学位論文要旨



No 121928
著者(漢字) 千葉,真人
著者(英字)
著者(カナ) チバ,マヒト
標題(和) 時間依存密度汎関数法に基づいた励起状態ダイナミクス
標題(洋) Excited state molecular dynamics based on time-dependent density functional theory
報告番号 121928
報告番号 甲21928
学位授与日 2006.12.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6403号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 中嶋,隆人
 東京大学 助教授 常田,貴夫
内容要旨 要旨を表示する

1. 時間依存密度汎関数法計算の効率化

 時間依存密度汎関数法(TDDFT)は、電子励起スペクトルを高速かつ高精度に計算する方法である。TDDFT法をより大規模な系に適用するには、TDDFT計算のコストを下げることが必要である。本研究では、TDDFT計算を精度を落とさずに効率化することを目的とした。

 TDDFT方程式は、次のような固有値問題に帰着する。

ここで、ΩがTDDFTのResponse行列であり、その固有値として励起エネルギーωが決定される。Appel,GrossらはTDDFTの励起エネルギーωを次のように展開した。(Appel, E. K. U. Gross, and K. Burke, Phys. Rev. Lett. 90 (2003) 043005)

この式は、ai遷移(占有軌道i→仮想軌道a)を主とする励起エネルギーω(ai)にエネルギー寄与する遷移bj(bj≠ai)は、(1)式の右辺第二項が十分な大きさの値を持つものであるということを示している。しかし、(2)式の右辺第二項をそのまま計算するにはΩ(bjbj)の計算が必要で、これには4項の積分変換が必要となる。本研究では、これを避けるために(2)式第二項を次のように近似し、それに対して閾値θを与えた。

ここでE(ai)はKohn-Sham軌道エネルギーεを使って次のように表される。

(3)の不等式を満たすようなbj遷移のみがai遷移を主とする励起の励起エネルギーに貢献することになる。本研究では、(3)式によって決定されたai遷移にエネルギー寄与する遷移bjのみで構成されたTDDFT行列について、求めたい遷移aiに対応する励起状態についてDavidsonアルゴリズムに基づいた解法を行った。この方法を、特定の励起状態について効率的に励起エネルギーを計算する方法、状態特定時間依存密度汎関数法 (State-Specific TDDFT; SS-TDDFT)とした。

 SS-TDDFTをCOやベンゼン分子などの典型分子について適用した所、SS-TDDFTは精度を落とさずにTDDFT行列の次元を大幅に削減した。また、SS-TDDFTを水クラスタ(H2O)n(n=5,10,20,30,40,50,60)について適用したところ、SS-TDDFTは40分子以上の水クラスタについて一遷移で解くことが可能なことを示し、全ての遷移を考慮に入れて解く従来のTDDFT(Standard TDDFT)に比べて大幅な計算効率化に成功した(図1)。また、SS-TDDFTをポリエンH-(C2H2)n-H(n=5,10,20,30)に適用した結果、計算精度を落とさずに水クラスタと同様に大幅な計算効率化に成功した。

2. 長距離補正TDDFT(LC-TDDFT)の励起状態構造最適化

 近年、TDDFTの励起エネルギー勾配が導出され、TDDFTによる励起状態の構造最適化が可能になった。しかし、従来のTDDFTでは通常のValence励起については極めて良い励起エネルギーを与えるが、電荷移動(Charge Transfer; CT)励起状態について大幅に励起エネルギーを過小評価することが知られている。一方、当研究室で開発された長距離補正TDDFT(Long-range Corrected TDDFT; LC-TDDFT)は、CT励起に対して正しい励起エネルギーを記述することが明らかになった。本研究では、LC-TDDFTの核座標微分を導出し、LC-TDDFTによる励起状態構造最適化計算を実行した。

 LC-TDDFTでは、電子反発演算子1/r(12)は次のように短距離部分と長距離部分に誤差関数を用いて分割される。

ここでμは分割パラメータであり、μ=0.33である。LC-TDDFTでは、交換相互作用の短距離部分については従来の密度汎関数を、交換相互作用の長距離部分についてはHartree-Fock(HF)交換を用いて記述する。LC-TDDFTの励起エネルギーωの勾配ωεの導出を実行した結果、以下のような形式となった。

ここでμ,ν,κ,λは原子軌道(AO)を、σ,σ'は電子のスピン表す。Vは密度汎関数の一次微分の演算子行列であり、fは密度汎関数の二次微分の演算子行列である。このLC-TDDFTの励起エネルギー勾配を用いて励起状態構造最適化を行った。

 その結果、小分子の励起状態に対して、LC-TDDFTは観測値に非常に近い最適化構造を与えた。次に、従来のTDDFTが励起エネルギーの記述に失敗するCT励起状態について構造最適化計算を行い、計算結果を従来の方法(BOP及びB3LYP)と比較した。対象とする系には4-Cyano-(4'-methylthio) diphenylacetylene 分子を選んだ。計算の結果、両分子について、BOP及びB3LYPが全ての構造パラメータについて互いに非常によく似た数値を与えたのに対して、LC-TDDFT(LC-BOP)はいくつかの構造パラメータについて従来の方法と大きく異なる数値を与えることが分かった(表1)。LC-TDDFTによる構造の信頼性を証明する為に、3つの汎関数によって決定された各最適化構造について高精度ab-initio計算理論であるCASPT2計算を行った。その結果、LC-BOPによる構造がCASPT2法において最も安定な構造であることが分かった(表2)。このことから励起状態の構造最適化計算にも、LC-TDDFTに含まれる長距離交換が重要であることが明らかになった。

3. LC-TDDFTによる4-(N,N-dimethylamino)benzonitrileのねじれ分子内CT励起状態の考察

 前章で作成したLC-TDDFTの励起状態構造最適化プログラムを用いて、4-(N,N-dimethylamino) benzonitrile (DMABN)のねじれCT励起についての解析を行った。

 DMABNのCT励起は極性溶媒中のみで起こることが実験的に確かめられている。このCT励起の機構として、dimethylamino基がねじれベンゼン環とのcouplingが失われ、benzonitrile基へ電荷が移動するTICTモデルが広く支持されている。また、極性溶媒中のみCT励起されることに注目し、アセトニトリルなどの溶媒効果を取り入れた計算が行われている。その結果、Valence励起にほとんど変化がなかったのに対してCT状態のみが安定化することが確認されている。

 LC汎関数であるLC-BOPを用いて、DMABN分子について励起 状 態 構 造 最 適 化 を行 なった。計算結果から、気相中では平衡構造付近でCT励起ではなくLocal Emission(LE)が安定で、気相中ではCT励起を起こさないという実験結果を再現した(図2)。一方、LC汎関数でないBOP及びB3LYPでは、CT励起エネルギーの過小評価により平面構造付近でもCT励起が最も安定であった。また、PCM法により、アセトニトリルの溶媒効果を取り込んだLC-BOP計算も行った。その結果、アセトニトリル溶媒中では溶媒効果がCT励起エネルギーを安定化させ、LE励起エネルギーよりも低くなることを示した。このことから、LC-BOPは極性溶媒中でDMABNがCT励起を起こすという実験結果についても再現した。

4. LC-TDDFTを用いた励起状態分子動力学(MD)計算シミュレーション

 レチナールの光異性化等の重要な光化学反応を理論的に追跡するには、低コストかつ高精度な励起状態分子動力学(Molecular Dynamics; MD)計算理論が必要である。TDDFT法は一電子励起のみの計算次元からなる低い計算オーダーで、なおかつ電子相関効果を密度汎関数の形で取り込んでいる為、低計算コストで高精度な励起エネルギー計算が可能なことが知られている。本研究では、LC-TDDFT及び従来のTDDFTに基づく高速で高精度である励起状態MDシミュレーションプログラムを作成し、それを様々な系に適用することを目的とした。

 本研究で作成した(LC-)TDDFT-MDプログラムはGAMESS上で作成された。まず、GAMESSのDFTモジュールを高速計算が可能なように修正し、新たにDavidson アルゴリズムに基づいた(LC-)TDDFTの励起エネルギー計算コードを組み込み、(LC-)TDDFT励起エネルギーの核座標微分計算コードをGAMESS上に実装した。それらを既存のGAMESSのMD計算モジュールと組み合わせることにより、系のサイズNに対してO(N(2-3))で高速に計算が可能な(LC-)TDDFTを用いたMDシミュレーションプログラムを作成した。尚、前で述べた1〜3章の研究は全てこのTDDFTプログラムによって行われている。

 本プログラムを光励起NH3の励起による傘反転反応及び、H2CNHの励起による異性化反応に適用としたところ、本プログラムはそれらを高速に再現した。(図3)

 現在のMDプログラムは、非断熱カップリングを考慮しておらず、各状態間の非断熱遷移を記述できない。この非断熱カップリング項の導入については今後の課題である。しかし、本プログラムはTDDFTの高い励起状態計算精度と低い計算オーダーO(N(2-3))を併せ持っており、大型分子への適用も可能である。本プログラムをどのような系へ適用するかは現在検討中である。

(1)

(2)

(3)

(4)

図1 水クラスタ(H2O)n(6-31G*基底)の計算結果

(5)

(6)

表1 4-Cyano-(4'-methylthio)diphenylacetylene分子(6-31G*)のCT励起状態最適化構造

表2 各最適化構造における4-Cyano-(4'-methylthio)diphenylacetylene分子(6-31G*)のCASPT2励起状態エネルギー(in A.U.)

図2 LC-BOPによるDMABNの励起状態構造最適化結果

図3 H2CNHの光異性化

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「Excited state molecular dynamics based on time-dependent density functional theory(時間依存密度汎関数法に基づいた励起状態ダイナミクス)」と題し、全6章からなっている。時間依存密度汎関数法(TDDFT) における効率的アルゴリズムの開発や長距離での電子間相互作用の欠陥を補正した交換汎関数を導入することで、大規模分子系の励起状態や励起状態ダイナミクスに新しい方法論を提供したものである。

 第1章は序論であり、密度汎関数法(DFT)、特に励起状態を記述するTDDFTの現状がまとめられている。DFTは分子の電子状態を波動関数ではなく、電子密度に基づく平均場ポテンシャルを利用した非線形Kohn-Sham方程式を解いて分子のエネルギーや物性を計算する方法である。DFT法では量子論的な交換相関相互作用を電子密度の汎関数として近似しているため、電子相関を取り込んだ高精度計算を少ない計算コストで実現できる。DFTは基底状態のエネルギーや構造を精度よく算出する。励起状態の記述にはTDDFT計算が用いられているが、理論的にはいまだ発展段階にある。分子系の励起状態を高精度に且つ効率的に記述し、ダイナミクスを追跡する方法論を開発することが緊急の課題となっている。

 第2章は特定の励起状態の励起エネルギーを効率的に計算する方法、状態特定時間依存密度汎関数法 (State-Specific TDDFT; SS-TDDFT)の開発についてまとめたものである。TDDFT法では励起エネルギーは、ある行列式を対角化して求められる。分子の規模とともに行列式の次元は大きくなる。SS-TDDFTではfullの行列式ではなく、ある特定の小さな行列式を対角化することで解を得る方法である。SS-TDDFTは精度を落とすことなくTDDFT行列の次元を大幅に削減し、計算労力を軽減できる方法である。いくつかの分子や水クラスタ(H2O)n(n=5,10,20,30,40,50,60)やポリエンH-(C2H2)n-H(n=5,10,20,30)への適用例からも大幅な計算効率が得られることが示されている。大規模分子の励起状態を効率的に算出できる可能性を示唆するもので意義深い。

 近年、TDDFTの励起エネルギー勾配が理論的に導出され、励起分子の構造最適化が可能になった。しかし従来の汎関数用いたTDDFTでは通常のvalence励起については良い励起エネルギーを与えるものの電荷移動励起状態については励起エネルギーを大幅に過小評価する。長距離補正を施した交換汎関数を組みこんだTDDFTではじめてCT励起を正しく記述することができる。第3章では長距離補正を施した汎関数を導入し、TDDFT勾配法で励起分子の構造を最適化する方法についての研究結果をまとめている。さまざまな分子とともに4-cyano-(4'-methylthio) diphenylacetylene 分子などの電荷移動励起状態に応用し、この計算スキームが励起状態の分子構造や励起エネルギーを定量的に予測することができる実用的な方法であることを数値的に実証している。

 第4章は第3章で作成したLC-TDDFTの励起状態構造最適化法を利用して、4-(N,N-dimethylamino) benzonitrile (DMABN)の

CT励起についての詳細な研究をまとめたものである。DMABNのCT励起は極性溶媒中のみで起こることが実験的に知られている。このCT励起の機構として、dimethylamino基からbenzonitrile基へ電荷が移動するTICTモデルが広く支持されている。気相の計算ばかりでなく、溶媒効果を取り入れた計算も実施されている。その結果、溶媒効果を取り入れてもvalence励起にはほとんど変化がみられないが、CT状態は大きく安定化することが確認されている。計算結果から、気相中では平衡構造付近でCT励起ではなくLocal Emission(LE)が安定で、気相中ではCT励起を起こさないという実験結果を再現している。アセトニトリル溶媒中では溶媒効果がCT励起エネルギーを安定化させ、LE励起エネルギーよりも低くなることを示している。詳細な理論計算から、極性溶媒中でDMABNがCT励起を起こすという現象を理論的に解明し、その機構を提案している。

 第5章は理論開発やアルゴリズム開発を集大成し、TDDFTに基づく励起分子MDシミュレーションプログラムのソフトウエアの開発とその応用についてまとめたものである。光励起NH3の励起による傘反転反応やH2CNHの励起による異性化反応に適用し、理論とアルゴリズムの高速性と理論の高い精度を確認している。

 第6章は本論文のまとめであり、分子の電子状態理論やダイナミクス理論、DFTやTDDFTに関する将来の展望が述べられている。

 以上のように本論文は、時間依存密度汎関数法のいくつかの問題を解決し、TDDFTによる励起状態の計算や励起分子ダイナミクスにあらたな知見を提供したもので、理論化学、物質科学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる

UTokyo Repositoryリンク