学位論文要旨



No 121955
著者(漢字) 三瀬,朋子
著者(英字)
著者(カナ) ミセ,トモコ
標題(和) 医学研究における利益相反問題 : 近年のアメリカ法の動向から
標題(洋)
報告番号 121955
報告番号 甲21955
学位授与日 2007.01.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第199号
研究科 法学政治学研究科
専攻 基礎法学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 寺尾,美子
 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 高見澤,磨
 東京大学 教授 荒木,尚志
 東京大学 教授 神作,裕之
内容要旨 要旨を表示する

 本論文が取り組むテーマは「医学研究における利益相反問題」である。この問題の構造を鮮明に浮かび上がらせるひとつの事件をまず紹介する。この事件にふれたことが本論文の出発点でもある。

1 本論文の問題意識:ゲルシンガー事件

 1999年、ペンシルバニア大学で遺伝子治療の臨床研究に参加した18歳の青年が、その臨床試験の最中に死亡した。ゲルシンガーという名前のこの青年は、まれな遺伝子疾患を患っていたものの、死亡するような深刻な症状ではなく、死亡の原因は、この臨床研究で彼の体内に注入されたウィルスであった。この事件はアメリカで全国的スキャンダルとして報じられた。

 さまざまな問題点が浮かび上がる中で最も注目を集めたのは、研究責任者の医師とペンシルバニア大学に莫大な金額の金銭的利益相反があったことであった。この医師は大学に勤務するかたわら、いわゆるバイオ・ベンチャー企業を起業し、このウィルスについての特許を申請しており、このベンチャー企業からいずれは1350万ドルもの利益を得る予定であった。大学もこの企業の株式を5%有しており、この研究につき妥当なチェック機能を果たさなかったのはそのせいではないかと批判された。

 本論文が扱う「医学研究における利益相反問題」とは、このように、臨床研究に携わる医師や医療機関そのものが、その研究の結果から影響を受けるような金銭的利害関係を有しているという問題である。関連企業の株を所有しているなどはその典型である。このような医師が患者の利益を守れるのだろうか。自分の金銭的利益の方を優先したいという衝動に駆られはしないだろうか。また、このような立場の医師に客観性の求められる臨床試験を任せてもいいものだろうか。

 この事件の内容に触れると、数々の疑問が生じる。(1)まず、金銭的利益相反の状況にある医師および研究機関が医学研究に携わることが、なぜ法的に禁じられていないのか。(2)第2に、インフォームド・コンセントの発祥の地であるアメリカで、このような利益相反の事実を被験者に開示しなくてもよいのか。開示につき法的義務は課せられていないのか。また仮にこの義務が存在したとして、利益相反について説明した上で被験者の了承を取ってさえいれば、そのような医師でも医学研究に携わることに問題はないのか。

 これらの疑問への答えを探ることが本論文の課題である。

2 2つの課題

(1)複数の政策目標

 医学研究における利益相反問題に対応するにあたり、アメリカ社会は、2つの課題を抱えていた。一つ目は、バイオ産業の急成長の中で、その「産業を保護育成しよう」とする政策課題を、医学研究の前提といえる「科学的客観性」と「被験者の安全」という大命題を損なうことなく遂行することである。

 この問題につき、アメリカ法はいかなる施策をとったか。論文では、連邦法、連邦行政規則、ガイドライン、州判例法、さらに専門家団体のガイドラインといったあらゆるレベルの法およびルールを分析対象とする。その際「患者への説明と同意」というインフォームド・コンセントの原則がどのような働きをしているのかに注目する。上記の2つの疑問への答えを、各章で段階を追って積み重ねていく。具体的内容は3に概要を示す。

(2)「ハード・ロー」対「ソフト・ロー」

 課題の2つめは、「ハード・ロー」対「ソフト・ロー」の問題である。この分野のルール作りを、連邦法、連邦行政規則、州法などの「ハード・ロー」にゆだねるべきなのか、あるいは、医師会などの自律的ガイドライン、すなわちいわゆる「ソフト・ロー」にゆだねるのがよいのか。連邦行政府は、結局、拘束力のないガイドラインを作成するにとどめ、アメリカ医師会などの自律的ガイドラインというソフト・ローに多くを任せることを選択した。

 医師の専門家団体が自らルールを策定しそれを守っているという「自己規律」がうまく機能していることは、社会が医師という専門家に「信頼」を寄せる条件であるという。この議論にしたがえば、医師集団に対する「信頼」を損なわないためには、外部からの法的規制は少ない方がよい。だが、自律的規則というソフト・ローに任せれば、その実効性が危惧される。ソフト・ローにおいては、その「実効性がいかにして担保できるのか」が重要である。

 連邦厚生省被験者保護局の元局長であるコスキ氏の論稿とインタビュー調査の結果から、この問いに対する一定の考察を行う。結論として、この分野でソフト・ローが、適切に作成され、実効性を持ちえたのは、「さもなければ厚生省が規則を制定する」という脅威が存在していたからであった。さらに、医療のの分野での行政規則は、もし制定されれば、法律を適正に解釈したものと推定され、法律に近い社会的影響力をもつという。この意味で、上記の「ソフト・ロー」は、「ハード・ロー(が制定される可能性)」に支えられた「ソフト・ロー」であったことが明らかとなる。

3 本論文の構成と結論

 序章では、わが国の状況にふれる。わが国でも大学にTLO(技術移転部門)が設けられたり、1999年には公費による研究の成果の知的財産権の私有化を可能とする法律が制定されたりと、利益相反問題が現実となりうる状況にある。第1章では、上記ゲルシンガー事件を扱う。第2章では、金銭的利益相反問題の社会的、法的および経済的背景を分析する。第3章では、金銭的利益相反問題の構造を分析しとりうる政策的選択肢を提示する。第4章では、現行の連邦法のルールの内容と、1999年以降の議論の結果、アメリカ連邦厚生省がとった政策を分析する。

 第5章では、州法を扱う。特に、この分野で全米に最も影響があったとされるムーア判決を中心に検討し、この問題に対応する上での、インフォームド・コンセント法の可能性を探る。金銭的利益相反問題につき、ソフト・ローの一つとして、主にアメリカ医師会の倫理綱領を第6章で分析対象とする。

 以上の検証から、上記の2つの疑問に対して、それぞれ以下のような答えを得る。(1)第一に、金銭的利益相反にある医師および研究機関が医学研究に携わることが、なぜ法的に禁じられていないのか?それは、バイオ産業の保護育成という目的のためである。(2)第二に、医学研究における金銭的利益相反については、被験者に開示するインフォームド・コンセント法上の義務はないのか?また、仮にその義務があった場合に、患者の同意があればただちに利益相反の問題は解消するのか?上記のさまざまなルールを分析すれば、患者への「開示」は法的(判例法上)にもガイドラインのレベルでも「されるべきもの」とされていることがわかる。アメリカ法を全体として見た場合、さらに専門家団体のソフト・ローを含めたルールの分析を行った場合、患者への開示義務と同意を得る義務が存在する。

 だが、患者の同意があればただちに利益相反の問題は解消するのかといえば、決してそうではない。すなわち、患者の同意があるというだけで、この問題における医師の責任が不問に付されることはない。IRBや行政機関への開示が義務づけられている。それはなぜか。この問いを6章と7章で中心的に扱う。各ルールの規制目的から推察できる理由は、これらの規制が、「被験者の保護」だけでなく、「研究結果の科学的客観性」をも目的としていたことである。医学研究に携わる医師は、目の前の患者だけでなく、「社会全体の利益」のためにも尽くさなければならない。したがって、その責務を損なう危険性のある「利益相反」については、患者当人の同意を得るだけでは不十分であり、社会全体を代理する何らかのしくみによるチェック機構がなければならない。

 第7章では、この考察を別の方向から検証する。利益相反禁止ルールを古くから規定してきた「アメリカ信託法」と「弁護士の法・倫理」における利益相反禁止ルールの内容につき、「当事者の同意」と関係した部分を抽出し、比較する。信託法においては、受益者の「同意」さえあれば、「利益相反」状況にあっても法的責任は解除される。だが、弁護士倫理においては、依頼人の「同意」だけでは不十分であり、「「専門家としての独立」が損なわれない」とのもうひとつの条件が付されている。弁護士や医師は、依頼人や患者の利益のために尽くすだけではなく、弁護士の場合は「法システム」という、ひとつの「公益」を支える責務も負っている。医学研究における医師も同様に、「研究結果から影響を受ける社会全体」に対して責任を負っている。だが、信託法の受託者は、受益者の利益のみに対して責任を負う。この違いのために、弁護士や医師は、依頼人や患者からさえ一定の独立性を保たなければならない。この分析は、6章までの考察を裏付けるものである。

 このようなルールのあり方から浮かび上がる医師像とはどのようなものか。そこには、伝統的医師に求められていた「患者のためだけに尽くす医師」像とは異なり、「社会全体の利益となりうる研究にも積極的に参加する医師」、すなわち「社会全体の利益にも奉仕する医師像」が見えてくる。医学研究における医師には、被験者の保護はもとより「科学的客観性」という「社会全体の利益」に仕えることも強く期待されている。

 わが国でも、たとえば2004年に、大学発のベンチャー企業の株を医学研究の依頼を受けた大学病院の研究者が購入していたとの、報道があった1。わが国でも、医学研究における利益相反問題が顕在化しつつあり、ルール作りが模索されている。医学研究における金銭的利益相反問題についてのアメリカがとった選択は、わが国へも示唆を与えうると思われる。

1 毎日新聞2004年6月12日朝刊一面。

審査要旨 要旨を表示する

 三瀬朋子氏提出の博士論文「医学研究における利益相反問題―近年のアメリカ法の動向から―」は、医師が研究者として立ち現れる場合に生ずる利益相反問題の中で、医師が研究成果について金銭的利益を有する場合の利益相反問題をとりあげ、アメリカ法の下でどのような取扱いがなされてきたかを解明した論文である。

 一般に、論文評価には、(1)適切で重要な課題の発見能力、(2)その課題を追求する粘着力と誠実性、(3)課題の分析手法の斬新さ適切さ、(4)検討結果の意義などさまざまな点からの評価がなされるが、それらを踏まえて、本論文には、以下のような長所が認められる。

 第1に、本論文の対象とする医学研究における金銭的利益相反問題は、それ自体きわめて重要な現代的テーマでありながら、わが国においてはまだ研究がなされていないものである。医療と法に関する問題を本格的に法学的視点から扱う研究は、わが国においてまだ十分でなく、そのなかでこのテーマに着目し多角的な視点から重層的に論じたことが本論文の第1の特色であり、大きな意義を有する。アメリカ法研究の常道である、連邦と州の権限分配に目を配り、しかもこの分野が判例法よりも連邦の行政規則による規制が重視されたところから出発し、そのうえで、連邦法、その下での行政規則、州の判例法、さらに連邦政府のガイドラインや医療関連の専門家団体の発したガイドラインの内容に至るまで論及がなされており、全体として、この問題の全体像を明らかにする上で有効なアプローチであったということができる。

 第2に、その結果として、行政規則や判例法以上に、実はこの分野ではガイドラインなどのソフト・ローが大きな役割を与えられているさまが如実に描かれる。その内容として、医学研究において医師の持つ金銭的利益相反を法律や規則で禁止せず、情報開示ルールであるインフォームド・コンセントについても直接の定めを置かない代わりに、ガイドライン・レベルで金銭的利益相反の弊害を抑えるための規定がなされていることが示される。しかも、それらのソフト・ローでも、インフォームド・コンセントがあれば利益相反状況を解消させるとするのではなく、被験者保護と並んで重要な医学研究の客観性を担保するための仕組みの一部として取り入れられていることが説明される。そのことは、医学研究者として立ち現れる場合の医師が患者のための医師、金銭的利益によるインセンティブによって動く企業家としての医師というばかりでなく、研究を通して社会的な利益(あるいは将来の患者の利益)を追求する研究者としての医師という三面関係から生ずることが示される。

 近年、さまざまな分野でソフト・ローの重要性がいわれるが、医療の場面でもそうであることを明快に示した点が大きな功績である。

 第3に、金銭的利益相反を抽象的にとらえるのではなく、具体的に4つの類型に分けて、それぞれに弊害の生ずる論理的可能性を分析し、それに対応したルール作りを提唱するなど、本論文は、単にアメリカの正確な紹介にとどまらず、現状のルールがなぜこのようであるかを真摯に追求する姿勢が顕著に見られる。信託法や法曹倫理における同種の金銭的利益相反に関する処理と比較するなど、独創的な知見を加えている点も評価できる。論旨も全体として平明である。

 しかしながら、本論文についても、さらに望みたい点がないわけではない

 第1に、上述のようにソフト・ローの重要性を説いた点で画期的な側面があるとはいえ、この分野において、なぜソフト・ロー中心の体制で十分とされるかについての分析が完璧かといえばそうではない。ソフト・ローでありながらそれがなぜ遵守されるかという課題は、きわめて難しいものであるとしても、本論文の分析である、「ハード・ロー(が制定される可能性)」に支えられた「ソフト・ロー」という結論では物足りなさの残る部分がある。

 関連する第2点として、英米ではそもそもさまざまな法分野で、ソフト・ロー的な規制で十分とされている例が少なくない。本論文では、医学研究と金銭的利益相反の部分にのみ、ソフト・ローの重要性を論じており、医療と法全体の中で、それが突出したことであるのかそうでないのか、さらに他の分野で見られるソフト・ロー的な手法との連関も視野に入れたなら、これまで制裁や法中心の社会とばかりイメージされてきたアメリカにおける新たな視点が提示できた可能性があり、本論文の価値はより増したであろうと思われる。

 しかしながら、以上のような問題点はあるものの、それらも本論文の価値を大きく損なうものではない。本論文は、医学研究における金銭的利益相反問題という、まさにわが国の現状にも直結するアメリカの課題を明らかにした力作である。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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