学位論文要旨



No 121905
著者(漢字) 齊藤,愛
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,メグミ
標題(和) 異質性社会における表現の自由 : デュルケーム社会学を手がかりに
標題(洋)
報告番号 121905
報告番号 甲21905
学位授与日 2006.10.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第194号
研究科 法学政治学研究科
専攻 公法専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷部,恭男
 東京大学 教授 石川,健治
 東京大学 教授 井上,達夫
 東京大学 教授 大串,和雄
 東京大学 教授 荒木,尚志
内容要旨 要旨を表示する

 これまで、英米法系の国々において、現代人権論は、功利主義対個人権論という形で展開されてきた。そして、個人権論陣営の中においても、リベラリズムと共同体論とが激しく対立してきた。では、現代の人権国家は、今後いかなる道を選択していくべきなのであろうか。本論文は、Durkheimの社会学的な視点をとり入れることによって、これらの問題に対する解答を模索しつつ、表現の自由を考察しようとする試みであった。

 まず、Durkheimの議論から、権利およびその基底にある道徳が発生論的に社会的功利によっては説明し得ないのみならず、異質化が進行した現代社会においては「個の尊重」のみが社会の構成員の精神的連帯を可能にする道徳的基盤となり得るのであり、功利主義ではそうした役目を果たし得ないということが示された。

 また、Durkheimの議論は、個人権論の中でも、リベラリズムとSandelのような共同体論とのいずれを採用すべきであるのかという問題に関しても手がかりを示すものであった。彼の議論によれば、社会が拡大・発展していくにつれて、社会における同質性は徐々に薄れてき、ついには、社会の構成員の同質性は「人間一般」にしか求めることができなくなる。それとともに、国家レベルの道徳は、異質な要素の共存を可能にするような唯一の原理すなわち「個の尊重」という道徳へと必然的に移行していく。このことから、現代の人権国家が今後選択していくべき立場は、Sandelのような共同体論ではなく、リベラリズムであるということが示されるのである。また、Durkheimによれば、社会の集合意識・道徳は、個人に先行し、否応なしに個人の中に負荷として入り込んでくる。こうした彼の議論から明らかになるのは、現代の国家のような同質性の失われた社会における道徳は「個の尊重」を命じるようなものとなるはずであり、したがって、今後諸個人が社会によって負わされていく負荷があるとすれば、それは「個の尊重」という道徳を表現するような負荷以外にはありえないということである。そして、今後そのような傾向がますます強まっていくと考えられる以上、現代の人権国家が選択すべき道は、やはり、リベラリズム以外にありえないということになる。さらに、こうしたDurkheimの議論は「個の尊重」という道徳が、あくまで一時代の一社会が生み出したものにすぎないということに気づかせてくれる。すなわち、Durkheimの議論は、リベラリズムの終焉なきリベラル化に歯止めをかける役割をも果たすのである。

 では、リベラリズムを選択した上で、われわれはいかなる表現の自由論を構築していくべきであろうか。従来のアメリカにおける表現の自由論は、道具的正当化根拠にのみ基礎を置く議論と構成的正当化根拠にも依拠する議論との2つに大別することができるが、道具的正当化根拠のみに基づいて表現の自由論を構築することは不可能であるというのが従来の通説的見解であった。このことは、Durkheimの議論に照らしてみるとなおいっそう明らかになる。なぜなら、Durkheimによれば、人権を基礎づける道徳が発生論的に社会的功利とはまったく関係の無いところに存在することも十分ありえるし、また、異質化が進行した現代社会においては、社会の構成員の精神的連帯を可能にする道徳は「個の尊重」のみであり、功利主義ではそうした役割を果たすことができないので、表現の自由権を「個の尊重」それ自体目的として捉えるのではなく、もっぱら社会的功利を最大化するための手段として功利主義的に捉えるような考え方は成功し得ないからである。

 では、表現の自由に関する構成的正当化根拠としていかなる議論を採用すべきであろうか、そしてそこからいかなる表現の自由論が導き出されるのであろうか。この点、Durkheimの議論に照らしてみれば、現在提唱されている有力な表現の自由原理論の中では、Dworkinの議論がもっとも妥当なものであると考えられる。

 前述のように、現代のアメリカや日本のような国家はリベラリズムという道を選択し、様々な異質な要素の共存を確保すべくルールを構築していくべきであると考えられるが、では、いかなる異質な要素に着目して社会の共存を目指していくべきなのか。この問題に対して、Durkheimは、個人の思想・価値観・人生観における異質性という答えを提示している。すなわち、彼は、社会が拡大し異質性が増大していくにつれて、社会に必然的に生じてくる「個の尊重」という道徳は「個人の思想・価値観・人生観の尊重」という道徳に他ならないと考えているのであり、したがって、現代国家が模索していかなければならないのは、異質な思想・価値観・人生観の共存を可能にするようなルールであるということになる。このようなDurkheimの議論に鑑みれば、以下のようなDworkinの表現の自由に関する3ルールが十分説得力を持つということが明らかになろう。

(1)「ある表現が受け手に望ましくない信条を抱かせる」という受け手の不利益を根拠に、その表現を規制することはできない。

(2)「ある表現、もしくはその根底にある思想が価値のないものである」ということを根拠に、送り手の表現活動を抑圧することはできない。

(3)すべての人は、「自分の思想・価値観を表現し、外的環境に働きかける機会を得る権利」としての表現の自由権を有する。

ただし、これらは「強い意味での権利」である。

 そして、本論文では、この3ルールから、さらに、以下のような具体的な表現の自由論を導き出した。まず、「表現の自由権」における「表現」とは本来的には、「表現者の思想・見解を表明するような表現」を示す。なぜなら、Durkheimの議論にしたがえば、現代国家が今後模索し続けていかなければならないのは異質な思想・信条・価値観の共存を可能にするルールであるからである。したがって、「表現の自由権」における「表現」とは、本来的には、「表現者の思想・見解を表明するような表現」、言いかえれば、表現者の何らかの人生観・世界観・思想・価値観など表現者のアイデンティティーにかかわる内心的部分を表明するような表現を指すということになる。また、逆に、そうである限り、すべての表現が「表現の自由権」における本来的な意味での「表現」に含まれるのであって、それはいわゆる政治的表現には限られないと解すべきである。そして、以上のような表現者の思想・価値観を含む表現に関して、権利として保障されているのは、Dworkinも論じているように、「自分の思想・価値観を表現し、外的環境に働きかける機会を十分に得る権利」である。この本来的意味における「表現の自由権」は、社会的利益とは関係なく保障されるいわばside constraintである。したがって、この権利は他の基本権と衝突するような例外的な場合でない限り、他の社会的利益の存在を理由に縮減されてはならない。

 一方、それ以外の表現、すなわち、表現者の思想・価値観の表明とは言いがたいような表現は、「表現の自由権」における本来的意味での「表現」とは言えない。しかし、だからといって、それらに「表現の自由権」の保障がまったく及ばなくなるわけではない。なぜなら、(1)このような表現に対する自由は、「個の尊重」という道徳の中核部分に対応するわけではないが、周辺部分に対応するものであると考えられるからである。また、(2)たとえ、その表現が表現者の思想・価値観を表明するようなものでなかったとしても、その表現にはさまざまな価値―芸術的・文学的・科学的価値あるいは娯楽的価値など―が備わっている場合もしばしばあるし、さらに、(3)「表現の自由権」における本来的な「表現」を確実に保障するためには、いわばbreathing spaceを確保しておく必要があるからである。したがって、このような表現に対しても一応の憲法上の保障が与えられるが、これらの表現は、異質性社会における共存という観点から考えれば、それに自由を保障するということは決して必要不可欠なものであるとまでは言うことができないので、こうした表現に対する自由はもはやside constraintとは認められないのである。

 そして、これらに加えて、Dworkinの第1ルール・第2ルールから、すべての表現について、(1)「ある表現が受け手に望ましくない信条を抱かせる」という受け手の不利益を根拠に規制をしたり、(2)「ある表現もしくはその根底にある思想が価値のないものである」ということを根拠に送り手の表現活動を抑圧したりすることが一切許されないという原則(しかもこれは「強い意味の権利」である)が付加されることになる。

審査要旨 要旨を表示する

 近代社会学の祖といわれるエミール・デュルケムは、普仏戦争の敗北後、発足した第三共和政フランスにおいて、カトリシズムを中核とする旧来の社会道徳および教育制度に代わる新たな社会統合の理念を構築しようとした思想家であった。本論文は、デュルケムの社会思想を手がかりとして、日本国憲法の究極の理念でもある「個人の尊重」の意義を探り、典型的な自由権である表現の自由を基礎づけるものとして相応しい理論は何かを明らかにしようとしたものである。

 論文は、序章と本論の4章、および終章からなる。序章では、本論文が答えようとする問題として、(1)現代人権論の基底にあるリベラリズムと共同体論との対立が、異質な要素からなる社会での協働を可能にする条件は何かという視点からいかに捉え直されるか、(2)そうした視点から見たとき、表現の自由の根拠論としていかなる議論が相応しいといえるか、(3)その議論から日本国憲法の解釈論としていかなる帰結が導かれるか、の3点が挙げられる。さらに、研究の方法として、(1)近年、その個人主義的側面や社会の発展に着目するラディカルな側面が強調されているデュルケムの社会思想が手がかりとして検討されること、(2)それを通じて、「個の尊重」という理念が一定の条件を満たした社会においてのみ妥当する社会統合の原理であることが明らかにされ、そこから上述の諸問題について一定の解答が導かれるとの見通しが示される。

 第1章「功利主義と個人権論」では、人権論の基礎となる道徳原理に関する功利主義と個人権論との論争が跡づけられる。まず、代表的な功利主義者としてジェレミー・ベンサムとジョン・スチュアート・ミルがとりあげられ、社会全体の効用の最大化を擁護する彼らの議論が、最近における再解釈の試みにもかかわらず、社会全体の効用とは異なる個々人の権利の尊重を正当化しえないことが指摘される。次に、功利計算によっては基礎付けえない権利を正当化するリベラリズムの論者として、異なる善の構想の追求者として個人をとらえるロバート・ノージックおよびジョン・ロールズの議論を紹介するとともに、彼らの議論が、人が共同体に共通する価値を社会的負荷として負う存在であることを十分に考慮していないとするマイケル・サンデルの批判を受けていることを紹介する。そして、最後に、デュルケムの議論を手がかりとすることで、リベラリズムと共同体論との対立が、社会的協働を可能とする道徳としてのリベラリズムというとらえ方によって解決されうる見通しが示される。

 第2章「異質性社会における『個の尊重』」という道徳」では、第1章で提示された問題に対して解答をもたらす手がかりとしてデュルケムの社会思想が検討される。デュルケムは、従来、社会を至高の実体とし、個人をそれに従属するものとしてとらえる保守主義者であるかのように理解されてきたが、近年では、近代社会特有の社会統合の原理として「個の尊重」を指摘した個人主義者としての側面が強調されつつある。社会を構成する諸個人は、その意識において共通するもの(集合意識)がなければ社会的協働が成り立ちえない。個人に先行し、否応なく個人の中に負荷として浸透するこの集合意識は、相互依存性が少なく社会構造が分節化された前近代社会においては機械的連帯を生み出す濃厚な意識として立ちあらわれるが、人口の増大、産業化等を経て同質性が解体し、利害が多様化し、相互に依存しあう職能分化が進んで有機的連帯が支配的となった近代社会では、個人の自律への欲求が強まる結果、社会生活を支える共通の道徳は「個の尊重」しかありえなくなる。

 以上のようなデュルケムの立場からすれば、「個の尊重」が統合の原理となるのは、価値観が多元化した社会に特有の現象であり、したがって、現代社会において妥当する統合の原理は、個人ごとに異なる善の構想の追求を保障するリベラリズムでなければならないが、その射程は時代により、社会によって限定されることが明らかとなる。また、著者は、リベラリズムが尊重されるべきなのは、あくまでそれが当該社会の統合原理として現に機能するからであり、したがって、リベラリズム自体が社会的負荷たることを否定しようとするリベラリズムの「終焉なきリベラル化」には、歯止めがかけられるべきことを明らかにする。

 第3章「表現の自由」は、アメリカ合衆国における表現の自由の根拠論を素材に、現代社会において人権の基底となる議論としてふさわしいものは何かをデュルケムの議論を手がかりに探ろうとする。表現の自由を根拠づける議論は、表現の自由が社会全体の利益に貢献する点に着目する道具的正当化論と、表現の自由の内在的価値に着目する構成的正当化論とに大きく分類することができる。著者は、この分類基準にしたがって、ベーカー、レディッシュ、マイクルジョン、サンスティン、ドゥオーキン等の学説を整理した上で、デュルケムの提示する社会統合の原理としての「個の尊重」という機能論からすれば、この中でもっとも適切なものとして支えられる表現の自由の根拠論は、異質な精神の公平な共存を可能にしようとするドゥオーキンのそれであることを明らかにする。これは、著者によれば、社会的事実の理解の重要性を指摘しながらも、そのレベルの論証を十分に行っているとは必ずしもいえないドゥオーキンの議論の間隙を埋める意味を持つ。

 また、平等な配慮と尊重を受ける権利に関するドゥオーキンの議論から導き出される、3点にわたる解釈論上の原則――(1)ある表現が受け手に望ましくない信条を抱かせるという受け手の不利益を理由とする表現規制は許されない、(2)ある表現もしくはその根底にある思想が価値のないものであることを根拠とする表現規制は許されない、(3)すべての人は、自己の思想・価値観を表明し、外的環境に働き避ける機会を得る権利としての表現の自由を享有する――が他の社会的利益との衡量を許さない side constraint に近い役割を果たすことも、デュルケムの議論と整合することが指摘される。

 第4章「日本法への当てはめ」では、第3章で得られた結論が、日本国憲法の解釈論上も十分な有用性を持つことが示される。まず、いわゆる「二重の基準論」の基礎付けに関して、「個の尊重」という実体的価値と切り離された形で、プロセスのみの視点から違憲審査基準を論ずることは困難であることが指摘された後、表現に関する内容規制と内容中立規制の区分がなぜ必要となるかがドゥオーキンの3原則に即して説明される。さらに、わいせつ規制に関して定義的衡量(definitional balancing)の手法をとり、一定範囲の表現を憲法上の保護範囲から排除することは、それが表現者の思想や価値観の表明とはみなしえない限りにおいて正当化されるものであり、そうした表現活動には弱い保護しか与えられないことが、やはり第3章での結論にもとづいて論証される。

 「終章」では、本論の分析が要約された後、残された課題――いかなる社会が「個の尊重」を要請する異質性社会といえるかの具体的判断基準の解明、本論の分析が精神的自由にとどまらず、職業選択の自由等の経済的自由の理解についていかなる帰結をもたらすかの探求等――が指摘される。

 以上が本論文の要旨である。本論文の長所としては、次の点を挙げることができる。

 第一に、従来、憲法学界において十分にその意義が理解されてきたとはいえないデュルケムの社会思想について、社会の同質性が解体して、利害の多様化と職能の分化が進み、個人の自律への欲求が強まる結果、社会生活を統合する共通の精神基盤として「個の尊重」しかありえなくなった近代社会の特質を指摘した思想としてとらえ、それが憲法上の個人の権利を支える思想として持ちうる含意を的確に示したことを挙げることができる。個人主義批判・リベラリズム批判の典拠としてデュルケムを援用する解釈が、現代の共同体論の論客たちの間で有力になっているが、かかる解釈の批判的再検討を迫るものとしても、本論分の分析は重要な意義をもつと言える。デュルケムの社会思想のこうしたとらえ方は、本論文でとり上げられている表現の自由にとどまらず、職業選択の自由をはじめとする経済的自由や結社の自由をはじめとする中間団体の位置づけにとっても新たな理解をもたらしうるもので、多方面への発展の可能性を含むものである。

 第二に、デュルケムの議論を手がかりとして、憲法学の現下の基本問題の一つである表現の自由の根拠論として提示されているもののうち、異質な精神の公平な共存を可能とする議論としてもっとも適切といいうるのはロナルド・ドゥオーキンのそれであることを示したことが挙げられる。これは、人間の本性や仮想の社会契約論ではなく、特定の条件の下にある社会における表現の自由の機能という観点から、表現の自由を基礎付ける試みであり、従来の議論を道具的正当化と構成的正当化に分類した整理とともに、具体の解釈論の基礎となる準備作業として十分な意義がある。また、それを基づいて展開されている日本国憲法の解釈論上の帰結にも説得力が備わっている。

 第三に、文体は平明であり、論旨も明快に展開されている。あいまいさがないとはいいがたいデュルケムの議論の内容も、現代においてわれわれが直面する諸問題にそれがどのような回答を与えることができるかという明確な問題意識の下に分かりやすく整理されている。

 もっとも、本論文にも短所がないわけではない。第一に、デュルケムの社会思想が現代の諸問題についてどのような回答を与えるかという視点から合理的に再構成されているため、その反面で、デュルケム自身がいかなる時代状況の下でどのような問題に答えようとしてその思想を形成したかが理解しにくい面がある。第三共和政初期に、伝統的道徳に代わる新たな社会道徳を構築しようとしたデュルケムの置かれた政治的・社会的文脈に彼の思想を位置づけていたならば、論旨にさらに厚みが加わり、説得力も増したものと思われる。第二に、先行業績との関係での論旨の独自性が十分に強調されていないため、本論文のさまざまな指摘の意義が、読者にとって直ちには明確にならないきらいがある。しかし、これらは本論文の価値を大きく損なうものではない。

 デュルケムの社会思想が憲法学にとって持つ意義を解明し、表現の自由に関してその含意を明らかにした本論文はすぐれた学問的成果であり、著者が自立した研究者として高度な能力を持つことを証明しているとともに、憲法学界の発展への貢献がきわめて大きい。よって本論文は、博士(法学)の学位を授与するにふさわしい、特に優秀なものと認める。

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