学位論文要旨



No 121966
著者(漢字) 有富,純也
著者(英字)
著者(カナ) アリトミ,ジュンヤ
標題(和) 古代国家支配理念の研究
標題(洋)
報告番号 121966
報告番号 甲21966
学位授与日 2007.02.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第572号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 助教授 大津,透
 東京大学 教授 川原,秀城
 東京大学 教授 末木,文美士
 史料編纂所 教授 山口,英男
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、「国家とは何か」、歴史学的見地から解明するため、国家支配理念のあり方について、論じるものである。

 七世紀末、日本列島に律令国家が成立したとき、為政者たちは中国から伝わった律令という、当時としては高度な法体系を用い、官僚制度や徴税制度などを整備していった。同時に、中国における皇帝のあり方を模倣し、日本に天皇を創出する。また、支配理念の面においても中国のあり方を受容した。日本の為政者たちは、天人相関説あるいは天命思想を中心とした儒教イデオロギーを都合の良い部分だけ受容する一方、皇孫思想と矛盾する王朝交代の考え方を受容することはなかった。日本律令国家は、少なくとも八世紀以降、都合の良い部分を摘出した儒教イデオロギーを用いて、祥瑞の出現を歓迎し、また、地方行政監察使・国司を介して百姓に撫育を施した。律令国家は、官僚制度や徴税制度だけでなく、自分たちの支配を正当化する理念を用いて、百姓の「仕奉・貢納」をよりたやすいものとしていたのではないだろうか。

 日本律令国家は、儒教イデオロギーという中国の理念を取り入れる一方で、中国には存在しない独自の制度、班幣制度を創出することによって支配の正当化をはかった。班幣制度は、神祇官に全国の神祇職を集め、幣帛を班つ制度である。幣帛を班つ行為には、主にその年の収穫物の確保を祈願する、もしくは、収穫できたことを感謝するという意味があると思われる。もちろん、律令国家が成立する以前においても在地で有力首長が豊作を祈り、感謝する行為を行っていたと推測されるが、このような行為を律令国家は神祇官を設置し、祈年祭や月次祭などを行うことで、大規模に実施した。

 そのため律令国家は、各地に存在した宗教施設を発展させるなどして社殿を建築し、ヤシロあるいは神社と認定した。おそらく、在来の宗教施設に建築物が伴うようになったのは、律令国家が幣帛・神宝を社殿に収納するために建設したものであったと思われる。社殿を持つ神社を各地に創出することによって、律令国家は班幣制度を充実させ、幣帛や神宝の威力で各地の農耕を推進した。

 律令国家が変質を始める九・十世紀のころ、国家支配理念も同様に変化する。すなわち、八世紀の祈年祭において、全国の神祇職が神祇官に集まり、そこで幣帛を受け取ることが律令国家にとっての理想であった。しかし、延暦十七年(七九八)にいわゆる「官幣国幣社制度」が導入されると、朝廷からの幣帛を国司が神祇職に代わって受け取り、任国に戻った国司がその幣帛を国庁で各神祇職に授けるという方式が主流となる。また、八世紀の律令国家は、国司・郡司だけではなく、地方行政監察使を用いて百姓撫育を行っていたものの、九世紀になると地方行政監察使を次第に派遣しなくなり、十世紀初頭になると、ほとんど使者派遣はみられなくなる。以上のような変化は、朝廷が国司制度を充実させ、地方社会においての支配を伸張させていったことと大きく関係している。

 日本律令国家が当時の中国から学んだ百姓撫育政策や、独自に創出した班幣制度、および、その地方社会への浸透具合をみていくと、国家にとって神祇・儒教政策は必要不可欠なものだったと考えられる。以上のような支配理念による政策を、律令国家以前のヤマト政権は実施したとは思えない。確かに、ヤマト政権下、徴税制度や官僚制度が存在した可能性はあり、それらを理由に六世紀以前の日本列島に国家が存在したとする有力な学説もあるが、本稿で検討したような儒教・神祇支配理念も国家にとって必要であると考える。したがって筆者は、日本列島における国家の成立を、儒教イデオロギーを用い、また、神祇制度を創出して百姓の安寧を朝廷が求めた時期、七世紀後期から八世紀初頭であると考える。

 九世紀半ばになると、律令国家成立後はほとんどみられなかった争乱が、各地方社会で生じ始める。このような混乱状況は九世紀後半以降平安時代を通じて、断続的に続くと推考される。その原因として、自然災害、およびその自然災害に対し対応しない律令国家の無策を指摘しておきたい。具体的には九世紀半ば以降、百姓撫育に関する詔勅が減少したため、おそらく撫育を享受できない地方社会側が、争乱を起こしたと考えられる。九世紀半ばには、何らかの社会的変動があったことも考古学的見地から報告されている。律令国家・古代社会は、九世紀半ばから確実に変化を始めているのである。

 九世紀における社会変動や自然災害の影響により、田地の荒廃もみられるようになる。不堪佃田の増加を報告する国司が次第に増え、朝廷が不堪佃田使を頻繁に派遣するようになるのは、承和年間頃と推測される。その後も九世紀後期を通じて、不堪佃田・損田の増加が朝廷で問題視され続ける。十世紀前半における不堪佃田・損田の増加問題は更に深刻となり、官人給与の未払い問題にまで発展する。そのため朝廷は、開発田を増加させるような政策を採用するものの、効果はなく、十世紀半ば以降、律令国家はそれまでの田地支配のあり方を停止し、不堪佃田・損田の増加問題を軽視するようになる。また、その軽視により、官僚給与のあり方も大きく変化する。十世紀半ばに至り、国家にとって重要な税制や官僚給与制のあり方も変化してしまう。

 このように、国家のあり方は十世紀前中期に確実に変化していったが、十世紀半ば以降の国家―本稿では「摂関期の国家」と称した―は、どのような支配理念を用い地方支配を行っていたのであろうか。祥瑞・勧農・受領罷申儀などから、天皇・朝廷による支配及び支配理念のあり方を検討すると、朝廷・天皇は、地方から出来した祥瑞にさほど興味を示さず、受領に勧農を委ねるなど、律令制における統治のあり方と異なっている部分が多いことに気づく。しかし摂関期の天皇が、中国皇帝や八世紀の天皇と同様にみずからの不徳を嘆くこともあり、決して律令的な天皇のあり方すべてを取り去ってしまったわけではないように思われる。また、旱が生じた場合、朝廷が各地に何らかの指示を出すことはなく、百姓撫育を受領に任せていたようであるが、疫病の際にはその対応を受領にすべて任せるわけではなく、奉幣や読経の指示を朝廷が行っている。つまりまとめれば、以上のようになるだろう。摂関期の国家は、律令期における支配・統治のあり方をそのまま受け継いで国家運営を行っているわけではないが、律令期の支配のあり方を踏襲する場合もある、と。

 このようなあり方をみたとき、一方のみに注目して、単純に「摂関期の国家に律令的なあり方は消滅してしまった」と即断することや、逆に「八・九世紀以来のあり方が残存している」と決め付けてしまうことは生産的ではないだろう。むしろこの重層性・多様性に注目して、より詳しく考えてみる必要がある。

 この重層性・多様性は、朝廷が豊穣を祈る二つの祭祀、祈年祭と祈年穀奉幣や、天皇の食事のあり方などを参考にすると、以下のように考えることができる。すなわち、全国を一律に支配するという理念を掲げていた律令制下の天皇は、十世紀になると、そのような性格を希薄化させてしまう。ゆえに、全国の豊穣を祈るという、律令支配理念に基づく祭祀であった祈年祭を形式化させてしまった一方で、平安京に程近い畿内近域の神社に奉幣する祈年穀奉幣を創始したのだろう。これは、地域差という点で、贄貢進のあり方と共通している点である。また、その後祈年祭は、形骸化した祭祀であったものの、応仁の乱前後まで継続して行われている点にも注意したい。以上のように、律令制支配理念は、実質性を失いつつも、維持されているのである。

 ただし、摂関期において律令制支配理念が常に実質的に機能しなかったわけではない。より危機的な状況が生じたとき、朝廷・天皇は、かつて律令制下のときのように全国を一律に支配・統治していたことを想起し、官符を発するなど、何らかの行動を起こしたようである。つまり、日本列島に何らかの危機的な状況が生じた場合、律令制支配理念を隠し持つ朝廷・天皇が、一時的に律令国家・律令天皇の面貌をみせる。摂関期の国家は、律令的支配理念を常に掲げているわけではないが、必要に応じてその理念を利用しつつ、日本列島を支配しているのである。

審査要旨 要旨を表示する

 有富純也氏の論文『古代国家支配理念の研究』は、八・九世紀の日本律令国家において勧農政策や宗教政策が果たした機能を実証的に検討し、国家の支配理念、構造やその変質について、新しい論点を提供した意欲的な研究成果である。

 第一部では、これまで検討されなかった律令国家による儒教的な「百姓撫育」政策に注目し、八世紀には地方行政監察使・国司によって「撫育」を行なったのが、九世紀以降には使者を派遣しなくなり、九・十世紀の交以降は国司に撫育を委任するようになったという変遷を明らかにした。また、律令国家の官僚制において神祇官が太政官と並立する理由を、幣帛の授受を通して地方社会と直接関係を持つという特質から解き明かし、九世紀には幣帛が国司を介して各神社に授けられることとなり、神祇官の地位が失われていくと論じた。これらの検討から、律令国家が支配を正当化する理念を持ち、「撫育」や幣帛班給などの勧農政策・宗教政策によって民衆生活の安定化をめざす政策を行なったことを指摘した。

 第二部では、律令国家の変質過程とその社会的背景を論じ、東国の古代社会が争乱状況から九世紀半ばに変化する様相を明らかにするとともに、地方行政監察使が九・十世紀の交に派遣されなくなる変化と、その中で十世紀半ばまで続いた不堪佃田使・損田使の検討から、九〜十世紀にかけての国家財政や朝廷・国家のあり方の変質を考察した。

 第三部では、摂関期における朝廷の支配理念を論じ、祥瑞・勧農・受領罷申儀の検討から、地方政治に対する天皇・国家の関与のあり方が十世紀中葉に変化し、摂関期の天皇が理念的には全国の地方支配を行なわない形へと変貌したと論じる。そして、災害・怪異の性質や地域によって朝廷・天皇の対応に差があることと、その背景にある災異思想とを解明した。

 なお、国家仏教についての検討、諸理念の全体的な俯瞰、そして地方神社行政の具体的なあり方とその地域社会との関係などについてのさらなる論及が望まれるものの、日本律令国家の支配理念について新たな観点を提示した点で、本論文は、今後の研究に有益な基礎をもたらしたといえよう。

 よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するのにふさわしい論文であると判断する。

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