学位論文要旨



No 121910
著者(漢字) 権,丁熙
著者(英字) Kwan,Jung Hee
著者(カナ) クォン,ジョンヒ
標題(和) 〈不如帰〉の変容 : 日本と韓国におけるテクストの「翻訳」
標題(洋)
報告番号 121910
報告番号 甲21910
学位授与日 2006.10.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第686号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京大学 助教授 齋藤,希史
 東京外語大学 名誉教授 三枝,壽勝
 日本大学 教授 金子,明雄
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、徳冨蘆花の『不如帰』が発表された明治31(1898)年以来、様々なジャンルの「翻訳書」と「俗書」が作り出された状況をとらえ、それをテクストの<翻訳>という観点から的に論じた試みである。

 <不如帰>は時代が変るにつれ、その読まれ方も重点の置かれ方も変わり、「家庭の文芸」が要求される時代に合わせて、次第に男の「職分」の側面が姿を消して、より「家庭の出来事」や「夫婦愛」の面貌が強調された。こうした読まれ方と相応するかたちで、諸「翻訳書」と「俗書」も続出していった。その意味では、<不如帰>の受容を徳冨蘆花の『不如帰』に収斂させるべきではなく、時代による読みの変遷と同時に、時代を追って読者層が大きく変化していく様を見てとることが重要である。

 <不如帰>受容の様相の解明を目的とする本稿は、主に読者論的な観点から分析することで、<不如帰>の受容に働いた諸要素や条件を探ろうと試みた。つまり、作家・読者・出版形態など、一連の要素の連関に、書物の形態上の変化を合わせて考えることで、新しい読者層へ広がっていく、そのプロセスを浮き彫りにしようと試みた。こうした観点に立って、受容の段階を分節化し、具体的なテクストを対応させることで、段階によって受容の変化を浮き彫りにする論を展開した。その結果、以下のような点が明らかにされた。

第1章では、『国民新聞』の新聞連載小説として発表された『小説 不如帰』を、同時代の文献に照らし合わせることで、「男性読者層」を意識していた側面に焦点を当てた。その結果、徳富蘇峰の「非恋愛」論と軍人勅諭を中心とした「職分」を最優先にする論理が交錯する構図が浮き彫りにされた。そしてこの構図に通底している「立身出世主義」とでもいうべき文脈を提示した。その意味で『不如帰』は、従来の「夫婦愛」を標榜する物語とは裏腹に、「夫婦愛」を抑圧し「職分」の道に帰結することを「男らし」さとする、「男」の主体性を問う物語として見直されるべきことを提起した。

 第2章では、『家庭新詩 不如帰』の分析に入る前に、新聞小説から単行本『小説 不如帰』の出版に至る経緯と主な変化を述べた。新聞連載小説と単行本『小説 不如帰』にはそのイメージにおいて顕著な差異が存在するが、単行本の成立過程、とりわけ黒田清輝による口絵の成立過程に迫ることで、新聞連載小説と単行本とのイメージの落差の淵源を探ろうとした。黒田清輝による口絵によって、浪子は一層「同情」の表象とされ、単行本の体裁、自然主義の浮上と「恋愛」の発見など諸要素が絡んで、「夫婦愛」のイメージがより強化されたことを論じた。そのうえ、日露戦争後の明治38年(1905)に刊行された『家庭新詩 不如帰の歌』は、単行本の「夫婦愛」の面をさらに強化したうえで、ジャンルの変換の問題の切り口として、すなわち、「吟誦」や「朗誦」といったその読書形態が、以後の様々な口承演芸「不如帰」の先駆けとしての意義を持つ。さらに、『家庭新詩 不如帰の歌』は、戦闘場面を詠うに当って、日露戦争の軍神広瀬武夫のイメージを交錯させるなど、当時の軍神広瀬中佐ブームとも関連している。

 第3章で取り上げた『脚本 不如帰』においては、小説を脚本化することによって、原作の視覚的・聴覚的な要素が強化され、原作の地の文がセリフとなるなどの変化が見られる。このように、<不如帰>の受容の特徴は、メディアの変化と不可分に対応している点であり、その意味で<不如帰>はメディアそれ自体だったのである。

 所謂「新しい女」の登場以来、「新しい女」と「古い女」という対立構図を踏まえた言説の中で、<不如帰>は「古い女」の記号として流通し、「涙」「新派」「女性」という結びつきが固定化された。このように、<不如帰>のイメージが「古い女」や家などの「古い」価値を帯びるこの時期、<不如帰>は韓国において受容された。その際、蘆花の『不如帰』だけではなく、様々な「翻訳書」や「俗書」なども流入したが、こうした「翻訳書」や「俗書」によって通俗化されたイメージと物語は、韓国語の翻訳/翻案にも影響を与えた。

 韓国に『不如帰』が受容された時期は、日本では『不如帰』が既に文壇の関心の外に押し出された時期であり、<不如帰>は最も古い価値の記号とされたその時点で、朝鮮で受容されたと言えるのである。

 第2部では韓国の<不如帰>の変容を取り上げた。1910年の日韓併合以後、新しい体制を迎えて不安が募る中、1912年という時期に急に続々と翻訳/翻案が登場した。そうした動きのなかで行われた演劇化は、内地の価値を先取りし、確かな地位を確保しようとする意味を持った。ただ、実際には日韓の間には様々な葛藤もあった。本稿で対象を1912年から1913年の短期間に絞るのは、<不如帰>の受容がこの時期において、特定の価値を伴う文化現象としての性質を帯びているからである。

 韓国語での翻訳/翻案に共通的な特徴として考えられるのは、「孝」の優位のなかで、「愛」にまつわる翻訳にズレが生じたことが挙げられる。例えば、浪子の海への投身の場面に、『心清伝』の心清の投身行為が重ね合わせられることによって、「愛」が「孝」との関係のなかで語られ、「愛」は「孝」の記憶や感情を起動させることになるのである。「愛」にまつわる翻訳が、つねに「孝」との関係のなかで成立するのは、当時の『毎日申報』の論説や、朝鮮総督府による「孝」と「忠」を強調する支配方針とも深くかかわっていた。この日本、すなわち内地に価値の根拠を求める志向は、日本人救援者というモチーフを生んだ。そこでは一人の翻訳/翻案者の文学の個性や文体が論じられる以前に、その翻訳/翻案が内地の価値と朝鮮の現実をいかに接続するかが、評価の基準となった。日韓併合後、最大の社会的関心事は、日韓間の葛藤の解消、また家と社会、国家の調和を生み出す制度の構築であり、社会における調和が要求される時代であった。そうした中で<不如帰>の受容はなされたのである。1912年当時の日本では、『不如帰』は「新しい女」の出現とともに「古い女」の表象とされた。しかし、植民地朝鮮では、新しい内地の価値として翻訳されたわけである。

 韓国における<不如帰>の受容は、この時期、新小説史からみても、親子関係中心の悲劇から、嫁と姑を中心に据えた物語へとシフトさせる動きの、さきがけとなったという意味で、重要な位置を占めるのである。さらに、韓国における翻訳/翻案には、『家庭新詩 不如帰の歌』『脚本 不如帰』『漢訳 不如帰』など、原作以外の「翻訳」と「俗書類」が関連していることが見えてきた。

このように、それぞれの翻訳/翻案の方向性を考察することで、原作の『不如帰』の特色が浮かび上がるよう試みた。<不如帰>は、このようなさまざまなモチーフへの接続が可能であった点に、物語の特徴があるといえるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 権丁煕氏の「〈不如帰〉の変容―日本と韓国におけるテクストの〈翻訳〉」は、明治31年11月から明治32年5月にかけて『国民新聞』に連載され、明治33年に民友社から単行本として刊行された徳冨蘆花の『不如帰』が、日本と韓国においてどのように受容されていったのかを、諸資料を博捜しつつ実証的に論じた労作である。

 蘆花の『不如帰』は、単行本発刊当時ベストセラーになり、多くの読者を獲得するとともに、原作を通俗化した多くの「俗書」や続編を生み、さらには新体詩に歌われたり、舞台化されたりした。また韓国においては、1912年に鮮于(ソヌ)日(イル)『杜鵑(ドキョン)声(ソン)』、趙(チョ)重(ジュン)桓(ファン)『ブリョギ(不如帰)』、金(キム)宇(ウ)鎮(ジン)『榴(リュウ)花(ファ)雨(ウ)』といった翻訳、翻案作品が出版され、数次にわたって舞台化も行われた。権氏は、蘆花の『不如帰』を起点に発生したこのようなテクスト群を〈不如帰〉と表記することで、それらのテクスト群がはらむ問題を全体的視野に収め、これを〈翻訳〉という観点から論じようとした。ここにいう〈翻訳〉とは、日本語という言語のなかで行われる原作の改変と、言語をまたいでの翻案、翻訳の両者を含む用語であり、具体的には、R・ヤコブソンの「言語内翻訳」「言語間翻訳」という概念を援用したものである。

 本論文は、蘆花の『不如帰』の日本国内における受容と原作の改変を論じた第一部と、韓国における『不如帰』の翻訳、翻案とその受容を論じた第二部に分かれる。以下、論文の構成にしたがって内容の概略を記す。

 第一部第一章では、蘆花の『不如帰』が新聞に連載された当時、「立身出世主義」を背景とする「職分」優先の論理のなかで、「男らしさ」の倫理が勝利する物語として読む読み方があったことが論じられる。これは「夫婦愛」の物語としてのみ『不如帰』を読もうとする従来の一般的な傾向に鑑みるならば、注目すべき指摘であると言える。

 第二章では、『不如帰』が単行本として出版された際の戦略が、「家庭の文芸」を求める時代の要請に応えることであったこと、その戦略が機能したことで、多くの女性読者の獲得に成功したことが論じられる。こうした文脈のなかに位置づけられる溝口白羊『家庭新詩不如帰の歌』(明治38年刊)は、波子と武男の夫婦愛を強調するとともに、武男に軍神広瀬武夫のイメージをも付加したとする。

 第3章では、明治42年に刊行された柳川春葉『脚本不如帰』が取りあげられ、この作品が〈不如帰〉産出のピークに位置する作品であること、またこの時期に〈不如帰〉と「涙」や「女性」との結びつきが固定されたことが確認される。以後〈不如帰〉は「夫婦愛」の物語として、広く日本社会に受容されてゆくことになるのである。

 第二部第四章以降は、日韓併合後の韓国における『不如帰』の受容が論じられる。

 第四章では、1912年に複数の劇団によって上演された〈不如帰〉の反響を『毎日申報』の劇評によって再現する。「笑い」という反応を示す観客に対し、これを啓蒙しようとする劇評家には、内地の風俗や「恋愛」についての教材として〈不如帰〉を見ようとする態度が見られる。これは植民地における宗主国の文化の受容の問題として興味深い。

 第五章では、趙(チョ)重(ジュン)桓(ファン)の『ブリョギ(不如帰)』が取りあげられ、鮮于(ソヌ)日(イル)の『杜鵑(ドキョン)声(ソン)』と『漢訳不如帰』を参照しつつ行われた「訳述」の過程が詳細に論じられ、『ブリョギ』が原作とはある距離をとった「翻案」に近い作品であることが明らかにされる。

 第六章では、1912年に相次いで発表された鮮于(ソヌ)日(イル)『杜鵑(ドキョン)声(ソン)』、趙(チョ)重(ジュン)桓(ファン)『ブリョギ(不如帰)』、金(キム)宇(ウ)鎮(ジン)『榴(リュウ)花(ファ)雨(ウ)』の三作品を比較し、韓国における『不如帰』の受容の特質というべきものが指摘された。すなわち、韓国の〈不如帰〉においては、「愛」に対する「孝」の優位が強調され、病気の妻を離縁するという行為の描き方にも、日本の〈不如帰〉とは大きな違いが見られることが確認される。

 以上のように要約される権丁煕氏の論文に対し、審査委員からは以下のような評価、批判が寄せられた。

 明治30年代の「家庭小説」は、読者論、メディア論、文化研究の進展のなかで、近年ようやく研究が緒についた対象であり、本論文もそうした学会の動向のなかに位置づけられる。本論文の功績は、第一に、連載段階の新聞メディア、単行本刊行段階での書物というメディア、朗誦というオーラルなメディア、さらには新派劇という演劇メディアという、広範なメディアにおける〈不如帰〉の産出の諸相を、歴史的に跡づけた点である。第二に、そのような多岐にわたる〈不如帰〉産出の問題を、日本の植民地統治下の韓国での状況にまで拡げて考察したことである。これは、いわゆる日本文学史の枠組みでは捉えきれない問題の在処を鋭く指摘した、比較文学研究の学的貢献として高く評価されるであろう。第三に、夥しい異本、俗書、翻訳を含む〈不如帰〉の総体を明らかにするにあたり、いくつかの新しい資料を発掘した点である。最後に、本論文の一部がすでに数編の個別論文として学会誌等に発表されており、すでに権氏の研究が学界で認められている点も、審査委員から評価された。

 一方で、本論文の表題にもある〈不如帰〉および〈翻訳〉の概念が、かならずしも明確ではなく、ことに〈不如帰〉については、若干の用法の揺れが見られること。読者論の文脈で〈不如帰〉の受容層とされる「大衆」をどう把握するかが、十分に意識化されていないこと。『不如帰』同様、異本、翻訳が多く、舞台化もされた尾崎紅葉『金色夜叉』、菊池幽芳『己が罪』等と、『不如帰』の違いが論じられていないことなど、論の本質に関わる批判があった。また第一章で、「愛」と「職分」の対立が、読者論の立場からのやや単純な二項対立として論じられている点、第二章で『不如帰』が「家庭小説」として把握されてゆく過程の歴史的背景の整理が不十分な点、第四章以降で論じられる三つの韓国語訳の間の本質的な差違に言及がない点、第二部後半において、ややイデオロギーに囚われた記述が散見している点、等の指摘があった。

 個々の叙述について審査員といくつか議論があったほか、文献表の不備、誤字脱字等についても指摘があった。ただし、これらは瑕疵というべきものであって、権氏の挙げ得た功績を本質的に損なうものではないことが確認された。

 したがって、本審査委員会は、ここに権丁煕氏に対し博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定することに、全員一致で合意した。

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