学位論文要旨



No 121899
著者(漢字) 小林,銀河
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ギンガ
標題(和) ドストエフスキーにおける《личность》と《индивидуальность》の用法
標題(洋)
報告番号 121899
報告番号 甲21899
学位授与日 2006.10.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第562号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金澤,美知子
 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 沼野,充義
 北海道大学 教授 安藤,厚
 早稲田大学 教授 井桁,貞義
内容要旨 要旨を表示する

 「自由」のテーマを語る上で重要な概念の一つに《individuality》があり、例えばE.フロムは『自由からの逃走』の中でこの概念を多用している。《individuality》はロシア語では《индивидуальность》にあたるが、実はドストエフスキーにおいても重要な概念として用いられており、『地下室の手記』では《индивидуальность》および《личность》が人間において何よりも大切なものだという主張が述べられている。《личность》と《индивидуальность》はともに「個性」「個人」「人格」などを意味し、同義語的な側面があると同時に、ニュアンスに違いも感じられる。《личность》はロシア語古くからある語を語源にもっているのに対し、《индивидуальность》は19世紀の初めに西欧から入ってきた外来語である。これら2つの概念がドストエフスキーの著作においてどのように用いられているかを見てゆくのが、拙論におけるテーマである。そして、2つの語が使われている頻度と場所を特定するにあたり、ペトロザヴォーツクの研究チームがそのwebサイト《Весь Достоевский》で公開しているコンコーダンスを利用した。書簡や雑誌論文など、カバーし切れていない部分もあるが、ドストエフスキーの文学作品、それに『作家の日記』などをほとんどすべて網羅している。そして調べてみた結果、《личность》の使用頻度(計162回)が、《индивидуальность》およびその類語の《индивидуум》、 《индивидуальный》をすべて合わせた(10回)よりも圧倒的に多いことが分かった。

 《личность》の用例を見ていくと、『貧しき人々』で「人格の尊厳」について語られる場面で1度用いられているが、その後の初期作品ではほとんど使われることがない。ところが『死の家の記録』で急に使用回数が跳ね上がる。シベリアの囚人たちの姿を描く中で《личность》という語が頻繁に使われるのである。作家が流刑を通して「信念の更生」をしたということは周知のことであるが、また一面で、「民衆の中の《личность》の発見」でもあったと言うことができよう。流刑後、人間の「自我」の問題は作家によって深められてゆき、『虐げられた人々』のヴァルコフスキーがエゴイズムを肯定する自らの人生観を語る場面、『白痴』のイッポリートがその『弁明』の中で、施しという行為を例に「《личность》と《личность》の触れ合い」について語る場面、『未成年』の主人公が功利主義的な社会主義理論に反発して毒づく場面などで、《личность》が用いられている。また、その際、《личность》が局所に集中して現れているという現象も見逃すことはできない。『悪霊』では五大長編の中では飛びぬけて《личность》の使用回数が多いが、《Светлая личность》という革命家礼賛の詩をはじめ、革命家と人間の「自我」との関わりの問題が至る所で触れられており、《личность》の語も頻出する結果となっている。《личность》が最も集中的に用いられている箇所は『夏象冬記』の中にあるが、西欧、特にフランス人を批判する場面で《личность》が用いられ、西欧の《личность》を《отдельная личность》として批判しているのに注目させられる他、《личность》の最高次の発展段階は「自分自身を自らの意志ですべての人々のために犠牲に差し出すこと」、すなわちキリストや殉教者の自己犠牲の姿にあるという理想が示されている。『作家の日記』では、ベリンスキーとゲルツェンが対比され、ベリンスキーが《личность》であるのに対し、ゲルツェンは《gentilhomme》であるとしている主張なども興味深いが、それ以上に、「民族の《личность》」について盛んに語られるのが特徴的である。《русская личность》、《народная личность》、さらには《славянские личности》、《европейские личности》といった言い回しが登場する。ロシアの《личность》は自分の利益を省みずに他のスラヴ民族のために、さらには人類への全面的奉仕のために活動することにあるという考え方は、個人における《личность》の理想を国家、民族に敷衍したものであるが、バルカンをめぐるロシアと西欧、イスラムの政治的利害対立が背景にはあり、ロシアのバルカン進出を肯定する作家の論調には違和感を覚えざるを得ない面もある。

 личность》は旧くは「誹謗の言葉」という意味で用いられていたが、ドストエフスキーにおいてもその旧い意味で用いられている例を、少数ではあるものの、初期から晩年に至るまで見ることができる。

 また、《личность》は単に「人」、すなわち《человек》とほとんど同義で用いられるケースもいくつか見られる。

 ロシアの言語学専門家によって編集された『ドストエフスキーの言葉辞典』では《личность》の用法が6通りに分類されているが、用例を細かく見てきた結果を踏まえ、筆者独自の分類法を提案し、巻末の一覧表には《личность》の用例一つ一つの分類を示しておいた。

 《индивидуальность》、《индивидуум》、《индивидуальный》の用例を見ていくと、「他と切り離された個人」というニュアンスを帯びて用いられるケースの多いことが分かる。これらの語の語源はラテン語の《individuus》に至るが、その意味は「分割不可能」、すなわち、「アトム」の意味である(例えば英語でin+divideと考えてみるとよい)。概してドストエフスキーは《индивидуальность》という概念を肯定的に捉えており、特に、ロシアがその「独自性」を見出し、発現することを説いている。

 ところで、ドストエフスキーは作家としてデビューする以前にバルザックの『ウジェニー・グランデ』のロシア語訳を手がけているが、そこで《personalite》という語が《индивидуум》と訳されている。本来、《personalite》は《личность》に対応する。《личность》という語がそもそも、フランス語の《personalite》を模倣して作られたという経緯もある。しかしながら、後の作家活動において圧倒的に《личность》を多用したドストエフスキーが、ここでは敢えて《индивидуум》を用いているのはなぜだろうか。その理由は、《индивидуум》の直前に《частное лицо》という言葉が置かれ、その同格として《индивидуум》が並べられていることにある。《частное》(個別の)という形容詞がついている限り、やはり「他と切り離された個人」という意味合いを語の内に含む《индивидуум》こそが同格として並べるにふさわしいのである。『夏象冬記』において、西欧の《личность》は《отдельная личность》であると批判していたことが想起される。ドストエフスキーによるバルザックのロシア語訳は必ずしも正確ではないことが知られているが、その代わりに、後に作家として盛んに用いた独特の語彙、言い回しが見られ、またそこには将来の作家の思想が垣間見られる場合もある。拙論においては、バルザックの作品の他の訳者によるロシア語訳を3つ用意し、それらとの比較することによって、ドストエフスキーの訳が確かにドストエフスキー独特の特徴をもち、決してロシア語という言語の特徴ではないということを示した。これまで研究の対象とされることの少なかった翻訳作品であるが、本格的に研究する意味は十分にあると言えるだろう。

 「他と切り離された個人」という《индивидуальность》のもつ意味合いは、実はドストエフスキーの多くの主人公に当てはまるものでもある。『分身』のゴリャートキン氏、『プロハルチン氏』、『罪と罰』のラスコーリニコフ、さらには『小英雄』、『ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』といった主人公たちを例に取り上げた。

 第3章では、ドストエフスキーの用語法をより広い視野から見るために、ロシアの他の作家、思想家を3人取り上げ、簡単ではあるがその用語法を見た。プーシキンは(1799−1837) 《личность》の現代における意味が確立してゆく19世紀初めに活躍したが、《личность》を旧来の「誹謗の言葉」の意味で用いているケースのほうが多い。プーシキンにおける《личность》の用例を追う中で、「自我」の問題よりも、当時の文壇における論争の有り様や、また、誹謗・中傷が検閲の対象であったという事実が思いがけず明らかになった。

 ゲルツェン(1812−70)の『向こう岸から』においては、「個人の自由」というテーマが論じられており、《личность》は重要な概念として用いられているが、《лицо》という語も目につく。ただし、キリスト教をはじめとする宗教を、個人の自由を阻むものとして否定している点はドストエフスキーと真っ向から対立する。《индивидуальность》も用いられており、「時代の《индивидуальность》」という表現が興味深い。

 亡命哲学者ロースキー(1903−58)は『キリスト教東方の神秘思想』において、《личность》をその宗教哲学における重要概念として用い、《индивид》という概念との違いを強調している。人間はその本性を克服し、神の似姿という理想へ向かっていくという理念を述べるにおいて《личность》を多用している。ロースキーが用いている概念には、ドストエフスキーの著作において重要だと思われる概念と重なるものが多くある。キリスト教の哲学、教学の観点からドストエフスキーにおける諸概念を再検討するということも今後の課題とせねばなるまい。ソ連時代のロシア語研究の蓄積は我々を大いに助けてくれるものであり、拙論においてもヴィノグラードフによる先行研究を各所で引かせてもらったが、彼らによって未だ十分に開拓されていない分野が、宗教哲学における諸概念の用法である。

 以上、ドストエフスキーにおける《личность》と《индивидуальность》の用法を詳細に検討する作業を通してあらためて気付くことは多々あった。無論、より深く、詳細にドストエフスキーのテキストに向かう必要があるし、また、より広い視野にたった思想史的な比較研究もしてゆかねばなるまい。しかし、いずれにしても、拙論における作業は今後の研究の展開において強固な足場を与えてくれるものとなることだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 小林銀河氏の論文「ドストエフスキーにおける≪личность≫と≪индивидуальность≫の用法」は、19世紀ロシアを代表する作家ドストエフスキーの文学を「個としての人間」を示す言葉≪личность≫と≪индивидуальность≫を手掛かりに考察し、この作家の創作技法を明らかにしようとしたものである。

 フョードル・ドストエフスキー(1821-81)の作品は日本でも長い受容と研究の歴史がある。今日新たな視点からの発見を提示することは容易でない。小林氏は敢えてこの難題に取り組み、ロシア、ペトロザヴォーツク大学のザハーロフ教授研究グループが作成したドストエフスキー・コンコーダンスを用いて≪личность≫と≪индивидуальность≫の用法の分析を行い、ドストエフスキー研究に新たな一歩を刻んだ。

 本論文は序、結論と本論三章から構成されている。第一章ではまず、≪личность≫と≪индивидуальность≫の意味が語形成の歴史、多言語との関係等、多様な視点から考察され、次にドストエフスキー研究の歴史においてそれらの用語が果たしてきた役割についての調査が行われた。併せて文学研究におけるコンコーダンスの可能性と本論文での利用方法の確認もなされた。第二章ではコンコーダンスに依拠しつつ、ドストエフスキーの全作品を通じてこの二語の使用にどのような傾向と変化が見られるかが考察された。ドストエフスキー作品では≪индивидуальность≫より≪личность≫の登場頻度が遙かに高いこと、≪личность≫は初期作品には殆ど登場せず、後期への移行期に位置する『死の家の記録』に多出していること等の諸点が指摘された。さらに個々の作品が取り上げられ、綿密なテクスト分析を通してそれら二語の意味と役割が問われた。第三章ではロシアの他の作家とりわけ19世紀ロシア思想の発達に関わりの深いプーシキン、ゲルツェン、ロスキーの著作における二語の用法の詳細な考察がなされた。考察の結果、ドストエフスキーの用法の独自性及び時代との共通性が明らかになった。巻末にはコンコーダンスを再構成した独自の用語表が添付されており、小林氏の論述を裏づける有効なデータとなっている。

 本論文はコンコーダンスを利用して、これまで看過されてきた、あるいは曖昧であったドストエフスキー文学の諸特徴を確定的なものとし、この作家の特質を説得力のある論述によって描き出している。ドストエフスキー研究に新たな成果をもたらす意義ある仕事であった。

 審査の過程では、<コンコーダンスの利用に際してはより多面的複合的な方法の検討も必要ではないか>との意見が出された。しかしこの指摘は本論文の本質的な欠点を意味するものではなく、むしろ小林氏の今後の研究に期待するものであろう。以上のような評価に基づき、審査委員会は全員一致で、本論文が博士(文学)の学位に充分値するものであるとの結論に至った。

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