元行列の演算子が含まれており、解は4成分をもつスピノールとなる。Dirac方程式を実際に解くことは難しい課題である。そのため、Diracのハミルトニアンを非相対論の形になるように近似した1成分の相対論的理論開発が行われ広く適応されている。

 私は過去に、相対論的近似理論であるspin-free3次Douglas-Kroll法(DK3法)を用いて、HからLrまでの周期表中の103個の原子に対して、相対論的な全電子基底関数の決定を行っている[1]。これによって任意の分子に対して1,2成分レベルの相対論的な手法を用いた応用計算が可能になり、現在では広く世界中で用いられている。

 また近年では直接4成分のままDirac方程式を解く4成分法も実現可能になってきた。この手法を用いれば相対論効果を厳密かつ直接、取り扱うことができる。しかしながら現実の分子系に対する記述には、相対論効果だけでなく電子相関の効果も重要である。4成分理論を用いて電子相関を考慮する場合、幅広い分子系において実験で得られるような分光学的精度の議論を行えるまでには克服するべき課題が多く残されていた。

そこで私は博士論文において、高精度な相対論的分子理論の開発というテーマで4つの研究を行った。1の研究は先に開発された基底関数を用いた応用研究であり、2成分相対論法のDK3法を用いた応用計算である。また4成分Dirac法による、より精度の高い相対論的な理論計算を目指して、2-4の理論開発および応用計算を行った。

1. AuSi分子の基底・励起状態の理論的研究

 AuSiを含む遷移金属シリコン化合物は高融点、適度な硬度および密度、化学的耐久性において非常に優れた物性を持ち、半導体デバイスとして注目されている物質である。主に固体結晶や表面での研究が盛んであり、多くの実験がなされているが、2原子の気体分子に関する研究例は少なく、基底状態とA,D励起状態のスペクトルが観測されている。また過去の実験による基底状態の同定に対しては2Pと2Sという二説が存在した。過去のab initio計算は1例あり、基底状態のみ計算されスピン軌道相互作用は考慮されていなかった。そこで本研究では、相対論効果にDK3法を用い、先に開発した相対論的な基底関数を用いて、AuSi系の基底・励起状態の同定を行った。電子相関理論にはCASPT2法を用い、スピン軌道相互作用は1次摂動で考慮した。右の図はスピン軌道相互作用を考慮したCASPT2レベルでのポテンシャル曲線であり、表1は得られた分光学的定数を実験値とともに示している。これらの値はおおむね実験値をよく再現している。

 相対論効果と電子相関効果を適切に取り込むことで、基底状態は2Π(3/2)と同定された。また励起状態に対しても実験結果と照らし合わせながら細かい解析を行い、これまでの研究結果に対して統合的な見解を与えた。

2. 4成分Dirac法に基づく積分変換プログラムの開発

 4成分Dirac法に基づくDirac-Hartree-Fock(DHF)レベルの計算は、先駆的な4成分相対論的量子化学プログラムであるMOLFDIRやDIRAC、また本研究室で開発されているREL4Dなどで実行が可能である。MOLFDIRやDIRACでは、スピンに依存しない1成分の基底関数を用いたアルゴリズムを採用しているため、縮約基底関数を用いると、kinetic balanceが十分に満たされず、変分崩壊をおこす危険性がある。一方REL4Dでは原子の4成分計算を解くことで得られる2成分型基底を採用するため、縮約基底を用いてもより厳密なkinetic balanceを満たし、変分崩壊をおこさない。また基底関数の数が約2/3に減るため他のプログラムに比べても演算数が少なく高速になる。HF法を超えて電子相関効果を取り込むためには、原子軌道積分から分子軌道積分への積分変換が必要となる。そこでプログラムパッケージREL4Dに積分変換のプログラミングを行った。積分変換は基底関数の5乗という高いオーダーで演算が決まるため、REL4Dのような基底関数の選び方を用いるとより高速に行うことができる。実際にAu2分子の計算を行ったところ、MOLFDIRやDIRACに比べて4倍以上の高速化に成功した。またこれによって、REL4DのDirac-Hartree-Fockで得られた分子軌道積分から、MP2, CCSD(T), MRSDCI等の電子相関の計算が行えるようになった。

3. PtM, PtM+ (M=Cu, Ag, Au)分子系の基底励起状態の理論的研究

 先に得られた積分変換プログラムを用いて、PtとCu,Ag,Au原子が結合した、ヘテロ2原子分子の基底・励起状態に対して4成分相対論法による電子相関を考慮した応用計算を行った。PtCu分子に対しては実験報告があったため、PtCu分子において、理論計算と実験を比較し、他の分子種に対しても応用した。電子相関効果には基底状態に対してMP2法、MRSDCI法、また励起状態に対してはMRSDCI法を用いて解析を行った。表3はPtCu分子の基底状態に対する分光学的定数であるが、MP2法による結果は実験値をよく再現しているのに対して、多参照変分法であるMRSDCI法はDHFからあまり変化が見られなかった。これは、MRSDCI法では高次の対角化が必要となり非常にコストがかかるため、動的電子相関を考慮するvirtual軌道の数を十分に取れなかったためと考えられる。励起状態についてはMRSDCI法を用いて定性的な議論を行った。また4成分のMRSDCI法に代わり、計算コストの低い4成分多参照摂動論の理論開発も重要であるという結論を得た。

4. 4成分Diracハミルトニアンに基づくCASPT2法の開発・応用

 一般に多参照電子相関理論では擬縮退系、基底・励起状態、化学結合の解離の記述が可能になる。またアクチノイド化合物などの多くは擬縮退系であり、高度な相対論と多参照電子相関理論の組み合わせが必要である。多参照変分法では、精度が高い反面コストがかかるため、小さな分子系にしか適応できずより一般の分子系に対しては多参照摂動論での考慮が必要となる。そこで4成分法に基づく多参照摂動論の開発をCASPT2法[2]を用いて行った。基本的に4成分のCASPT2の表式自体は非相対論レベルのCASPT2と同じだが、表式中の励起演算子が異なる。非相対論ではスピン平均を取った空間軌道の励起演算子を用いるが、4成分ではスピノールの励起演算子を用いる。このため行列の次元が非相対論時に比べて倍になる。またDirac方程式の演算子には虚数が含まれており、基本的にすべての行列要素の値が複素数になって演算数が大きくなってしまう。さらに空間対称性にdouble group symmetryを用いる。これらの相違点によって計算時間は非相対論時に比べ大幅に増加する。従って極力低コストになるようにプログラム設計を行った。ここでは開発したプログラムによってTlH分子のポテンシャル曲線がどのように描かれるかを例として示す。図のように4成分MP2やDHFでは解離極限が記述できないが、4成分のCASPT2は正しい解離極限を示していることがわかる。

参考文献[1] T. Tsuchiya, M. Abe, T. Nakajima and K. Hirao, J. Chem. Phys. 2001, 115, 4463-4472[2] K. Andersson, et al. J. Phys. Chem, 94, 5483, 1990発表状況1. M. Abe, T. Nakajima and K. Hirao, J. Chem. Phys. 2002 117, 7960-79672. M. Abe, T. Yanai, T. Nakajima and K. Hirao, Chem. Phys. Lett. 2004, 388, 68-733. M. Abe, S. Mori, T. Nakajima and K. Hirao, Chem. Phys. 2005, 311, 129-1374. M. Abe, T. Nakajima and K. Hirao"Four-component CASPT2 method, implementation and application" in preparation

図1.AuSi分子の基底・励起状態のポテンシャル曲線

表1 AuSi分子の基底・励起状態における分光学的定数

表2 Au2分子における積分変換の計算時間

表3 PtCu分子の基底状態(Ω=5/2)の分光学的定数

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「相対論を考慮した高精度分子理論の開発」と題し、全6章からなっている。相対論効果を考慮した分子理論の開発とその応用に関する研究をまとめたものである。電子相関効果と相対論効果をともに含む高精度分子理論を開発し、重い原子を含む分子系のさまざまな化学的現象に相対論効果が重要な働きをしていることを解明したものである。

 第1章は序論である。理論化学、特に重い原子を含む系の取り扱い、化学現象に対する相対論効果とその理論の現状がまとめられている。相対論効果を取り込むにはDirac方程式を解かねばならない。Dirac方程式は4次元行列で表現され、その解である波動関数は4成分を持っており、数学的もきわめて複雑である。相対論効果は考えられていた以上に分子系に重要である。申請者はspin-free3次Douglas-Kroll法を用いて相対論効果を考慮した基底関数を開発している。周期表の全ての原子(Z=1のH〜Z=103のLr)に同じqualityをもつ高精度の基底関数である。この基底関数は現在では広く世界中で利用されており、相対論効果を含む定量的理論計算への道を拓いた。

 第2章では申請者の開発した基底関数を使ってAuSi分子の励起スペクトルやPtM, PtM+ (M=Cu, Ag, Au)の分子物性の理論的解析に取り組んだ研究についてまとめたものである。特にAuSiは相対論効果、スピン−軌道相互作用の効果が大きく、きわめて複雑な電子構造をとる。実験値と理論計算の結果を詳細に比較検討し、A, D状態とよばれているスペクトルを同定し、永年、論争のあった問題に終止符を打った。これら成果はJ.Chem.Phys.誌に掲載され、高い評価を得ている。

 第3章はDirac-Hartree-Fock(DHF)法を電子相関効果を含む理論に拡張するときに必須の手順である積分変換に関する研究をまとめたものである。4成分相対論的量子化学プログラムにはMOLFDIRやDIRAC、また平尾研究室で開発されているREL4Dなどがある。MOLFDIRやDIRACでは、スピンに依存しない1成分の基底関数を用いたアルゴリズムを採用しているため、縮約基底関数を用いると、kinetic balanceが十分に満たされず、変分崩壊をおこす危険性がある。一方REL4Dでは原子の4成分計算を解くことで得られる2成分型基底を採用するため、縮約基底を用いてもより厳密なkinetic balanceを満たし、変分崩壊をおこさない。HF法を超えて電子相関効果を取り込むためには、原子軌道積分から分子軌道積分への積分変換が必要となる。申請者はREL4Dのような基底関数の選び方を用いるとより高速に行うことができることを示唆し、プログラムを作成し、Au2分子を例にMOLFDIRやDIRACに比べて4倍以上の高速化が得られることを数値的にも実証した。

 第4章は第3章で開発された積分変換プログラムを用いて、PtとCu, Ag, Au原子が結合した、ヘテロ2原子分子の基底・励起状態の4成分理論計算の研究をまとめたものである。電子相関効果には基底状態に対してMP2法、MRSDCI法、また励起状態に対してはMRSDCI法を用いて解析を行っている。MP2法による基底状態の分光学的定数の計算値は実験値をよく再現しているのに対して、励起状態については十分ではなく、4成分多参照摂動論の理論開発が必要と結論づけている。

 第5章は4成分多参照摂動論である4成分CASPT2法の開発に関する研究をまとめたものである。理論化学の緊急の課題は擬縮退効果や動的電子相関、相対論効果が複雑にからみあった遷移金属錯体や希土類をはじめとする重原子系へ理論化学の展開である。申請者は電子相関理論と相対論分子理論を組み合わせ、相対論的多参照摂動論である4成分CASPT2法を開発した。理論を定式化、ソフトウエアの開発を済ませ、TlH, Tl2, PtH分子の基底状態、励起状態に応用している。数値計算から4成分CASPT2法の有用性を実証している。オリジナリティーの高い研究であり、世界中からその成果が期待されている。

 第6章は本論文のまとめであり、重い原子系の分子理論、相対論的分子理論に関する将来の展望が述べられている。

 以上のように本論文は、相対論効果を考慮した分子理論の開発とその応用に関する研究をまとめたものである。重い原子を含む分子系のさまざまな化学的現象に相対論効果が重要な働きをしていることを解明したものであり、理論化学、物質科学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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