学位論文要旨



No 121920
著者(漢字) 戴,智軻
著者(英字) DAI,ZHI KE
著者(カナ) タイ,チカ
標題(和) 現代中国マスメディアの発展 : 政党統制と市場自由の狭間に立つ
標題(洋)
報告番号 121920
報告番号 甲21920
学位授与日 2006.11.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 博人社第566号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋元,良明
 情報学環 助教授 林,香里
 情報学環 助教授 山口,いつ子
 情報学環 助教授 原田,至郎
 十文字学園女子大学 学長 鶴木,眞
内容要旨 要旨を表示する

 転変とどまるところを知らない現代中国では、もはや閉鎖的な政治システムと計画経済の下に生まれた中国マスメディアをそのまま温存する社会的基盤が失われつつある。垂直的権威主義的政治システムの付属装置として機能し続けてきた中国マスメディアは、当然、さまざまな側面から与えられる衝撃を回避することができず、新しい生存環境への適応を迫られている。

 本論は、マスメディアの変容と社会の変動という相互作用関係に立脚して、改革開放以降の中国マスメディアの発展に対する綜合的な理解を深め、そして、中国マスメディアの発展は果たしてメディア自身の「情報の自由化」、「言論の自由化」を達成し、さらには、その発展が中国の民主主義社会の実現につながる可能性があるどうか、を分析、予測することを目標としている。

 第一章では、中国マスメディアの発展を巡るこれまでの先行研究を概観し、伝統の規範理論の限界を指摘した上で、中国の現実に当てはまる、有用な分析の枠組みの構築を試みた。筆者は「プレスの4理論」の中のソビエト共産主義理論、及びその修正バージョンの現実的有用性に疑問を投げかけ、国際比較が中国マスメディアの現状分析及び将来展望における有用な枠組みを構築するための必要な手段と考え、「社会体制の超克」を前提にし、文化的歴史的伝統などの要素を含めて、改革開放に転じた1980年代以降の中国と比較する可能性及び必要性という側面から、比較の対象を中国ときわめて近似あるいは同質の文化的歴史的土壌を有する「台湾」と「シンガポール」に絞った。

 台湾、シンガポールのメディア政策の展開及びその機能変化を時系列的に分析した結果、一党独裁の開発体制下においては、経済の発展、政治の発展、社会の発展、とマスメディアの相互関係に、いくつか普遍的要素が存在する、という結論を導き出した。一党独裁の開発体制下に置かれるマスメディアは、終始市場の調節と政党の統制という狭間に立たされているため、「市場」と「党=国家」という、相反する力学関係の中で発展を求めなければならない。両者の力対比を念頭に置きながら、マスメディアの発展を民主化へと向かわせるかどうかを決定する第三要因を求めるとしたら、社会自身の変容のダイナミックさに注目しなければならない、と筆者は考えている。

 このような複雑な三者関係は中国マスメディアの発展現状にどういう構図で展開されるか、などの問題をめぐって、第二章から中国マスメディアの発展現状を経済、政治、社会という三つの側面から具体的に考察することにした。

 第二章においては、中国経済発展の中核的要素である市場メカニズムの展開に着目し、中国における市場経済の発展を「形成期」と「成熟期」という二つの段階に分け、それぞれの段階における中国マスメディアの市場化の「適応的変容」と「融合的変容」の実質について論じている。さらに、市場経済の発展とマスメディア変容の連動図式の実態を分析した上で、その存在がマスメディアの「情報の自由化」「言論の自由化」という質的変容を引き起こす可能性があるかどうかについて考察を加えた。

 市場化は中国マスメディアに部分的な開放、ある程度の組織的な自立と経営支配権をもたらした。しかし、このような転換は政府とメディアに利益を共有させ、「党=国家」と市場の統合を特徴とする新しいコントロールメカニズムを形成させた。経済的利益を独占し、一部の編集および表現の自由を手に入れた上で、政治的利益も引き続き享受できるマスメディアは、本格的なプレスの自由の獲得に必ずしも積極的ではない。そのため、メディア・システムの周辺に、若干の調整や逸脱、反則行動が見られ、資本構造にも多様化の傾向が現れたが、中国メディアの組織的構造、イデオロギー的構造における共産党の支配的地位はこれからの長い間も引き続き維持されていく、と筆者は予測している。

 第三章においては、「上からの民主化」とされる「政治体制改革」とマスメディアの発展の相互関係について論じている。この章では、マスメディアに対する個人指導者の指導理論、統治政党としての共産党の性格変容、及び国家統治システムとしての政治制度の変化などの側面から考察を加えた。また、民主化に対する「下からの能動的自主的要求」として、送り手の意識変容の実質とその限界性について指摘した。

 指導者の指導理論の変容や政治体制改革の成果は、確かにメディアの機能拡大や異質な活動空間の形成にそれなりに寄与したが、中国の漸進的な政治体制改革はあくまでも上からの部分的な修正にとどまっているため、毛沢東時代の「ハードな権威主義体制」から�ケ小平、江沢民時代を経て、胡錦濤時代に入ると、「ソフトな権威主義体制」への転換は見え始めたものの、自由化、民主化に向かうマスメディアの歩幅は依然小さい。

 一方、党や国家に対するメディア研究者や報道従事者の忠誠度の低下、職業理念の台頭など諸々の要素によって、局部的ながらも、中国マスメディアの中には、異質な空間が形成されつつある。しかし、メディア研究者、あるいは報道従事者の個々の言説は、少なくとも今日の中国マスメディアの発展においては、従来のメディア指導理論や原則を大きく覆すほどの学説として理論化あるいは体系化されたものではないと指摘しなければならない。むしろ、党=国家側が、高圧的管理を行うと同時に、メディア研究者や報道従事者を体制内に積極的に吸収し、彼らを既得権益者層に育て上げようとする、「飴と鞭」という両手政策は、メディア研究者や報道従事者の能動性やエネルギーを消耗させ、下からの報道の自由の要求を最大限に封じ込めることに成功しているのである。

 第四章においては、中国社会自体の変化、すなわち、受け手の性質的な変化とマスメディアの発展の相互関係について論じている。本章では、特に社会の成層化に重点を置いて、各階層とマスメディアの利用支配関係に形成された普遍的な特徴と特殊性を指摘した。さらに、高度情報化社会の到来がマスメディアの発展に与える影響についても分析した。

 伝統的な政治文化、及び受け手の政治的無関心は、前近代的な特徴が残ったマスメディアと、近代化の衝撃を受けた受け手の間に本来現われるべき緊張関係を緩和する役割を果たしている。一方、党=国家、メディアと受け手の三者は大衆文化、消費文化を通して妥協が成立し、不安定ではあるにしても、一種の平衡関係を保ち続けてきた。

 筆者は現在の中国の社会各階層を「強勢階層」、「中間階層」、「弱者階層」という三つの階層に分類したうえで、上述の平衡関係が今日まで維持されてきた背景には、強勢階層からの意図的操作、中間階層からの支持と協力、及び弱者階層の無抵抗で逃避的な受け入れ方などの相互作用メカニズムが機能している可能性がある、と分析する。

 同じく情報技術の進展に伴って現われた、インターネット、衛星放送などの新興メディアは、もっと主体性、能動性のある利用者を持たない限り、全面的開放と多方向的な流れを特徴とする近代民主主義的な情報システムの形成に決定的な力を発揮できないだろう、と筆者は予測している。

 最終章の第五章においては、選定対象との比較を通じて、「中国的な」マスメディアの発展の内実を再度整理したうえで、「中国モデル」の提示をし、その行方について筆者なりの展望を試みた。

 経済の政治化と政治の経済的依存が進む環境下で、中国マスメディアは終始「市場自由化」と「政党統制」という二つの相反するベクトルに作用されている。しかし、その民主化への移行を考える場合、非主流メディアの形成、中間層の成熟、社会的矛盾の拡大、支配エリートの分裂などの要素も加味する必要がある。

 中国のマスメディアの発展現状を、更に東欧諸国、ロシア、ベトナムと広く比較した結果、中国政府がメディアに対する徹底的な指導を放棄しておらず、「政治的連続性」が強く保持されている、などの現実を踏まえた上で、中長期的に見ると、たとえ中国政府が「社会主義の放棄」を宣言しても、ロシア、東欧モデルが中国においてすぐさま形成され、機能する可能性は極めて低い、と筆者は予測している。

 イデオロギーの影響力が色あせた中国マスメディアの発展モデルは究極的に言えば、実用主義的モデルである。従来の規範モデルと比べてみれば、中国のそれは、未だソビエト共産主義モデルから完全には脱していないにもかかわらず、権威主義モデル、自由主義モデルと社会的責任モデルを縦断するハイブリッドな側面をすでに強くあらわしている。

 中国マスメディアは、漸進的民主主義台湾モデルに接近していくことがあっても、自由化、民主化を断行し、台湾モデルを完全に踏襲する可能性は極めて少ない。一方、権威主義的シンガポールのメディア発展モデルは中国政府にとって、「理想的な参照モデル」として機能するかもしれないが、「消化なき援用」は考えられない。

 しかし、シンガポールのように、経済の持続成長が維持されると同時に、マスメディアを経由せずに、政党の執政能力、自浄能力が高められれば、今日のマスメディアの発展モデルが継続される環境は、より一層整うことになると思われる。このプロセスの中で、これまで「抑圧的な開放」を特徴としてきたマスメディアの変容は、商業化、市場化、地方分権化、グロバライゼーションの更なる進展などの要素によって、非政治生活領域において、シンガポールモデルをはるかに超える、より多くの自由を手に入れることは可能である。つまり、将来的には制度的な民主化が実現されなくても、マスメディアの変容における「民主化なき自由モデル」の形成は必ずしも机上の空論ではないと、筆者は展望している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、マスメディアの変容と社会の変動という相互作用関係に立脚して、改革開放以降の中国マスメディアの発展を総合的に考察し、「言論の自由化」「情報の自由化」がどの程度達成されたかを明らかにするとともに、その発展が中国の民主主義社会の実現につながる可能性を展望したものである。序論で問題意識を明らかにしたのち、本論は以下の五章からなる構成をとる。

 第一章では、中国マスメディアの発展をめぐるこれまでの先行研究を概観し、従来の規範理論の限界を指摘した上で、中国の現実にあてはまる、有用な分析的枠組みの構築を試みている。一党独裁の開発体制下にあり、近似した文化的歴史的土壌を有する台湾とシンガポールをとりあげ、そのマスメディアの発展過程を中国と比較する中で市場と党の相克を論じた。第二章では、市場メカニズムの展開に着目し、中国における市場経済の発展を「形成期」と「成熟期」という二つの段階に分け、それぞれの段階における中国マスメディアの市場化の適応的かつ融合的変容の実質について論じている。第三章では、マスメディアに関する個人指導者の指導理論、統治政党としての共産党の性格変容、国家統治システムとしての政治制度の変化などの側面から、政治体制改革とマスメディアの発展の相互関係について論じている。第四章では、民衆側に立った中国社会の変化とマスメディアの発展の相互関係について論じている。特に社会の成層化に重点を置いて、各階層とマスメディアの利用支配関係に形成された普遍的な特徴と特殊性が指摘されている。終章の第五章では、台湾、シンガポールとの比較を通じて、マスメディアの中国的発展の内実を再度整理したうえで「中国モデル」を提示し、その行方について展望を試みている。イデオロギーの影響力が色あせつつある中国マスメディアの発展モデルは、権威主義モデル、自由主義モデル、社会的責任モデルの各側面を併せ持った独自の実用主義的モデルであり、「民主化なき自由モデル」とでも呼ぶべき方向に変容しつつある。

 このように、本論文は、中国におけるマスメディアの発展、民主化過程を、政治体制、経済市場の成長、社会変化等の多岐にわたる側面から考察し、台湾、シンガポールという、同じ一党独裁開発体制下のマスメディアの発展との比較を交えて中国独自の方向性を探った意欲作である。これまで中国のマスメディア研究は、中国国内においてはソビエト共産主義理論を基軸に据えて論じられることが多く、党との関わりや引用資料の面においても数々の制約のもとに記述されていたが、筆者はかなり大胆に中国マスメディアの実態を分析し、また将来的方向性を予測している。中国を熟知しまた自由主義諸国のマスメディア発展の諸モデルに習熟した中国人によって、中国を離れた環境でのみ可能な労作といえる。市場分析にあたり、引用する経済統計等になお不十分な点はあることも指摘されたが、現状では物理的な制約がある。マスメディアの発展・民主化、政治・経済システムの展開、民衆の意識変容の三者の関係における動態的相互作用の分析を充実させるのもこれからの課題である。本論文にはこのように残された課題もいくつかあるものの、本論文で示した成果と研究手法をさらに発展させるならば、当該研究領域において多大な功績を残すことになろう。そのために必要な視座と学識は、本論文においてすでに十分披露されている。よって、本審査委員会は、本論文が博士(社会情報学)の学位を授与するにふさわしい水準に達しているものと判断する。

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