学位論文要旨



No 121959
著者(漢字) 西村,久美子
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,クミコ
標題(和) 第三高調波励起非共直線光パラメトリック増幅による近紫外-可視域サブ10フェムト秒パルス発生 : 可視域サブ5フェムト秒分光に基づく設計と開発
標題(洋) Sub-10fs near-UV/VIS pulse generation with a TH-pumped NOPA : Design and development motivated by sub-5fs VIS spectroscopy
報告番号 121959
報告番号 甲21959
学位授与日 2007.01.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4927号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 黒田,寛人
 東京大学 教授 坪野,公夫
 東京大学 教授 樽谷,清悟
 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 助教授 鳥井,寿夫
内容要旨 要旨を表示する

背景

原子分子レベルのミクロな事象は空間的のみならず時間的にもミクロ、すなわち我々の知覚をはるかに越えた超高速過程である。空間・時間の両サイドからのバランスのとれた発展によって自然現象の本質が明らかにされる。このための最新鋭の武器が超高速光技術であり、それはレーザー技術によってもたらされたものである。現在に至るまでフェムト秒レーザーの需要および様々な応用への可能性が高まるのにともなって、間断ない短パルス化が進んできた。これはパルス幅の記録を更新するという挑戦のみならず、物理・化学・光生物学の基礎的過程の動的な研究に対する要求にも端を発する。中でも非共直線光パラメトリック増幅(NOPA)によるサブ10フェムト秒の超短パルスに秘められた可能性は、その非線形分光に対する数々の業績から証明されてきた。例えばボンド破壊の初期過程、光反応中心の電子輸送、凝縮相の緩和等は、フェムト秒パルスによってのみ時間分解が可能である。特に分子間・内振動や位相緩和はサブ10フェムト秒パルスが必要となる。超短パルスという強力なツールを用いることにより核の運動をあたかも静止しているかのように捉えることができ、フェムト秒超短パルス時間分解分光という直接的観測が可能になるのである。

可視域サブ5フェムト秒超短パルスによる擬イソシアニン(PIC)J会合体の2次元分光

導入

J会合体の研究はJellyとSheibeによる1936年の独立な発見に始まる。本論文で対象とするシアニン色素J会合体は分子会合体の一種であり、単分子の時に見られる幅広い吸収帯より低エネルギー側に非常に先鋭化した新たな吸収帯(Jバンド)が現れるという特徴を持つ。このことは一次元フレンケル励起子モデルによりよく説明される。1936年の発見以来この特異な吸収帯をもとにJ会合体の構造・系のサイズ依存性等、分光学的研究が盛んに行われてきた。さらに近年レーザーの短パルス化が進むにつれて、そのダイナミクスに関してもピコ-100fs領域での研究が行われてきた。特にフェムト秒領域における研究はJ会合体の非線形超高速応答を初めて詳細に観測し、その機構を統一的に解明したという観点から非常に意義深いものであった。本研究では飛躍的に時間分解能の良いサブ5fsパルスを用い、超高速応答を示す励起子系の緩和ダイナミクスのみならず分子振動を実時間で捕らえることに挑戦した。分子振動はJ会合体の会合の形態を直接反映していると考えられるためそれらのダイナミクスを探ることは非常に興味深いテーマの一つである。

 また光源に用いた第二高調波励起NOPAは我々のグループによって開発されたものである。スペクトルは可視域で470から800nmにおよび、3.9fsの世界最短パルスとなる。NOPAの特性は(1)広帯域の利得バンド幅、(2)μJオーダーの安定な出力、(3)平滑なスペクトル形状、(4)応用性であることから分光光源として最適である。

実験

サンプルとしてはスピンコートによって製作した薄膜を用い、測定手法は室温下のポンプ・プローブ法である。光源には第二高調波励起のNOPA (5fs、500-750nm)を用いた。この時Jバンド(中心波長575nm)は共鳴励起となる。検出系にマルチチャンネルロックインアンプを組み込み多波長で同時測定を行っているので、シングルチャンネルの測定と比較して飛躍的に高い測定精度が得られる。

結果

図1(a)に時間分解吸収差スペクトルを示した。負のピーク(青)は基底状態のブリーチング及び一励起子状態からの誘導放出によるもの、正のピーク(赤)は誘導吸収n→n+1励起子遷移の重ね合わせによるものと解釈できる。以降これらの領域をBL領域・IA領域と呼ぶことにする。(a)をフーリエ変換して得られたのが(b)である。図中の斜線はポンプ光の散乱光とプローブ光の干渉しによるノイズであり、シングルチャンネルの検出では分離できなかった成分をマルチチャンネルで同時測定を行うことで簡単に見分けることができるようになったことがわかる。BL・IA両領域におけるより詳細な解析の結果、定常ラマン散乱測定と一致する10個の振動モードの他に152cm(-1)に新たなモードを発見した(c)。これらの10個のモードに関しては、ラマン散乱の結果と相対強度比が異なることを見出した。また特に会合体の形成を反映していると考えられる面外振動2つの低周波モード(228、282cm(-1))に着目しスペクトルフィッティングによる解析を行った結果(d)から、分子振動を説明するモデルとしてノンコンドン型のエキシトン-フォノンカップリングモデルを提案した。このモデルに基づいて双極子変調量(δμ/μ)を求め、それぞれ0.3、0.5%であることを導き出した。さらに100cm(-1)以下の低周波モードについて詳細な解析を行い定常のラマン散乱分光では観察されないフォノンモードを発見した。

展望

本研究の成果をより明確にするには、PICのモノマーを同条件下で分光することが挙げられる。しかしモノマーの吸収帯はJバンドより短波長側の近紫外域に位置するため第二高調波励起NOPAでの分光測定は不可能である。またPICのみならず他の興味深い分子系の多くが近紫外域に吸収帯を有する。この領域において第二高調波励起NOPAに匹敵する時間分解能を持つ光源は現在まで存在しなかった。近紫外域を含む超短パルスの開発は急を要する課題である。

第三高調波励起非共直線光パラメトリック増幅による近紫外―可視域フェムト秒パルス発生

導入

可視域での超短パルス分光を紫外域にまで拡張するための光源として第三高調波励起のNOPAが有望である。現在までに紫外域の超短パルス光源として、可視域における第二高調波励起NOPAの出力スペクトルの和周波をアクロマティックに位相整合をとることで紫外域に変換する手法から7fsを得た報告例もある。このアイディアは画期的ではあるが、NOPAの後さらに1回の波長変換を介しているため安定性の面で心配があり分光応用の報告例はない。そこで我々は現在まで最短でも25fs程度の圧縮にしか成功していなかった第三高調波励起NOPAに着目し完成に挑むことにした。得られる波長領域は近紫外-可視域の250THzにわたる。この研究は第二高調波励起NOPAの紫外域への拡張を実証するという意義もあり、またこの手法によりフーリエ限界までの圧縮にし成功した場合対象となる波長領域で既存の手法の中でも最短パルス幅が得られることになる。

実験

第三高調波励起励起のNOPAの構成を図2に示した。系は主に、(1)白色光発生(材料の選択・実装)、(2)白色光増幅(NOPAの設計・調整)、(3)分散補償(プリズム対とディフォーマブルミラー(DFM)を組み込んだ4f系波形整形器から構成される圧縮系の設計・実装)、(4)パルス評価(圧縮後のパルスをXFROG法により評価しフィードバックをかけて最適化)、の4系統から成る。

XFROGの測定条件はFSR (FROG sampling rate)と呼ばれるサンプリング基準を満たすように選択し、信号に含まれる時間・周波数両領域での情報を失わないように考慮されている。XFROG測定の結果に対してFROGアルゴリズムによる電場の再構築(リトリーブ)を行うことにより元の電場波形を求める。

結果

DFMも含めた分散補償後のパルス波形強度および位相を求めた結果を図3に示した。結果として半値全幅で約6fsのフーリエ限界に近い超短パルスが得られたことが確かめられた。

考察1(参照パルス評価誤差が被測定パルス評価に及ぼす影響)

我々の測定条件では被測定パルスと参照パルスのパルス幅比が約1対20であるため、諸ノイズが被測定パルス評価に及ぼす影響が懸念される。誤差の中でも最も結果に影響を与えるのは参照パルス評価誤差であるとし、その誤差がどの程度まで許容されるのかを数値計算によって見積もった。その結果参照光パルスのパルス幅の10%程度にあたる誤差が、被測定パルスのパルス幅に対して与える誤差は数%程度であることが明らかになった。参照パルスの評価誤差は5%以内であることは繰り返し測定により確かめられているため、この誤差は被測定パルスの見積もり結果に無視できる程度の影響しか及ぼさないことが示された。結果として測定条件から決まる誤差が支配的であること結論付けることができ、被測定パルスの最終的なパルス幅は6±0.3fsである。

考察2(再現性)

時間ごと・日ごとの2通りの時間単位で繰り返し測定の結果を解析し、再現性が良いことを示した。特に短波長側の残余チャープは全ての測定結果に一貫して現れており、本研究の圧縮系の配置では分散が完全に補償しきれていなかったことがわかった。

考察3(到達パルス幅)

NOPAの出力光のフーリエ限界幅が約4.5fsであるのに対し、実際には約6fsの圧縮に留まった。フーリエ限界にまで圧縮することができなかった要因に対する考察は以下の通りである。圧縮系の設計は、DFMを稼動させずに大まかな圧縮を行った後にDFMを稼動させて残りの分散を圧縮する手順を想定して行った。実際にDFMを稼動させずに圧縮を行った後に残余チャープを見積もった結果を図4に示した。図からは特に短波長側において予想より変動の激しいチャープが残っていることが見て取れる。DFMの分解能を考慮すると、この変動は補償できる範囲を超えているため完全な補償を行うことができなかったことがわかる。残余チャープが数値計算の見積もりと異なった理由として、特に短波長側で実際にはプリズムの媒質分散も効いているという可能性が考えられる。

展望

今後フーリエ限界までの圧縮を行うための現実的な方法としては、4f系波形整形器の焦点距離fを大きくすることで現在の系では約半数しか有効に使用していなかったDFMの稼動素子数を増やす方法が挙げられる。また、本研究の一環として行った近紫外域対応のチャープミラーの評価結果をもとに設計を行い導入することも有効な手段となるであろう。

 また導入にも記した通り、本研究で得られた出力パルスは分光光源としても魅力的であるため、近紫外域に吸収を持つ分子等の振動時間分解分光への応用が期待される。

図1:測定及び解析結果

図2:第三高調波励起非共直線光パラメトリック増幅器の構成

図3:分散補償後のパルス波形強度(実線)および位相(破線)の(a)時間依存性(b)スペクトル

図4:レイ・トレーシング法から予想された残余分(黒実線)、XFROG測定の結果から求められた(青破線)群遅延

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、光パラメトリック増幅による近紫外〜可視域サブ10フェムト秒パルス発生とそれによるJ会合体等の分子の超高速時間計測分光分野を新たに開拓する目的と意図により立案され研究されたものである。本論文は6章及び補足説明より構成され、第1章では、本研究の主眼である超高速時間分解分光の意義、本研究で実施された近紫外〜可視域サブ10フェムト秒分光の位置づけが述べられている。

 第2章においては、申請者グループにより開発されたフェムト秒TiSの第2高調波励起のNOPA(非共直線光パラメトリック増幅)によるスペクトル幅470〜800nm、時間幅3.9fsの超短パルス光源による、J会合体、擬イソシアニン(PIC)の2次元分光実験の結果と、ラマン分光測定や時間分解吸収差スペクトルの解析結果とそれによるJ会合体の分子構造に関する研究が記述されている。

 第3章においては、第2章の結果をふまえてさらに近紫外に近い光源の開発を目指してのTiSの第3高調波励起のNOPAの開発結果と、そのパルス幅計測法としてクロスコリレーションを取り入れたX-FROG(周波数分解オプティカルゲート方式)によるパルス幅計測の概要が述べられている。

 第4章は第3章で述べられている、NOPA方式による近紫外光のパルスを圧縮して得られた超短パルス光の特性をX-FROGにより解析した実験結果、及び、X-FROG方式の特色と数値計算シミュレーションによるX-FROGによるパルス計測アルゴリズムに関する記述である。

 第5章では生成された近紫外光NOPAをパルス圧縮法により超短パルス化した際に入りうる誤差や揺らぎ等雑音の影響、2パルスコリレーションにおけるリファレンスパルスの特性が及ぼす測定結果への影響、主なる雑音源の推定等、実験結果とシミュレーション結果の妥当性等の議論が記述され、第6章においてはまとめと結論、今後の展望も述べられている。

 本論文において一貫して取り上げられているのは、進歩著しいフェムト秒レーザーの短波長化とそれによる分子特性等の時間分解分光法の開発と、それによる新しい物性測定を進展させる事である。

 サブ10フェムト秒パルスの生成が可視域においては4fs程度が示され、さらには近紫外への発展が望まれている。特に近紫外のサブ10フェムト光源の開発によりボンド破壊の初期過程、光反応の中間体の出現と動的過程や関与する電子構造、凝縮系の緩和等の研究等、飛躍的に進展する可能性を持っているが、申請者の取り組んだ独創的な視点はまさにこの点である。

 まず、申請者達のグループにより開発された第2高調波励起のNOPA光の圧縮により、500〜800nm域で5fsを得ており、この光源を用いて、擬イソシアニン(PIC)J会合体の2次元分光の研究を行った。その結果、ポンプ・プローブ法と検出系にマルチチャンネルロックイン方式を取り入れ、多波長での同時計測を可能とし、時間分解吸収差スペクトルの解析により、定常ラマン散乱に一致する10個の振動モードの他に152cm(-1)に新たなモードを見出している。これらは会合体の新モデルにより検討され、ノンコンドン型のエキシトンーフォノン結合によるものであるとの結論を得ている。これらは新たな計測系の開発によりはじめて見出されたもので、手法と結果に充分に独創性、新規性が認められ、分子の超短時間分光学における新たな知見と見なされる。

 これらの結果とモチベーションを発展させたものが第3高調波や励起による近紫外超短パルス生成である。

 実験的に得られた結果は6fs程度と推定され、X-FROGの誤差、推論等の議論をふまえて6±0.3fsと結論された。

 本手法の開発途中において、レーザー圧縮系の分散、補償の方法の改善の努力がなされ、フーリエ限界の4.5fsはえられなかったものの、その原因が光学系の補償が不十分で分散補償がとりきれなかった事に起因するとして、次への課題を指摘している。

 本研究においては第3高調波励起のNOPA開発においてフーリエ限界の達成、生成パルス光による分子物性への応用等の超高速分光に、踏み込む事は、今後に残されたものの、研究の意図に基づく研究成果は得られている。又、議論の中でX-FROG法によるアルゴリズムの収束性、雑音、ゆらぎ等による位相やパルス幅への影響等も議論されており、X-FROGによる収束法の一意性の問題等、今後の議論を待つ問題も見られるが、近紫外のサブ10フェムト秒分光分野に一歩踏み込んだ点は、独創性、新規性も評価でき、今後の発展も期待しうる。

 又、第2高調波励起によるJ会合体の計測に使用されたレーザー系はグループとしての成果を用いたものであるが、それを発展させて第3高調波励起光の圧縮系をX-FROGで実時間計測し、その安定性、ゆらぎ報告の原因の検討等、申請者自らの寄与によるところが大である事は明らかに評価できる。

 上記の理由により、論文提出者が主体となって行った研究は独自性が高く、又、新規性独創性も評価し、博士論文として妥当なものと認められる。

 従って、論文提出者のレーザー物性物理、特に超短パルス分光への寄与が十分に大であり博士(理学)の学位を授与できるものと認める。

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