学位論文要旨



No 121942
著者(漢字) 神長,英輔
著者(英字)
著者(カナ) カミナガ,エイスケ
標題(和) 「北洋」の誕生 場と人と物語
標題(洋)
報告番号 121942
報告番号 甲21942
学位授与日 2006.12.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第690号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 安冨,歩
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 助教授 安岡,治子
 東京大学 専任講師 渡邊,日日
 成蹊大学 教授 富田,武
内容要旨 要旨を表示する

 「北洋とは何か」という問いに答えるのは難しい。この研究は北洋の誕生から消滅までの歴史を三通りの方法で問い直すことでこの問いに答えを与えることを試みた。三通りの方法とは、実証研究による編年体的な通史、四人の人物に注目した伝記、そして北洋(漁業)とその歴史が語られてきたこと自体の歴史=メタ歴史という三種類の歴史記述の方法をそれぞれ指す。

 第一部「場」は日露戦争以前の時期と日露戦争後から1945年8月の日ソ戦までの時期の概説的な通史である。

 日露戦争以前の日本政府はロシア極東の漁業問題に関する外交政策、とりわけその柱である対サハリン島政策において概して宥和的だった。ただし、こうした状況は1900年前後に変化する。問題の発端はプリアムール総督府による新しい漁業規則の制定にあった。日本政府はこれに対して対抗手段による強硬な措置をほのめかすものの、結局は他の外交懸案と絡めずに穏便かつ消極的に処理する方針を優先して対処した。

 日露戦争とポーツマス講和条約の結果、日露漁業条約(1907年)によって日本人はロシア極東一円におけるロシア人と同等の漁業権を保証された。この漁業条約はその後40年近くにわたる日本人漁業者の活動の制度的枠組みの原型となった。

 同条約の期限切れの1919年以降もこの条約をもとにした暫定的な枠組みをもとにして日本人漁業者の出漁は継続された。1925年に日ソ間の国交が正常化した後の1928年には1907年漁業条約の内容を基本的に踏襲した新漁業条約が締結された。この条約は1936年に期限切れを迎えるが、その後も同条約をもとにした暫定的な枠組みによって出漁は継続した。1944年に旧条約の5年間延長が両国間で合意されるものの、翌1945年8月の日ソ戦開始によってこの合意は失われ、日本の敗戦によってそれまでの漁業の枠組みは完全に消滅した。

 ただし、ポーツマス講和条約は「日本人にも原則的に許可するが、詳細は別途締結する協定による」という方針を示したものに過ぎなかった。また1907年漁業条約によって制度的枠組みが整ったからといって、すぐに日本人漁業が成長したわけではなかった。日露戦争後にはむしろロシア人漁業者がめざましい成長を遂げた。露領漁業すなわちロシア極東における日本人漁業にとってポーツマス講和条約と1907年漁業条約が一つの重要な契機だったことは確かだが、それはあくまでも一つの条件に過ぎない。生産額でいえば、露領漁業はロシア革命と干渉戦争に乗じて急成長を遂げた。革命と干渉戦争によって深刻な打撃を受けたのはむしろロシア人漁業者の方だった。

 第二部「人」は北洋漁業に関わる人物の生涯を語る列伝である。この第二部を紀伝体とした理由は北洋漁業の歴史における相対的にマクロな変化(あるいは不変化)と相対的にミクロな変化(あるいは不変化)の関わりを問うためである。

 第二部の主人公は露領漁業と北洋漁業の歴史において重要な役割を果たしたと見なされてきた郡司成忠と平塚常次郎、重要ではあるが、これまでに取り上げられることの少なかったデンビー父子の四人である。

 郡司成忠を北洋漁業の先駆として見なす評価は的外れである。1893年の郡司の千島行が多くの人々の関心を千島に向ける契機になったことは確かである。しかし、漁業と郡司の接点は郡司の生涯の活動を通じて乏しかった。また日本人漁業者による出漁がブームとなった日露戦争後のカムチャッカにおいても郡司の足跡をはっきりたどることは難しい。郡司が露領漁業を営む日本人漁業者の組合の長を短期間ながら務めたことは事実だが、実際に郡司が露領漁業のためになした功績を確認することは困難であり、郡司を北洋漁業の先駆者として評価することには無理がある。

 デンビー父子のデンビー商会は郡司と同時代に長く露領漁業の中心にあり、ロシア極東の各地で各種の漁業に多角的に関わって大きな成功を収めた。日露戦争以前のデンビー(父)はセミョーノフ商会の経営者の一人としてサハリン島、アムール川下流、カムチャッカなどロシア極東の各地の漁業に関与した。サハリン島では日本人漁業者の競争相手であると同時に日本人漁業者に対する漁場の賃貸人という役割も担っていた。サハリン島で生産したセミョーノフ商会の生産物の大半は函館で販売されたし、函館ではセミョーノフ商会が使用する労働者の募集もおこなわれた。また日露戦争後もデンビー商会はカムチャッカの漁業で大きな成功を収めた。日本人漁業者たちはデンビー商会との競争を通じて成長し、革命と内戦、干渉戦によるデンビー商会の危機に乗じて一気にその勢力を拡大するに至った。デンビー商会こそ露領漁業の草創期に大きな役割を果たした、まさに先駆者的な存在だった。

 そのデンビー商会との競争のうちに成長し、最終的にはデンビー商会の没落に際してそれに取って代わり、デンビー商会を遙かに凌ぐ成長を遂げたのが平塚常次郎と堤清六の日魯漁業株式会社である。平塚と堤は自らの才覚と行動力、そして政官界との関係を強めて政治の力を利用することで日魯漁業株式会社を巨大な独占企業へと成長させた。しかし、政治権力との深い関係は第二次大戦以前の露領漁業・北洋漁業の経営基盤がソ連領内の漁業権という実は危ういものの上にあったことの裏返しである。結局、露領漁業の漁業権は日露・日ソの国際関係の情勢に左右されるものだったため、日露戦争を契機に生まれシベリア出兵によって強化された権益も第二次大戦によって失われることになったのである。

 第三部「物語」は物語論によって北洋漁業の歴史の語り方を問う試みである。

 北洋漁業がおこなわれている海域が北洋なのであり、その逆ではない。北洋という概念はほぼ常に漁業に関係する文脈の中で用いられてきた。北洋はそれ自体で独立した地理的な概念ではなく、北洋漁業がおこなわれている海域を指す概念なのである。

 北洋漁業とは「(アイヌやニヴヒなどの先住民を含まない)エスニシティーとしての日本人によって日本から北に連続して広がっていると想像される空間で行われる漁業」である。この定義を用いれば、北洋漁業の通史において語られている北洋や北洋漁業の範囲が時代によって変化することを説明することができる。実際にこれまでに書かれてきた北洋漁業の歴史の対象になっているのはこの定義を満たす漁業である。

 1930年前後にソ連は漁区の高額入札などを通じて日本の権益の回収を試みた。日本側ではこうした事態を北洋漁業の危機と称した。この際に日本の雑誌や新聞は日本の漁業利権を擁護してソ連を非難する各種のレトリックを多く生産した。そしてこれらの同時代を語るレトリックを材料にして北洋漁業の歴史を語る共通の物語の構造が作られた。これ以後、こうした物語の構造が北洋漁業の歴史を語る場で広く使われるようになる。

 こうして共有される物語の構造は北洋漁業の歴史のいわばメタ物語である。このメタ物語をこの論文では北洋物語と呼ぶ。北洋物語の主人公は「われら日本人」であり、敵対者は「彼らロシア人」である。このメタ物語は「われら日本人」が苦難を克服して成功に至るというプロットを持つ。北洋漁業の歴史の多くはこのメタ物語が階層的に構成されて作られたものであり、こうした物語の構造によって先に挙げた北洋漁業や北洋の定義を根拠づけることができる。またこうした単純な構造ゆえに北洋物語はわかりやすいものとして聞こえ、そうした聞こえのよさゆえに北洋物語は広く受け容れられるようになった。

 1950年代前半、日本の主権回復に伴って北洋漁業が再開した。そして1960年代には日本漁船の安全操業問題に関わる語りの場で領土問題を漁業問題と関連づける契機が生じる。この結果、すでに長く慣れ親しまれてきた北洋物語を利用して領土問題を語るという語りの様式が作られた。その後1970年代を通じて北洋漁業の規模が年々縮小すると、もはや北洋物語によって北洋漁業を語ることはなくなった。すでに北洋漁業についての語りの主人公は一枚岩の私たち=日本人ではなかったのである。この結果、北方領土問題こそが北洋物語の構造によって語るのにふさわしい私たち=日本人の物語とみなされるようになって現在に至った。

 物語は関係性の束である。この研究は北洋漁業の歴史という物語を収集し、その物語を解きほぐしてさまざまな関係性のありかたを検証する試みである。第一部の語り方は既存の北洋漁業の通史に通じる語り方であり、第二部の紀伝体はそれとは違う方法による関係性の束ね方である。また第三部はそうした束ね方の規則、法則を探る試みである。その過程でこれまでの北洋漁業の語り方、関係性の束ね方の特徴が明らかになった。

 歴史的事実とは歴史物語の構成要素であり、歴史的事実は北洋漁業の構造という物語のルールに従って構成されて北洋物語を形成している。人間が物語によって思考する以上、北洋物語の存在そのものを批判するのは無意味である。北洋物語の中で語られている多くの歴史的事実を理解し意味づけようとするなら、そこには何らかの物語が必ず必要になる。検討すべきは物語によって語ることそのものではなく、ある社会の中で歴史的に形成されてきた物語の方である。問われるべきは人が物語で考えることそれ自体ではなく、自然にできた風を装う物語が隠し持っている来歴なのであり、あまたの歴史的事実を物語の中に意味づけていく文脈としての物語の構造なのである。

(了)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、北洋の誕生から消滅までの歴史を三通りの方法で描き出したものである。三通りの方法とは、実証研究による編年体的な通史、四人の人物に注目した伝記、そして北洋(漁業)とその歴史が語られてきたこと自体の歴史=メタ歴史という三種類の歴史記述の方法である。全体として「北洋とは何か」という問いに答えた力作である。

 第一部「場」は日露戦争以前の時期と日露戦争後から1945年8月の日ソ戦までの時期の概説的な通史である。日露戦争以前の日本政府はロシア極東の漁業問題に関する外交政策、とりわけその柱である対サハリン島政策において概して宥和的だった。ただし、こうした状況は1900年前後に変化する。問題の発端はプリアムール総督府による新しい漁業規則の制定にあった。日露戦争とポーツマス講和条約の結果、日露漁業条約(1907年)によって日本人はロシア極東一円におけるロシア人と同等の漁業権を保証された。この漁業条約はその後40年近くにわたる日本人漁業者の活動の制度的枠組みの原型となった。1925年に日ソ間の国交が正常化した後の1928年には1907年漁業条約の内容を基本的に踏襲した新漁業条約が締結された。この条約は1936年に期限切れを迎えるが、その後も同条約をもとにした暫定的な枠組みによって出漁は継続した。1944年に旧条約の5年間延長が両国間で合意されるものの、翌1945年8月の日ソ戦開始によってこの合意は失われ、日本の敗戦によってそれまでの漁業の枠組みは完全に消滅した。

 第二部「人」は北洋漁業に関わる人物の生涯を語る列伝である。第二部の主人公は露領漁業と北洋漁業の歴史において重要な役割を果たしたと見なされてきた郡司成忠と平塚常次郎、重要ではあるが、これまでに取り上げられることの少なかったデンビー父子の四人である。郡司成忠を北洋漁業の先駆として見なす評価は的外れであることが明らかにされている。郡司が露領漁業を営む日本人漁業者の組合の長を短期間ながら務めたことは事実だが、実際に郡司が露領漁業のためになした功績を確認することは困難であり、郡司を北洋漁業の先駆者として評価することには無理がある。デンビー父子のデンビー商会は郡司と同時代に長く露領漁業の中心にあり、ロシア極東の各地で各種の漁業に多角的に関わって大きな成功を収めた。また日露戦争後もデンビー商会はカムチャッカの漁業で大きな成功を収めた。日本人漁業者たちはデンビー商会との競争を通じて成長し、革命と内戦、干渉戦によるデンビー商会の危機に乗じて一気にその勢力を拡大するに至った。デンビー商会こそ露領漁業の草創期に大きな役割を果たした、まさに先駆者的な存在だった。そのデンビー商会との競争のうちに成長し、最終的にはデンビー商会の没落に際してそれに取って代わり、デンビー商会を遙かに凌ぐ成長を遂げたのが平塚常次郎と堤清六の日魯漁業株式会社である。平塚と堤は自らの才覚と行動力、そして政官界との関係を強めて政治の力を利用することで日魯漁業株式会社を巨大な独占企業へと成長させた。しかし、政治権力との深い関係は第二次大戦以前の露領漁業・北洋漁業の経営基盤がソ連領内の漁業権という実は危ういものの上にあったことの裏返しである。結局、露領漁業の漁業権は日露・日ソの国際関係の情勢に左右されるものだったため、日露戦争を契機に生まれシベリア出兵によって強化された権益も第二次大戦によって失われることになったのである。

 第三部「物語」は物語論によって北洋漁業の歴史の語り方を問う試みである。北洋漁業とは「(アイヌやニヴヒなどの先住民を含まない)エスニシティーとしての日本人によって日本から北に連続して広がっていると想像される空間で行われる漁業」である。1930年前後にソ連は漁区の高額入札などを通じて日本の権益の回収を試みた。日本側ではこうした事態を北洋漁業の危機と称した。この際に日本の雑誌や新聞は日本の漁業利権を擁護してソ連を非難する各種のレトリックを多く生産した。そしてこれらの同時代を語るレトリックを材料にして北洋漁業の歴史を語る共通の物語の構造が作られた。これ以後、こうした物語の構造が北洋漁業の歴史を語る場で広く使われるようになる。こうして共有される物語の構造は北洋漁業の歴史のいわばメタ物語である。1950年代前半、日本の主権回復に伴って北洋漁業が再開した。そして1960年代には日本漁船の安全操業問題に関わる語りの場で領土問題を漁業問題と関連づける契機が生じる。この結果、すでに長く慣れ親しまれてきた北洋物語を利用して領土問題を語るという語りの様式が作られた。その後1970年代を通じて北洋漁業の規模が年々縮小すると、もはや北洋物語によって北洋漁業を語ることはなくなった。すでに北洋漁業についての語りの主人公は一枚岩の私たち=日本人ではなかったのである。この結果、北方領土問題こそが北洋物語の構造によって語るのにふさわしい私たち=日本人の物語とみなされるようになって現在に至った。

 以上が提出論文の要旨であるが、本論文の意義は、「北洋魚業」のイデオロギー性をロシア(ソ連)沿岸水域における日本人による漁業の歴史を跡付けることによって明らかにし、この観念が1930年代の露領漁業におけるソ連の進出に対抗するイデオロギーとして、戦後には「北方領土」要求を援護射撃するイデオロギーとして機能したことを浮き彫りにした点にある。従来は、露領漁業の研究はあったものの、時期が限定されていたり、経営史ないし外交史の視角からの分析であった。本論文はそのいずれの視角をも踏まえた「北洋物語」の言説史研究として極めてユニークであり、オリジナリティーに富んでいる。本論文の「場」「人」「物語」という三部構成は、事実史、人物史、言説史による「北洋漁業」分析として妥当であり、分析内容も明快である。日露戦争後にロシア人による漁業が発展したこと、日本は革命・干渉戦争期に乗じて露領漁業で勢力を伸ばし、「自衛出漁」はその手段にほかならなかったことなど、伝統的な「北洋漁業」観を事実で論駁している。また第一部でプリアムール総督府の文書を駆使して、ロシア側の意図、政策を丹念に跡付けている点、第二部で郡司成忠の従来の評価を覆し、これまで殆ど触れられてこなかったデンビー父子に正当な評価を与えている点も高く評価できる。結局のところ、「北洋漁業」は、時代に応じて融通無碍に意味内容を変化させる観念であった。とくに1930年前後の「北洋漁業の危機」キャンペーンの中で、日本の利権擁護、ソ連非難のレトリックが生産されて「北洋物語」が成立し、戦後の領土問題にも転用されるに至った、とする結論も十分に説得的である。

 しかしながら、本論文にもいくつかの弱点が無いわけではない。第一に、第一部が突出して長く、論文としてのバランスに欠けている。第二部でやや資料の扱い方に問題があることが挙げられる。第三に、第三部の理論的裏づけが弱い点である。第三部のブレモンらに従った物語の解析は基本的方向には間違いがないと判断されるが、その細部の展開において釈然としない部分が残っている。これは物語理論を単に応用するだけではこの問題が、十分に処理できないのであり、物語理論そのものを発展させる必要があったことを示している。

 しかし、これらの点は本論文の学術的価値をいささかも損なうものではない。総じて、本論文は、全体としてきわめて高水準の論文であり、学界に対して多大な貢献をしたものと認めることができる。したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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