学位論文要旨



No 121898
著者(漢字) 志田,泰盛
著者(英字)
著者(カナ) シダ,タイセイ
標題(和) インド論理学派における真知論(pramanyavada)の展開
標題(洋)
報告番号 121898
報告番号 甲21898
学位授与日 2006.10.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第561号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丸井,浩
 東京大学 教授 斎藤,明
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 東洋文化研究所 教授 永ノ尾,信悟
 龍谷大学 教授 若原,雄昭
内容要旨 要旨を表示する

1 本論文の主題

 本論文が対象とするのは,インド正統バラモン系に属するニヤーヤ学派(Nyaya,論理学派)が提唱する「〈真〉の他律説(paratahpramanyavada)」と呼ばれる学説の思想的展開であり,この学説が,ヴェーダ聖典の権威論証や主宰神の存在論証と連関していく過程を解明することを試みる.具体的には,古典ニヤーヤ学派における〈真〉の他律説の思想史的展開を跡付けながら,古典ニヤーヤ学派の終端ないし新ニヤーヤ学派の起源に位置するUdayana(11世紀)による〈真〉の他律説が持つ意味を明らかにする.

 まず,古典期の〈真〉の他律説については,既に山上[1993]や宇野[1996]などによりいくつかの文献の該当箇所の訳註研究が発表されているが,各論師の見解の間の微妙な差異やその思想史的展開に踏み込んだ研究はほとんどない.そこで,本論文では〈真〉の他律説が抱える諸問題に対する各論師の解決方法とその特徴を明らかにしながら,古典ニヤーヤ学派における〈真〉の他律説の展開を跡付ける.

 また,古典期においては,主宰神論との連関性を持たなかった〈真〉の他律説が,Udayanaにより,全知なる主宰神の証明論証に援用されている点を解明すべく,〈真〉の他律説が展開されるUdayanaの主著Nyayakusumanjaliの原典研究を通して,Udayanaの主宰神論の一端を解明する.

 Udayanaによる〈真〉の他律説が主宰神論に関与している点は,既にChemparathy[1972],Joshi[2002],石飛[2002]などににより指摘されていたが*1,具体的にどのように主宰神論証につながるのかという点までは明らかにされていなかったため,その点について,本論文では文献実証的に分析を加える.

*1 UdayanaはNyayakusumanjali(NKus)第2篇第1詩節において,全知なる主宰神を想定する根拠が述べるが,その最初の根拠が〈真〉の他律性となっている.Cf. NKus II k.1 p.210.3-4: pramayah. paratantratvat sargapralayasambhavat/ tadanyasminn anasvasan na vidhantarasambhavah. // 「真知は他律的なので,[また,世界の]創造と帰滅があり得るので,[また,]それ(=主宰神)とは別[の全知者]に対する信頼がないので,[常住な全知者である主宰神の想定と]別様の可能性はない.」

2 真知論(pramanyavada)と〈真〉の自律他律問題

 インドの各哲学学派は,紀元前後にも遡る根本経典の段階から,人生の目的遂行に不可欠と見なされる「真知(正しい認識)」の獲得手段の探究を重視する傾向がある.当初,真知の獲得手段の探求というこの問題は,ヴェーダ聖典や仏教聖典が語る超経験的な宗教的真理の獲得を主眼として論じられていたが,時代を下るにつれ,徐々に日常的な認識の真偽にも一般化して論じられるようになる.

 具体的には,「認識の正しさ」を意味する〈真〉(pramanya)という概念を中心に論究され,特に(1)認識が持つ〈真〉とは何か,(2)認識発生の際に〈真〉を決定する要因は何か,(3)認識の〈真〉はいかにして検証されるのか,という3点について,学派毎に様々な理論が提示されるようになる.(1)〈真〉の定義,(2)〈真〉の発生要因,(3)〈真〉の検証方法,というこれらの3点は,後に「真知論(pramanyavada)」と呼ばれる認識論上の一大トピックを構成する主要な下位論題を形成することになる.

 上記の3問題の中でも,(2)〈真〉の発生要因と(3)〈真〉の検証方法をめぐっては,「認識の〈真〉はその発生においても検証においても外的要因に依存しない」と見なす〈真〉の自律説と,「認識の〈真〉はその発生においても検証においても外的要因に依存する」と見なす〈真〉の他律説の間の対立は有名であり,特に,ミーマーンサー学派(Mimamsa,聖典解釈学派)とニヤーヤ学派の間で,〈真〉の自律他律論争が繰り広げられている.

■〈真〉の自律説 インド哲学史上,〈真〉の自律他律問題を最初に提起したKumarila(ミーマーンサー学派)は〈真〉の自律説を主張した.ヴェーダ聖典が永遠不滅であると考えるミーマーンサー学派にとって,ヴェーダ聖典が宗教的真理〈ダルマ〉に関する唯一絶対の認識根拠であることを証明するために,この問題を論じたと考えられる.

 自律説派は,永遠であるが故に発生原因を持たないヴェーダ聖典や,ヴェーダ聖典を介して生じる認識を正当化するため,認識一般の〈真〉の起源についても,認識原因の中にある何らかの要因を必要とすることはなく,〈偽〉の要因である〈瑕疵〉の有無を以て,〈真〉や〈偽〉が存在論的に決定すると考える.すなわち,認識や言明の原因に〈瑕疵〉が無い限り,あるいはそもそも原因のないヴェーダ聖典には,〈真〉が存在すると主張する.

 また,真偽の検証に関しても,〈瑕疵〉の有無による検証方法を提示し,「〈瑕疵〉などの阻害要因が確認されない限り〈真〉を信じる」という反証主義的な理論を主張する.

 一方で,自律説派は,〈真〉の他律説に対して非常に懐疑的立場から批判を加える.特に他律的検証の基礎づけと,検証と行為発動の先後関係という問題は,〈真〉の他律説が抱える根幹的問題であり,古くからKumarilaらによって厳しく批判されている.

■古典ニヤーヤ学派における他律説の目的ニヤーヤ学派は,ヴェーダ聖典の権威を認める点においてミーマーンサー学派と同じ立場にあり,Jayanta(9世紀)やVacaspati(10世紀)は,〈真〉の他律説をヴェーダ聖典の権威論証と関連させて論じている.2人の他律的検証理論は,認識の〈真〉が原則として,その認識に基づく行為発動の成否により検証するというものである.しかし,ヴェーダ祭式の実践に基づく天界などの結果は経験できないだけでなく,祭式執行には多額の出費を伴うため,祭式の有効性は事前に知られなければならない.これらのことから,特にヴェーダ聖典の真偽を事前に検証しうる理論を構築することになる.

 したがって,JayantaやVacaspatiに代表される古典ニヤーヤ学派の〈真〉の他律説の最重要課題は,ヴェーダ祭式執行への行為発動を促す事前検証を,他律説の立場から説明づける点にある.

3 Nyayakusumanjaliの真知論研究

 Udayanaの主宰神論の特徴は,従来,認識論・言語論などの枠内で論じられてきた様々な議論をそれぞれ主宰神論へと集約させる点にあり,経験主義的な色合いの強かった〈真〉の他律説にも,主宰神の存在論証の一端を担わせる点に独創性がある.

 また,NyayakusumanjaliにおけるUdayanaの主宰神論は,主として経験と推論に依拠する合理主義的なものであることがChemparathy[1972:p7.2-6]らに指摘されており,その独特の形式と方法に対して,現代の研究者からも極めて高い評価を受けている.

 一方で,Nyayakusumanjaliに代表されるUdayanaの諸著作は,インド哲学文献の中でも非常に難解な部類に入ることも諸研究者により指摘されてきた.著作中の各論は,伝統的な各教義の間の整合性に気を配りながら精緻に論じられているため,その読解には,各論毎に前提とされる古典期の議論についての十全な知識が前提とされる.そのため,Chemparathy[1972],Joshi[2002]など,議論の骨子を要約した概説的研究はあるものの,冒頭箇所を含むいくつかの部分を除き,信頼に足る訳註研究がないのが現状である.

 また,Nyayakusumanjaliのテキストは,既に8種以上の刊本が出版されているものの,それらのうち5種の刊本を省察したChemparathy[1972]は,より十全な刊本が必要であると説いている.したがって,思想研究の土台となるテキストの確度が十分であるとはいえない.

 以上のような背景のもと,本論文では,Udayanaの主宰神論の一端を形成する〈真〉の他律説の解明へ向けて,以下の指針を軸に取り組んだ.

 まず,Nyayakusumanjaliのテキスト読解に際し,入手した限りの3本の写本を使用し,従来の刊行テキストを批判的に検討し,テキストの信頼度を高めるという方法である.

 次に,Udayanaに先行する古典期の諸論師が提示する〈真〉の他律説の思想史的研究を起点とすることで,Udayanaの真知論の発展性を浮き彫りにすることである.

4 本論文の成果

 以上の方法による本研究の成果を簡潔に記す.まず,古典ニヤーヤ学派における〈真〉の他律説は,ヴェーダ聖典の権威論証とヴェーダ祭式の実践促進を主眼としおり,主宰神論との連関性がほとんどないのに対して,UdayanaのNyayakusumanjaliにおいては,〈真〉の発生と検証という2つの側面の他律説が,それぞれ主宰神の存在論証へ関与している.

 まず,〈真〉の発生の側面の他律説は,全ての真知の原因に〈真〉の決定要因が存在することを結論とする.このことは,ヴェーダ聖典の作者としての主宰神の想定を導く.

 一方で,検証の側面の自律他律問題は,確実な認識の検証方法を主題とする.Udayanaのこの議論も,単に認識論上の一問題が論じられているかのようにも見えるが,その奥に全知なる主宰神の想定への伏線が張られていると考えられる.

 他律的検証理論が抱える最大の問題は,〈検証の無限後退〉であり,古典期の論師たちは,数種の自明な認識を設定することで〈検証の無限後退〉を回避している.しかし,Nyayakusumanjaliに登場する想定対論者は,自明と見なされる認識の確実性にも徹底的に批判を加える.この極めて懐疑的な想定反論に対して,Udayanaは,〈真〉の自律説を説く対論者もまた確実な認識に到達できないことを示すことで,回答に代えている.

 これらの議論は,経験主義的な検証方法では絶対的な確実性に到達できないことを論じているかのようである.このことから,Udayanaが,外界対象と認識との対応ないし外界対象の存在自体を保証する視点として,全知なる主宰神の存在を要請していることが推測できる.しかし,この点については,Nyayakusumanjali中の各論との相互連絡なども検討し,同書が主題とする主宰神の存在論証の構造解明を待って,さらに検証する必要がある.

 また,本研究では,Nyayakusumanjali〈真〉の定義を論じる第4篇も扱った.そこにおいて,Udayanaは,ニヤーヤ学派の認識論の中心的な術語である「真知根拠(pramana)」を再定義することで,認識論の枠組みの中に,主宰神とその認識を積極的に取り込んでおり,また,Udayanaのこの見解が,さらに後のニヤーヤ学派の論師に継承されている点を明らかにした.

 伝統的教義を重要視するインド哲学の中において,過去の論師による術語の定義を再解釈することはしばしば見受けられるものの,定義自体を全面的に変更する点は注目に値する.このことは,Udayanaの時代に論理学派が有神論的傾向を強めていることを導出する一つの有力な根拠となり得る.

参考文献Chemparathy, George[1972] An Indian Rational Theology: An Introduction to Udayana's Nyayakusumanjali, Publications of the De Noblili Research Library, Vienna.Ishitobi, Sadanori(石飛貞典)[2002] 「ヴェーダーンタ・デーシカと主宰神の推論」, 『印度哲学仏教学』17, pp.179-190.Joshi, Hem Chandra[2002] Nyayakusumanjali of Udayanacarya (A Critical Study) , Vidyanidhi Prakashan, Delhi.Uno, Atsushi(宇野惇)[1996] 『インド論理学』, 法蔵館, 京都.Yamakami, Shodo(山上證道)[1993] 「Nyayabhusana の研究(8)―知識の真・偽をめぐるMimamsa 学派とNyaya 学派との論争―」,『京都産業大学論集人文科学系列』20, pp.126-144.NKus Nyayakusumanjali of Udayanacarya with Four Commentaries, Pt. Sri Padmaprasada Upadhyaya & Pt. Sri Dhundhiraja Sastri (ed.), Kashi Sanskrit Series 30, Chowkhamba Sanskrit Series Office, Varanasi,1957.
審査要旨 要旨を表示する

 知(具体的な個々の認識・判断)の正しさ・妥当性(「真知性」)とは何か(真知[手段・根拠]の定義問題),知の真・偽の源泉(真偽発生問題)および真偽の検証方法(真偽検証問題)は何か。これらの論題(特に発生問題と検証問題)のもとに展開する議論は,一般に「真知論」(pramanya-vada)として括られ,インド哲学諸派の「知識論」(pramana論)の重要な一部をなしている。なかでも,真知性は知の本質をなし,特段の例外的状況がない限り,真知性は検証を待つことなく原則としてすべての知に保証されている ― と見なすミーマーンサー学派クマーリラ派の自律的真知論と,知の本質は真偽何れでもなく,中性的な知一般の発生源に優良要因が加わると真知が,瑕疵要因が加わると偽知が発生し,また個々の知の真偽確定には,行為目的の実現確認などによって改めて検証される必要がある― と主張するニヤーヤ学派(N派)の他律的真知論との対立は,ヴェーダ聖典の権威論証という宗教問題も絡んで,クマーリラ(7世紀)の強固な理論構築以来,新ニヤーヤ派(14世紀のガンゲーシャから本格化)の時代以降にも及んで,長大な論争史を形成した。

 クマーリラの自律的真知論に関しては,ここ20年程の間に注目すべき研究が日米の研究者によってなされているが,N派の他律的真知論については,幾つかの概説的紹介や部分的研究にとどまっていた。

 こうした状況を踏まえて本論文(第I部第1〜5章,第II部6〜7章,第III部補遺から成る)ではまず真知論研究全般に関する諸問題を概観した上で(第1章序論),ウダヤナ(11世紀)までのN派(「古典ニヤーヤ学派」)の他律説の展開を,現存する主要なテキスト資料(9世紀末のジャヤンタ,9−10世紀のヴァーチャスパティ,11世紀のウダヤナ)その他の綿密な解読(その成果が第II部,第III部の訳注研究として結実)にもとづいて,他律的発生理論(第2章)と他律的検証理論(第3章)の両面から,文献実証的な方法に比較思想的視点をまじえつつ解明し,N派真知論展開史上,注目すべき幾つかの新知見を提示したほか,現代哲学的関心事との接点を可能にする斬新な研究アプローチの端緒を開いた点も高く評価しうる。

 また広義の真知論の一部をなす「真知手段・根拠の定義」に関しては,神の存在証明を企図した作品『論理の花束』(NKus)における,神の全知をも取り込んだウダヤナ独特の真知概念を検討し,絶対確実な理想的真偽検証方法に言及するなど彼の真知論の内実には,神学的色彩が濃厚な,その真知概念が大きく影響している可能性を示唆している(第4〜5章)。

 ついで第II部ではNKusにおける真知論相当の箇所を,入手しえた8刊本と3写本の照合によるテキスト校訂を行った上で(第6章),詳細な訳注を施し(第7章),従来にはない高い信頼度をもったウダヤナ研究の基礎を築くことに成功した。このほか補遺に含まれた,ヴァーチャスパティの『ニヤーヤヴァールッティカ趣意解説』該当箇所の訳注研究も画期的である。

 該当資料の綿密な解読作業など個々の重要な研究成果が,N派他律説の展開解明の文脈全体の中に,十分に有機的関連付けがなしえないまま箇条書き風にとどまっている点が見られることや,ウダヤナの真知論の特質とNKusの神学的議論との興味深い連関性は示唆されているものの,文献実証的な証明の段階には至っていないなどの点は,今後の課題として残されているが,上述した本研究の画期的な意義を決して損なうものではない。

 以上の理由により,審査委員会は,本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしい業績であると判断する。

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