学位論文要旨



No 121965
著者(漢字) 高橋,健
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ケン
標題(和) 日本列島における銛猟の考古学的研究
標題(洋)
報告番号 121965
報告番号 甲21965
学位授与日 2007.02.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第571号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 熊木,俊朗
 東京大学 教授 大貫,静夫
 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 助教授 佐藤,宏之
 東京大学 名誉教授 宇田川,洋
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では、縄文時代以降の日本列島における銛猟について、広い視野での比較による型式学な研究、遺物の観察にもとづいた技術論的な研究、現代の海獣狩猟の民族考古学的な研究の3つのアプローチによる研究を行なった。第1部は現代の海獣狩猟の民族考古学的調査の成果であり、第2部は縄文時代の北海道と東北地方中部・南部、第3部は続縄文時代とそれに並行する弥生・古墳時代、第4部は北海道のオホーツク文化以降の資料を扱っている。

 第1部第1章は、道北礼文島における現代のトド猟についての民族考古学的調査の成果である。考古学において欠落しがちな獲物の行動生態に応じた狩猟方法や回収方法の選択などの側面を知るために、現在の狩猟への同行調査と聞き取り調査を行った。1950年代末を境に狩猟の目的は食肉獲得から害獣駆除へと変化し、道具の技術的改良も進んだ。しかしこのような変化にも関わらず、先史時代と同じ構造の銛が現在でも使用されている。銛には獲物を攻撃し殺傷する機能と倒した獲物を回収する機能があるが、このうち殺傷機能が銃によって置き換えられても、優れた回収機能の道具として継続して使用されたと考えられる。

 第2部第1章では、北海道の縄文時代の銛頭を12型式に分類して編年を行い、これを形態(尖頭/刃溝)と素材(海獣骨/鹿角)によって整理した。前期前半に道東北部と道央部は形態と素材で対極的な様相を示すが、前期後半には後者に前者の影響がみられるようになる。中期後半にはそれまでの内湾的環境から日本海沿岸の外洋的環境へ進出する。後期には道南の入江型(鹿角製)と道北の船泊型(海獣骨製)という刃溝をもつ銛頭が高度に発達する。晩期になると全道的に鹿角製で尖頭の銛頭が主体となり、前期〜後期を通じて北海道の銛頭を特徴付けていた対極性・多様性は解消される。また銛頭と動物遺存体との対比について縄文後期の事例を検討した結果、船泊湾と噴火湾ではアシカ類の特定種の幼若獣に特化した狩猟が行われていたが、銛頭の形態的発達がみられる時期には成獣を含むアシカ類の回遊群に対する狩猟の比重が高かったという結論が導かれた。ただし銛猟の威信獲得活動としての側面が銛頭の形態に反映されていた可能性も考慮する必要がある。

 第2部第2章では、第一に燕形銛頭の起源論の研究史についての整理を行った。第二に学史的にも重要な東京大学総合研究博物館所蔵の大洞貝塚出土資料を報告した。晩期中葉における大洞貝塚の燕形銛頭は、尖頭で腹鉤をもつ銛頭が主体で無鉤のものも伴い、少数ではあるが大型で刃溝と背腹鉤をもつ三距の例も現れている。銛の中柄であるシカ中手中足骨製品が存在することから、従来ヤスないし刺突具とされてきた中に銛中柄が含まれている可能性を指摘した。第三に、燕形銛頭の起源系統論について論じた。大木囲貝塚出土資料は双距の開窩式銛頭を腹面で合わせたような特異な形態の銛頭であり、「大木型」開窩式銛頭と砲弾形の閉窩式銛頭を繋ぐ可能性がある。宝ヶ峯遺跡出土資料を宝ヶ峯1〜3類に分類し、1類・2類が古段階の燕形銛頭(後期中葉〜末)であることを指摘して、雄形銛頭祖形説が成立しないことを示した。前期以降東北地方に存在した砲弾形閉窩式銛頭から宝ヶ峯1類・2類が発達し、雄形銛頭の「索孔銛文化圏」において導入された結果、典型的な燕形銛頭が成立したと考えることができる。

 第2部第3章では、いわき地方の閉窩式銛頭を寺脇型・真石型・薄磯型に分類し、真石型を頭部形態で細分した。寺脇貝塚と薄磯貝塚における層位的出土状況を再検討し、五段階の変遷過程を提示した。従来主流であった寺脇型を燕形の派生形態とみる編年観とは逆に、寺脇型を後期末〜晩期前葉に位置づけ、真石型がこれに置き換わると考えた。仙台湾・三陸地方との関係をみると、晩期中葉までは索孔/索溝の違いや尾部形態では一貫して地域差がみられるが、頭部形態の変遷過程には対応関係がある。このように技術的共通性を有しながらも独自性を保っていた仙台湾・三陸地方との関係が晩期後葉以降に変化し、燕形銛頭の影響を直接受けることで弥生中期前半に薄磯型が出現したのだろう。

 第3部第1章では、続縄文時代の銛頭について論じた。続縄文前半期に発達する多様な銛頭の変遷過程と系統関係を考察するために、まず銛頭の分類基準を整理した。抵抗機能については、繋索を装着する部分より後方に抵抗装置があり、繋索を引く力と銛頭の受ける抵抗によって回転のモーメントが生じる場合を回転式、それ以外を鉤引式とする。抵抗機能と柄装着方法による分類基準を組み合わせ、続縄文時代の銛頭を第1種〜第5種に分類した。資料が豊富な道南部の第3種(閉窩回転式)をI〜IV段階に編年し、II段階を恵山1式、IV段階を恵山2式に対比した。第3種は東北地方の燕形銛頭の系統を引くと考えられる。第1種(雄形鉤引式)は続縄文時代初頭には既に広く分布しており、東北地方系統か北方系統の可能性がある。第5種(開窩分離式)は少数ながら続縄文時代初頭には広く分布していたらしい。その出自が論議の対象となってきた第2種(閉窩鉤引式)を頭部形態によって細分すると、尖頭のA群はII段階に、刃装着面をもつB群はIII段階に出現する。第1種と第3種からそれぞれ鉤引式と閉窩式という要素を受け継いでまずA群が成立し、後にB群が生じたものであろう。第4種は北海道の伝統的な形態で分布範囲も広く、続縄文後半期には主体となる。

 第3部第2章では、縄文系弥生文化や東日本型弥生文化についての議論の中で、また続縄文文化の銛頭との関連をめぐって、近年注目を集めている弥生時代の三浦半島、東海地方、西日本(中国地方と西北九州)の銛頭を対象とした。三浦半島の資料を三浦型と呼称して分類・編年案を示した。三浦半島、いわき地方と北海道における横方向索孔をもつ銛頭の出現過程が多様で一律ではないことから、横方向索孔という規制を伝達し固執するような強硬な伝播プロセスではなく、閉窩回転式という構造が各地で変更を加えながら取り入れられていくような柔軟な受容プロセスを想定した。東日本的な閉窩式銛頭の分布は基本的には関東地方までであり、伊勢湾沿岸は西日本的な様相を示す。西北九州には弥生時代から古代に至る組み合わせ式銛頭の伝統があり、縄文後期にまで遡る可能性がある。山陰地方には上寺地型・福浦型といった独特の銛頭がみられる。青谷上寺地遺跡における編年的考察、福浦海底遺跡資料の使用法の復元、伊木力遺跡資料の組み合わせ方法の復元などを行った。この結果、原の辻遺跡の組み合わせ式銛頭は伊木力遺跡資料を介して上寺地型に繋がると考えることができた。このように西北九州と山陰地方の銛頭は密接な関連をもって変遷していたといえる。

 第4部第1章ではトコロチャシ跡遺跡の銛頭について主に製作技術の観点から検討を行った。オホーツク文化のI類銛頭にみられる形態の相違は基本的に原材の部位と取り方の違いを反映したものであり、これを直接機能差に結びつけることはできない。アイヌ文化のIV類銛頭のソケットが縦横二方向からの穿孔を用いた製作方法によって作られていることを指摘し、トコロチャシ技法と仮称した。これによって従来から想定されてきた「窩が深くなり閉じていく」過程を製作技術の面からスムーズに説明することができる。横方向穿孔のみが確認される類トコロチャシ技法が広い範囲にみられることは、これが普遍的な技術であったことを示す。また横方向穿孔を用いるという点で共通する技法が、擦文文化やオホーツク文化の銛頭にもみられることを指摘した。

 第4部第2章では、モヨロ貝塚出土資料について論じた。10号竪穴出土の銛頭は雄形と雌形I〜IV類に分類されるが、主体を占めるのは開窩兼用式のI類(前田A群)であり、藤本d群期の床面からはI類と雄形が出土している。資料の観察に基づいてI類の破損と再生の様相を検討し、従来想定されていた頭部・尾部の削りによる再加工Iに加え、索溝と柄溝を新たに作出する再加工IIの存在を指摘した。I類銛頭の長さの分布を比較した結果、再加工IIは道北の香深井A遺跡でも行われていた可能性が高いと考えた。これに対して擦文文化の神恵内村観音洞穴では再加工Iのみが行われていた可能性が高く、再加工IIはオホーツク文化に特徴的な再加工プロセスだったといえる。開窩分離式のII類銛頭(前田B群)は、北海道では藤本e群期の道東部に分布し、閉窩式で抵抗面の幅が狭いIII類銛頭(前田C群)には、海獣肋骨製などの小型の一群が存在する。

 第4部第3章では、香深井A遺跡魚骨層IVから出土した銛頭模造品を手がかりにして、銛頭模造品と小型銛頭について論じた。同資料は頭部に石鏃を装着した状態を一木造で表現しており、形態や構造は前田C群銛頭を模している。同遺跡のC群銛頭と比較するとサイズが著しく小さく、海獣肋骨を素材とする点でも異なっている。同遺跡出土の小型D群銛頭も、サイズが著しく小さいことからやはり実用品ではないと考えた。しかし、モヨロ貝塚出土の海獣肋骨製小型銛頭については、同種の銛頭の主体を占めることと使用の結果生じたと思われる柄槽部や尾部の破損が多いことから、実用品だったと考えた。香深井A資料と類似した模造品は鈴谷貝塚から2点出土している。模造品の用途については、カナダ極北地域における研究を参考にして儀具と玩具の可能性を検討し、決め手を欠いているが海獣狩猟にかかわる儀具であった可能性が高いと考えた。

 第4部第4章では補論として、サハリンのオホーツク文化の銛頭の分類、神恵内観音洞穴における銛頭の層位的な変遷、アイヌのキテの分類と出現過程について、それぞれ簡単に論じた。

 銛頭という遺物から組み立てた議論と、動物考古学的成果、遺跡の環境、各時代の社会状況などに対する総合的な考察の成果とを重ね合わせていくことが、今後の研究の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、縄文時代以降の日本列島各地でおこなわれてきた、銛を用いた狩猟・漁撈を研究対象とした考古学的な研究である。銛猟において最も重要な機能を担う「銛頭」という道具に注目し、その製作・使用技術を詳細に復元した上で地域間の広範な比較をおこない、先史〜歴史時代の日本列島内で広域的かつダイナミックに展開されていた技術交渉を、精密かつ実証的な方法で解明しようと試みた労作となっている。

 銛頭は特徴的な形態の骨角器として戦前から注目を集め、広域的な視点から型式編年と系統関係の解明が試みられてきた。しかしながら各研究者間で分類の視点や基準、用語が共有されておらず、また分類基準にも技術論的な裏付けを欠いた一貫性の無いものが散見されたため、議論が深化・蓄積されず、点と点を結びつけるような強引かつ印象論的な系統関係の指摘が多く認められる傾向にあった。高橋健氏はこれらの問題を根本から解決すべく、(1)学史を総括して研究が混乱した原因を明らかにする一方で、それらに替わる体系的な分類基準を整備した。(2)そしてそのような明瞭な分類基準をもとに縄文・弥生(続縄文)・古墳の各時代の銛頭の地域編年と系統関係を整理し、弥生時代に全国規模で同時発生的に生じる型式変化が、従来言われているような単純な伝播系統論では説明できず、地域毎に複雑な伝播・受容のプロセスが認められることを具体的に指摘した。(3)さらに北海道のオホーツク文化の銛頭型式編年に対しては技術論的な視点を積極的に取り入れ、合理的・実証的な説明を加えつつ編年を確立した。本論文の研究成果は以上の三点に集約されるが、ここで提起されている合理的かつ体系的な分類基準は今後の研究のスタンダードとなることは確実である。このような厳密な視点を維持しながら広域的な比較検討を行った研究はこれまでに例がなく、その意味で本論文は博士学位授与に見合う高い研究成果を有していると評価できる。

 本論文中では銛猟の社会的・経済的役割にも言及されているが、高橋氏自らも今後の課題として認めているとおり、それらの側面に関する検討にはまだ不十分な点がある。銛頭が多く出土している日本列島の北方地域、特にオホーツク海や北太平洋地域の資料との比較検討も本論文には盛り込まれおらず、その点も課題として残っている。しかしこれらの点は本論文の学術的価値を損なうものではないし、高橋氏がすでに実践している本論文第1部の民族考古学的研究や、本論文で確立した手法はこれらの課題を近い将来に解決できるだけのポテンシャルを十分に秘めているといえる。よって本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するものと認定する。

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