学位論文要旨



No 121911
著者(漢字) 芝崎,祐典
著者(英字)
著者(カナ) シバザキ,ユウスケ
標題(和) イギリス外交の役割模索と欧州政策 : ウィルソン政権による第二次EEC加盟申請、1964-1967年
標題(洋)
報告番号 121911
報告番号 甲21911
学位授与日 2006.10.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第687号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 高橋,進
 東京大学 教授 石田,勇治
 東京大学 助教授 森井,裕一
内容要旨 要旨を表示する

 大陸における欧州統合の流れに関与してこなかったイギリスは、1961年のマクミラン政権においてEEC加盟申請を行う。戦後イギリス外交の変容を象徴するこの試みは、1963年にドゴールの拒否によって失敗に終わる。そのわずか4年後の1967年にイギリスはウィルソン政権のもとで再び加盟申請を行った。初回の失敗から時間を置かずして、成功の見込みの薄い加盟申請へと、どのようにして決断が下されていったのかについて明らかにすることが、本論文の第一の目的である。また第二次加盟申請が行われたのは、国際環境が変動していた時期であり、その中でイギリスは世界における役割を模索していた。イギリスの役割模索と第二次加盟申請がどのように重なり合っていったかを検討することが、本論文の第二の目的である。1960年代の国際環境の変動はデタントとして現れたが、そのデタントと第二次加盟申請がどのようにかかわっていたかに留意しながら、加盟決定へのプロセスを分析することを第三の目的とした。こうした3つの目的の検討を踏まえて、第二次加盟申請のプロセスから見える1960年代におけるイギリスの対ヨーロッパ外交の特質を明らかにすることを第四目的とした。以上の問題提示と先行研究について、序章において述べた。

 第1章では、戦後からマクミラン政権による第一次EEC加盟申請までのイギリスの対欧州関与について考察した。その際、イギリスの対欧州関与の基本要素として三つの領域に注目した。第1に欧州統合に対する直接的な関与、第2に通常兵力による西独駐留軍、そして第3に核防衛についての各領域である。この三つの領域は、欧州共同体政策、対ドイツ問題政策、そして冷戦への対処という戦後欧州の重要問題のそれぞれにまたがっており、相互に連関している。その連関性に配慮しながら三つの領域について概観し、イギリスの対欧州関係の中の加盟問題の位置を確認する。

 第2章では、ウィルソン政権初期における対欧州関与の特徴と、欧州統合へ関与していくべきであるという議論が政権内で浮上してくる過程を考察した。第一に、ウィルソン政権発足直後、まだ欧州統合への直接的な関与が明確に見られない時期における対欧州関与の三つの領域、すなわち欧州核防衛問題、ライン駐留軍(BAOR)問題、EFTA政策について検討した。イギリス政府は、いずれの問題においても世界的役割を維持するためという観点から取り扱っており、また英米関係が重視されていた点が特徴といえる。外交的模索にもかかわらず、いずれの領域においても活路が見出せない中で、欧州共同体において、その運営方法をめぐってドゴールが異議申し立てを行い、共同体機関からフランス代表を撤退させるという空席危機が起こる。第二に、空席危機を契機として、イギリスが欧州におけるリーダーシップをとるべきだという見方がとられるようになり、その結果、欧州統合の流れへの関与の議論が政権内で浮上していく過程を考察した。こうして対欧州間との三つの領域のうち、直接的な欧州統合への関与が英欧関係の中心を占めるようになった。

 第3章では、ポンド危機を契機として、加盟申請問題が具体化していく様子について検討した。1966年春、総選挙の結果ウィルソン政権は安定多数を獲得し、それを背景にして外務省において対欧州関係の進展を模索する動きが強まっていった。そこではドゴールが引き起こしたNATO危機と関連する形でEEC加盟問題についての議論がなされていった。しかし政権第二期発足3ヶ月後、深刻なポンド危機を経験する。ポンド危機の対処をめぐって切り下げか否かで議論が割れるが、世界的役割の維持という観点から切下げは見送られる。しかしその議論の過程において防衛にまで手をつけざるを得ない状況が明らかになる。対米関係に活路を見出そうとするが、ベトナム問題で英米関係が冷却化していたこともあり不調に終わる。またBAOR問題においても国際収支赤字への対処として有効なものとなるような合意が達成できないばかりでなく、西ドイツとの関係を悪化させることになった。こうして次第に行き詰っていく中で、一つの対応策としてEEC加盟という方向が内閣レベルで取り上げられ、論じられるようになっていった。加盟申請に対しては反対派が依然として少なくない状況にあり、またドゴールが再びイギリスの加盟を拒否する見込みが高い中で、ウィルソンはイギリスの加盟が可能となるような条件を探るという名目の欧州「歴訪(probe)」計画を発表する。この時点では加盟申請を行うか否かは全く明らかではない状況にあったが、内閣は「歴訪」計画を承認する。

 第4章では、1967年はじめに行われた欧州「歴訪」と、その後の閣議および加盟申請の閣議決定について考察した。欧州「歴訪」は、少なくとも表向きはイギリスが加盟申請を行うにあたっての条件を探るための外交行事であり、またイギリスが欧州加盟に対して熱心であることを6カ国にアピールする目的を含んでいた。しかし、かえってイギリスと欧州の間には、共同体に対する農業問題における認識のギャップが存在することや、イギリスの経済状況を考慮するとこの時点における加盟がふさわしくないことが明らかになっていった。またドゴールの反英姿勢にも変化はみられなかった。フランス以外の5カ国に、イギリス加盟支持についてドゴールを説得してもらうというという方策が検討されていたが、これについてもあまり期待できないことが「歴訪」で明らかになった。ドゴールの説得においてイギリスが最も頼みにしていた西ドイツでさえ、この時点でのイギリスの加盟は必ずしも望ましくないという認識を示した。

 しかし欧州「歴訪」によってイギリスは加盟申請へ向けて動き出したという対外的印象を与えることになり、ウィルソンはここで加盟申請へ向かわざるを得ない状況になった。現実に加盟が成功する可能性が低く、ここまでで明らかになった様々な問題の解決の見通しも立たないままに、ウィルソンは加盟申請へ向けた国内的調整に乗り出す。国内の加盟申請反対派が根拠として掲げていた農業問題については、イギリスの加盟は世界的役割の維持のためであるとして、問題を解決することなく反対派の勢いを削いでいった。世界的役割の維持という点では加盟賛成派も反対派も一致していたが、その有効な対策の目途が立たない中で、具体化が進んでいたEEC加盟申請という政策が選び取られていくことになった。1967年5月、加盟申請が閣議決定される。そこには決定的な要因は存在せず、加盟申請は状況に流され消極的に選び取られていった。

 第5章では、加盟実現へ向けての最終的な外交的努力と、ドゴールの拒否、その後の状況について考察した。加盟へ向けた外交的努力は、ドゴールがイギリスを拒否する可能性が高いことへの対応として行われた。直接ドゴールを説得するという方法と、フランス以外の5ヶ国の支持によってドゴールがイギリス加盟を拒否するのを阻止しようとする方法の二つが試みられた。前者はウィルソンによって主導された。具体的にはイギリスと欧州が共同して技術開発に取り組み、技術面におけるアメリカ優位の状況に対抗していこうという技術共同体構想を提示するという方法がとられた。それによってイギリスのEEC加盟は共同体の利益になることを主張したが、これはドゴールの姿勢を変化させるに至らなかった。フランス以外の5ヶ国の支持によってドゴールを説得するというもう一つの方法は、外相ブラウンによって主導された。具体的にはWEUの場でイギリスがいかに欧州へ深く関与する準備があるかについて演説を行うという方法がとられた。これは五カ国側の強い支持を取り付けたが、その後の欧州委員会としてのイギリスの加盟についての見解がまとめられる中で、フランスの態度が全く変化していない現実に直面する。そこでイギリスは西ドイツがフランス説得のために有効であるかどうか、改めて外交的模索を行うが、結局5カ国側は統合の拡大よりも深化を望んでおり、イギリス加盟問題でフランスと強く対立したくないという立場をとっていることが改めて明らかになる。1967年11月、ドゴールはイギリスの加盟を拒否することを宣言し、加盟交渉が開始される前に二度目の加盟申請は挫折する。

 ドゴールの拒否後、イギリスは引き続き加盟に向けて取り組んでいくという反応を示すが、やがて内閣は急速に加盟問題の取り扱いへの関心を失っていく。他方で大陸においては、フランスの強引な対英姿勢をめぐって、5カ国とフランスが対立するという状況になっていく。

 終章においては、序章において掲げた四つの点について、全体の議論を踏まえて論じた。第一に、第二次加盟申請に至るプロセスの特徴は、政権の目標として加盟申請が決定されたのではなく、申請に至る決定的な要因があったわけでもなく、個々の状況に対応する中で徐々に形成されてきた点にあった。第二に、EEC加盟申請とイギリスの世界的役割模索は、後者を支えるために前者が追求されるという関係にあったことが明らかになった。第三に、1960年代後半の国際環境の変化とEEC加盟申請の関係については、ドイツ問題とデタントが交差する点に加盟申請が位置していたことを指摘した。第四に、英欧関係の特徴として、英米関係の状態と連動して欧州関係が規定される側面が大きかったことについて述べた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、1960年代のウィルソン労働党政権下におけるイギリスのEEC加盟申請問題を対象として、当時のイギリスがどのような形で自国の世界的役割を模索し、国際政治で進行していたデタントにいかに関わろうとしていたかを探る中で、加盟申請決断に至る政策形成の過程と要因を分析し、イギリスの対ヨーロッパ外交の特質を描いた論文である。保守党のマクミラン内閣のもとでイギリスが行った一回目のEEC加盟申請と、同じく保守党のヒース政権のもとで最終的にEEC加盟につながった三回目の申請に比べ、ウィルソン政権下の二回目のEEC加盟申請に関しては、詳しく論じられることがこれまで相対的に少なかった。近年、公文書の公開状況も手伝って、この問題に関する研究はイギリス内外で一定の進展を見せてきているが、一次史料に密着した本格的研究はまだわずかである。本論文は、イギリスの政府文書の綿密な分析を軸として、ウィルソン政権のEEC加盟申請を、変化する国際関係と自国の力の相対的低下の中でのイギリスの世界的役割模索に関連させて説明することを目指したもので、研究史上積極的な意味をもっている。

 序章で筆者は、マクミラン政権期と異なる国際情勢のもとで二回目のEEC加盟申請が行われたことを強調した後に、イギリスにとっての「失われた機会」という形でこの加盟申請問題を捉えがちであった同時代の議論と、それを批判して当時のイギリス外交の「有用性」を説明しようとしたその後の議論、及び新史料公開という状況のもとで始まっている最近の研究の特色を紹介し、イギリスが世界的役割の模索という点に着目する本論文の狙いを強調している。イギリスが世界的役割を模索していたと主張すること自体は特に新たな試みではないが、それにあくまでもこだわりつつ、ウィルソン政権期のヨーロッパ政策を分析していく筆者の姿勢は重要である。

 第1章では、ウィルソン政権成立期に至る時期の、欧州統合へのイギリスの関与の様相が検討される。本論文の特徴は、通常兵力による西独駐留軍(BAOR)問題と、欧州核防衛問題に力点を置いて、それらとの絡み合いの中で欧州統合へのイギリスの関与の仕方を検討しようとしているところである。これらの問題は、アメリカとの関係、金融面におけるイギリスの国際的位置、欧州の安全保障問題などについてのイギリスの姿勢と密接にむすびついており、イギリスの対欧州統合政策を規定していた。筆者は、「イギリスの世界的役割」と「ドイツ問題」という二本の横糸で、欧州統合への直接的関与、BAOR問題、欧州核防衛問題という三つの領域が結び合わされていたとして、この三領域のバランスの上でEEC加盟問題が考えられたところに、マクミラン内閣期の第一次EEC加盟申請の特徴を見出している。本章は、ウィルソン政権期における世界的役割の模索と対ヨーロッパ政策の結びつきを検討する上での効果的な導入部分となっているといえよう。

 第2章では、1964年に成立したウィルソン政権初期(1966年初めまで)の対欧州政策が検討される。本章でも、欧州核防衛問題とBAOR問題が引き続きイギリスの欧州関与をめぐる争点となっていたことが指摘されるが、それに加えてEECとEFTA(欧州自由貿易連合)の間の「架け橋」となることに、イギリスの対欧州関与の積極的意味を見出そうとする新たな動きが現れたことが強調される。EFTAを介したEECへの関与というこの考えは、フランスが共同体機関から一時的に手を引いた「空席危機」によって、具体化することはなかったが、こうした流れの中で、イギリス政府内部では欧州関与積極派がローマ条約受入れを提唱するようになる。しかし、ドイツとフランスに対する姿勢をめぐる閣内の意見も一致しない中、ウィルソン首相自身も含め、加盟申請への消極派の態度は変わらなかった。この第2章では、第1章を受けて保守党政権から労働党政権にかけての対欧州姿勢の継続性を説得的に論証しつつ、次章において扱われる新たな動きの前提が示されている。

 第3章では、1966年3月の総選挙を経た第二期ウィルソン政権の対欧州政策が、同年11月までの時期について検討される。同年7月のポンド危機によって経済困難が増幅する中で、アメリカから期待していたような援助も得られないまま、イギリスの力と世界的役割を維持するために、なし崩し的に加盟申請の方向へと傾斜していくイギリス政府の姿がここでは描かれている。

 第4章では、ウィルソン首相が1967年初頭に行ったEEC加盟国の「歴訪」で改めて明らかになった問題点と、それを受けてイギリスの閣議で議論された諸論点とが分析された後、同年4月末から5月初めにかけての閣議における加盟申請方針決定の過程が論じられる。「歴訪」は、これまでの研究史においても取り上げられてきたが、その過程で浮かび上がってきた問題点がイギリスの欧州政策の性質を映し出すものであると見て、きわめて重視している点に本論文の一つの特色がある。とりわけ、技術共同体構想をめぐるフランスとの駆け引きや、ドゴールへの影響力行使の期待をもってイギリス側が積極的にアプローチしたドイツとの交渉の描写などが興味深い。この「歴訪」に際しても大きな争点となったEECの農業政策をめぐる議論は、「歴訪」後に政府内でも活発化し、EEC加盟に対する消極論を後押しする形となるが、ウィルソンはEEC加盟によるイギリスの世界的役割維持という政治的議論を前面に出して、加盟申請の動きを内閣に承認させていった。

 第5章は、イギリスの加盟申請の結末を扱う。すぐに否定的反応を示したドゴールに対して、ウィルソンは技術共同体構想を中心に据えて直接働きかけようとする戦術をとり、他方ブラウン外相はフランス以外の5ヶ国の支持をとりつけることによってドゴールの姿勢を変化させようとした。イギリス政府としては、BAOR問題を交渉材料とすることによって西ドイツ政府への圧力を強めることにとくに腐心したが、西ドイツ側のなしうることは限られており、結局1967年11月のポンド切り下げの直後にドゴールはイギリスの加盟拒否を発表する。その後、イギリス政府は加盟の方向を継続して追求する決定をしたものの、世界におけるイギリスの位置が欧州にあるという認識がまだ広がっていないことを反映して、それに対する熱意はみられなかったという点が指摘される。

 最後の終章で筆者は、論文全体の主張をまとめた上で、欧州統合参加の方向が、世界的役割の追求というイギリス外交の基本方針からの転換を意味したものではなかったことを強調すると共に、その後のイギリスと欧州統合の関係の前提がウィルソン政権のもとで姿をあらわしたことの意味を確認して、本論文を結んでいる。

 このような分析を通じて、本論文は、ウィルソン政権が成功の見込みが薄い中で第二次EEC加盟申請に進んでいく過程を明らかにし、当時のイギリスのヨーロッパ政策の特質を説明することに成功している。加盟申請を決断させる上で何か決定的な要因が存在したわけではなく、個々の状況の変化に対応する中で加盟申請に向かう方向がいわばなし崩し的に決まっていったことを本論文は描き出しており、変化する状況へのそのような対応が世界的役割の模索という基本姿勢と連動していたことがよく示されている。

 このようなメリットをもった本論文であるが、審査委員会では、以下のような問題点も指摘された。(1)もっと議論にめりはりをつける形で論文全体をまとめるべきである。(2)イギリス外交の伝統とこの時期の対欧州政策の関係についての議論を行う必要がある。(3)その後のイギリスと欧州統合の関係の前提がここで示されたとしているが、特に1973年のEC加盟時点まで含む形で、それについて具体的に書き込むべきである。(4)ウィルソン首相個人の役割についての本論文の主張を、研究史を踏まえてより明確にすべきであったし、ウィルソン側近の役割についてもより突っ込んだ議論が必要である。

 しかし、こうした注文点はあるものの、本論文は、英欧関係史、欧州統合史に大きな貢献をする論文である。したがって、本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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