学位論文要旨



No 121961
著者(漢字) 福田,学
著者(英字)
著者(カナ) フクダ,マナブ
標題(和) フランス語初期学習者の経験解明 : メルロ=ポンティの身体論と言語論に基づく事例研究
標題(洋)
報告番号 121961
報告番号 甲21961
学位授与日 2007.01.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中田,基昭
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 助教授 西平,直
 東京大学 助教授 恒吉,僚子
内容要旨 要旨を表示する

 本論文の課題は、フランス語初期学習者の経験を、筆者自身の授業実践を事例として、メルロ=ポンティの身体論と言語論とに基づき解明することである。

 第I部では、まず、主要な現象学的言語論を外国語教育と関連させながら順次考察していくことにより、外国語初期学習の特性、および、外国語初期学習者の現象学的事例研究の意義とその展開に必要な観点とが明らかにされる。このことにより、初期学習に認められる特性が、メルロ=ポンティの言語論を根本的に特徴づけている特性と同質であることが描き出されると同時に、メルロ=ポンティの言語論を外国語教育という観点から新たな仕方で捉える可能性と、現象学的言語論の位置づけとが具体化される。次に、この具体化に基づき、メルロ=ポンティの哲学と密接にかかわる言語論を展開している何人かの現象学者を取り上げ、彼らの記述が、メルロ=ポンティの言語論で繰り広げられている次元にまでは至っていないことが明示される。そのうえで、メルロ=ポンティの言語論の特性と外国語初期学習に認められる特性とが根本的に重なり合っていることを浮き彫りにするために、メルロ=ポンティの現象学を考察することにより、本論文がメルロ=ポンティの言語論に基づく意義や理由が明確なものとされる。

 第I部で導かれた観点に基づいて、第II部では、言語の両義的なあり方を踏まえながら、言語そのものと密接に関係している生徒たちの身体機能に着目した事例研究が遂行される。

 第四章では、聞きとりにかかわる授業場面の解明がなされる。

 第一節では、知覚態度と対象の現われとの関係についてのメルロ=ポンティの記述を導きとすることによって、学習者が、意味のわからない音声を聞きとろうとしている時には、音声は、音声に向けている学習者の観察的態度と一体的な仕方で、非常によそよそしいものとして学習者に現われている、ということが明らかとされる。だが、そもそも聞きとりにおける学習者の観察的態度は、音声の様々な性質のなかで、発音記号で表される性質のみを捉えようとする独特の態度である。第二節では、この独特の態度について、「知覚的恒常性」に関するメルロ=ポンティの記述を手がかりとして考察し、初期学習者にとっての聞きとりの困難さには、肉声と録音された音声との相違や、発声環境の違い等によって規定される、音声の様々な性質の相違が学習者にとって現実的なものとなっている、という事態が大きくかかわっていることが明らかとされる。第三節では、聞きとりの困難さとの結びつきが学習者自身に強く実感されている音声性質として、発声速度の遅速によって規定される性質に着目し、発声速度は学習者と音声との間の張力として機能しており、遅すぎる発声速度が聞きとりの困難さとしばしば密接に関連していることが明らかとされる。第四節では、音声を極端にゆっくりと発声したり、言葉の一部分を強調して発声する、といった働きかけは、音声の現われそのものを変化させる場合があること、また第五節では、初級の授業での音声の現われには、母語の或る特定の言葉が影響を及ぼす場合があることを記述し、それぞれの場合に、初期学習者にとっての生きた言葉がいかなるものかが教師や研究者にあらわとなることが明らかとされる。第六節では、意味のわからなかった音声が理解され、学習者に対する音声の現われが大きく変化する時の知覚経験に着目し、音声の現われには、音声に対する注意と共に、音声を聞いている最中に学習者が抱く予感も大きく関与していることが明らかとされる。以上の解明から示されるように、初級の授業では、聞きとりの困難さが際立つ場合が殆どであるが、第七節では、音声の概念的な意味理解を超えた次元で、言葉の意味内容に即しつつ、音声を独特の相貌をもったものと捉える聞きとりが初期学習者によってもなされうる、ということを明らかとする。

 第五章では、発音の習得や発声にかかわる授業場面の解明がなされる。

 第一節では、学習最初期の発音学習は、学習者の音声知覚の能力と一体的になされ、発音は、認識対象としてではなく、自らの発声器官によって発音されるべきものとして学習者に現われる、ということが明らかとされる。このことから、発音指導は、学習者が発声できない発音の仕方を主題化させるだけでは不十分であることが示唆される。そこで、第二節では、発音の練習によってではなく、発音に関する学習者の前提が突き崩されるような質問に答えることをとおして発音が生徒たちに習得された場面に着目し、学習者の発声可能性を規定することなく、学習者自身の学習行為が学習者の可能性を規定していくようにと導く働きかけについて明らかにする。この解明は、発音の諸特徴や発音に必要な身体運動等を、学習者に対してあえて非主題的なままにとどめておく意義を示唆している。第三節では、発音が主題化されていない時に、言葉の意味をとおして発音が生徒にとって大きな問題となった場面に着目し、言葉を身体的所作と捉えるメルロ=ポンティに従うことによって、言語の身体的なあり方に即して言葉を捉えている場合には、言葉の意味が「極」となって学習者の身体を極化せしめ、学習者から正確な発音を引き出すといった事態が生起しうる、ということを明らかとする。第四節では、学習者が、正確な発音をおこなう身体能力を既にもっていても、発音が習得されないかぎり正確な発音をおこなえない、という事態に鑑み、発音を真に習得させる指導を明らかにすることを試みる。そのために、正確な発音に必要な所作を、我々が日常生活でおこなっている所作と関連させて発音を習得させようとする働きかけを取り上げ、所作と意味とについてのメルロ=ポンティの考察を導きとすることによって、こうした働きかけは、発音に必要な所作の本来の意味から自分が切り離されていることを学習者に実感させ、学習者がおこなう所作に意味が与えられるようにと学習者の身体を備えさせるものである、ということが明らかとなる。この解明からは、発音習得前後では、学習者の経験が全面的に変更する、ということが示される。そこで、第五節では、発音習得前後の経験の違いを習慣の獲得という側面から記述し、発音が習得されることにより、学習者がおこなう所作に与えられる全ての意味が総体的に変貌し、ひとつのシステムとしての学習者の身体がより高次の段階で再組織化されることになることを明らかにする。第六節では、発音の習慣化がかなり高い水準で達成された学習者が、かえって自己の発音に強い不安を覚えるようになる、という事態を取り上げ、こうした学習者は、個々の発音の正確さにとどまらず、知覚や発声における「匿名のひと」へとまなざしを差し向けながら自己の発音を問題としている、ということが明らかにされる。

 第六章では、言葉の意味の把握にかかわる授業場面の解明をおこなう。

 第一節では、既に学習した言葉を授業中に具体的に使用している場面を考察することにより、現実の状況のなかで使える言葉を習得しようとすることは、言葉を発することによって、言葉の作用力の及ぶ範囲を探る行為である、ということが明らかとされる。第二節では、或る学習場面が学習者にとって具体的であることは、言葉が学習者の身体を捉え、学習者に言葉に対する身体的な構えをとらせることであること、また、授業中の言葉の使用が学習者にとって具体的であることは、学習者が教室内に住み込み、身体的な構えに基づいて、言葉に対する己の発声可能性を実現することであることが明らかとされる。第三節では、授業で聞いた外国語の歌のなかの或る言葉が、言葉の意味そのものと不可分なリズムやメロディーを介して、生徒たちにひとつの所作として捉えられる様相を記述することによって、語彙の蓄積の乏しい初期学習者が、辞書的に定義された意味よりもより基底的な意味を把握しうる、ということを明らかにする。第四節では、外国語教育においては殆ど着目されることのない、表情や身体全体の雰囲気といった非言語的な側面に基づく表現理解が、映画を教材とした授業で、登場人物の口調との同調によって、思惟がひとつの出来事として生徒の身体を捉えることにより達成されうる、ということを明らかにする。

 聞きとり・発音の習得・言葉の意味の把握についての以上の解明は、互いに不可分の関係にある。というのも、学習者の身体機能を、感性的に知覚される身体活動を超えて、あらゆる学習に認めることは、外国語学習における語彙や文法を、従来とは異なったものとして捉えるようになることを意味し、また同様に、言葉を身体的所作として捉えることは、音声を知覚したり発声したりする行為を、従来とは異なった仕方で捉えるようになることを意味しているからである。そうである以上、本研究は、言語存在を受肉した論理や偶然性における論理とみなすメルロ=ポンティの言語論の両義的な内実を、メルロ=ポンティ自身の記述を超えて明らかにしていることになる。このことによって、外国語学習のごく初期段階において、言語存在の根本的性格があらわとなる事態が生起していることを明示することが可能となる。その結果、本論文の解明は、外国語学習者にとって、学習の初期段階が非常に大きな役割を果していることを明示し、このことにより、外国語教育研究における重要な端緒を開いたことになる。ただし、以上の解明をより深めることは、他の現象学との対比をとおしてメルロ=ポンティの現象学の特性を一層際立たせることにより可能となることであり、このことが本論文に残されている課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、高等学校における筆者自身の授業実践を事例として、メルロ=ポンティの身体論と言語論とに基づき、フランス語初期学習者の経験を記述し解明したものである。

 第I部では、主要な現象学的言語論を考察することにより、外国語初期学習者の経験を現象学的に考察することの意義と観点とが明らかにされる。特に、各現象学者において問題とされる、言語の普遍性と指示性の問題が、外国語初期学習において明らかとなることが導かれ、言語を身体的所作として捉えることと、言語の普遍性と記号的側面に着目することの必要性が明らかにされる。その結果、授業が意味の発生の場とみなせることになる。

 第II部第四章では、聞きとりに関わる授業の解明がなされる。まず「知覚的恒常性」に着目することにより、初期学習者の聞きとりが肉声と録音の相違や発声環境と密接に結びついていること、音声の概念的意味理解の背景である音声の相貌を捉える聞きとりが初期学習者によってもなされうることが明らかにされる。以上の解明により、言語そのものが感覚的世界に根づいている、というメルロ=ポンティの主張が外国語初期学習者の経験において典型的となり、我々の言語活動を支えている基盤として現象学者に問題とされている事態が外国語初期学習者においても問題となっていることが導き出される。

 第五章では、発声とその習得に関わる授業が解明される。学習最初期においては、発音は、知覚能力と一体になっているため、認識対象としてではなく、身体によって発音されるべきものとして学習者に現われることが明らかとされる。また、言葉を身体的所作と捉えることによって、言葉の意味が「極」となって学習者の身体を極化せしめ、正確な発音を引き出す事態を生起しうることが明らかとなる。それゆえ、発声能力が高まることは、一つのシステムとしての学習者の身体が高次の段階へと再組織化され習慣化されることになる、ということが明らかになる。

 第六章では、意味の把握に関わる授業が解明される。学習場面が学習者にとって具体的であることは、言葉に対する己の発声可能性を実現することであることが明らかとされる。特に、外国語の歌の中の言葉が、リズムやメロディーを介して、学習者に所作として捉えられる様相を示すことにより、初期学習者が、辞書的意味を超えてより基底的な意味を把握しうることが明らかにされる。

 本研究は、言語存在を受肉した論理や偶然性における論理とみなすメルロ=ポンティの言語論に従い、外国語学習の初期段階において、言語の根本的性格が顕となる事態が生起していることを丁寧に描き出している。確かに、本研究は初期学習者の事例に限られており、学習段階が進んだ者の経験についての解明の必要性は否めない。しかし、本論文の解明は、外国語学習者にとって、学習の初期段階が非常に大きな役割を果していることを明示し、このことにより、外国語教育研究における重要な端緒を開いたことになる。以上のことから、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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