学位論文要旨



No 121960
著者(漢字) 濱中,淳子
著者(英字)
著者(カナ) ハマナカ,ジュンコ
標題(和) 工学系大学院の拡大と教授=学習システム
標題(洋)
報告番号 121960
報告番号 甲21960
学位授与日 2007.01.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,元久
 東京大学 教授 矢野,眞和
 東京大学 教授 山本,清
 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
内容要旨 要旨を表示する

1. 本研究の目的

 本研究は、工学系大学院修士課程における教授=学習過程の構造と機能、そして問題点を、卒業生、学生、教員に対する調査の分析をもとにして実証的に明らかにし、その将来の方向を考える基礎とすることを目的とする。

 日本の大学院教育は、インフォーマルな教授=学習過程が暗黙に機能していると想定され、教育課程や方法が重要な問題として議論されることも少なかった。その反省から、2005年の中教審答申『新時代の大学院教育』は、「課程制大学院としての教育の実質化」と「カリキュラムの体系化」を主張している。

 しかし、この主張の論拠が、具体的に示されているわけではない。しかも、大学院教育の問題は専門分野によって異なるはずだが、答申は、どの専門分野においても同じように、個人指導中心から体系的カリキュラムへの転換を求めている。根拠に乏しい観念的な思い込みによる改革は、それ自身が混乱を生じさせることもありえよう。こうした観点から重要なのは、現行の大学院教育の教授=学習過程を、一定の分析枠組みに位置づけ、それがどのような構造をもち、どこに問題が生じているのかを実証的に解明していくことである。

 特に、個人指導中心の教育に長い経験を有し、その長所と短所がすでに顕在化している工学系大学院修士課程の経験に学ぶことは多い。しかも、工学系では、学部卒業者の3割が修士課程に進学するという大衆化の段階に達している。人文社会科学系の大学院も拡大している折から、工学系大学院の拡大過程を踏まえた教授=学習過程の変化を実証的に分析することが、将来の大学院教育全体の政策を展望するうえで、極めて重要だといえる。

2.分析方法と課題

 分析枠組みを設定するにあたって、(1)個人指導中心と体系的カリキュラム、(2)学生と教員の相互作用の強弱、の2つから大学院教育のあり方をめぐる4つの考え方を整理した。工学系の大学院教育は、伝統的に教員が指導する「研究室」を単位として行われており、そこで営まれている教育を「研究室教育」と呼ぶことにしたが、その教育は、「個人指導中心」、かつ「学生と教員の相互作用が弱い」ものとして一般に理解されている。この類型を「徒弟制型」と位置づけたが、現実は必ずしもそれだけに限定されるわけではない。むしろ重要なのは、「徒弟制型」を視野に入れながら、研究室教育の実態を実証的に明らかにすることである。

 この実態を分析するにあたって、次の2つを重視することにした。第1は、学生の意識と行動に着目し、研究室教育がもたらしている効用を明らかにすることである。第2は、工学系大学院の量的拡大と機関の多様化を考慮し、大学類型別(「旧帝大+東工大」,「その他国公立」,「私立」)の分析を行うことである。

 そのうえで、進路や意欲に規定される「学生の学習行動」、教育する側の「施設設備」や「教員の教授行動」、これら両者の相互作用の結果としての「知識能力の獲得」および「満足度」、そして外部要因としての「環境」からなるシステムとして教授=学習過程を把握する分析枠組みを設定し、次の4つを分析課題とした。

【課題1】大学院の拡大と学生の変容との関係はどのようになっているのか

【課題2】知識能力の獲得について、研究室教育はどのような効用をもたらしているのか

【課題3】研究室教育に対する満足度について、その実態と規定要因はどのようになっているか

【課題4】学生は、どのような改革を望んでいるのか

 データとして用いたのは、(1)文部科学省等による既存調査のデータ、(2)3大学の工学系卒業生を対象に実施した質問紙調査(「卒業生調査」)の個票データ、(3)15大学の工学系研究科の学生と教員を対象に実施した質問紙調査(「15大学調査」)の個票データ、である。

3.分析結果と考察

 本研究は、以上の目的や課題、方法について述べた第1章のほか、7つの章(第2〜8章)から構成されている。

 第2章では、既存調査データを活用し、工学系修士課程の変化の概要を描いた(【課題1】)。全体としてみれば、常に工学系修士課程が大学院の拡大を先導していたこと、就職者の製造業離れが進み、学生の修学費支出が低下していることが明らかになった。次いで大学類型別の分析によって、「旧帝大+東工大」の動向が注目された。これらの大学では、多くの学生を抱えていたにもかかわらず、大学院重点化政策等を背景にさらなる拡大が試みられ、その結果として進学機会が大きく開かれたものになっている。そして、修学費や娯楽嗜好費への支出、出身階層を指標に学生の変容を検討すると、「旧帝大+東工大」において、意欲が低くとも家庭の費用負担能力に支えられて進学した学生が増加している傾向にある。

 第3章では、卒業生調査個票データを用いて、第2章で概観した「学生の修了後の進路」と「学習行動」を分析し、両者の関係についても分析した。進路について整理すれば、大学によって状況が異なるものの、大学時代の専門との関係の希薄化は、大学の類型を問わず確認できることが明らかになった。次いで、熱心度という自己評価指標を用いて学習行動を分析し、学習意欲の低下が確認される一方で、コーホート、大学類型、さらに修了後の進路にかかわりなく、学生がもっとも高い意欲を示すのは研究室教育だということ、および大学進学後、学習に熱心に取り組むのは研究室教育のみであるという学生が増加していることを示した。

 第4章では、卒業生調査個票データを用いて、工学系大学院進学者の知識能力獲得プロセスをパス解析によって抽出した(【課題2】)。その結果、明らかになったのは、研究室教育の「多元的効用」の存在である。研究室教育に熱心に取り組むことは、研究室における研究関連の知識能力の獲得のみならず、(1)専門基礎知識を「補強する効果」、(2)研究室所属前に専門教育に打ち込むことによって獲得が遅れる語学教養知識を「挽回する効果」、(3)サークルやアルバイト活動よりも大きい「交流能力獲得効果」、をもたらしていた。そしてコーホート別、大学別に多元的効用の実態を分析し、効用は近年強化されており、この変化は大学別にみても確認できることを指摘した。

 第5章と第6章では、研究室教育に対する学生の満足度について分析した(【課題3】)。

 第5章では、卒業生調査個票データを用いて、研究室教育が多くの学生から強い満足度を得ることに成功していること、しかし、大学によって明暗がわかれつつあることを指摘した。つまり、「旧帝大+東工大」に属する大学は満足度が低下の一途をたどっており、「その他国公立」に属する大学では、とくに近年になってから、満足度の低下が生じている。他方、「私立」の大学は高い満足度を与える教育機関になっていた。そして、こうした変化を踏まえて、大学院拡大と満足度低下とを関連づけた3つの仮説を提示した。(1)拡大によって、伝統的な教育を提供し続ける大学院側とそれに関心を示さない学生との間にギャップに着目した「伝統的教育不満説」、(2)拡大による大学院側の物的・人的資源の不足に着目した「教育機能不全説」、(3)拡大に伴う学生の学力の低下に原因を求めた「学生資質低下説」である。

 第6章では、15大学調査データを用いて満足度の実態を再確認し、第5章で設定した3つの仮説の検証を行った。まず、満足度の実態については、15大学調査からも、第5章とほぼ同じ構図を確認することができた。つまり、満足度が高い順に大学類型を並べれば、もっとも高いのは「私立」であり、「その他国公立」、「旧帝大+東工大」と続く。そのうえで3つの仮説を検証すると、満足度低下をもっともよく説明するのは、「教育機能不全説」であることが明らかになった。ただし大学の類型によって満足度低下の背景に違いがあり、「旧帝大+東工大」は教員による指導頻度の少なさが、「その他国公立」は施設設備の不十分さが主な原因になっていた。前者については、大学院重点化政策がもたらしたマイナスの帰結だという皮肉的な見方もできるだろう。

 第7章では、15大学調査データを用いて、学生が望む改革について検討を加えた(【課題4】)。まず、学生と教員の見解とを比較しつつ確認し、学生の望む改革は曖昧な性格をもっていることを指摘した。学生は「自主性の容認」と「企業との共同研究」を強く求めながらも、「現状がよい」かどうか、政府が主張する「カリキュラムの体系化」をすべきかどうかについて、明確な反応を示さなかったからである。しかし同時に、研究室教育に対する満足度が低い学生ほど現状を否定し、カリキュラムの体系化を望んでいるという構図もうかがえた。ここから、指導頻度の低下などを理由に、学生の研究室教育に対する満足度の低下が進めば、学生の多くがカリキュラムの体系化を一層望むようになる可能性が残っていることを指摘した。

 第8章は総括の章であり、各章の知見をまとめたうえで、その全体を考察し、(1)個人指導中心という教育のあり方は、学生の学習行動や知識能力獲得に対する効用をみる限り、良好な成果をもたらしていること、(2)政府と大学は、カリキュラムの体系化を主張する前に、研究室教育を再点検し、そのさらなる改善を図る改革を試みるべきであり、同時に学生の不満を解決するための制度やシステムを整備する必要があること、(3)カリキュラムの体系化は、必ずしも不満学生の対応策として位置づけられるものではなく、「国際的通用性の確保」という別の次元の圧力によって求められる可能性があること、の3点を指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

 大学院制度の充実は1990年代以降の日本の高等教育政策の最大の焦点の一つであり、中央教育審議会などの議論をもとに制度的な改革が行われてきた。その中軸をなすのは、計画的な授業、成績の厳格化など、いわば大学院教育の標準化・フォーマル化であるといえよう。しかしそうした改革は必ずしも現実の大学院についての実証的な分析に基づいて策定されたものではない。そうした観点から本論文は、とくに工学系の修士課程に焦点をあてて、学生、教員、卒業生に対するアンケート調査をもとに、大学院教育の問題点と改革の可能性を実証的に分析しようとするものである。論文は8章からなっている。

 まず第1章で課題を整理したうえで、第2章では工学系の修士課程の規模拡大の過程を、個別大学の学生数のデータベースをもとに論じるとともに、文科省の学生生活調査から、大衆化を反映して大学院生の生活が変質してきていることを見出している。

 第3、4、5章は、三つの大学の学部・大学院卒業生調査のアンケート結果を用いた分析である。第3章では学部から大学院への進学者の特性と、その年齢コホートによる変化を分析することによって、大学院進学者の専門的な学習への意欲が低下してきたことを見出している。第4章では、工学系に固有の研究室での集団に属して研究に加わり、また学習するという学習スタイルを「研究室教育」としてとらえ、それが学生の学習意欲を高め、さらに基礎的な知識や専門知識の獲得にプラスの影響を与え、また自らの学習の評価をも高めていることを示した。第5章ではさらにこうした観点から大学の類型による相違を分析し、上述のようなスタイルによる教育の効果にもかかわらず、とくに選別性の高い大学において学生の不満が高まってきていることを示した。

 第6、7章は、十五の大学の大学院生、教員に対するアンケート調査をもとに分析を行っている。第6章では学生の大学院教育に対する満足度を中心として、とくに選抜性の高い大学において現在の教育に対する不満が強いという、卒業生調査からの分析と同様の傾向を見出している。また第7章では、学生は一方で授業の導入による教育の体系化については積極的ではなく、この点では従来の集団モデルの学習の価値を評価しているものの、そうした学習スタイルが他面で教員とのコンタクトの希薄さ、学生の主体性の軽視をうみ、それが学生の側での不満を作り出していることを示した。

 以上の分析をつうじて本論文は、工学系の大学院修士課程教育における「研究室教育」がもってきた重要な教育機能を明らかにする一方で、そうした機能にいま重要な問題が生じていることをも示すものであり、今後の大学院教育のあり方を論ずるための重要な基礎の一つを形成するものである。分析の基礎となる学習についての理論的枠組み、「研究室教育」のもつ問題点への分析、また論文全体の政策的な含意などについて、さらに深めるべき論点があることが指摘されたが、これまで実証分析のきわめて少ない分野において新しい展望を開いたことは高く評価された。このような観点から博士(教育学)の論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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