学位論文要旨



No 121954
著者(漢字) 田中,良英
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ヨシヒデ
標題(和) エカチェリーナ1世時代(1725-27年)におけるロシア統治構造の研究
標題(洋)
報告番号 121954
報告番号 甲21954
学位授与日 2007.01.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第570号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,規衛
 東京大学 教授 近藤,和彦
 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 金沢,美知子
 お茶の水女子大学 助教授 安成,英樹
内容要旨 要旨を表示する

 18世紀ロシア史において、1725年1月のピョートル1世の死から1762年6月のエカチェリーナ2世の即位までの時期は、「宮廷クーデタの時代」と称されるなど、前後の改革の時代とは対照的な「停滞」あるいは「反動」の時期として否定的に評価されがちであり、とりわけ欧米史学においては研究関心自体も乏しい傾向を見せている。このように「宮廷クーデタの時代」を前後の時期とあたかも断絶したものと見なす視点については、近年ロシア人研究者А.Б.カメーンスキーが批判的な見解を示し、18世紀ロシア史全体を一貫性のもとで捉える立場を提唱してはいるが、こうした見解を裏付けるような実証研究はいまだ十分とは言えない。そこで本稿の目的の一つは、ピョートル1世の直後に続くエカチェリーナ1世時代(1725-27年)の実態分析を通じ、「宮廷クーデタの時代」が18世紀ロシア帝国の統治構造の性格を定める上で有した積極的な意義について再検討することにある。

 従来「宮廷クーデタの時代」を批判する際の根拠とされてきたのが、(1)ピョートル改革の成果の放棄あるいは逸脱、(2)君主の個人的能力の低下に伴う「サマデルジャーヴィエ(絶対君主による支配体制)」の弱体化、(3)寵臣の跋扈による政府の混乱や国益の侵害、などであり、本稿でも常にこれらの論点を意識しながら、各章での考察を進めている。

 まず第1章ではエカチェリーナ1世の治世の前史として、彼女の即位を可能にした法的・政治的条件を概観した。これには(1)の論点を検討する前提として、ロシア史におけるピョートル改革の意義を確認する意味もある。ピョートル改革の個々の要素の先駆性に関しては否定的な見解も見られるが、総体として考えれば、やはりこの改革によりロシア社会が大きく変質したことは疑いない。また個別の要素でも、とりわけ国家儀礼や表象といった君主権力の「権威」に関する領域ではモスクワ大公国時代からの相違が著しい。こうした性質は、本章が扱う1724年の皇后エカチェリーナの戴冠式や1725年のピョートル1世の葬儀といった臨時の大規模な儀礼に留まらず、第5章第3節で対象とした、毎年定期的に開催される新年の祝賀や聖水式など日常的な儀礼、そして皇帝の日常の行動様式にも共通している。これらの舞台が、旧都モスクワとは地理的環境も大きく異なる新首都ペチェルブールクに移動した点も、極めて象徴的な変化であった。ピョートル時代を経て君主観や女性の社会的地位が変化したことも、エカチェリーナの即位を容易にしたと言える。

 ただしピョートル改革は、前もって準備された綱領に基づいて実現されたわけではなく、その時々の周囲の状況に強く規定されていた。そのような状況変化の中で最も大きかったのは、やはり1721年の北方戦争の終結である。これを契機に、ロシア帝国では本来戦時体制から平時体制への移行が果たされるべきであったが、1725年1月のピョートル1世の死により、彼の時代に十分に検討されることはなかった。またピョートル改革における計画性の欠如は、ピョートルの法令の性格にも示されている。原則のみが提示され、実地に適用するための具体的手段に関する指示を欠くことが多いため、帝位継承法の解釈に際して目撃されたように、時には極めて大きな混乱を招くこともあった。このようにピョートル改革は、必ずしも細部まで完成されたシステムを後世に残したわけではなかったのである。

 次いで第2章では、諸法令と政策決定過程双方の分析を通じ、エカチェリーナ1世政府による国内・外交政策の全般的傾向を考察した。彼女の治世初期、1725年の段階では即位に伴う体制強化が図られると共に、ピョートルの死により中断された諸事業の完成が施策の中心を占めている。しかし、ただ漫然とピョートル時代の諸制度が引き継がれたわけではない。元老院検事総長ヤグジーンスキのように、すでにこの時期からピョートル改革の問題点を認識し、その修正を提案する高官も存在した。こうした改革再考の機運は1726年以降、顕在化する。中でも、同年2月に設立された最高枢密院に属する最上層の高官達が、同年末女帝からの要請に基づき、ピョートル改革の修正案を論じる建白書を提出した動きは大きい。これら建白書の内容は一旦1727年1月9日付けの勅令で総括された後、最高枢密院での討議を経て、最終的に同年2月24日付けの勅令に結実した。この勅令には、ピョートル改革の基本的な方向性を堅持すると共に、ロシア社会の実情に即した修正を追求するエカチェリーナ政府の姿勢が明示されており、(1)を否定するものとなっている。

 また最高枢密院の性格を再確認することは、(2)の論点の検討にも通じる。この機関の設立自体を、伝統的なアリストクラートによる皇帝権力制限の動きと捉える見解も存在したからである。しかし近年の研究に見られるように、この種の君主諮問会議の構想が、すでにピョートル時代からスウェーデン等の国制を参考にして準備されていたこと、さらに1725年から1726年初頭における水面下の動きからも、女帝の排除ではなく彼女の補佐を目的に会議が想定されていたことを考えると、上記の見解は妥当とは言えない。さらに設立後においても、最高枢密院による決定が皇帝権力の抑制を可能にするような法規定が生じることはなかった。先述の1727年2月24日付け勅令の形成過程でも、最高枢密院議員各人の提案が等しく配慮される傾向が見られる一方で、最終的には女帝による修正が加わる形で草案が完成されている。すなわち、あくまでサマデルジャーヴィエの原則を維持する形での国家運営が遂行されていたのであり、最高枢密院に象徴される当時の最上層のエリート達は、むしろ個人的な統治能力に乏しい女帝を補完する役割を担っていたと言える。

 この点と関連し、本稿が第2の目的としたのは、当時の貴族エリート層の実態を分析する中で、彼らと皇帝権力との関係がロシア帝国の統治構造にいかなる性格を与えたか、解明することである。ただし統治構造における「皇帝権力」について考察する際には、君主の個人的資質のみに着目するのではなく、「制度としての君主権力」の強弱を対象とすべきであり、(2)の主張はそうした観点を欠く点でも問題がある。またこの「制度としての君主権力」という考え方は、(3)の寵臣の働きを肯定的に捉え直す上でも重要となる。第5章第1節では、エカチェリーナの「寵臣」メーンシコフ公爵の行動記録をもとに、当時の政府における彼の機能について分析したが、それによれば、彼は女帝との頻繁な接触の中で、しばしば彼女の指令を代わりに伝達するなど、まさに女帝の個人的な行政活動を補助する働きを示している。さらに彼は、他の有能な実務官僚、そして当時軍および行政機構の双方で指導的任務を負うことの多かった近衛連隊士官とも密接な関係を維持した。こうしたメーンシコフを中心とする人的交流の構図は、当時の国家運営を円滑化する上で肯定的に働いた可能性が高い。このような形を通じ、エカチェリーナ1世の治世においては、「制度としての君主権力」を中核として、サマデルジャーヴィエが安定的に維持されたのである。

 先述のように、最上層の高官でさえも皇帝権力に対抗的な動きを示すことはなかったが、それにもまして中下層の勤務層は皇帝権力に対し依存的な姿勢を示した。こうした勤務層の心性や行動様式について、1725-27年に彼らから提出された嘆願書の分析を通じ論じたのが、第3章である。それによれば18世紀勤務層には、17世紀貴族層と比較して、集団による身分的特権の確立や制度変革に関する意識が乏しく、個別に罪の赦免、財政状態や勤務環境の改善を要請する傾向が強い点を特徴としている。多くの嘆願書で根拠とされたのも、皇帝政府の法令、そして国家および宮廷に対する自身の勤務であり、逆に言えば、それら以外に彼らは皇帝権力に働きかける際の有効な論拠を持たなかった。

 そのような勤務層からの嘆願書の多くで問題視されたのが、当時広い範囲で目撃された俸給遅滞の現象である。第4章では個別にこの問題を取り上げ、ピョートルおよびエカチェリーナ両政府による対策の変遷について整理し、両者の連続性の問題についても改めて考察した。1711年以降、ピョートル1世は画一的な租税システムと並行して画一的な俸給システムの整備に尽力したが、彼の晩年には財政難を原因として、俸給支払いに明らかな支障が生じていた。この対策として、主に文官1人あたりの支給額削減による支出減の追求が見られ、それはエカチェリーナ政府にも継承される。しかし先述のように1726年以降、エカチェリーナ政府がピョートル改革の修正に着手し始める中で、同じ支出減を図る際にも受給者の人数自体の縮小に重点を移す傾向が生じた。とりわけ象徴的なのが、第3節で分析対象とした、近衛連隊の兵士・下士官の大量異動や退役による軍の再編の動きである。

 なお制度の不備に起因する嘆願の頻出は、政府にとって本来政策の不首尾を意味するものであったが、その一方で皇帝と臣下・臣民の間の凝集性を高める機能も有していた。法的には嘆願書提出の抑制を図る姿勢を示しながら、皇帝政府の側でも嘆願という回路には一定の配慮を見せた。第3章後半に示したように、政府は皇帝の官房に集積された嘆願書に対して綿密な調査を実施し、特に財政状態や勤務環境の改善については40%近くに応えたのである。その中でも近衛連隊や宮廷勤務者といった、皇帝に近い位置にある者達が優遇される傾向が顕著に見られ、これは皇帝への近接性の意義を高めたと推測される。第5章第2節で扱った近衛重騎兵隊も、そのような皇帝との近接性を保証する職場であった。

 こうした皇帝権力と貴族層との間の協調および強固な凝集力を大きな特徴とするロシアのサマデルジャーヴィエの姿は、およそヴェーバー的な官僚制モデルとは異質であるが、その一方で18世紀ロシア帝国の大国化に大きく寄与したことも確かである。このサマデルジャーヴィエはピョートル改革により一旦再編された後、「制度としての君主権力」を核とする形に些か変化しつつエカチェリーナ1世政府にも継承された。これは、彼女の治世に見られた、ピョートル改革の方向性を維持しつつ平時体制を意識した修正を図る姿勢と共に、その後エカチェリーナ2世の即位まで共通する統治構造の起点をなしたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文の目的は、1725年から1727年までのエカチェリーナ1世政府の政策行動、ならびに統治エリート層の動向の分析を通して、ピョートル1世の改革がもたらしたロシア国家再編成が定着する過程と、その再編成が後のロシア専制に対して有した意義とを解明することにある。分析に際して、現在にいたるまでに刊行された史料や、膨大な未刊行史料群がひろく利用された。また、ロシア内外の研究状況の周到な検討を踏まえる一方、欧米などで有力となったプロソポグラフィーの手法や、王権の国家儀礼研究に見られる文化人類学的な方法にも積極的に目を向けている。

 本論文の中心となる二つの主題への取組みについては、以下の通りである。

 第1に、エカチェリーナ1世の即位式をめぐる状況や国家儀礼の分析、ならびに、新政府の国内・対外政策の傾向の分析を通して、伝統的な大貴族層の間にはピョートル以前の時期へ回帰したり、専制権力を抑制したりする動きが欠如していた事実を確認し、また、ピョートル1世の定めた政府の内政・外政の基本路線にも変化が見られないことを解明した。さらに、改革事業を象徴する官僚制化の問題、とくに俸給問題でも、試行錯誤に充ちていたピョートル1世の改革の試みが、一定の修正を伴いながらもエカチェリーナ1世政府の下ではじめて整備され、定着していった事実を、本論文は確認する。

 第2に、ピョートル1世の治世を経る中で、勤務層(奉公人層)と専制君主の相互関係が大きく変化し、伝統的な大貴族、新興貴族、下層の貴族集団も、皇帝権力に対して依存的な集団に転化したという重要な事実を、解明した。まさにこの事実が、ロシア帝権に対して、変化する近代世界の中でも強力なリーダーシップを発揮させた背景ともなった、との重要で、説得力のある結論を導き出している。

 なお、しばしば帝権を弱めるものとうけとめられてきた寵臣も、実際には「制度としての専制君主」を補完するものであったことを、確実な史料に基づき明確に論証した。

 本論文は、法令(公布、非公布併せて)の悉皆調査とその分類作業や、関係する時期のほぼすべての嘆願書(文書館史料)の調査などに基づいて勤務層(奉公人層)の心性や行動様式を分析し、統治の実態を解明した点で、ならびに多義的で、不確定の要素の多いエカチェリーナ1世治下ロシアにおける基本的事実関係を、一次史料に立ち返って確定した点などでも、国際的な水準に照らして重要な貢献と評価できる。

 たしかに叙述の仕方、概念設定、訳語などの面で、若干の工夫や彫琢の余地は残されている。しかしながら、本論文の達成した上記の顕著な成果を鑑みて、審査委員会は一致して、本論文に博士(文学)の学位を授与するのが適当であると判断した。

UTokyo Repositoryリンク