学位論文要旨



No 121921
著者(漢字) 生稲,史彦
著者(英字)
著者(カナ) イクイネ,フミヒコ
標題(和) ゲームソフト産業のイノベーション・パターン : 開発生産性のディレンマ
標題(洋)
報告番号 121921
報告番号 甲21921
学位授与日 2006.11.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第210号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 新宅,純二郎
 東京大学 教授 藤本,隆宏
 東京大学 教授 高橋,伸夫
 東京大学 助教授 粕谷,誠
 東京大学 助教授 柳川,範之
内容要旨 要旨を表示する

 本研究が目指すのは、日本の家庭用ゲーム機向けソフトウェア産業(ゲームソフト産業)で生じたイノベーションのパターンを明らかにし、ある種のイノベーションの発生を妨げた要因、イノベーションの制約要因を明らかにすることである。ゲームソフト産業のイノベーション・パターンとイノベーションの制約要因の研究を通じて、既存研究が得てきた知見の再検討と拡張を目指す。

 第2章の既存研究の概観が示すように、Abernathy (1978)は自動車産業の詳細な事例に基づいてイノベーション・パターン、イノベーションの制約要因に関して代表的な研究成果を残した。それ以来、数多くの優れた研究が生み出され、蓄積されてきた。そうした既存研究を踏まえ、イノベーション研究の知見を豊かにすることが本研究の狙いである。

 本研究が対象とするゲームソフト産業は、既存研究が対象としてきた産業と同じように製品開発及びイノベーションに、組織的な取り組みが存在している。だが同時に既存研究で対象とされてきた産業とは異なる製品特性、産業特性を有し、また世界の中で高い地位を占めてきた。これらのことから、ゲームソフト産業のイノベーション・パターン、イノベーションの制約要因に関する研究は、既存研究を補う知見を得られる可能性を有している。すなわち、Abernathy (1978)が目指して成功したように、世界的にみて優位性を持つ産業がどのようなイノベーションを積み重ねて成長を遂げたのか、そこで見出されるイノベーション・パターンとイノベーションの制約要因はどのようなものであるのかについて、一般性の高い知見が得られると期待できる。

 より具体的にいえば、第1にゲームソフト産業では、非常に柔軟性(フレキシビリティ)が高い製造工程が実現されている。そのため、製造工程がイノベーション、特にプロダクト・イノベーションの制約要因とはなり得る可能性は低い。第2に、ゲームソフトは自動車などと同様、ユーザのニーズの多義性、曖昧さが高い、最終消費者(ユーザ)が使用する消費財である。第3に、ゲームソフトという製品は、コンピュータ・ソフトウェアの一種であり、技術と産業構造において密接な関係を持つ補完財が存在している。

 第3章では、以上のゲームソフト産業の製品特性などと既存研究を踏まえ、ゲームソフト産業のイノベーション・パターンとイノベーションの制約要因を明らかにするための準備を行う。イノベーションの定義と類型化、分析単位の設定、分析枠組みの確定などが、この章で行われる作業である。

 本研究が採用するイノベーションの基本的定義は、既存研究の知見とゲームソフト産業の産業特性、製品特性を考慮して、「家庭用ゲーム機に依存することなく、新奇性と高い完成度を有することによって、ゲームソフト産業の刷新、成長、維持を実現した事象」である。その上で、Abernathy and Clark (1985)が提示した、「ニッチ創造型(Niche Creation)イノベーション」もしくは「通常型(Regular)イノベーション」をゲームソフト産業の産業特性・製品特性に則して拡張し、2つのイノベーション類型を設定する。

 2つのタイプのイノベーション類型の1つは「創造的イノベーション」であり、これはニッチ創造型イノベーションに近いラディカルなイノベーションである。もう1つは、「継承的イノベーション」であり、これは、通常型イノベーションに近いインクレメンタルなイノベーションである。このイノベーションの定義と類型を用い、分析枠組みに、既存研究が示唆してきたイノベーションの制約要因である、製造工程、ユーザ、補完財を組み込んで、ゲームソフト産業の分析を行う。分析に際しては、ある一定の長い期間、多数の企業が発売した新製品群とその中で生じたイノベーション群を分析単位とし、イノベーションにあたる事象の抽出、分類、イノベーション・パターンの特定、イノベーションの制約要因の解釈などを行う。

 第4章から始まる本研究の実証分析では、分析対象期間の1983年から1999年までの定性的、定量的記述が行われる。それを踏まえ、イノベーションに該当する事象の抽出、イノベーション・パターンの特定、イノベーションの制約要因に関する解釈が行われる。

 記述と分析の結果、ゲームソフト産業ではラディカルな創造的イノベーションの発生がある時期から滞り、代わって、インクレメンタルな継承的イノベーションの発生が活発化するイノベーション・パターンが見出された。このようなラディカルなイノベーションの発生が滞り、インクレメンタルなイノベーションが中心になるイノベーション・パターンは、一見するとAbernathy (1978)が自動車産業で見出したイノベーション・パターンと近い。だが、ゲームソフト産業は製造工程の柔軟性(フレキシビリティ)が高いため、製造工程がイノベーションを制約する可能性は低い。したがって、ラディカルからインクレメンタルへというイノベーション・パターンは、他の要因によって説明する必要があると考えられた。

 そこで、製造工程以外のイノベーションの制約要因を検討した結果、製造工程のみならず、補完財がイノベーションの制約要因となった可能姓も低く、代わって市場、特に一般消費者(ユーザ)との関係がイノベーションの制約要因であった可能性が高い。さらにより重要と考えられる要因を検討した結果、ゲームソフト産業のイノベーションの制約要因は、ゲームソフト企業の製品開発活動と深く関連していることを見出した。本研究がイノベーションの制約要因として提示するのは、「開発生産性のディレンマ」と呼ぶ現象である。

 開発生産性のディレンマとは、開発生産性の向上と製品機能の拡充が両立し得ない現象を指し示す。ゲームソフト企業の製品開発活動が、開発生産性のディレンマが働く状況下において遂行されたため、創造的イノベーションの発生が停滞し、継承的イノベーションが活発化した可能性が高い。すなわち、ゲームソフト企業が開発ノウハウを蓄積、活用すれば、開発コストの削減、リードタイムの短縮といった開発生産性の向上を享受できるが、開発する製品に盛り込むコンセプトやアイディアなどが制限される。反対に、もし開発ノウハウを蓄積もしくは活用しなければ、全く新しい製品を開発することも可能になるが、製品を一から創り出すことになるため、開発生産性の低下は避けられない。この開発生産性のディレンマが存在する状況下において、各企業が効率的、効果的な製品開発活動を行おうとしたため、開発ノウハウの蓄積と活用が進められ、開発、発売する製品に盛り込まれるコンセプトやアイディアなどが制限を受けた。その結果、ゲームソフト産業全体として、創造的イノベーションが発生しにくくなったと考えられる。

 このように、開発活動に内在する「開発生産性のディレンマ」がイノベーションの制約要因となった可能性が高い。新しい製品を生み出そうとする活動そのもののが、本当に新しい製品を生み出すことを困難にし、ラディカルなプロダクト・イノベーションを停滞させる、というパラドキシカルな現象が、ゲームソフト産業で生じていたと考えられる。

 続いて第5章では、第4章で示したイノベーションの制約要因が妥当なものであるかを定量的分析によって確認した。開発生産性のディレンマが最も深刻になったと考えられる分析対象期間の最後の3年間に焦点をあて、そこで採用された企業行動がどのようなものであり、それは企業のパフォーマンスを高めたのかが検証された。その分析結果は、第4章で示したイノベーションの制約要因に関する解釈と整合的なものであり、類似性を優先する製品戦略と製品開発活動の内部化による開発ノウハウの蓄積と活用が、ゲームソフト企業のパフォーマンスを高めていることが示された。

 このような製品戦略と製品開発活動、それらを支える製品開発組織を採用した企業がパフォーマンスを高め、ゲームソフト産業で中心的な地位を占めるようになった結果、他企業の淘汰、新規参入企業の抑制が生じた。このことが、ゲームソフト産業全体としての創造的イノベーションの停滞、継承的イノベーションの活発化に結びついたと考えられる。

 最後に本研究の意義をまとめておく。

 本研究の意義として、Abernathy (1978)以来のイノベーション研究への貢献が挙げられよう。これまでの研究が対象としてきた産業とは異なる製品特性、産業特性、産業構造を持つゲームソフト産業を対象とし、イノベーション・パターンを見出したこと、イノベーション・パターンを現出させる制約要因として、製品開発活動に着目し、開発生産性のディレンマという現象を見出したことが挙げられる。

 また、ゲームソフトとその産業をイノベーションという観点から一貫して記述、分析した点は、ゲームソフト産業を対象としてきた従来の研究を補完する意義があろう。ゲームソフト産業において、既存研究がその傾向を示唆し、あるいは産業で実務に携わる人々が表明している状況、すなわち創造的イノベーションの停滞を定性的、定量的記述と分析に基づいて明示的に示し、それが生じた要因に解釈を加えた点において、本研究の意義があろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、1980年代から日本企業が先導して発展した家庭用ゲーム機産業におけるゲームソフト開発について、過去20年間の歴史と近年の問題について分析したものである。自動車産業など、いわゆるハードウエアの製品開発については多くの研究が積み重ねられてきた。また、ソフトウエア産業についても、大規模なシステム開発やPC用のビジネス・ソフトウエアについては、近年研究が盛んになりつつある。しかし、コンピュータ・ソフトウエアであると同時に、娯楽性の高いゲームソフトの開発について、経営学の視点から取り組んだ本格的な研究は少ない。ソフトウエア産業が産業全体に占める割合は増加しつつあると同時に、自動車や電子機器などハードウエア製品の中でも組み込みソフトのようなソフトウエアの果たす役割はますます大きくなりつつある。また、音楽、映像、ゲームなどのコンテンツ産業、とりわけコンピュータやネットワークを介して流通するデジタル・コンテンツ産業の近年の成長は著しい。そのようなデジタル・コンテンツ産業を代表する製品のひとつがゲームソフトであり、その本格的な研究は今後の産業社会にとって、重要な意義がある。本論文は、ゲームソフト産業におけるイノベーションの歴史的なパターンを明らかにし、その結果として創造的なイノベーションが妨げられるようになってきた事実を示し、そのようになったメカニズムを明らかにしようとしたものである。筆者は、「開発生産性のディレンマ」という鍵概念を提唱して創造的イノベーションが阻害されるようになったメカニズムを説明している。本論文の構成は次のようになっている。

第1章 はじめに

第2章 イノベーション・パターンとゲームソフト産業に関する既存研究

第3章 ゲームソフト産業に関する分析枠組みと予備的考察

第4章 ゲームソフト産業のイノベーション・パターンと制約要因

第5章 継承期における企業行動とそのパフォーマンス

第6章 本研究の成果 ― 結論、インプリケーション、今後の課題 ―

各章の内容の要約・紹介

 各章の内容を要約して紹介すると、以下の通りである。

 第1章では、家庭用ゲームソフト産業で見られるイノベーションのパターンを分析し、創造的イノベーションの発生が減少していることと、その減少をもたらしたイノベーションの制約要因を明らかにするという、本研究の目的について述べている。

 第2章は、イノベーションのパターンに関する既存研究と、コンテンツ産業に関する研究をサーベイすることによって、本論文の位置づけを明確にしていている。特に、自動車産業のイノベーションのパターンを研究したAbernathy(1978)をとりあげ、そこで提唱された「生産性のディレンマ」に着目している。ただし、Abernathyの生産性のディレンマは、製造が大きな制約要因になる産業での仮説であり、ソフトウエアのように個別製品の製造は比較的容易な産業では事情が異なるだろうと指摘している。ゲームソフトは次のような3つの特徴を持ち、それらがイノベーションのパターンにも影響を与えているだろうというのが、著者の認識である。第1にゲームソフト産業では、非常に柔軟性(フレキシビリティ)が高い製造工程が実現されている。そのため、製造工程がイノベーション、特にプロダクト・イノベーションの制約要因とはなり得る可能性は低い。第2に、ゲームソフトは自動車などと同様、ユーザのニーズの多義性、曖昧さが高い、最終消費者(ユーザ)が使用する消費財である。第3に、ゲームソフトという製品は、コンピュータ・ソフトウエアの一種であり、技術と産業構造において密接な関係を持つ補完財が存在している。

 第3章では、ゲームソフト産業に関する予備的な分析を行い、それに基づいて4章以降の分析枠組みを示している。イノベーションの基本的定義は、「家庭用ゲーム機に依存することなく、新奇性と高い完成度を有することによって、ゲームソフト産業の刷新、成長、維持を実現した事象」であるとする。その上で、イノベーションを新奇性の高い「創造的イノベーション」と累積的改良である「継承的イノベーション」に類型化している。また、実証研究に際して、この二つのイノベーションに分類するための測定基準を示している。

 第4章は、家庭用ゲーム機市場が確立した1983年から1999年まで17年間に発売された約7000のゲームソフトを分析対象とした実証分析であり、本研究の中心となっている章である。イノベーションに該当する事象の抽出、イノベーション・パターンの特定、イノベーションの制約要因に関する解釈が行われている。その分析結果を簡明に述べると、ゲームソフト産業では創造的イノベーションの発生が徐々に滞るようになり、代わって、継承的イノベーションの発生が活発化するイノベーション・パターンが見られるようになったということである。さらに、そのような現象が生じたメカニズムについて分析しており、その理由を説明するために「開発生産性のディレンマ」という概念を提唱している。開発生産性のディレンマとは、開発ノウハウの蓄積と活用が可能な状況下では、新奇性の高い製品機能の拡充、すなわち創造的イノベーションを追求すると、開発の生産性が低下するという二律背反の問題状況である。ゲームソフト企業が開発生産性の向上を追求した結果、創造的イノベーションの発生が停滞し、継承的イノベーションが活発化したと分析している。すなわち、ゲームソフト企業が開発ノウハウを蓄積、活用すれば、開発コストの削減、リードタイムの短縮といった開発生産性の向上を実現した反面、開発する製品に盛り込むコンセプトやアイディアなどが制限されたという。

 第5章では、第4章の考察で示した、多くの企業が新奇性追求よりも開発生産性の向上に重点を置いたということを実証しようとした部分である。開発生産性のディレンマが最も深刻になったと考えられる分析対象期間の最後の3年間に焦点をあて、そこでの企業行動と成果を113社へのアンケート調査をベースにした分析を実施している。その結果、類似性を優先する製品戦略と製品開発活動の内部化による開発ノウハウの蓄積と活用を重視している企業、すなわち継承的イノベーションを重視している企業は、高いパフォーマンスをあげているという。そのような戦略をとった企業がゲームソフト産業で中心的な地位を占めるようになった結果、他企業の淘汰、新規参入企業の抑制が生じた。その結果、ゲームソフト産業全体としての創造的イノベーションの停滞と、その一方での継承的イノベーションの活発化に結びついたと主張している。

 最後の第6章では、5章までの分析結果と結論を要約した上で、若干のインプリケーションを示した上で、今後の研究課題を述べているが、ここでは割愛する。

論文の評価

 本研究の意義として、Abernathy(1978)以来のイノベーション研究への貢献が挙げられよう。ソフトウエアやエンターテイメントといった製品に対して、イノベーションの観点からの本格的な研究はきわめてすくなかった。本研究がとりあげたゲームソフト産業は、これまでの研究が対象としてきた産業とは異なる製品特性、産業特性、産業構造を持っている。そのようなゲームソフト産業において、1983年から1999年まで17年間に発売された約7000のゲームソフトを分析対象として、イノベーションの時系列的変化を実証的に明らかにしたことは高く評価できる。創造的イノベーションが減少する傾向が観察され、その理由を筆者は「開発生産性のディレンマ」という概念で説明した。このような現象と問題は、ゲームソフト産業に限らず、多くのコンテンツ産業など他産業にも同様の傾向が見られる可能性があり、今後進むであろうコンテンツ産業についての研究にとって、本論文の貢献は大きいだろう。

 しかしながら、本研究にもいくつかの問題が残されている。製品データに基づいた実証部分では、データをより活かせば、仮説検証型の実証モデルも可能であったろう。記述統計的な整理が多かったのは残念である。また、「開発生産性のディレンマ」の現象について、実際のケースが紹介されているものの、より詳細なケース分析があると、本現象の理解と分析が深まったであろう。このような問題点は残されているとはいえ、ゲームソフトに関する実証研究がきわめて少ない現状では、以上のような問題は、今後この種の研究を進める上で解決すべき課題であり、本論文にとって致命的な問題ではないと考えられる。

 以上により、審査委員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位授与に値するものであると判断した。

審査委員(主査)新宅 純二郎

藤本 隆宏

高橋 伸夫

粕谷 誠

柳川 範之

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