学位論文要旨



No 121932
著者(漢字) 朴,宣映
著者(英字) PARK,SUN YOUNG
著者(カナ) バク,ソンヨン
標題(和) 19世紀末〜20世紀初東アジアにおける帝国主義と言論 : 『大韓毎日申報』を中心に
標題(洋)
報告番号 121932
報告番号 甲21932
学位授与日 2006.12.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 博人社第569号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱田,純一
 情報学環 教授 永ノ尾,信悟
 情報学環 助教授 山口,いつ子
 明治大学 教授 杉山,光信
 東洋大学 助教授 大畑,裕嗣
内容要旨 要旨を表示する

 『大韓毎日申報』は1904年日露戦争直後に発刊され1910年の日韓併合に至るまでの期間、日本の侵略主義に抗して刊行された大韓帝国末期の代表的新聞の一つである。この新聞が発行されていた時期は、東アジアの新しい勢力として登場した日本が韓国に対する支配権を諸列強から承認され、韓国の実質的支配を進めていった時期に当る。日本の対韓侵略に対抗する韓国民の国権回復運動は武装闘争と愛国啓蒙運動の二つに分かれて展開されたが、新聞など言論による啓蒙活動の影響力は非常に大きかったと韓国の言論研究者たちには評価されている。とくに、日本が軍事権を掌握していた当時において言論による抗日運動は、日本の韓国侵略を内外に発信することのできるほとんど唯一の手段であった。『申報』は、そのような抗日言論の先頭に立つと同時に、国債報償運動や新民会など抗日民族運動の拠点となり韓国近代民族運動史においてもっとも重要な言論運動であった位置付けられてきた。

 日本当局の言論弾圧の中で『申報』が自由な論陣を張りつづけることができたのは、この新聞が治外法権をもつイギリス人所有のものであったからである。『申報』はイギリス人ベセル(E.T.Bethell)を社長に、創刊当時は『コリア・デーリー・ニュース(Korea Daily News)』という題号の英文版と『大韓毎日申報』という題号のハングル版とが合版された形で刊行され、1年足らずで一旦休刊となった後、ハングル版は韓漢文版に形態を変え、英文版とは分離して刊行されるようになった。1907年にはハングル版も復活し、『申報』は英文・韓漢文・ハングルの三版体制を備えた時期もあった。

 『申報』に対してはこれまで非常に多くの研究がなされてきた。そのほとんどは『申報』の創刊経緯を明かすことに焦点をあわせたもので、『申報』の創刊は韓国人によって主導されたと説明している。高宗の資金支援と梁起鐸ら韓国人有志の主導で創刊が準備され、言論の自由を確保するため治外法権をもつ外国人ベセルを社長に据えたという説明は、'英韓合作'という表現で定着し、長らく韓国言論学界の通説となっていたのである。ところが、最新の研究では創刊におけるイギリス人ベセルのイニシアチブが確認された。しかし『申報』の論説の内容については、それをリードしたのは韓国人関係者であるという、これまでの通説的見解が相変わらず定説となっている。すなわち現在も、『申報』はベセルが創刊はしたものの、彼が有する治外法権を楯に実際上の新聞づくりは韓国人知識人たちによって主導されたと理解されているのである。

 それは、『申報』に深く関わった韓国側知識人が、梁起鐸、朴殷殖、申采浩を中心とする、韓末の名だたる民族主義者たちであったという事実から疑う余地のないことと受け止められてきた。多くの先行研究は『申報』の刊行には梁起鐸の功績がもっとも大きかったとみており、それに次いで主筆を務めた朴殷殖・申采浩の役割を重視している。通常この三人が『申報』に関係した代表的民族主義者とみなされているのである。また、抗日結社新民会が『申報』を拠点にして結成されたことから、『申報』の論調をリードしたのは新民会にほかならないともされている。

 『申報』をめぐり広く受け入れられているもうひとつの説明は、『申報』は衰退へと至るまでの期間、始終一貫して抗日的であったために日本当局のさまざまな弾圧に遭い、二度も裁判にかけられるという困難を経験させられたという。統監府は新聞紙法にもとづいて同紙を度々押収する一方、またイギリス政府に働きかけてベセルの追放を画策した。その結果ベセルは統監府の告訴で二度裁判にかけられ、一度目の裁判(1907年10月14日)では300ポンドの罰金と6ヶ月間の謹慎処分を、二度目の裁判(1908年6月15日)では3週間の禁固刑及び服役後6ヶ月間の謹慎処分を受けている。

 一方、先行研究のなかで『申報』の紙面内容をテーマ別に分析した研究には、『申報』が抗日的かつ自主的論調を貫き、日本帝国主義の侵略的性格を糾弾し民族啓蒙に努めたとするものが多いが、他方では帝国主義に対する認識に不徹底さがみられ、日本の支配そのものを否定してはいなかったと結論するものも現れている。とくに後者は『申報』の性格に関して重要な疑問を提起した。その一つは、『申報』は日本の支配方式には批判的であったが、日本による韓国支配というより根本的な問題そのものにはそれを問題としない立場をとっているということであり、もう一つは、『申報』は日本の支配に対する韓国人の積極的な抵抗すなわち義兵運動など武装闘争に対してそれを論じる視点がゆれているようにみえるというものである。

 これらの問題(矛盾)はこれまでの通説通り『申報』が始終一貫民族紙であったという前提からでは理解しがたいものである。そこで本研究はこれまでの『申報』研究の成果とその内部における通説と事実の不整合を総合的に踏まえ、'『申報』は日本に批判的なスタンスを堅持した抗日的新聞ではあったが、始終一貫韓国民族主義から発せられる主張を貫いた新聞すなわち民族紙でありつづけたと断言することはむずかしい'という判断の下でこの新聞の性格をもう一度究明しようとした。そのための問題設定と視座は次のとおりである。

 '『申報』=民族紙'という通念をつくっている、『申報』研究上の通説とその問題点を整理してみると、(1)まず、韓国人が『申報』の論調を主導したというテーゼには二つの問題があることがわかる。ひとつ目は、『申報』のもう一方のアクターたるイギリス人ベセルの役割が論調との関連からは全く考慮されてこなかったということである。二つ目は、韓国人関係者の『申報』当時の思想(または認識の段階)が、彼らの『申報』以降の思想・経歴と区別されず、後者でもって前者が説明されてきたことである。すなわち『申報』当時の韓国人関係者の思想(認識の段階)が、『申報』の論調との関係から客観的に考察されていないということである。(2)次の通説は、『申報』が民族主義的論調で一貫したがために、日本当局によって裁判にかけられ、さまざまな妨害・弾圧にあったというテーゼである。これは裁判の内容と論調の持続・断絶との関係が分析されていないという問題であるが、より本質的にはこの新聞が始終一貫して民族紙であったとする通説((1))を前提にしているところから派生したものといえる。

 そこで、本論文ではまずこれまでその内容が一貫した思想または主義によって展開されたとは考えられてこなかった理由から、論調分析の対象にならなかった英文版『申報』の論調を初めて分析することにした。そして次にこの英文版『申報』の論調と韓漢文版『申報』とがいかなる関係にあったのかの解明を試みた。ベセルの在任期を基準に、『申報』を前期(1904.7〜1908.5)と後期(1908.6〜1910.8)とに分け、前期はまた二回の『申報』裁判を区切りとして、まず英・韓漢文版の分離刊行以降一次裁判までの期間(第一期;1905年8月〜1907年9月)、その後から二次裁判までの時期(第二期;1907年10月〜1908年5月)とに分けて考察した。その結果、英文版『申報』の論調は、前期『申報』においてもその基調が維持されており、後期においては前期とほぼ対照的な、新しい論調が展開されていることがわかった。

 各章別内容を簡略にまとめると以下のとおりである。

 1章では『申報』という'英・韓合作'の新聞が刊行されるまでの経緯を理解するために、その背景をなす韓国側の近代言論発達史と、東アジアにおける英字新聞発達史がそれぞれ検討された。

 2章では世紀転換期イギリス帝国主義の性格とそれと日本の帝国主義化との関係が考察され、その特徴を分析の枠として英文版『申報』の論調が分析された。

 3章では英文版『申報』と韓漢文版の関係が分析され、『申報』裁判の性格が再検討された。そして英文版『申報』の論調が韓漢文版において維持された内的要因として韓国人『申報』関係者側の開化思想の性格が考察された。

 4章では『KDN』の論調を踏襲した以前の『申報』の論調から一転して『申報』の論調が国粋主義的な民族主義に変化していることが確認され、その背景にあるとみられる新民会および申采浩の思想的変化と後期『申報』との関係が論じられた。

 以上の考察から、『申報』をめぐる従来のいくつかの通説は修正されるべきであることがわかった。第一に、『申報』の論調を主導したのは全面的に韓国人関係者であったというもの、第二に、『申報』は始終民族主義の論調で一貫していたとするもの、第三に、新民会発足後まもなく『申報』は新民会の機関紙と化したとするもの、第四に、『申報』はその徹底した抗日論調や義兵運動への関与のために裁判にかけられ、弾圧されたというものである。

 韓国側の思想的変化の契機が1907年初からつくられていたにもかかわらず、1次『申報』裁判ののちに、ようやく民族主義的論調が少しずつ表明されていることから、この新聞がもった内的制約(イギリス側の所有権-主導性が厳しいものであったこと)をうかがい知ることができる。また、2度目の『申報』裁判をはさむ時期においては、義兵闘争を肯定・鼓舞するどころか、むしろそれを抑え、静めようとする論調が基調をなしていたことから、義兵闘争との関連を理由に戦われたこの裁判が額面どおりに受け取ることのできない性格のものであったことも推察できよう。さらに、『申報』がイギリス人の治外法権の庇護を受けて民族主義を貫いたのではなく、逆にその「庇護」が『申報』の論調を左右する影響力としても作用した面があることを確認することができる。その中で『申報』は複合的な論調を内包したものに発展していったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 20世紀初め、日露戦争に勝利し朝鮮半島の経営権を手にした日本は、その実質的な植民地化を進め、1910年には韓国を併合した。「大韓毎日申報」(以下、「申報」と略記する。)が存在したのは、ほぼこの時期と重なっている。このような状況において「申報」は、韓国の言論史、思想史の研究者の間では、創刊以来一貫して抗日言論を展開した民族紙であったと位置づけられている。しかし、実質的な植民地化の政策が進められるなかで「申報」がなぜ抗日的主張を続けることができたのか、また、前期はむしろ自由主義的であった「申報」の論調がなぜ後期にはより民族主義的に変化したのか、などについて十分な説明はなされて来なかった。朴宣映氏は、「申報」の発行人であったイギリス人ベセル(E.T.Bethell)の役割や主張を膨大な資料をもとに実証的に検証し、その理由を明らかにしている。

 すなわち、従来の研究の通説の言うように韓国人知識人がリードし、治外法権の特権をもつベセルは楯としてのみ利用された、ということではない。「申報」裁判に至るまでのベセルは、自分の見解をもち紙面で展開していた。比較生産費説にもとづく自由貿易論の主張はイギリスの非公式帝国主義を支えるものであったが、ベセルもこの主張に与し、日本やイギリスが非公式帝国主義の立場で朝鮮に対することには疑問を示していない。ただ、日本が帝国主義諸国間の特権の平等を侵すときには、これに抗議し批判するというものであった。朴宣映氏は、日本在住時期のベセルの発言と「申報」の論調とを、従来ほとんど検討の外に置かれてきた英文版「申報」をも対象としながら、丹念な内容分析を通じて比較対照し、このことを明らかにしている。二度にわたる裁判の後でベセルはこの新聞から離れ、そこで初めて「申報」は、申采浩などの民族自立を唱える知識人・言論人が紙面をリードする全面的な抗日言論の新聞となったのである。

 「申報」は韓国近代民族運動史においてもっとも重要な言論活動の一つとして位置づけられてきただけに、こうした実証に基づく考察の意義はきわめて大きい。それは、一つの新聞の性格の検討というにとどまらず、当時の代表的民族主義者たちの言論や思想の変化の分析ともなっている。また、「非公式帝国主義」への着目は、ベセルの言説の考察を深めるだけでなく、東アジアを中心とする他国の外国人居留地におけるイギリス系言論の分析にも応用可能性をもっている。「申報」にかかわった主要なもう一人の言論人である朴殷殖への言及が少ないこと、非公式帝国主義の定義にやや厳密さが欠けていること、また引用の表記に若干の不備は残ることなどの問題点はあるものの、分析と結論は明晰であり、従来の通説の修正を促す十分な説得力をもつものであって、博士(社会情報学)論文としての十分な評価に値すると判断される。

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