学位論文要旨



No 121936
著者(漢字) 渡邉,敏惠
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,トシエ
標題(和) 在宅要介護高齢者の幸福感に関する質的研究
標題(洋)
報告番号 121936
報告番号 甲21936
学位授与日 2006.12.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2775号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 真田,弘美
 東京大学 教授 川上,憲人
 東京大学 客員教授 井上,聡
 東京大学 助教授 秋下,雅弘
 東京大学 講師 田高,悦子
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 人口の高齢化が進行し、介護を必要とする高齢者(以下、要介護高齢者)の増大が見込まれる中、要介護高齢者がどのように幸福を感じているかを知ることは重要である。欧米では、幸福感を得ている要介護高齢者の条件を探る定量的・定性的研究が行われている。わが国でも、定量的研究を中心にして、要介護高齢者の幸福感の関連要因が明らかにされてきた。しかし、それらには次の課題がある。第一に、幸福感は、hedonicとeudaimonicに大別される広範な概念であるが、いずれが重要かという論争が続いており、わが国の研究ではeudaimonicの視点がほとんど取り入れられていない。第二に、要介護高齢者が喪失を経験する中でそれらの影響にどのように対応して幸福感を得ているのか、というプロセスに注目した研究がほとんどない。BaltesらのSelective optimization with compensation(SOC)は、高齢者が喪失の中で幸福感を得るプロセスモデルとして提案されているが、喪失の多い要介護高齢者にも適用できるかは検討されていない。第三に、そうしたプロセスや心身の機能低下があるゆえに、日常的でささやかな楽しみが重要になると推察されるが、定量的な研究ではささやかな楽しみが見過ごされやすく、本邦ではその詳細を調べた研究はあまりみられない。第四に、喪失を経験する要介護高齢者にとってどのようなものの継続が幸福感に影響するかについても、定量的な研究では十分に明らかにされていない。とりわけ機能低下が重度の要介護高齢者の継続は、検討不十分である。第五に、幸福感を脅かす要介護高齢者の喪失や困難についても理解しておく必要がある。

 幸福感は主観的なものであり、以上の課題解決のために、要介護高齢者自身の経験を病いの経験の研究枠組みである「意味」や「戦略」を探る枠組みから捉えることが有効である。また、幸福感とその関連要因は文化・社会の規範や価値観の影響を受けるものとされるため、日本の文化・社会的な特徴にも注目する必要がある。

 以上を踏まえて、本研究の目的は、在宅要介護高齢者を対象にして以下の点を高齢者の視点から明らかにすることとした。1)要介護状態になることによってどのような喪失や困難を経験しているのか、2)それに対してどのような戦略を用いて対応しているのか、3)幸福感を得るきっかけとなる具体的なことがらはどのようなものか、4)幸福感をどのような基準で評価しているのか。これらを通して、継続理論の展開への寄与を図り、実践や施策への示唆を得る。

方法

 在宅の要介護高齢者の経験を詳細に把握するために、質的研究方法を用いることとした。

1.研究協力者のリクルート方法と属性

 関東にある5箇所の居宅介護支援事業所のケアマネージャー、看護師から研究協力者(以下、協力者)を紹介してもらった。協力者の選択の原則的な条件は、インタビューを行うため、体調が良好であることと認知症がないかあっても軽度であることとした。

 協力者は30人(男性10人、女性20人)であり、年齢は68〜93(平均78.9)歳、介護保険の要介護度は、要支援が2人、1が19人、2が6人、3が1人、4が2人であった。要介護状態になってからの期間は、3ヶ月から13年であった。病名は、脳梗塞が6人、骨折が4人、糖尿病が2人など、協力者によって異なっていた。

2.調査方法

 調査方法は、半構造化インタビューを中心とし、インタビュー時の観察、不明な点の電話での再確認、紹介者からの情報も加えたものとした。

 調査期間は2003年3月から2004年9月までである。インタビューは筆者が協力者の自宅で行い、所要時間は50〜216(平均96)分であった。原則として1回のインタビューであったが、3人には再訪問して、5人には電話にて、不明な点を確認した。

 インタビューガイドは、(1)病名と経過、障害の程度、(2)病いを患い、要介護になったことによる不便さ、困難、(3)悪影響への対応をどのようにしてきた、しているか、(4)楽しみ、幸福なとき、生きる支え、生きがいとは、(5)要望や願い、の5つの軸からなる。

 インタビューは了解を得てICレコーダーに録音し、逐語トランスクリプトを作成した。協力者の様子などや紹介者から得た協力者の情報なども記録した。

3.分析方法

 分析は、Lofland and Lofland(1995)を参考にした。NUD*IST6という分析ソフトを用いて、コーディングとメモを行った。また、分析結果の妥当性を向上させるため、協力者2名と関連分野に詳しい研究者に、結果の検討を依頼した。

結果

1.喪失と困難:幸福感を脅かすもの

 協力者は、「心身機能の衰えによる日常生活上の困難」、つまり、日常生活動作の困難さ、情報の理解の難しさ、見知らぬ人とのやりとりの難しさ、生活習慣の変更、を経験していた。「改善する手段のない疼痛と不快感」に悩まされている人もいた。また、自己実現や役割遂行の「生きがいを失い、獲得が困難」になった経験が語られた。病状の悪化や、経済的問題、介護家族についての「将来への不安」を感じていた。

 「心身機能の衰えによる日常生活上の困難」と「将来に対する不安」は、不便さや残念な思い、不安感をもたらしており、「疼痛と不快感」が強い場合や「生きがい」の実現が困難な場合に、協力者は混乱したり、生きる意味を見失ったりしていた。

2.幸福感を得るための戦略

 喪失や困難のある中で、協力者は、「目標を再設定する」、「残存能力を豊かにする」、「人的・物的資源を用いて喪失を補う」戦略を用いていた。「目標を再設定する」には、回復をめざす、現状を維持するという、過去とつながりのある目標があったが、新たな目標を設定する場合もあった。「残存能力を豊かにする」には、訓練をすることと同時に、無理をせず用心することがあげられた。「人的・物的資源を用いて喪失を補う」ために、人的・物的資源を受け入れ、人的資源利用では工夫と交渉をし、物的資源を利用することや、将来のために人的・物的資源を備えることもされていた。

 上記以外の認知的な戦略として、他者や自分の過去などのより悪い状況と比較したり、よい部分に注目したりする、「よいことをさがす」があげられた。また、割り切る、将来の不安に目を向けないという、「深刻に考えない」戦略も認められた。

3.幸福感を得るきっかけとなる具体的なことがら

 どの協力者も楽しみを感じるものはあると述べていた。「症状の改善につながるもの」として、休息と入浴、治療の効果、身体機能の訓練、「アクティビティ」として、能動的な創作や外出・旅行と、飲食やテレビ視聴などの受動的なアクティビティがあげられた。また、周囲の人々との交流や、周囲の人々の役に立つ「対人関係」、「居住環境」、「介護保険等の制度」があげられた。失った生きがいや楽しみに関係する「代わりの手段」、あるいは「思い出すこと」が、協力者に継続の感覚をもたらしていた。

4.幸福感の評価基準

 喜びや安心感が得られる「喜び・安心感を得ている」ことが協力者の幸福感の基準となっていた。また、「期待が充足している」ことによって幸福が得られていると評価されていたが、最低限の期待が満たされていれば幸福と語る人もいた。一方、介護が必要な状態になり喪失や困難があっても、「前向きな生き方をしている」ことに価値が置かれていた。

5.本研究の概念の関係

 上記の概念の関係として、要介護状態になることによって「喪失と困難」が生じてくるが、「幸福感を得るための戦略」を用いて、また、「幸福感を得るきっかけとなる具体的なことがら」を通じて、「幸福感が得られている」と評価されていた。

考察

1.要介護状態になることによる喪失と困難とその影響

 「生活上の困難」と「将来に対する不安」は、不便さや残念さ、不安感をもたらしても、混乱や生きる意欲の低下に必ずしも結びつくものではなく、老化の過程で避けにくいという意識が協力者にあったものと考えられた。一方、「疼痛と不快感」が強い場合や「生きがい」の実現が困難な場合には、混乱したり、生きる意味を見失ったりしており、日本の要介護高齢者もいわゆる「自己概念の混乱・喪失」に陥るといえる。しかしながら、この後者の影響は、病状やその後の対応何如によって一時的なものになりうることと、これらに対応していくことの重要性が確認された。

2.幸福感を得るための戦略

 幸福感を得るプロセスモデルとしてBaltesらの提唱するSOCは、協力者にも認められた。「目標を再設定する」はselection、「残存能力と資源を豊かにする」はoptimization、「人的・物的資源を用いて喪失を補う」はcompensationに対応するものといえる。一般の高齢者を対象に考案されたSOCだが、要介護高齢者にも適用されるものといえるであろう。同時に、SOCの代替となる認知的戦略も協力者は用いていた。そのうち「よいことをさがす」は困難への対処として欧米でも知られているものであり、「深刻に考えない」は耐えることやあきらめることを美徳とする日本人の特性が反映されたものと考えられた。

3.幸福感を得るきっかけとなる具体的なことがらの特徴

 幸福感を得るきっかけとなることがらの項目は、欧米の質的研究の結果と類似しており、日常的な、いわゆるささやかな性質をもつものであった。しかし詳細をみてみると、受動的なアクティビティにも意義があること、介護家族に果たす間接的な役割が重要であること、亡くなった人をしのぶ信仰のあり方に、日本的な特徴があるものと考えられた。

4.幸福感を継続させる方法とその特徴

 生きがいや楽しみを失っても、それらに関係する代わりの手段、思い出すことによって内的に続いていた。特に失った生きがいにかかわるような「継続の感覚」を獲得することが、要介護高齢者の幸福感に影響するものと考えられた。また、身機能の低下が重度である人や、機能が低下し続ける人でも、幸福感が続く可能性が示唆された。

5.要介護高齢者にとっての幸福感の基準とは

 Hedonic well-beingの概念と重なる「喜び・安心感を得ている」「期待が充足している」のほかに、eudaimonic well-beingに通じる、「前向きな生き方をしている」があげられた。欧米のEWBの概念の一つである「肯定的自己観」はほとんど語られることがなく、自己を批判したり謙遜したりすることが望ましいとされる日本の社会規範が影響したものと考えられた。

6.実践と施策への示唆

 疼痛と不快感に対応すること、生きがいや楽しみの獲得への施策を充実させること、失った生きがいに関する「継続の感覚」に着目した支援を行うこと、喪失と困難に対してあきらめる認知的戦略が無用に促されないように支援することの重要性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、関東圏内に在住する在宅要介護高齢者を対象に2003年3月から2004年9月にかけて半構造化面接を行い、質的に分析したものである。研究目的は、1)要介護状態になることによってどのような喪失や困難を経験しているのか、2)それに対してどのような戦略を用いて対応しているのか、3)幸福感を得るきっかけとなる具体的なことがらはどのようなものか、4)幸福感をどのような基準で評価しているのか、の4点を明らかにすることを通じて、継続理論の展開への寄与を図り、実践や施策への示唆を得ることであり、下記の結果を得ている。

1.喪失と困難:幸福感を脅かすもの

 研究協力者(以下、協力者)は、「心身機能の衰えによる日常生活上の困難」、つまり、日常生活動作の困難さ、情報の理解の難しさ、見知らぬ人とのやりとりの難しさ、生活習慣の変更、を経験していた。「改善する手段のない疼痛と不快感」に悩まされている人もいた。また、自己実現や役割遂行の「生きがいを失い、獲得が困難」になった経験が語られた。病状の悪化や、経済的問題、介護家族についての「将来への不安」を感じていた。

 「疼痛と不快感」が強い場合や「生きがい」の実現が困難な場合には、混乱したり、生きる意味を見失ったりしており、これらに対応していくことの重要性が確認された。

2.幸福感を得るための戦略

 喪失や困難のある中で、協力者は、「目標を再設定する」、「残存能力を豊かにする」、「人的・物的資源を用いて喪失を補う」戦略を用いていた。「目標を再設定する」には、回復をめざす、現状を維持するという、過去とつながりのある目標があったが、新たな目標を設定する場合もあった。「残存能力を豊かにする」には、訓練をすることと同時に、無理をせず用心することがあげられた。「人的・物的資源を用いて喪失を補う」ために、人的・物的資源を受け入れ、人的資源利用では工夫と交渉をし、物的資源を利用することや、将来のために人的・物的資源を備えることもされていた。

 上記以外の認知的な戦略として、他者や自分の過去などのより悪い状況と比較したり、よい部分に注目したりする、「よいことをさがす」があげられた。また、割り切る、将来の不安に目を向けないという、「深刻に考えない」戦略も認められた。

3.幸福感を得るきっかけとなる具体的なことがら

 どの協力者も楽しみを感じるものはあると述べていた。「症状の改善につながるもの」として、休息と入浴、治療の効果、身体機能の訓練、「アクティビティ」として、能動的な創作や外出・旅行と、飲食やテレビ視聴などの受動的なアクティビティがあげられた。また、周囲の人々との交流や、周囲の人々の役に立つ「対人関係」、「居住環境」、「介護保険等の制度」があげられた。失った生きがいや楽しみに関係する「代わりの手段」、あるいは「思い出すこと」が、協力者に継続の感覚をもたらしていた。

 以上の項目は、欧米の質的研究の結果と類似しており、日常的な、いわゆるささやかな性質をもつものであった。しかし詳細をみてみると、受動的なアクティビティにも意義があること、介護家族に果たす間接的な役割が重要であること、亡くなった人をしのぶ信仰のあり方に、日本的な特徴があるものと考えられた。

4.幸福感の評価基準

 喜びや安心感が得られる「喜び・安心感を得ている」ことが協力者の幸福感の基準となっていた。また、「期待が充足している」ことによって幸福が得られていると評価されていたが、最低限の期待が満たされていれば幸福と語る人もいた。一方、介護が必要な状態になり喪失や困難があっても、「前向きな生き方をしている」ことに価値が置かれていた。

 「喜び・安心感を得ている」「期待が充足している」はhedonic well-beingの概念と重なり、「前向きな生き方をしている」はeudaimonic well-beingに通じるといえた。欧米のeudaimonic well-beingの概念の一つである「肯定的自己観」はほとんど語られることがなく、自己を批判したり謙遜したりすることが望ましいとされる日本の社会規範が影響したものと考えられた。

 以上、本論文は、これまで調べられて来なかった日本の在宅要介護高齢者の幸福感について、その詳細や特徴を初めて明らかにしたものであり、今後の在宅要介護高齢者の支援に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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