学位論文要旨



No 121908
著者(漢字) 藤田,政博
著者(英字)
著者(カナ) フジタ,マサヒロ
標題(和) 裁判員制度 : 日本における陪審制度の歴史と市民参加の実効性についての経験的研究
標題(洋)
報告番号 121908
報告番号 甲21908
学位授与日 2006.10.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第197号
研究科 法学政治学研究科
専攻 基礎法学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 フット,ダニエル
 東京大学 教授 太田,勝造
 東京大学 教授 大串,和雄
 東京大学 教授 石川,健治
 東京大学 教授 川出,敏裕
内容要旨 要旨を表示する

 2001年6月12日に司法制度改革審議会が提出した意見書(司法制度改革審議会,2001)を受け、司法の「国民的基盤」の確保を目的として裁判員制度が導入される。この制度では、「法定刑の重い重大犯罪」(司法制度改革審議会,2001:106)について、市民が裁判官とともに評議し、被告人の有罪無罪を決する。そして有罪の場合には量刑の決定にも市民が関与する。これにより、1943年の陪審法停止以来、半世紀以上ぶりに市民が刑事司法の中心的手続に参加することになる。

 この重大な変革を行うにあたっては、制度の導入の意義、および是非に関して十分に議論をなすことが必要である。それをもって制度導入の問題点と同時に、内容及び運用のあり方に反映させていくことが必要と思われる。

 本稿では、裁判員制度の導入上の問題点を検討し、所期の目的を達するための方策について検討することを目的とした。

 もちろん、今般の司法改革が抱える課題に関しては、膨大な議論が為されてきた。ただ、それらの議論の多くは、かつての陪審制度導入に関する議論や、それらを歴史的に考察した業績を十分に参照した上で議論しているものは少ない。また、調査や実験などによって実証的に検討しているものは非常に少ない。そのために、これまでの議論では陪審導入以来の議論の蓄積が十分に参照されていない憾みがある。また、実証データに基づかない議論のみによっては、主張のぶつけ合いとなって共通の前提に基づく生産的議論がなかなか為されにくい状況にあるといえる。

 かつての陪審制を政治史的に検討した業績としては、三谷教授の「政治制度としての陪審制」に関する業績(三谷,2001a;三谷,2001b;三谷,2001c;三谷,2001d)、および「裁判員制度の政治史的意義」(三谷,2004) などがある。特に、現今の裁判員制度の導入と、日本において長年議論されてきた陪審導入の賛否と結びつけようとした業績として、最後のものが非常に貴重なものであると思われる。

 これは、日本における陪審制度がなぜ繰り返し導入の議論が行われてきたにも拘わらずそれが失敗したか、そしてそれがなぜ大正時代、特に原敬内閣の時代にあって実現にまで至ったかについて、政治史的観点から重要な知見及び洞察を我々に提供している。

 本稿では、これらの先行研究を手がかりに、裁判員制度導入の意義と是非について、陪審導入にあたって国民の司法参加に関してどのような議論が積み重ねられてきたかを参照しながら検討した。これはいわば、上記の問題意識を過去に向かって投げかけたパートであるということができるだろう。

 このパートにおいては、陪審導入に関する議論の中で、司法への国民参加の問題がどのように扱われたかを概観した。

 歴史を振り返ると、そもそも、日本人が初めて陪審を傍聴し、その導入の可否について述べたと記録されているのは、岩倉具視等の使節団がフランスの法廷を視察したものである。この際の使節団の報告書によると、素人が法律判断に加わるこのような制度は実行可能性の観点から見て導入することができないと結論していた。

 しかし、日本の司法制度の近代化のためにボアソナードが起草した治罪法草案には、陪審制度が明記されていた。しかし、これは市民への不信と実現可能性を否定する井上毅の強い反対論にあって、実現されなかった。

 その後、憲法草案が各地の民権団体によって起草され、デモクラシーが著しく盛り上がりを見せた時期に、憲法に書き込まれる形で陪審制度の実現を望む勢力も各地に見られた。彼らは、不平等条約改正のためにも陪審導入が必要であることを唱え、論陣を張った。すなわち、条約改正のためには司法の近代化が必要であり、司法の近代化のためには民衆が裁判に直接参加する陪審制度が必要であると唱えた。国民は裁判に参加する能力があり、彼らを陪審とすることが社会の近代化の証左である旨を主張した。

 しかし、自由民権運動は厳しい弾圧を受けた。また、条約改正においては、改正交渉の過程において、条約改正のためには陪審制度の導入は必ずしも必要ないことが関係各国大使と合意され、ここでも陪審導入は見送られた。

しかし、司法部の人権侵害に対する「人権擁護」と、司法における「人民参加」を目的として、原敬内閣の時において遂に実現するに至った。

 以上に続き、実験・調査による研究の報告を行った。このパートでは以下の問題について順次検討した。

歴史を振り返っても分かったように、陪審導入検討以来、日本人は集団主義的で他人に同調し、社会的地位の高い人の言うことに合わせるから、このような制度を導入しても機能しないという国民性を理由とする反対論が提出されてきた。これまで重ねられてきた日本人の国民性についての研究(cf.林,2001;南,1994)は、国民の司法参加の議論において関連づけられることはほとんどなかった。そこで、日本の市民の集団主義的側面と、社会的勢力のある者と評議した場合にどのような態度(attitudes)を持つかについての調査を行った。この調査では、模擬裁判員裁判に参加した市民を対象とした調査を評議の前後に行った。

 その結果、集団主義尺度得点と相関があったのは、裁判員制度が公正であることの知覚、冤罪の減少の知覚であった。評議中に発言できそうかという問いへの回答との相関は見られなかった。また、集団主義尺度得点と、裁判官役の法曹の意見重視した程度との間にも、相関は見られなかった。

 以上の結果からすれば、集団主義的傾向は、仮にそれが日本人の特性としてあったとしても、特に評議には関連が見られないという結果であったとまとめることができる。

 それを実験によって検証しようとしたのが次の研究である。すなわち、実際の評議場面において協働の可能性がどのくらいあるかについて、評議過程における発言の分析から考察した。

 この点について日本で実証的検討が十分になされてきたとは言い難かった(下村,1990)。そこで、法学部専門課程以上の学生と、教養課程の学生という、学生参加者による模擬評議の実験を通じて、法的素養に差のある状況を作り、評議中の発言の検討を行った。

 その結果、全体の発言数についてみると、法学部生と教養生は、グループ全体として発言数に差があるとは言えなかった。このことを市民と裁判官に置き直して考えてみると、評議において話し合いが成立しうることを示唆すると考えられる。

 また、今回の実験では、規範的影響に関する発言数は、法学部生の方が有意に多いという結果が出た。これは、裁判官と市民とが共に評議に参加したときには、裁判官が規範的影響を行使する可能性が高いことを示唆するだろう。ただ、法学部生の発言数において、規範的影響に分類された発言数は情報的影響の27分の1程度であった。この結果は、評議が十分に行われうることを示唆するといえるだろう。

 以上のような評議参加者の問題を検討したあとに、裁判員制度における裁判体の構成の問題と多数決の方法などの意思集約ルールの問題について扱った。この問題は、裁判員制度の内実をめぐる政治的論争とみなされがち (三井他,2004:10-12)であった。

 しかし、本来重要なのは、裁判官と市民との協働が達成されやすいのはどのような制度であるかについて実証的検討を重ねていくことであると思われる。

 そこで、評議を経験した市民や法曹に対して、多数の選択肢を用意して、その中からふさわしいと思われる人数構成と評決方法などについて回答を得るという質問紙調査を行った。この質問紙調査は、札幌で2003年1月、大阪で5月、埼玉で6月、広島で7月に模擬裁判に参加した市民および法曹に対して評議の前後に行った。

 その結果、裁判官と市民が「1:3」の裁判体、および「3:2」という裁判体は支持されなかった。「3:6」もしくは「3:9」という、市民が裁判官の2〜3倍の裁判体が支持を多く集めた。これは、複数の開催地における回答において一貫して見出される傾向であった。この傾向は、評議経験前に比べ、評議経験後によりいっそう強く見出された。

 今回の調査結果は、実際に評議を行ってみると、大きな評議体における評議の方が参加しやすいものであることを感じたのではないかと推測される。

 以上は主として裁判員制度に参加する市民について扱ってきた。しかし、裁判員制度は法曹と市民の協働によって機能することが期待されている。とすれば、法曹が市民参加者をどのように認知して評価するかも、協働の達成の上で重要であると思われる。

 そこで、法曹参加者の市民への評価に関する質問紙調査を行った。この調査では、大きさと人数比の異なる評議体で模擬裁判に参加した法曹に対して、評議の前後に質問紙に回答するように依頼した。

 その結果では、より大きな評議体で評議に参加した法曹の回答ほど市民参加者や制度の導入に対して肯定的であった。しかし、模擬裁判参加前の回答にはそのような差はなかった。したがって、この評価は模擬裁判への参加によってもたらされたものといえる。

 そして、差の出た原因について仮説を検討したところ、市民ステレオタイプの変容の仮説に基づく検討で、評議体の規模の影響がみられた。これは、(Weber,& Crocker,1983)の知見とも整合的であった。

 以上より、より多くの市民参加者の入った評議体に参加することで、法曹が市民参加者に対して持つステレオタイプが変容する可能性が高くなり、スムーズな協力関係が生まれやすくなる可能性を示唆するといえる。

〔引用文献〕

林知己夫(2001)『日本人の国民性研究』南窓社.

南博(1994)『日本人論:明治から今日まで』岩波書店.

三谷太一郎(2001a)『政治制度としての陪審制:近代日本の司法権と政治』東京大学出版会.

三谷太一郎(2001b)「政治制度としての陪審制(上)日本および欧米」UP30巻5号8-12頁.

三谷太一郎(2001c)「政治制度としての陪審制(中)日本および欧米」UP30巻6号10-18頁.

三谷太一郎(2001d)「政治制度としての陪審制(下)日本および欧米」UP30巻7号10-16頁.

三谷太一郎(2004)「裁判員制度の政治史的意義(特集1 裁判員制度)」自由と正義55巻2号26-34頁.

三井誠=飯田英男=井上正仁=大川真郎=佐藤文哉=田口守一(2004)「座談会 裁判員制度をめぐって(特集 裁判員制度の導入)」ジュリスト1268号6-48頁.

司法制度改革審議会(2001)『司法制度改革審議会意見書――21世紀の日本を支える司法制度』(http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/report-dex.html).

下村幸雄(1990)「陪審制度導入の意義と問題点――日本陪審制度の実情から」法社会学42号173-176頁.

Weber, R., & Crocker, J. (1983), "Cognitive processes in the revision of stereotypic beliefs", 45 Journal of Personality & Social Psychology, 961-977.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「裁判員制度:日本における陪審制度の歴史と市民参加の実効性についての経験的研究」は,2009年(平成21年)5月末までに刑事裁判に導入されることになっている裁判員制度が,機能するための条件を経験的に探求する研究である.

 裁判員制度は,法律の素人である一般市民が法定刑の重い重大犯罪の刑事審理に関与し,裁判官と共に評議して被告人の有罪・無罪ならびに量刑を決定するものである.このような裁判員制度を裁判に対する法律素人の関与(以下では「市民参加(lay participation)」と呼ぶことにする.)の制度と広くとらえれば,欧米の陪審の制度やヨーロッパに見られる参審員の制度が対応するものとなるが,日本においてもいわば先駆け的な制度として1943年(昭和18年)に停止された陪審制度が存在した.日本の陪審制度についての主要な先行業績の吟味と,本論文独自の統計分析の手法等の駆使とによって,現代日本に市民参加の制度たる裁判員制度を導入する上での論点と課題を析出し,それらの諸問題の主要なものについて,本論文は実験室実験や質問票調査等の経験的手法を駆使してアプローチし,具体的な知見を獲得している.このように本論文は,裁判に対する市民参加についての日本における初めての本格的法社会学研究である.

 本論文の構成は3部からなり,第一部「序」において本論文の目的を設定する.すなわち,日本の刑事訴訟に新規に導入される裁判員制度が機能するためには何が必要なのかを探るという目的設定がなされる.さらに,本論文の構造が示される.

 第二部「日本の陪審制度と市民参加」においては,主要な先行業績である尾佐竹猛の業績と三谷太一郎の業績に主として依拠しつつ,日本における陪審員制度の導入をめぐる経緯と議論,陪審員制度の実態,陪審員制度の廃止の経緯と議論を参照して,裁判員制度,すなわち裁判に対する市民参加の制度,の導入の可否の根拠,問題点を析出し,第三部における法社会学的検討のための課題設定とすることが主たる目的とされる.

 第三部「実証研究」は第二部における歴史研究の成果を受けて,法社会学的研究の課題として以下の3つを設定して経験的研究を行うものであり,本論文の独創性と価値が最も現れるパートである.第一の課題が裁判に対する市民参加の制度は「集団主義的で権威に弱い日本人の国民性に合わない」といった種類の「日本人の国民性の問題」の主張に対して,それがどこまで真実に合致するのかを明らかにするという課題である.第二の課題は,日本の裁判員は裁判官と共になされる評議において,議論に参加して自己の意見を開陳し,裁判官や評議の結果に影響を与えること,ができないのではないかという懸念の妥当性について,法律専門家と法律素人からなる合議体がどのような評議を行うかを学生による模擬評議を実験室実験として実施して明らかにするという課題である.第三の課題は,裁判員制度の設計における裁判官と裁判員の最適な人数配置を法社会学的に探求するというものである.ここでは,社会心理学における集団意思決定の研究を参照しつつ独自の研究を設計して実施している.現在においては裁判官と裁判員の人数配置については法律上は決着が付けられているが,今後の実施を見て法改正等を検討する上での貴重な知見を提供するものである.

 以下では本論文の概要をかいつまんで説明する.

 第一部「序」では本論文の目的が設定される.一般の国民が,裁判官と共に司法の中心的手続きに参加するという制度が,果たしてうまく機能するかについては,種々の懸念が表明されている.そこで,これらの懸念が根拠とする諸仮説を,1943年(昭和18年)に停止された日本の陪審制度をめぐる議論を,先行研究その他の資料に基づいて整理し,それらの諸仮説を社会心理学や社会学など法社会学の最新の学際的経験的方法によって検証してゆくという本論文の目的が設定される.すなわち,新規に導入される裁判員制度が機能するためには何が必要なのかを探るという目的設定がなされる.

 さらに,本論文の構造が示される.すなわち,第二部における歴史研究が,陪審導入の可否の根拠,特に刑事裁判に市民を関与させる根拠とそれに反対する根拠をめぐる諸議論と諸仮説を取り出すことを目的としてなされることが説明される.その上で,本論文の主たる学問的貢献である第三部「実証研究」では第二部における歴史研究の成果を受けて,法社会学的研究が実施されることが説明される.さらに,本論文が方法論の一つとして採用した「模擬裁判に参加した市民を対象にする質問票調査」という方法について,その外的妥当性(external validity)を疑問視する批判に対する応答がなされる.すなわち,本論文の課題に対する実証的研究として考えられる他の代替手法が実現性の乏しいものであること,および,模擬裁判経験者にバイアスがあるとしても,逆に,未だ実施されていない制度について抽象的一般的に質問し,現実的感覚のまったく欠如した被験者に答えてもらうよりも,模擬裁判であれプロセスの経験者に答えてもらう方が現実的な回答が得られるというメリットがあるとする.

 第二部においては日本の陪審制度の歴史を探訪し,そこでの賛否の議論を分析して,日本の現在の裁判員制度の設計と運用に対する仮説群を析出する.これは第三部におけるテーマ設定につなげるためのものである.この第二部は尾佐竹猛と三谷太一郎の業績に主として依拠している.まず,日本の陪審制度導入過程の概要が説明される.幕末から明治10年頃まで,日本に陪審制度の概念が初めて導入された際の経緯が概観されたうえで,参座制についての概略が説明される.次いで,ボアソナードが起草した治罪法における陪審制度導入をめぐる賛否の攻防が説明される.ボアソナードの陪審制導入案は日の目を見なかったが,その際の賛否の議論においては,現在の裁判員制度導入の可否をめぐって戦わされた論点が既に出ていること,ならびに,実証的経験的探求はなされなかったことが示される.

 次に,明治憲法の草案における陪審の位置づけの議論,不平等条約改正の方策として議論された陪審制度導入論とそれをめぐる議論が説明される.さらに,大日本国憲法制定後の陪審制度導入の可否をめぐる議論が検討される.そこにおいても,現在の裁判員制度導入の可否をめぐって戦わされた議論のほとんどが既に出ていること,ならびに,実証的経験的探求は等閑視されていたことが示される.

 大正年間における陪審法の審議過程が詳細に紹介され検討される.現在における裁判員制度の反対論と同様に,陪審制度は憲法違反であるとの議論が提示されていた.しかし,政治的駆引きと,原敬の暗殺,高橋是清内閣を経て,1922年(大正11年)に枢密院で陪審法修正案が可決され,第45回衆議院での審議にかけられ,通過後,第46回貴族院での審議にかけられた.そこでの議事においても現在の裁判員制度導入の可否をめぐって戦わされた議論のほとんどが既に出ていること,ならびに,実証的経験的探求は等閑視されていたことが示される.このような国会での審議を経て1923年(大正12年)に陪審制度は実定法制度として導入された.

 こうして導入された陪審制度の具体的内容の説明に続いて,その運用の実態が分析される.現在利用可能な運用実態データに基づいて本論文は,期間,コスト等について統計学的分析も付加している.まず当事者のコストであるが,法定陪審と異なり,請求陪審の場合は有罪の場合の刑の言渡しの際に,陪審費用の全部または一部を被告人の負担とすることになっていた.本論文は,法曹界雑誌に掲載された各事件の陪審費用額に基いて統計的手法でその額に影響を与えた要因とその程度を明らかにしている.その推計によれば,陪審利用に約367円 83銭の陪審費用がかかり,開廷日数が1日増えるごとに約82円68銭陪審費用が増大すること,ならびに,地域性については開廷地の都市の規模が1ランク大きくなるごとに陪審費用は約78円62銭下がることなどが明らかにされる.これを種々の経済関係のデータを用いて2004年(平成16年)現在の金銭価値に換算している.その推計によれば,陪審制度実施直後の約9ヶ月についてみれば,陪審の利用によって陪審費用が121万余円かかり,開廷日数が1日増加するごとに28万円弱費用が増加することになる.反面,開廷地の都市の規模が1ランク下がるごとに26万余円の支出増を覚悟しなければならない計算となる.これは,被告人がかなりの高収入ないし資産家でない限り,請求陪審の利用には大きなマイナスのインセンティヴが働いていたであろうことを間接的にではあるが示唆する結果である.法定陪審においても最終的には裁判所の判断に委ねられており,当時の法律新聞の記事では「実際は判決によって全部負担になってゐるのが通例」であったと報告されている.

 陪審制度運用のコストも推計しており,2004年(平成16年)現在の金銭価値でみると,当初の1年弱の114件について約1億4千万円弱がかかった計算となり,15年間を通じたコストの合計は約6億3千万円弱であるとする.さらに陪審制度導入のための準備経費(欧米への視察団派遣,各地での講習会実施,活動写真やラジオによる宣伝広告費,陪審法廷や陪審宿舎の建設費など)を推計すると1年間に最も多い年で126億円余り,少ない年で3億円余り,最初の6年間の合計として238億円余りを支出していたことになると推計している.陪審公判の日数としては,陪審制度運用全期間を見ると,平均1.7日と2日を切っている.陪審公判においては,その準備が周到になされ,全体的に短期間で終結したと評価できるとする.

 以上の大正期に導入され第二次世界大戦中に停止された日本の陪審制度の統計的分析などから,総合評価を導いている.第一に,用語の平易化(さらには図解等によるビジュアル化)が進むと期待されており,かつ,現実にも進んだ.これは現在の裁判員制度においても同様であろうと期待される.第二に事実認定について,被告人の同僚である市民の新鮮な視点での証拠評価が期待されていた.また,陪審には法律判断を含む事実の判断が期待されていたとする.そして,運用の実際としても,法律問題も含む判断を求められていた.その点で,純粋事実判断主義は採用されなかったと評価するべきであるとする.これは当時の陪審事件の具体的内容のケース・スタディーによって確認されている.現在の裁判員制度においてもある程度同様の事態が予測される.

 陪審制度の当時の総合的評価として,陪審事件数は当初の予想よりはるかに少なく,期待されたインパクトも予想より小さかった(司法省は1年当たり1300件程度を予定して予算を組んでいたが陪審制度の現実の利用件数は当初もその1割弱でしかなかった.).無罪率は通常手続きに較べて圧倒的に高率であった.さらに,司法の民主化の契機となったと評価されていた.

 このような陪審制度は徐々にその利用が先細りし,第二次世界大戦期には非常に少なくなり,遂に1943年(昭和18年)に停止された.この停止の要因としては,陪審の対象事件の範囲が狭く,かつ評決には拘束力がなかったこと,などが挙げられる.また,弁護士の立場から気乗りがしなかったことも指摘されている.さらには,陪審員となる資格自体が極めて制限されていた.陪審員資格者の国民に占める割合は一貫して2〜3%であり,現実に選ばれた陪審候補者は人口の0.1%程度であった.被告人の側からも陪審による判断には魅力が乏しく,陪審手続きは請求されず,法定陪審についても辞退・放棄が多くなされた(辞退率は1928年(昭和3年)は80%であったが,3年後には94%を超え,その後はほとんど100%に近かった.).弁護人や被告人の意識において,陪審の選択が裁判所から「敵対行為」として解釈される虞れがあるとされていたために,陪審選択が回避された面がある.その上,陪審利用には,上記のように多くの増加費用の心配もしなければならないとされていた.また,たとえ陪審が使われた場合も,裁判官は何度でも陪審の答申を覆して陪審を更新することができた(現実には,当初の1年を見れば32件のうち2件のみ更新していたにすぎない.全期間を通じた陪審更新率は7.4%であった.).さらには控訴が許されなかった点も停止の要因として挙げることができる(上告理由があれば上告できたがその場合も三審制が二審制となり,事実認定を争うこともできない.).もちろん,最終段階では軍国主義の擡頭と長期の戦争遂行も停止の要因である.

 日本の陪審制度の導入,運用,停止の歴史における以上の議論を見ると,現在の裁判員制度をめぐる議論と同様の議論のほとんどがなされていることが明らかとなる.たとえば,陪審制度のような民主的司法制度は「日本人の国民性」に合わないというような議論が挙げられる.そして,陪審制度の停止後は,その理由として「日本人の国民性に合わなかったからである」という主張がほとんど神話化していた.ここでいう「日本人の国民性」としては集団主義や権威に対する付和雷同的傾向が念頭に置かれていた.とはいえ,諸外国の国民との比較も,日本人自体への実証的研究もほとんどなされなかった.これらの点もまた現在の裁判員制度導入をめぐる議論において同様の傾向が見られるとする.弁護士の側からも当時,陪審の選択は訴訟戦略上不利であると判断されていた.反面,陪審裁判を経験した法曹に対する,その後の聞取調査によれば,陪審員は公判に熱心かつ真摯に関わっていたと報告されている.

 以上の第二部の検討結果を受けて,本論文の最も重要な部分である第三部では経験的研究がなされる.具体的には,国民性の問題,評議過程の問題(法律専門家たる裁判官と,法律の素人たる市民である陪審員との間の,評議における適切な役割分担と協働の可能性の問題),評議体の構成と意思集約方法の問題(人数構成や議決方式の問題)が採り上げられ,社会心理学や社会学などの学際的方法によって法社会学的に探究される.

 まず,第三部第2章では日本人の国民性の問題が経験的に探求される.「日本人の国民性」として指摘される点を,「権威への服従」と「集団意識」の二つに分け,前者については社会心理学における「社会的勢力認知尺度」を用い,後者については同じく社会心理学における「集団主義尺度」を用いて操作化し調査している.社会的勢力認知尺度はさらに「正当勢力尺度」と「専門勢力尺度」の2つの尺度で計測している.具体的な調査方法としては,2002年(平成14年)5月に大阪で実施された模擬裁判員裁判に参加した市民(「裁判員」もしくは「陪審員」)と裁判官役の法曹(弁護士と裁判官)に対する質問票調査の形でなされた(対象は市民198名,法曹29名).研究仮説として,「集団主義尺度」「正当勢力尺度」「専門勢力尺度」の得点の高い人ほど裁判官の意見を重視し,評議で発言できなくなるという方向の回答を質問票調査で示す,と設定して,検証・反証を経験的に試みている.質問票調査は,模擬裁判を経験する前と後とで実施され,その回答内容の比較分析もされている.

 この研究からは以下の知見が得られている.第一に,評議に参加する経験によって,法曹も市民もともに,市民と法曹が評議した際に,事前に考えていたよりも,市民の意見が評議に出て来ると,また評決内容に反映される可能性があると感じるようになっている.日本人の国民性論で論じられる集団主義的傾向については,集団主義的傾向は評議とは関連性が見られなかった.裁判官などの権威への盲従の点(日本人の権威主義)については,市民が専門性や正当性を認知しやすければ,法曹の意見を重視しやすいという関係が示唆されている.集団主義を日本人の国民性ととらえて,ゆえに裁判員制度はうまく行かないだろうと主張するタイプの議論は,経験的根拠がないことが示されたといえる.

 以上の検討に加えて,ここでの方法論の限界と今後の課題が検討されている.模擬裁判参加者であるから司法や裁判員制度に対する関心が高い方向でバイアスのある回答者集団だったろうことは否めない.しかし,逆に,回答者の関心が高いということは裁判員制度についての知識と熟慮による回答であり,より意義の深い回答であると解釈することも可能であるとする.

 次いで,第三部第3章では,評議における法専門家と市民の間の役割分担と協働の可能性が実証的に探求される.具体的には,調査実施可能性の考慮から法専門家の代替物として法学部専門課程以上の学生,市民の代替物として教養課程の学生を用いて実験室実験を行っている.その際には,裁判員型として法学部生2名と教養生4名のグループ討議の「グループ条件群」(25グループ150名)と,対象群として評議のない個人の判断をしてもらう「個人条件群」(33名)を構築して両群の比較も行っている.実験ではある刑事事件の概要を読んでもらった後,グループ条件群の被験者には模擬評議の上で評決をしてもらい,個人条件群の被験者には評議なしで判断をしてもらっている.ヴィデオで記録した評議の内容や判断結果をグループ条件群と個人条件群とで比較する分析もしている.評議内容の分析では,発言内容を15のカテゴリーに分け,それぞれのカテゴリーの発言回数を数えてデータとして分析している.

 本章の実験室実験から以下が明らかとなっている.第一に,グループ条件群での発言の回数分析によれば,個人一人当たりとしては法専門家たる法学部生の方が発言回数が多かったが,グループとしてみた場合,法学部生と教養生との間には有意な差は見られなかった.また,法学部生の方が規範的影響(内容の説得力ではなく発言者の権威や地位などに基づいて他者が同調しようとするタイプの影響)の発言を教養生よりも統計的に有意に多く行っていたが,情報的影響(現実や事実についての証拠として,他者から取得した情報を受け入れようとするタイプの影響)の発言の量には差がなかった.市民参加によって市民の「健全な社会常識」が発揮されるかについては,「自らのアイデアや知識を提供するような発言」の量を指標として分析し,市民の代替物である教養生も法律専門家の代替物たる法学部生と同等かそれを上回る程度でそのような発言をしていた.裁判員審理の裁判官には評議の司会進行役や法的専門知識の提供も期待されているがこの点については,法学部生の方が評議をリードする傾向が大きく,かつ必要に応じて法的知識を供給していたことが確認されている.評議の経験が裁判員制度に対する評価にどのような影響を与えるかについても検討しており,評議に参加した教養生と参加しなかった個人条件群の教養生の間には差が見られなかった.結局,評議における法専門家と市民の間の役割分担と協働の可能性について,総じて肯定的な結果が得られている.

 本章の最後に,大学生を使ったこのような実験室実験の意義と方法論的限界が論じられている.

 第三部第4章では,評議体の構成と意思集約方法の問題が経験的に研究される.模擬裁判員審理を経験した市民や法曹に対して,多数の選択肢を用意して,その中からふさわしいと思う人数構成と評決方法を質問する方法が採用されている.社会科学方法論としては「準実験(quasi-experiment)」に相当する方法である.2003年(平成15年)に札幌,大阪,埼玉,広島で実施された模擬裁判の参加者(札幌39名,大阪198名,埼玉24名,広島19名)に調査票を配布して回答を求める方法で調査がなされた.模擬裁判の前と後に質問票が配布されて,回答の変化も調査されている.なお,模擬裁判員審理の評議は評議体ごとに別々の部屋ないし広い部屋で離れた位置で実施されたので,相互に独立の評議である.

 裁判官と市民の人数構成の選択肢について「一番いいと思うものを選び,○をつけて下さい」との質問に対して,多かった回答は裁判官と市民の人数の組合せが3人対6人と3人対9人の選択肢であった(他の選択肢は人数が1対3,2対6,3対2,3対3).人数の比の値として聞いた場合も同様で,市民は裁判官の2倍から3倍を求めるものが多かった(これらのクロス集計はχ二乗法で検定されている.).評議前と後との回答の変化として興味深いのは,3人対9人の選択肢を望ましいと答えた者の割合が上昇している点である.

 上記とは別の模擬裁判(2003年(平成15年)実施の「500人の裁判員」と題された模擬裁判)での法曹と市民への調査で,裁判官と市民の人数構成について質問をしている(評議は評議体ごとに別々の部屋で実施された.).ここでは,模擬裁判の評議体の裁判官役(弁護士と裁判官)と市民の間の人数構成を「3対3グループ」7つ,「3対9グループ」8つ,「1対7グループ」から「1対11グループ」を22の全部で37のグループに操作して実施された(回収回答数市民299,法曹61).望ましい評決方法の選択肢として「単純多数決」,「特別多数決(3分の2や4分の3など過半数より多いもの)」,「変形多数決(裁判官の過半数+裁判員の1人以上の賛成,かつ,全体で過半数)」,「双方多数決(過半数の裁判官,かつ,過半数の裁判員)」,「全員一致」の5つを設定して質問した結果は次のようになった.模擬裁判経験前の事前調査では「特別多数決」29.3%,「双方多数決」38.5%,「全員一致」21.6%が主要なものであったのに対し,模擬裁判経験後の事後調査では「特別多数決」45.5%,「双方多数決」27.9%,「全員一致」13.2%と若干増減が生じている.望ましい人数比については8つの選択肢からの選択で質問している.事前調査,事後調査ともに3対9が一番多くの支持を得た.さらに,法曹参加者は市民参加者の評議への参加ぶりについて肯定的に評価していた.肯定の程度は大きな評議体を経験した法曹の方が高かった.このことから,市民の人数の多い評議体で評議した方が裁判員制度の定着に有意義となる点が示唆されるとする.終わりに,調査方法論の観点からこの調査の意義と限界が分析されている.

 最後に「総合考察」として本論文全体の成果の持つ裁判員制度への示唆が整理される.まず,裁判員制度の概要が説明され,本論文の研究に基く評価が示される.陪審制度の停止の要因の1つが被告人による辞退・放棄であったことに鑑みると裁判員による審理を辞退することができないとした点は制度の定着に効果をもたらすであろうとされる.また,控訴が強く制限されていたことも停止の要因の1つであったことに鑑みると,裁判員制度では従来とほぼ同様の上訴が可能である点は評価できるとする.陪審費用によるコスト増が辞退・放棄,不請求の要因の1つとされてきたことに鑑みると,刑の言渡しの際に被告人に訴訟費用の全部または一部を負担させなければならない裁判員制度も同様の萎縮の可能性があるとする.陪審制度において批判を受けてきた更新制度が裁判員制度にはない点は利用促進のために評価できるとする.従来の「日本人の国民性論」に基く陪審や裁判員への懐疑論は本論文の経験的研究によって根拠が乏しいことが示されたとする.とりわけ集団主義の意味での日本人の国民性論は根拠とならないことになる.権威主義の意味での日本人の国民性論は,権威主義の中身をさらに,専門的知識能力への尊重か,正当と評価する者への尊重かなど,よりきめ細かい分析をしてゆかない限り社会科学的議論として不完全であることも示されたといえる.評議体における裁判員と裁判官の人数構成の問題は,法律上は決着がついているが,今後の裁判員制度の実施において再評価し,改正を議論する際には重要となる知見を得たとする.

 以上が本論文の要旨である.本論文の長所としては,次の諸点を挙げることができる.

 第一に,陪審制度の場合であれ裁判員制度の導入の際であれ,従来はどちらかといえば予め採用された賛否の立場から直感主義的ないし印象論的な理由付けに基づいて賛否を議論する傾向がないとはいえなかった司法への市民参加について,社会心理学や社会学など学際的で経験的研究方法から実証的な知見をもたらした点は,本論文のオリジナリティと法社会学的価値を高め,従来の学問に対して多大の寄与をしたと評価しうる.また,より一般的に,法政策上の論点に対して経験科学的にアプローチするひとつのモデルを示したと評価できる.

 第二に,尾佐竹や三谷の先行研究に依拠しつつ,陪審制度や裁判員制度をめぐる賛否の議論の論拠を洗い出して,経験的研究による検証・反証の対象として再定式化した点も評価に値する.その際には,裁判員制度の導入の際に賛否の立場から議論された論点のほとんどが,1923年(大正12年)の陪審制度の導入をめぐって戦わされてきた賛否の議論と重なっており,しかも,社会科学的根拠や知見には必ずしも基づかない議論に終始した点でも同様であることを明らかにしている.

 第三に,陪審制度の運用実績のデータに対して統計的分析を施している点も,若干の先行研究がないわけではないにせよ,相当程度本格的な統計学的手法を用いた点で初めての試みと位置づけることが可能である.従来指摘されていた,辞退率の高さを確認すると共に,その原因としての被告人,弁護人側のインセンティヴをコスト面からの推計を用いて推論している.また用語の平易化の努力,ビジュアル化による公判の理解可能性の向上,活動写真やラジオなどのメディア利用による広報活動など,現在の裁判員制度導入へ向けての努力と同様の施策が実施されたことを示すのみならず,その規模を金銭評価した点もオリジナルな研究といえよう.さらに,経験的手法を実施しつつ,その方法の限界を考察する慎重さも評価に値しよう.

 第四に,経験的研究の成果に基づいて,立法された裁判員制度を具体的に評価しており,法政策に関与する法社会学の在り方のひとつのモデルを示したと評価することが可能である.裁判員制度の実施に際しても,その評価や改正作業においても本論文は必ず参照される基本文献となるであろう.

 もっとも,本論文にも補完すべき短所がないわけではない.

 第一に,陪審制度の史的展開をめぐる議論は,詳細ではあるが,従来の研究との対比で言えば,歴史学的な貢献は乏しい.もちろん,本論文は歴史研究に寄与することを目指すものではなく,日本における陪審制度,裁判員制度をめぐる賛否の議論の論点とその実質論の欠如を明らかにし,経験的研究のテーマ設定をしようとするものである以上,その本来の目的は十分に達していると位置づけるべきであろう.また,これまでそれほど注目されなかった国会等での審議内容を詳細に紹介した点で資料的価値も認めうる.

 第二に,本論文の経験的研究の対象が,学生や模擬裁判参加市民であり,そこから得られた知見について,日本人全体についての結論へと一般化するには慎重さを要するという限界がある.とはいえ,本論文の筆者はこれらの問題を十分に理解して,自ら指摘しつつ慎重に論を進めている.しかも,模擬裁判参加者への質問票調査は,いわばインフォームドされた市民の意見と評価を蒐集するという意味では,一般国民へのランダム調査よりも,本件のような具体的で法政策的な課題の研究にとってはむしろ意義が大きいともいえる.

 第三に,歴史研究から析出された論点の全てに対して経験的研究をしているわけではない点がある.とはいえ,本研究のような経験的方法の実施には,厖大な労力と時間と費用がかかるものであり,だからこそ従来は本研究のような経験的研究をすることなく議論を戦わせてきたともいえ,論点を網羅的に経験的研究をしなければならないというのは過大な要求と言わざるを得ないであろう.

 これらの短所は,いずれも本論文の学術的な価値を大きく損なうものではない.裁判員制度,陪審制度という司法に対する市民参加の制度について先行研究も渉猟した上で課題設定を行い,時間と労力と費用の厖大にかかる学際的で経験的な研究をオリジナルに考案して着実に実施し,具体的成果を挙げた本論文は,自立した研究者としての著者の高度の能力を示すものであることはもとより,日本の法社会学のこの分野の研究水準を飛躍的に向上させるものである点で,学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であると認められる.したがって,本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいものであると評価できる.

以上

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