学位論文要旨



No 121882
著者(漢字) ワンダ ペマ
著者(英字) Wangda Pema
著者(カナ) ワンダ ペマ
標題(和) ブータンヒマラヤにおける山地森林生態系のパターンと自然資源管理
標題(洋) Mountain forest pattern and management of natural resources in the Bhutan Himalaya
報告番号 121882
報告番号 甲21882
学位授与日 2006.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第236号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 自然環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,雅彦
 東京大学 教授 福田,健二
 東京大学 教授 大森,博雄
 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 辻,誠一郎
内容要旨 要旨を表示する

 本研究はブータンヒマラヤに見られる典型的な乾燥谷(Dry valley)において、山地の自然森林生態系のパターンと構造、動態を気候条件と関連付けて解明し、さらに森林の持続的な保全・管理と人間の利用との関係を考察することを目的としたものである。湿潤なブータンヒマラヤに分布する乾燥谷については、これまで存在は知られていたが、その特異な生態系についてほとんど研究がなされていない。研究対象としたのはDochula峠(標高3185m)を分水嶺として両側、Wangchu河が流れる浅い谷(谷底海抜2200m)とPunatsangchu河が流れる深い谷(谷底海抜1250m)である。この2つの南北方向の谷は、温暖で乾燥した谷底部と冷涼で湿潤な尾根頂部で特徴付けられる。したがって、ヒマラヤでよく見られるベンガル湾からの湿った空気が前面の山にさえぎられてできる東西方向の乾燥谷 (rain shadow valley)とは本質的に異なったものである。この2つの谷の気候条件を標高差200mの間隔で設置した16箇所の観測点を用いて観測したところ、全体に乾燥しているWangchu谷では標高傾度に沿った気温変化が急激であったのに対し(逓減率=0.71℃・100m(-1))、Punatsangchu谷では、尾根近くの湿潤な霧雲帯斜面を含むことを反映して、比較的緩慢であった(逓減率=0.62℃・100m−1)。この気候の違いは両斜面の植生パターンにも反映されており、標高傾度が大きく乾燥から湿潤な尾根までを含むPunatsangchu谷のほうが谷底の乾燥マツ林から湿潤カシ-クス林を経て湿潤針葉樹林までの森林帯が認められ、多様な植生の変化が観察された。

 そこで多様な植生の変化が見られたPunatsangchu側の斜面を主な調査地とし、谷底部のBajo(海抜1250m)からDochula峠の先にある山頂のLunchozeykha(海抜3550m)に至るまでの範囲(Lobesa-Lunchozeyka series)において植生と気候の変化を詳細に調べた。この斜面では標高が高くなるにつれて温度が低下し、谷底部で年平均気温が18.2、山頂部では4.3℃になる。土壌水分は逆に上昇し、谷底部で14.7%、山頂部では75%になる。この気候環境傾度にそって15個の植生調査プロットを設置して植生調査を行った。各プロットのデータをクラスター分析にかけたところ5つの植生帯、すなわち1. 乾性マツ帯(1520-1750m), 2. 湿潤混交広葉樹林帯(2950-3210m), 3. 湿潤/多湿常緑広葉樹林帯 (2650-2820m), 4. 湿潤常緑針葉樹林帯 (2950-3210m)、5. 多湿常緑針葉樹林帯 (3370m-山頂)、に区分された。これら5つの森林帯は高木層の優占生活型の特徴(相観)によって大きく3つの相観タイプ(下部マツ型針葉樹林, 中部常緑‐落葉混交広葉樹林, 上部モミ型針葉樹林)にまとめられる。

 植生と気候要因の因果関係を標高傾度に沿って解析したところ、(1)常緑広葉樹林の分布上限は冬季最寒月の月平均気温=-1℃の等温線と一致し、それが標高3000m以上の湿潤常緑針葉樹林帯との境界をなしていること、(2)常緑‐落葉混交広葉樹林の分布下限は土壌含水率20%の等値線と一致し、それが標高1650m以下の乾性マツ帯との境界となっていることが明らかになった。このような気候の制限要因に対する森林優占樹種の反応を種の生物地理分布型によってみると、谷底部の西ヒマラヤ型のマツ林帯、中標高域の西ヒマラヤ型常緑樹と東ヒマラヤ型落葉樹の混交林帯、東ヒマラヤ型の湿性常緑カシ-クス帯、汎ヒマラヤ型の湿性山地針葉樹林帯と性格づけることが出来て、結果的にヒマラヤ全体の植生を凝縮させたような特有な森林分布パターンがみられることが明らかになった。

 植生の構造的側面に着目してみると、種多様性は中腹の常緑広葉樹林で一番高くなり、低標高のマツ型針葉樹林や高標高のモミ型針葉樹林では低くなるという標高傾度に沿った釣鐘型の変化パターンを示した。最大樹高と胸高断面積合計から予測した生物量は湿度が上昇するにつれて大きくなる傾向にある。海抜1520mのマツ型針葉樹林で最低となり(最大樹高Pinus roxburghiiの14.6m、胸高断面積合計=15.2m2・ha(-1))、海抜3370mのモミ型針葉樹林で最高となる(最大樹高Abies densaの33.0m、胸高断面積合計=101.7m2・ha(-1))。土壌環境も植生構造の変化に対応した明瞭な変化を示し、有機炭素と窒素量は低標高域で低く(C=2.7%、N=0.2%)、高標高域で高くなっていた(C=11.3%、N=1.6%)。

 各森林タイプの優占種の更新様式を直径階分布と実生の出現数、さらに空間的な更新サイトを個体位置図と樹冠投影図によって詳細に調べた。その結果、低標高域のマツ林では、優占種のPinus roxburghiが、陽樹であるにも関わらず逆J字型のサイズ分布を示す個体群構造を示した。この森林で、建築資材用に時たま行われる単木的な伐採は、林内にギャップによる開放空間を作り出し、持続的な更新にとってむしろ好都合になっている。同様に、中標高域の常緑広葉樹林帯では、優占種であるカシ類(Quercus lanata, Q. griffithii, Q. glauca, Q. semecarpifplia, Q. oxydon)が逆J字型/からスポラディック(多山)型の直径階別頻度(サイズ)分布を示しており、安定で釣り合いがとれた個体群構造と更新様式を示した。このことは、同じようにときたま行なわれる建築資材用や日用道具資材用の伐採、家畜飼料のための葉の採取、などは大きな影響を与えていないことを示す。さらに、高標高域の湿潤常緑針葉樹林帯では優占種であるAbies densa, Tsuga dumosa, Juniperus recurvaはエマージェント(一山)型のサイズ分布を示す個体群構造を示しており、モミ特有の一斉枯死や、風倒、野火などの自然に発生した大規模撹乱の際に一斉に更新しているものと推察された。以上のことから、伝統的な森林利用は各植生帯を通じて見ることができるが、いずれも植生の自然再生に悪影響を与えるほどのものではなかった。規模が小さいこのような人間による森林利用は、自然度の高い森林景観や生物多様性を保全する上でむしろ良好な結果をもたらしている。

 人間による森林利用の別の形態として、この標高系列の中ほどにある海抜2000mの下部常緑広葉樹林帯の中に位置するNahi村(人口970人)で行なわれている焼畑耕作を取上げ、伐採後の植生と土壌の回復過程を詳細に調べた。植生に関しては、伐採後12年後には森林の現存量を指標する断面積合計が極相林の約62%にあたる42.1m2/haまで回復することが明らかになった。土壌に関しては、火入れが行なわれた直後には土壌pHの値が6.5へ上昇する。土壌中の可給態リンの量は上昇し40mg/kgとなる。一方で、全窒素、全炭素量は伐採後の8年間で回復し9年目にはほぼ伐採前の状態へ落ち着くことが明らかになった。以上から、この地域の人々が伝統的に採用している12年間という休耕期間をもつ焼畑耕作システムは合理的なものであって、地力を維持しながら持続的に耕作を行えるものであると考えられた。

 一方、この地域で行われた近年の商業的な開発行為の例として、海抜2650mの常緑広葉樹林帯で行なわれたワサビ田開発のパイロットプロジェクトをについて、その開発行為が森林生態系に与えた影響を調べた。開発地域と隣接する自然林について森林と土壌条件を対比させて調べた。自然林は疎林状態になり、この開発によって自生の木本種が47.1%失われ、主に低木層を中心とした本数にして90%の樹木がなくなった。そのことで森林バイオマスは70.7%減少した。また土壌の全炭素、全窒素量は50%も減少した。原状回復には、撹乱された場所へ植林をしたり、更新を阻害する家畜の食害防除のための柵を設置したり、土壌侵食防止の手立てを講じたりすることが必要で、莫大な費用と労力をかけねばならないことが予想された。

 以上のように、ブータンの典型的な乾燥谷の一つで行った気候条件、土壌条件を含む詳細な森林調査と、その地域で行われているいくつかの人間による利用形態の影響に関する調査から次のような結論を導いた。

 乾燥谷では、谷から尾根に至る多様でかつ変化に富んだ環境傾度の存在によって低地部の温暖・乾燥気候に対応した西ヒマラヤの森林タイプ、中標高域の湿潤な東ヒマラヤの常落混交広葉樹林タイプ、上部の西ヒマラヤから東ヒマラヤにかけて広域分布する森林タイプといった多様な植生タイプの存在は、今後も維持されるであろう。地域の人々はこの森林資源を建築資材、薪、農工具資材、家畜の飼料といった目的のために何世代も続いてきた伝統的なやり方で利用している。しかし近年の市場経済本位の開発は将来の展望もなく、植生や地形を破壊するばかりでなく、いったん破壊された環境を元の状態に戻すためには莫大な投資が必要となる。今後とも、独特の乾燥谷の地域生態系と人間の利用に関する生態学的知見の集積は適正な管理や保全のためには必要不可欠であるといえるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4部、全10章からなる。第1部は3章からなり、序論とブータンヒマラヤに典型的にみられる乾燥谷(Dry valley)を取り巻く自然環境条件について述べている。第2部は4章からなり、乾燥谷の山地斜面の自然森林生態系のパターンと構造、動態を気候条件と関連付けて解明した。第3部は2章からなり、乾燥谷の森林生態系の人間による資源利用とその保全上の問題について2つの事例に基づいて明らかにした。第4部は、以上全体を通じた議論と考察に関するひとつの章からなる。ヒマラヤの乾燥谷は、1950年代にはじめて学界に知られるようになった独特の生態系で湿潤な東ヒマラヤに属するブータンでよく発達している。

 第2部では、第4章で、標高3185mの分水嶺の西側の浅い谷(谷底海抜 2200m)と東側の深い谷(谷底海抜1250m)の斜面で環境要因と植生パターンを調べ。この隣り合う2つの南北方向の谷は、温暖で乾燥した谷底部と冷涼で湿潤な尾根頂部で特徴付けられ、とくに深い東側のPunatsangchu谷では環境要因の幅も大きく、多様な植生の変化が見られた。

 第5章ではPunatsangchu谷の斜面を調査地とし、谷底部から尾根頂部に至る植生と気候の変化を調べた。年平均気温は年平均逓減率0.62℃/100mで低下し、土壌水分は逆に上昇した。この気候環境傾度にそって森林はクラスター分析により5つの植生帯に区分された。境界条件のうち常緑広葉樹林の分布上限は低温、常緑‐落葉混交広葉樹林の分布下限は土壌含水率で制限され、乾性マツ帯との境界となっていた。第6章では、尾根近くに湿潤な霧雲林が形成され、この環境条件と群落組成を詳しく調べて比較した。

 第7章では、各森林タイプの優占種の更新様式を詳細に調べた。谷底の疎林状のマツ林では、陽樹であるにも関わらず逆J字型の安定的なサイズ分布を示した。中標高域の常緑広葉樹林帯では、優占種であるカシ類が逆J字型/からスポラディック(多山)型の安定的な個体群構造と更新様式を示した。さらに、高標高域の湿潤常緑針葉樹林帯では優占種はエマージェント(一山)型のサイズ分布を示しており、モミ特有の一斉枯死や、風倒、野火などの自然に発生した大規模撹乱の際に一斉に更新した。

 伝統的な森林利用は各植生帯を通じて見ることができるが、いずれも植生の自然再生に悪影響を与えるほどのものではなかった。

 第3部は、2つの章からなる。第8章では、近年の商業的な開発の例として、海抜2650mの常緑広葉樹林帯で行なわれ、最終的に失敗したワサビ田開発のパイロットプロジェクトについて、森林生態系に与えた影響を調べた。開発地域と隣接する自然林について森林と土壌条件を対比させ、開発によって自生の木本種が47.1%失われ、90%の樹木が失われた。土壌の全炭素、全窒素量は50%も減少した。莫大な損失を生み、事前のアセスメントの必要性が明らかになった。

 第9章では、伝統的な森林利用の形態として、海抜2000mで行なわれている焼畑耕作を取上げ、耕作後の植生と土壌の回復過程を調べた。耕作後12年後には森林の現存量が極相林の約62%まで回復し、土壌の全窒素、全炭素量は耕作後9年目にはほぼ伐採前の状態へ落ち着くことから、この地域で伝統的に採用している12年間という休耕期間は合理的なものであって、地力を維持しながら持続的に耕作を行えるものであると考えられた。

 第4部、第10章では、この地域で行われている人間と自然のかかわりから次のような結論を導いた。乾燥谷では、変化に富んだ環境傾度によって多様な植生タイプを有しており、ヒマラヤ全体の植生の縮図ともいえる。しかし、他方で主要な街が、乾燥谷に集中しており、その生態学的に適切な管理が人々の生活にとって重要である、人々はこの森林資源を建築資材、薪、農工具資材、家畜の飼料といった目的のために何世代も続いてきた伝統的なやり方で利用している。しかし近年の市場経済本位の開発は将来の展望もなく、植生や地形を破壊するばかりでなく、いったん破壊された環境を元の状態に戻すためには莫大な投資が必要となる。今後とも、独特の乾燥谷の地域生態系と人間の利用に関する生態学的知見の集積は適正な管理や保全のためには必要不可欠である。

 なお、本論文第4章、第5章、第6章、第7章は大澤雅彦との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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