学位論文要旨



No 121941
著者(漢字) 金沢,百枝
著者(英字)
著者(カナ) カナザワ,モモエ
標題(和) ジローナの〈天地創造の刺繍布〉研究 : ロマネスクの宇宙図と創造主礼賛
標題(洋)
報告番号 121941
報告番号 甲21941
学位授与日 2006.12.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第689号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三浦,篤
 東京大学 教授 宮本,久雄
 東京大学 助教授 甚野,尚志
 東京大学 教授 池上,俊一
 名古屋大学 教授 木俣,元一
内容要旨 要旨を表示する

 現在、カタルーニャ地方ジローナ大聖堂宝物館に所蔵される<天地創造の刺繍布>は、天地創造場面とともに「月暦」「四方の風」など宇宙図的モティーフが配された、中世ヨーロッパの曼荼羅ともいえるロマネスク期の逸品である。本論文は、このジローナの<天地創造の刺繍布>が何を表現しているのか、何のためにつくられたのか、そしていつ、どこで、誰によって制作されたのか、図像の意味、刺繍布の用途、および制作地・制作年代・注文主など制作をめぐる状況の解明を試みた作品研究である。本論では、まず、この刺繍布の図像プログラムを把握するために、刺繍布を「縁部」「中央円環部」「聖十字架発見」の大きく3つの部分に分け、各部分の分析を行った。

 具体的には、第一章「宇宙図としての刺繍布」では、「縁部」の「四方の風」と「月暦」に焦点をあて、構図の考察から、刺繍布の上部全体が、古代の宇宙図の形式を受け継いでいることを明らかにした。次いで第二章、第三章、第四章では、「円環部」について考察した。第二章「礼賛図としての刺繍布」では、中央円環部の天地創造場面がローマ型創世記図像に起源を持ち、なおかつ「詩篇」148に起源を持つ「礼讃図」の形式を踏襲していることを論証した。続く第三章「礼讃図の二匹の海獣」では、「円環部」の天地創造場面に描かれた二匹の海獣に着目し、二匹の幻獣の形態変化を追うことによって、ロマネスク期における古代文化の継承と変容、そして図像の画一化の問題について論じた。第四章「新しい礼讃図の誕生」では、刺繍布になぜ天地創造場面が円環構図に描かれたのか、円環構図の意味を探った。12世紀以降、天地創造場面がマエスタス・ドミニと組み合わされた新しい構図(「天地創造型マエスタス」)が増加するが、その誕生の契機と意味を思想史との関連において論じることで、刺繍布の構図の特殊性を解明できると考えたからである。そして、「天地創造型マエスタス」が「瞬間的創造」という12世紀の創世記解釈を表現する可能性を示した。第五章「約束された楽園」では、刺繍布下部の「聖十字架発見譚」に着目し、なぜこの場面が天地創造図や宇宙図と組み合わせられているのか検討し、刺繍布が聖金曜日の典礼で使われたのではないかと論じた。最後に、第六章「ジローナの<天地創造の刺繍布>をめぐる諸問題」においては、第一章から第五章で導き出された結論をもとに、制作年代や制作地、注文主など、ジローナの刺繍布の制作をめぐる問題について仮説を提示した。

 以上の結論を総覧すると次の三点にまとめることができる。

 まず第一に、ジローナの<天地創造の刺繍布>が何を表現しているのか、すなわち図像プログラムの問題である。「四方の風」が取り囲む円環は、風配図の系譜上、「全世界」を意味することになる。このことは、円環内部の天地創造場面の配置が、「天地」となるよう再構成されていることからもわかる。円環部は、神によって造られた「全世界」なのである。

 刺繍布の天地創造場面の図像源であるローマ型創世記図像の第一場面が、「詩篇」148挿絵に起源を持つ「礼讃図」の系譜に属すことから、本論文では、ジローナの刺繍布を「礼讃図」と位置づけた。刺繍布は、天と地から万物が創造主を礼讃する「礼讃図」の構図を保持しながら、天地創造場面の描出を試みているのである。礼讃の主体であった天使と動物は、ここにおいて「光と闇」の天使、動物、アダムとエヴァなど、原初の時、誕生したばかりの万物に姿を変えている。

 刺繍布が礼讃図の系譜に属すことは、「海の生き物の誕生」に描かれた二匹の海獣という、図像モティーフの検証からも明らかになる。天地創造図における「海」は「深淵」を意味し、ジローナの海獣が「深淵」の象徴ケートスの形態を継承していることから、礼讃図としての刺繍布の特質が浮き彫りになるのである。

 そして、複雑に組み合わされた場面構成によって、礼讃の対象が創造主であるばかりでなく、時間と空間を統べる支配者であること、さらに、刺繍布下部の聖十字架発見場面の存在によって、救世主としてのキリストであるとわかる。構図と図像双方の分析から、刺繍布全体が礼讃を目的としていることが明らかになったのである。

 また、刺繍布は「天地創造型マエスタス」と呼ばれる新しい礼賛図の最初期の作例である。そこで、「天地創造型マエスタス」の円環構図の系譜を辿ったところ、「天地創造型マエスタス」が宇宙の「瞬間的創造」という創世記解釈の表現であることが示された。

 第二に、刺繍布の用途と制作をめぐる問題である。カタルーニャで制作された他の刺繍作品と技法上の共通点があることから、制作地はカタルーニャと考えられる。しかし、ジローナの刺繍布の図像源は他地域から持ち込まれた可能性が大きく、その図像源のひとつであるローマ型創世記図像の制作時期を11世紀後半から12世紀初めに限定できることから、刺繍布の制作年代を以下のとおり推察した。

 つまり、ローマ型創世記図像は、ローマの改革教皇庁とバルセロナ伯家との関係が、1080年以降、1100年頃まで特に密接だったことから、写本あるいは見本帳など持ち運び可能な形態で、ローマからカタルーニャにもたらされたと考えられる。注文主は、財力のある有力者と推察される。羊毛という比較的安価な素材とはいえ、これほどの大きな作品を注文するには相当の財力が必要であり、また、ローマからもたらされた貴重な写本を利用することができる有力者だったと考えられるからである。原図の制作者は、複数の図像源を用いて複雑な構図を考案する能力がある人物、おそらく高位聖職者と考えられる。しかし、ラテン語の銘文に多くの文法上の誤りが見出せること、様式の分析によって複数の刺し手の存在が認められること、そして中世において刺繍が女性の手仕事として認められており、多くの女性による刺繍作品が制作されていることから、刺繍作業自体は必ずしも奉納者本人が行ったのではなく、複数の修道女、あるいは刺繍を専門とした刺し手によると推定される。その時期、多くの南イタリアやノルマンディーのノルマン人が、バルセロナ伯家周辺の人物と姻戚関係および主従関係を結んでいることから、当時、刺繍制作の分野で名高かったイングランドの刺し手の関与が指摘できる。つまり、従来の説では1050年から1100年と、50年間の開きがあった推定制作年代を、本論文では1080年から1100年に限定し、注文主や制作者などについても仮説を提示したのである。

 ロマネスク期、モニュメンタルな規模の刺繍作品は<バイユーのタピスリー>とジローナの刺繍布の二例しか現存しないが、姻戚関係によって汎ヨーロッパ的規模で結ばれたノルマン人が刺繍制作に関与したと仮定すると、この二点のみ現存する事実が、単なる偶然でないと思えてくる。カタルーニャとノルマン人との文化的な繋がりについては、これまでまったく指摘されてこなかったが、作品を出発点として、当時のカタルーニャの状況を調べてみると、人々の汎ヨーロッパ的でダイナミックな動きが垣間見えてくる。

 用途については、刺繍布が礼讃図であること、「創世記」が復活徹夜祭でのみ朗読されること、復活徹夜祭に使われた『エクスルテット・ロールズ』が図像学的に近縁であることなどから、刺繍布の復活徹夜祭での使用を示唆した。また、聖十字架発見譚が聖金曜日の典礼と関連していることから、刺繍布は教会暦で最も重要な聖金曜日と聖土曜日の典礼に使用された壁布だと考えられるのである。

 第三に、図像の画一化の時代としてのロマネスク、という問題である。ジローナの刺繍布の図像はあらゆる点で過渡期的な特性を示すが、刺繍布より前と後の時代の図像を比べると、後の時代、すなわち12世紀以降、図像の画一化が見られる。そして、ジローナの刺繍布には、12世紀以降発展する図像要素の萌芽を多く見ることができるのである。例えば、労働図という中世の月暦図の萌芽。ドラゴンという新しい生き物の先駆け。「天地創造型マエスタス」という新しい礼讃図の誕生。シャベルや重量有輪犂という月暦に表わされた農具さえ新しい。一方で、古代以来の月暦図、風の擬人像、年の擬人像の表現には、12世紀以降、次第に消え去っていく古い図像が保持されている。ジローナの刺繍布には、12世紀以降の図像要素の画一化以前の試行錯誤が反映されていると言える。

 以上から、ジローナの〈天地創造の刺繍布〉は、中央のキリストを宇宙支配者として、創造主として、救世主として讃える礼讃図であり、その古代的な要素と、刺繍布以降の時代に発展する中世的な要素の共存こそ、ロマネスク美術に見られる実験的精神の顕れと言えるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 金沢百枝氏の博士学位請求論文、「ジローナの<天地創造の刺繍布>研究-ロマネスクの宇宙図と創造主礼賛-」は、西洋中世ロマネスク美術を代表する優品の一つであるジローナの<天地創造の刺繍布>に新たな光を当て、その歴史的意義を図像学的手法で解明した独創性あふれる学問的成果である。

 一次資料としての記録を欠く本作品に関して、新しい視点と手法でアプローチすることは勇気ある学問的企てと言える。金沢氏は、先行研究を充分に咀嚼するとともに、<天地創造の刺繍布>の実地調査と関連資料・文献の幅広い探索を行い、作品が置かれるべき図像的コンテクストを可能な限り再構成することによって、説得力のある分析と独自の考察を展開した。美術作品の緻密な図像解釈と作品をめぐる具体的な制作状況とがリンクする様は圧巻である。その結果、本論文は美術史学の専門的な作品研究であると同時に、歴史学や思想史とも境を接する雄大な視野を持つ総合的な文化研究に成り得たのである。

 本論文は、序論と6つの章と結論で構成され、図版リスト、資料集、参考文献一覧が付加されており、図版そのものは議論の展開に即する形で本文中に組み込まれている。以下、論文の構成に則って議論を紹介し、審査委員からの指摘を記しておく。

 序論で作品の研究史を踏まえつつ、図像プログラムの解明という自らの問題設定を明らかにした金沢氏は、<天地創造の刺繍布>を、「縁部」「円環部」「聖十字架伝」の3つの部分に分けて論じていく。第1章「宇宙図として刺繍布」で扱うのは、「円環部」を取り囲む「縁部」に表された宇宙の時空間を象徴する図像モチーフである。その風配図や月暦図に古代から中世へ向かう過渡的性格を見出しながら、他方で月暦図に関わる農事暦の統計的調査から図像内容の北ヨーロッパ的特徴を抽出して、注文主や制作者の問題に考察材料を与えたのが注目に値する。

 第2章から第4章までは、中心を成す「円環部」が対象となる。第2章「礼讃図として刺繍布」では、<天地創造の刺繍布>とローマ型創世記図像とのつながりが明確に論証され、新たな美術史学的成果として審査委員から大きな評価を得た。さらには、「『詩篇』第148挿絵」などとの関連性から本刺繍布は創造主を讃える「礼讃図」であると規定し、聖土曜日の復活徹夜祭の典礼にその用途を見出すという説得性のある学説を展開している。

 天地創造図に変換された礼讃図という氏の主張は、第3章「礼讃図の二匹の海獣-ケートスの系譜とドラゴンの誕生-」においても、別の側面から補強されることになる。円環部下部に大きく描かれた二匹の海獣が、それぞれ古代の海獣ケートスから魚へ、ケートスからドラゴンへと変容する中間的形態を有することを、図像の綿密な比較と翻訳の検証によって明らかにしたのは、既に興味深い文化史的貢献である。その上で、二匹の海獣を左右対称に配置することから、刺繍布の「礼賛図」起源を指摘し、一貫性のある解釈を立ち上げたのである。

 第4章「新しい礼讃図の生成-「天地創造型マエスタス」と瞬間的創造-」では、円形枠に天地創造場面を収める構図そのものについて考察した。金沢氏は、12世紀以降増加する「天地創造型マエスタス」と命名されうるこの図像タイプの最も早い作例としてジローナの刺繍布を位置づけ、天と地の区分や万物の表現に重きを置く古い礼賛図から、円形枠に天地創造図を収める新しい礼賛図への移行的形態として円環部の構図を捉える独創的な見解を提出する。ただし、「天地創造型マエスタス」が宇宙の「瞬間的創造」という創世記解釈を表しており、ジローナの刺繍布にもその萌芽が見られるとする斬新な仮説に関しては、未だ推論に留まり、さらなる検討を要するとの意見が審査員から出された。

 第5章「約束された楽園-聖十字架発見の物語-」で、金沢氏は刺繍布の下部に表された聖十字架発見譚の役割と意義について解明を試みた。聖十字架発見譚が写本などで、創世記注解のような宇宙誌的な文脈でも用いられている事実から、ジローナの刺繍布においてもこの部分が宇宙図や天地創造図と組み合わされているのは図像プログラムとして必然性があると見なし、聖十字架の崇敬がある聖金曜日の典礼とも関わりがあると推定した。興味深い解釈ではあるが、刺繍布の聖十字架発見譚ともっとも共通性の多い、終末論的な内容を持つバルドリーノのサン・セヴェロ聖堂壁画の考察が不十分な点に課題が残るという指摘が審査員からあった。

 第6章「<天地創造の刺繍布>をめぐる諸問題」では、図像プログラム解明の成果を受けた上で、「もの」として刺繍布の制作と用途を再検討している。すなわち、制作地をカタルーニャと推定し、制作年はローマの改革教皇庁とカタルーニャのバルセロナ伯家との密接な関係およびローマ型創世記図像の伝播を勘案すると、1080年から1100年頃の可能性が高いとした。この他、制作者にノルマン人の関与を認め、用途については聖金曜日と聖土曜日の典礼に使われた壁布とするなど、妥当性のある仮説を順次提示し、作品研究を歴史学的にも進展させるものとして審査員から肯定的な評価を得た。そして結論では、「礼讃図」としての刺繍布の位置づけを総合的に行うとともに、様式ではなく図像から見たロマネスク美術再検討の可能性、並びに刺繍布の国際的性格を示唆して、論文を締めくくっている。

 本論文は総体として見ると、オリジナル作品と自己の感性との出会いを基盤にして、1個の作品を徹底的に検証し精細に読み解く模範的な事例となっている。個々のモチーフと全体の図像プログラム、図像解釈と制作状況とが整合性を持って有機的につながるその説得力は強く、「礼讃図」として<天地創造の刺繍布>を捉え直す、真に新しい研究寄与と成り得ている。美術史学であると同時に図像文化史でもあるような、斬新な方法論的立場を定立したと言ってよい。加えて、刺繍布を織り上げるような濃密で手厚い叙述、高度な専門性を帯びつつも明快でよく練られた文章、整理された論点の提示方法、鮮明なカラー図版を本文中に挿入したレイアウト等々、形式的な側面も高く評価された。部分においてはやや大胆な推論、調査の不足、注記のミスや誤字等が散見するとの指摘もあったが、それらは瑕疵に過ぎず、本論文の学問的寄与を大きく損ねるものではないことが確認された。

 以上の審査の後、審査員全員による協議の結果、全員一致で本審査委員会は、金沢百枝氏の提出論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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