学位論文要旨



No 121897
著者(漢字) 辛,�R承
著者(英字) SHIN,HYUN SEUNG
著者(カナ) シン,ヒョンスン
標題(和) 劉宗周の学問世界とその周縁 : 劉宗周思想と明末江南知識人たちの交流を中心に
標題(洋)
報告番号 121897
報告番号 甲21897
学位授与日 2006.10.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第560号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小島,毅
 東京大学 教授 川原,秀城
 東京大学 助教授 横手,裕
 東京大学 教授 岸本,美緒
 学習院大学 教授 馬渕,昌也
内容要旨 要旨を表示する

 中国明末の儒者、劉宗周といえば、一般的に明末宦官一派の勢力に対抗して活躍、明朝の復興に努力したがならず、絶食して自殺した「忠義」の儒者として知られている。また著名な明末清初の学者、黄宗羲の師で陽明学右派の系統を引き、「気」を中心とする独自の哲学をたてた人物としても描かれている。そのほかにも修養法の根本として「慎独」を主張し、名教節義を重んじたといわれる。確かに彼の名はよく知られ、中国近世思想史を語るときに必ず取り上げられる思想家であるが、その思想史上の位置づけと意味については、まだ検討すべき部分があるように思う。そこで本論文は劉宗周の学問世界やその周辺の人物たちの検討を通して、明末清初期の江南地域の知識人たちの学術・交遊とその性格の一端を考察してみようとしたものである。そして本論文は、明末清初という中国近世社会の一大転換期に焦点を当て、この動乱期に劉宗周とその周辺人物たちが、その学術及び人的交流を通して、どのような作用を発揮しえたのかを分析し、またこの時期の思想界を総合的にとらえた際に通底する儒教理念の要素の抽出を試み、その分析から劉宗周思想の本質にも再検討を加えようとした。本論でとりあげた劉宗周の学問世界と人脈は、一言でいえば、劉宗周個人において孤立してあるものではなく、同時代を生きたその周辺人物たちとの人脈関係の中で形成されたものであった。基本的には、劉宗周の学問世界が人脈関係を通して浙江・江蘇地域で展開・発展したということである。とりわけ浙江地域において、さまざまな人脈関係は彼の学問世界を支えている柱であり、一人の人生においてその最も基本的な関係である、家族関係を出発点として、彼の学問世界は師友関係および門人関係を通して次第に自己思想の構築へ向っていく。本論文では、このような劉宗周の学問世界がどのように形成され、展開されてきたかを検討した。確かに劉宗周門人集団の主要な性格と特徴は、浙江・江蘇という狭い地縁・人脈をもとにしたもので、しかも思想史的には、その構成員の性格は極めて多様な人間群像の集合体であるとみなさざるを得ない。

 事実、劉宗周思想に対する従来の多くの研究は、劉宗周の思想を主に哲学的或いは宋明理学とよばれる伝統的学問分類の方法(朱子学・陽明学などの分類)によって解釈してきた。すなわち、彼の思想をつくり出した時代性・地域性及び経世思想の側面を究明しようとする研究よりは、彼の哲学的テーマ(慎独・誠意・理気・天命などの観念)だけをめぐって問題の関心が集中された。そしてそのような結果として彼を「真の陽明学者」・「陽明学右派」・「新陽明学者」・「朱王折衷論者」・「新周子学者」などに評価し、その思想の概念を捉えようとする傾向が強かったのである。ゆえに、この論文はそのような研究環境の反省的考察から企画され、劉宗周に与えられた時代性や地域性に注目し、彼の思想形成の背景に置かれた家庭環境やその周辺人物たちとの関係、すなわち諸人脈関係を中心として、劉宗周思想の実像をとらえようとした。

 さて、本論文の構成や内容を章別に示してみれば、以下のようである。

 本論文の始めの部分では、問題提起とともに、本論文の課題・構成や従来の研究動向に対する回顧を叙述した。第一章「人物と家族史―学問世界の背景」においては、劉宗周の子劉〓と姚名達とが記録した『年譜』および黄宗羲の『子劉子行状』を基本資料として、劉宗周の成長過程とその家族史を考察した。その第一節と第二節では、「劉宗周の誕生と時代背景」および「成長過程と母の存在」を考察した上で、家族史の視角から劉宗周という人物を生んだ父系・母系の環境についてその特質を照明し、そういう過程のなかで、劉宗周の青少年時期に大きな影響を与えた人物として外祖父章穎に注目して叙述した。第三節では、劉宗周の師友関係を検討した。まず、師承関係からみた劉宗周の位置を確認し、初期における劉宗周の友人及び人脈関係の様相を検討した。次いで第四節では、師の許孚遠との出会いについて論ずることにした。許孚遠は、劉宗周の思想形成やその官僚生活において最もよい手本として決定的な影響を与えた人物であり、劉宗周は許孚遠の教えを通して程朱学を本格的に学ぶことになる。本章の最後の第五節では、劉宗周の科挙合格までの過程やその以後の官僚生活について検討した。

 第二章「劉宗周とその周辺人物たち」では、劉宗周の交遊者、門人と劉宗周との交渉のあり方を検討した。その第一節では、講学時期における劉宗周と、ちょうどその時期に形成された門人集団の構成員について考察したが、とくに劉宗周と陶〓齢を結節点として地域の講学ネットワークが形成される過程を論じた。第二節は、明末の政治思想史が「講学の流行と政治的事件」によって特徴付けられたことに注目し、明末の書院講学と結社の流行について述べた後、劉宗周と「姜熊の獄」事件との関係を検討した。次に第三節の「その周辺人物たち」においては、『劉子全書』収録の董〓の記録した「〓山弟子籍」をひとつの手掛かりにして、劉宗周を中心とする学者、思想家たちの人間群像の交流に焦点をあて、学術文化の地域性の、ないしは当時の学問的雰囲気の、一側面を描き紹介することにした。第四節「門人集団性格の一断面と地域社会活動」では、劉宗周門人集団の性格やその門人集団の地域社会活動の具体的な様相を検討した。第五節では、劉宗周と後学との関係に焦点をあて、劉宗周思想の後学への批判的継承問題について論じた。最後の第六節は、まず明清期における「劉宗周像」を考察し、劉宗周像の視点を「慎独誠意説への偏重」という観点から検討することにした。

 第三章は、劉宗周と地域及び明末思想界について検討した。すなわち、この章では劉宗周の活動舞台である浙江地域(特に浙東地域)に焦点を当てて、その浙江地域と明末思想界の様相について論じた。まず第一節では、学術文化の中心地としての浙東地域に注目し、江南という地域の地理的・文化的特徴や浙東の学術文化について考察した。次いで当時この地域で盛んに展開された陽明学を含めて、明末の思想界の様相を劉宗周との関係という角度から検討することにした。周知のように、明末は思想史上、学派間の論争が激しく展開された時期である。この時期の、特に「無善無悪論」についての論争はその代表的な事例といえよう。そこでこの「無善無悪論」に関する劉宗周と東林学派の立場を考察した。その第四節「東林派人士の思想と劉宗周」では、東林派の思想を顧憲成・高攀龍の二人の思想を中心として考察し、彼らと劉宗周との交遊関係を論じた。すなわち、主として劉宗周と東林派人士との交遊関係について考察した。まず、東林派人士の現実認識と時代精神を検討し、講学・政治言説の場としての書院・復社についての問題を論じた。劉宗周の東林派諸人士に対する認識はどのようなものであったか、また、劉宗周とそのほかの東林派人士との交遊関係はどのようなものであったのかについて検討した。次いで第五節「交遊と批判的受容」では、劉宗周における程朱学・陽明学説の批判的受容や人的交流の様相をたどってみることにした。さらに、この章の最後の第六節「地域社会とその秩序意識」においては、明末知識人層の社会秩序意識と実践の様相を検討し、劉宗周の地域社会において行なった諸活動を考察することにした。特に、劉宗周の「郷約保甲制」の施行においての問題点を当時の社会現実や周辺の郷約保甲の施行状況を踏まえた上で分析を加えた。彼が順天府で構想した保甲制は中央政府の承認を経て施行したという点に注目し、国家権力(中央)と郷村社会(地方)との間で、劉宗周の郷約保甲がいかなる意味を持っているのかを指摘した。

 第四章は、「劉宗周と宋明儒学との関係」について論じることにした。その第一節では、「劉宗周と宋代の儒者たちとの関係」や「劉宗周と明代の儒者たちとの関係」という問題を視野に入れながら、劉宗周の「宋儒」に対する認識・評価、劉宗周の「明儒」観など、劉宗周の宋明儒教思想についての理解を検討した。第二節では、劉宗周思想の基本構造を分析するために彼自身が一生愛用した言葉である「慎独」と「誠意」を考察した。ここでは、劉宗周思想の基本構造の核心ともいえる、「慎独」「誠意」論の意味を彼自身の社会秩序観に結びついたものとして捉え、その出発点が内的自我の問題から始まったということを明らかにした。宋明思想史の一連の流れから形成された劉宗周の思想的特徴を『大学』八条目の独自的な解釈にとらえ、それを「慎独」「誠意」という観念であると位置づけることにした。そこで「慎独」「誠意」は、『大学』八条目のすべての段階過程をつらぬく観念であり、劉宗周の想定した自己学問と社会秩序観の出発点としてとらえられる。また、そのような自己修養の工夫(慎独・誠意)に対する強調は、社会の中での道徳的実践において不動の信念を提供する理論的根拠となったのである。次いで、「学三変」という思想の変遷過程を通じて形成された彼の「朱子学」「陽明学」観を論じた。その第四節「『人譜』の思想構造」では、彼自身の著作である『人譜』を通して周敦頤の「太極」論から劉宗周の「人極」論への展開様相を検討し、劉宗周の「過悪」に対する分析や、自己反省或いは修養実践としての改過思想を検討した。言うまでもなく、劉宗周において聖人となる道は人間の普遍的な善(五倫)を実践し、「五倫」からはずれた過(=悪)を改めるということであった。またこれは個人の自己修養の問題に関わっているものだけではなく、社会全体の秩序につながっているものであった。そして最後のところでは、劉宗周の「家族・宗族」論についても考察することにした。まず、家族・宗族に関する劉宗周の考え方はいかなるものかを検討し、明末の思想界の一特徴である善書の出現に注目した。そこで士大夫・郷紳などの知識人が自己修養の一方法として使ってきた「善悪の記録」を宗族・郷村社会の構成員に平易な方法として提示していることを指摘した。また、劉宗周の「家族・宗族」論を自己修養論にもとづいた「礼」の実践重視という観点から捉えた。

 第五章は、「劉宗周の学問活動とその志向」について論じた。まず、第一節と第二節では、著作活動からみた劉宗周の学術様相を検討し、「劉宗周と浙東学派との関係」問題や彼の政治思想と歴史観について考察した。特に第二節の「劉宗周の学問政治論」では、「個人(自己修養)―学問(正学)―政治世界」という連続線上の問題に分析を加えた。そこで劉宗周はすべての明末社会の危機の根源を人心の堕落から探し、その解決策として正学の普及・実践を主張したと指摘した。第三節では、宋明思想史を「道統論としての思想史」と特徴づけ、『聖学宗要』と『皇明道統録』などの著作を通して彼の聖人・聖学観および彼自身が構築しようとした道統論について検討した。第四節「修己治人と『大学』の改訂」においては、劉宗周の「修己治人」理念と中庸の道、宋明思想史における『大学』の改訂問題などについて検討し、彼の『大学』改訂の意図とその理念などについても論じた。章の最後のところでは、「明の滅亡と最晩年の行跡」を論じ、彼の「生死観とその死」について検討することにした。終わりの部分では、以上の検討や分析を通して明らかになったことをまとめ、劉宗周思想の実像を指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中国明代末期に活躍した学者官僚劉宗周(1578-1645)の思想を、彼の周囲にいた知識人たちとの交流を通して分析したものである。序説で問題構成と研究史回顧がなされたのち、本論は全五章からなる構成をとる。

 第一章「人物と家族史」は劉宗周一族の伝記。第二章「劉宗周とその周辺人物たち」は彼の交友関係や門流の紹介である。第三章「劉宗周と地域及び明末思想界」では、前二章をうけて当時の思潮を概観したのち、劉宗周が郷里浙江省東部の地域社会で行った諸活動や、順天府(北京)知事として構想した郷約保甲制(治安組織)の意義を考察する。第四章「劉宗周と宋明儒学との関係」では、彼の内面に分け入って思想の基本構造を整理し、朱子学・陽明学への批評とその意義を考察する。さらに、彼の宗族(男系血縁組織)論を分析する。第五章「劉宗周の学問活動とその思想」は、彼の政治思想と歴史観を通してのちの浙東学派とのつながりを展望し、また、彼が信奉する「正学(正しい学術)」の具体相を明らかにして、彼の思想実践の論理のなかにそれを位置づける。「結びに」では、本論を要約したうえで今後に残された課題を自己批判的に述べている。

 このように、本論文は劉宗周なる人物を多方面から捉え、その思想の全体像を描こうとした意欲作である。劉宗周の思想を扱った論著は内外にすでに多数存在するが、本論文は社会史的視点も加えて彼の思想史的位置づけを試みており、きわめて独創的で研究史上も意義深い成果と評することができる。とりわけ、『人譜』を精密に解読することにより行われた劉宗周の「改過(過ちを改める)」思想の分析は、従来から彼の思想の特徴として指摘されてきた「慎独(独りを慎む)」「誠意(意を誠にする)」に重きを置く修養実践論に、こうした現実的な方法の裏付けがあることを実証している。

 著者自身「結びに」で言及しているように、黄宗羲という、現在にいたる劉宗周思想の評価枠組を作った門人については、本論文では分析が加えられていない。また、これも著者が述べるとおり、劉宗周の系譜を引くとされる学派の存在可能性に対しても、史料解析作業はこれからである。本論文にはこのように未完成の課題がいくつか残されている。だが、本論文で示した成果と研究手法を自分なりにさらに発展させるならば、学界に対して多大な貢献をすることになろう。そのために必要な視座と学識は、本論文においてすでに充分披露されている。よって、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい水準に達しているものと判断する。

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