学位論文要旨



No 121913
著者(漢字) 安永,桂一郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤスナガ,ケイイチロウ
標題(和) ショウジョウバエの基本的パターン形成遺伝子の発現と突然変異解析による下唇先端部の予定運命地図の作成
標題(洋) Tentative fate map of the distal portion of Drosophila proboscis deduced from expression patterns and mutant phenotypes of basic patterning genes.
報告番号 121913
報告番号 甲21913
学位授与日 2006.10.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4922号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 武田,洋幸
 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 助教授 小嶋,徹也
内容要旨 要旨を表示する

 昆虫の腹側付属肢である、触角、口器、肢、などは体軸上の位置に応じて様々な形態と機能を持つが、これら多様な付属肢の進化的起源は同じであり、その発生機構の修飾により付属肢の多様性が進化してきたと考えられている。あるタイプの付属肢が別のタイプの付属肢へと形態発生を変化させるホメオチック変異とその原因遺伝子であるホメオチック遺伝子の発見により、この考えは広く支持されている。

 付属肢の発生機構は、ショウジョウバエの肢をモデル系として詳細に研究されてきた。ショウジョウバエは完全変態昆虫であり、付属肢は成虫原基と呼ばれる組織から分化する。成虫原基は、胚期に表皮の一部が陥入してできる一層の細胞群で、幼虫期において細胞分裂を繰り返すと共にパターン形成を行い、蛹期を経て幼虫組織と入れ替わる。肢原基は、独立な細胞系譜からなる前部区画と後部区画に分けられる。後部区画特異的に発現するホメオボックス遺伝子engrailed(en)が分泌性モルフォゲンhedgehog(hh)の転写を誘導し、Hhは後部区画から分泌され、前後部区画境界(AP境界)に沿った前部区画の背側でdecapentaplegic(dpp)の発現が、腹側でwingless(wg)の発現が誘導される。Dpp及びWgはそれぞれTGF-betaファミリー及びWntファミリーに属するシグナルタンパク質であり、それぞれがモルフォゲンとして働く事で、背腹軸の位置情報が決定される。更に、dppとwgの発現領域が接した位置を中心として遠近軸情報が作られる。高活性のDpp+Wgシグナルを受け取る肢原基の中心領域は、ホメオボックス遺伝子Distal-less(Dll)を発現し、成虫肢の先端部分へと分化する。中程度のDpp+Wgシグナルを受け取る領域はdachshundを発現して中間部分へ分化し、Dpp+Wgシグナルが低い領域は、ホメオボックス遺伝子homothorax(hth)などを発現して、最も根元の部分へと分化する。

 下唇はショウジョウバエ口器の大部分を占める摂食用の付属肢であり、一対の下唇成虫原基から分化する。下唇には肢・触角原基で見られる顕著な分節構造が認められない。下唇先端に具わる唇弁の外側表面には味覚を感知する味覚剛毛が、また、内側表面には摂食のための擬気管が形成される。これまでに、AP境界が下唇長軸方向に沿って縦に走り唇弁の外側表面をおよそ半分に分割することがモザイク解析により示されているが、内側表面についてはモザイク解析の際に用いる適切な遺伝学的マーカーがないため、AP境界という非常に基本的な情報がまだ同定されていない。一方で、下唇発生の特異性決定機構という側面からのアプローチも行われている。下唇が肢や触角の特性を持つ付属肢へと変化するホメオチック遺伝子proboscipedia(pb)の変異体の解析から、下唇は分節形成の機構を大幅に失ってしまった付属肢であること及び、下唇発生ではpbがhhによるdppとwgの発現誘導を抑制し、この作用が下唇特異性の維持に必須なこと等が分子機構のレベルで示唆されている。この様な知見は肢原基と触角原基の比較からは導かれないことであり、下唇の解析により多様な修飾機構の理解が更に進むと期待される。しかし、肢原基や触角原基とは違い、三齢後期の段階では下唇の如何なる形態的な構造も認識困難であり、下唇発生機構に関する多くの基本的な情報が未だ詳細には述べられていないのが実情である。

 そこで、本研究では下唇の発生機構を詳細に解析するための基盤確立をめざし、第一に、肢原基や触角原基に共通する軸形成機構が下唇原基の中でどのように働いているのかを解析した。加えて第二に、幼虫期から蛹期にかけてマーカー遺伝子の発現の時間的経過を追跡することにより下唇原基の高精度な予定細胞運命図(fate map)を構築した。

 下唇原基の発生機構が肢・触角原基と類似であるかを推測するために、上述した成虫原基の軸形成に重要な既知のパターン形成遺伝子の発現領域を特定した。三齢後期の下唇原基は楕円体を押しつぶして平たくした形状をしており、幼虫内での位置を基にして、より中心側にある細胞層(M層)と、その反対側の細胞層(L層)の二つの細胞層に分けて考える事ができる。下唇原基では、wgはM層で、enとdppは主にL層でと、二つの別々の細胞層で発現する。wgとdppの発現領域は共にenの発現領域に沿い、下唇原基の先端部で接するので、その先端部を中心にして考えると、en、dpp、wgの発現は先に述べた肢・触角原基での発現と類似であった。

 発現の類似に加え、機能の保存を検証した。下唇原基のen発現領域(後部区画)では、肢・触角原基と同様にhhが発現しているが、hhの活性を減少させた場合にdpp及びwgの発現が激しく減少したことから、下唇原基でもwgとdppの発現はhhによって正に制御されていることが示された。肢・触角原基では、hhの異所発現により、dppの発現が背側の前部区画全てで、wgの発現が腹側の前部区画全てで誘導される。同様の方法で下唇原基を背側と腹側とに区分けすると、おおよそdppはL層の前部区画全てで、wgはM層の前部区画全てで発現した事から、下唇原基の前部区画も背側と腹側に区分けでき、L層が背側でM層が腹側であることが分かった。肢・触角原基では、dppとwgが相互に互いの発現を抑制することで背側と腹側の領域特性を維持している事も知られているが、下唇原基でも同様の機構が存在するのかをdpp、wgの異所発現系と機能欠損変異体を用いて調べた。その結果、下唇原基でもdppとwgは相互にお互いの発現を抑制しており、適切な背腹軸方向の軸形成にこの作用が必須であることが示唆された。

 遠近軸形成機構については過去に、肢原基と同じく、Dllは下唇原基の先端部で、hthは根元側で発現するという報告があったが、詳細な解析の結果、背側のL層ではDllとhthの発現はほとんど相補的だが、主として腹側のM層ではL層と異なりhthが全体で発現し、先端側ではDllの発現と重なることが分かった。続いて、下唇原基でのDllの発現にdppとwgが必要か調べた。dpp及びwgの異所発現系と機能欠損変異体を用いた解析により、下唇原基でもdppとwgが、Dll発現を正に制御すること及び、両者が協調的に要求されることが示唆された。肢原基や触角原基の最先端部ではaristaless(al)やclawless(cll)、その少し根元側ではBarH1及び、BarH2(同発現領域で且つ互いに冗長的に働くので以後合わせてBarと記す)といったホメオボックス遺伝子が発現し、どれか一つが欠けると最先端部の形成に異常が起こる。pbホメオチック変異の結果、肢や触角の先端構造である爪や触鬚が生じるので、野生型の下唇原基でこれら最先端部の発生に必要な遺伝子の発現を調べた。最先端部でのalの発現は、Barの発現に覆われ、肢原基とは異なり、alを発現する細胞は同時にBarも発現する。一方、cllは発現せず、cll変異体の肢原基ではBarがal発現領域でも発現するようになることから、下唇原基でのBarとalの発現はcll機能欠損変異体の肢原基の発現に類似すると推測される。

 ここまでの結果より、下唇原基での三つの発生軸(前後軸、背腹軸、遠近軸)の形成機構は基礎的な部分において、肢原基や触角原基と同様であることが示された。

 下唇原基の詳細な発生学的解析のために必要なfate mapは未完成だったため、それを高精度なものにすることが重要だと考えた。本論文では蛹期に激しい形態変化を示す下唇原基の中で、マーカー遺伝子の発現領域がどの様に動くのかを複数の発生段階で観察し追跡することでfate map構築を行った(要旨Fig.1)。マーカー遺伝子としてパターン形成遺伝子を使い、主に三齢後期、6hr APF(蛹殻形成開始後6時間)、そして成虫下唇と良く似た形態にまで発生の進んだ24hr APFで詳しく観察した。24hr APFの観察では唇弁の外側表面を縦に走ってきたAP境界が、外側内側表面間を後方へ進むことが示された。この結果から、内側表面の大半が前部区画に属し、wgがここで発現し、dppは外側表面で発現し、それぞれの領域が腹側、背側に相当することが裏付けられた。Dllの発現は唇弁のほとんどで見られた。仔細な観察により、パターン形成遺伝子の発現領域の相対的な位置が幼虫期と蛹期とでほとんど保存されていることが分かり、本論文で作成したfate mapは有効なものであると考えられる。例えば、擬気管領域は主にM層の先端側のwg発現領域からなると考えられる。味覚剛毛領域はdpp発現領域を中心としたL層の先端側からできると示唆される。

 fate mapの有効性を補強するために、予定細胞運命が実際にその細胞で発現する遺伝子の制御下にあるか観察した。Dll機能欠損変異体の解析では唇弁の大半が形成されないことから、Dllは唇弁の発生に必要で、Dllを発現する下唇原基の先端部から唇弁の大半ができることが支持される。wg活性の部分的機能欠損変異体では、wg発現領域に形成される擬気管がほとんど形成されず、味覚剛毛は比較的正常に残ることが観察された。これに対して、dpp部分的機能欠損変異体では激しい擬気管領域の喪失は見られず、味覚剛毛数の著しい減少が観察された。従って、高レベルのDPP及びWgシグナルはそれぞれ唇弁において背側腹側の運命決定を担うことが示唆され、fate mapの裏付けになると考えられる。

 以上の結果より、高精度な下唇原基のfate mapの構築及びこのマップの確からしさが機能解析により強く支持されることを示した。本論文の結果により、下唇発生の詳細な解析が可能になり、付属肢特異化機構のさらなる研究のための基盤が得られたと考えられる。

要旨Fig.1. 三齢後期の下唇原基と24hr APF期の下唇原基唇弁部におけるパターン形成遺伝子の発現。24hr APFの原基で、ある組み合わせのパターン形成遺伝子を発現するところは、三齢後期で同じ発現を示す部位から分化したと考えられる。

dpp(黒)、wg(灰)、Dll(斜線)、後部区画(点を配置した面)。TB:味覚剛毛領域、PT:擬気管領域。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、5章からなり、第1章は、イントロダクションであり、第2章は、方法と材料、第3章は、結果、第4章は、考察、第5章は結論である。昆虫の肢、触角、口吻、翅、生殖器等の付属肢は、構造的にも機能的にも大きく異なってみえる。しかし、ショウジョウバエにおけるホメオティック変異の研究結果は、これらは、むしろ互いに相同な器官であることを示唆している。ホメオティック変異を引き起こすホメオティック遺伝子は、昆虫だけでなく我々哺乳類にも存在しており、広く動物の発生分化の基本・ボディープランに関わっていると考えられている。従来、成虫におけるホメオティック変異の研究は、発生分化の研究が最も進んでおり、また形態的にも基本的遺伝子発現においても互いに類似している、肢と触角を中心に、行われてきた。しかし、ホメオティック変異のさらなる理解には,口吻や肢のような互いに似ていない組織間の変換機構、すなわち,proboscipedia(pb)やSex combs reduced(Scr)によるホメオティック変異の研究が重要であると考えられるが、そこでの中心的付属肢である口吻の研究は非常に遅れていた。本研究の中心的課題は、口吻の原基での基礎的な研究を積み上げ、この様な閉塞状況を打開することにあり、実際従来の研究の誤りを訂正しただけでなく、それらを凌駕する成果をあげ,結果として口吻研究の新たな礎を作ったといえる。

 本研究では、まずengrailed(en), wingless(wg), patched(ptc), decapentaplegic(dpp), Distal-less(Dll), homothorax(hth)といった基本的なパターン形成遺伝子の発現を、口吻の原基であるlabial discの様々な分化段階で調べた。その結果、既知の成虫原基とは異なり、labial discでは、en, wg, dppといった位置情報を決める分泌性因子の発現が、2つの異なった細胞層でおこること、即ち、wgは、排他的にM層だけで発現し、en, dppはL層で発現することを見いだした。またhedgehogを異所発現させることで、M層全体が腹側であること、L層の前部区画は、全て背側であることを示した。また、Dllとhth発現は、他の原基と同様、遠近軸に沿ってはいたが、その発現制御は、両層で大きく異なっていた。即ち,L層では、hth発現は、Dllにより負に制御され、Dll、hth発現領域に二分されていたが、M層では、hthの発現は、Dllにより全く影響を受けず、その結果distal側では、Dllと共発現していた。これらの事実は、口吻が、Dll、hth発現に関する限り、肢と触角の中間的性質を持っていることを示唆している。肢や触角の先端では,aristaless(al), clawless(cll), Barといったホメオボックス遺伝子が発現し、特にal, cll蛋白質の複合体とBarとのDNAを介した相互抑制作用により、肢や触角の先端分節が形成されると考えられている。口吻には分節構造はないが、alとBarは、先端領域で発現していた。一方、cllの発現は、Pbによる細胞自律的な抑制作用により、失われていた。口吻でのpb発現を抑制すると、cll発現が正しい位置に現れ、肢や触角に見られる分節構造が新たに生じた。これらのことから口吻が口吻たる所以の一つは、pbによるcllの抑制にあり、この解除が口吻の肢や触角への転換の一つの重要なステップであると結論された。

 突然変異の表現型や、親と同様の構造がほぼ完成する蛹期に入ってから24時間での基本遺伝子と分化マーカー遺伝子の発現をもとに、口吻での、前部区画と後部区画の境界を初めて明確にした。また、3齢後期の予定運命地図を作成することに成功した。M層のwgとDllの発現する領域即ち、成虫原基の腹側のdistal領域が、成虫の口吻のdistal領域の腹側構造物である、餌を吸い込むpseudotrachea領域に対応すること、成虫口吻のdistal領域の背側構造物である、30を越えるtaste bristleを持つ領域が、L層のDll発現領域、即ち背側先端領域由来であることを、明らかにした。また、他の付属肢系とは異なり、口吻では腹側領域の後部区画は、存在したとしても非常に小さいことを明らかにした。

 これらの発見は、ショウジョウバエの口吻ができる過程を分子遺伝子レベルで理解する上で非常に重要である。論文提出者は、ショウジョウバエの発生分化の研究に相当の寄与をしたと考えられる。

 なお、本論文第3章、第4章は、小嶋徹也、西郷薫との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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