学位論文要旨



No 121967
著者(漢字) 泉,正樹
著者(英字)
著者(カナ) イズミ,マサキ
標題(和) 価値概念と貨幣に関する一省察
標題(洋)
報告番号 121967
報告番号 甲21967
学位授与日 2007.02.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第211号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済理論専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 丸山,真人
 東京大学 教授 竹野内,真樹
 信州大学 教授 青才,高志
内容要旨 要旨を表示する

 マルクス(Karl Marx)の主著である『資本論』は,商品には「人間の何らかの種類の欲望を満足させる」使用価値と,諸商品間の数量比較を可能ならしめる共通な属性であるところの価値が具わっているという点についての分析をもって始められている。マルクスにおいてこうした商品の分析は,そのものとして行なわれているだけでなく,そこから貨幣が,そしてさらには資本が生じるという有機的関連を生み出す基体として位置付けられているという点には注目がなされてよい。しかしながら,少なくともマルクスによって提示された貨幣観,具体的には貴金属貨幣をもって貨幣の十全なる概念が与えられるとする貨幣観の妥当性については,今日根本的に再考してみる必要性がある。

 このことは,商品貨幣説を提示するマルクスの論理に過誤が見出される云々といった問題以前に,そもそも「貨幣は生まれながらに金銀である」という貨幣観によっては,現代の貨幣を捕捉しきれないという事実に鑑みてまず引き出されることになると考えられる。

 一例を挙げてみると,価値形態論の展開を通じて一般的等価物である貨幣商品が導き出されるマルクスの枠組みにおいて,貨幣単位は「固定した金属重量として」捉えられることになる。もちろんこのこと自体には,一定の歴史的な妥当性を認めることができる。たとえば1988年以前の日本においては,「純金の量目2分(750mg)をもって価格の単位となしこれを円と称す」と貨幣法において定められており,一般的等価物の一定重量に対して貨幣単位(「円」)が与えられるという関係は,マルクスの貨幣観に合致していたと考えられる。しかし日本においては,1988年の「通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律」の施行に伴って,「通貨の額面価格の単位は円とし,その額面価格は1円の整数倍とする」とされてそれまでの規定が改められ,貨幣単位である「円」は一般的等価物である金から切り離されることになった。

 こうした現象からはまず,貨幣単位がなぜ一般的等価物の一定量を意味することなく提示されうるのかという問題が引き出されることになるだろう。そしてそもそも貨幣そのものにとって,物としての実在性が必須の契機をなすものなのかどうかという点についての検討が促されることになるとも考えられる。またこの問題はさらに,現代の不換銀行券をいかに捉えるかという点にまで波及するものであるとも考えられる。

 一般的等価物として金が仮定されたマルクスの貨幣論を仮に金貨幣論と呼んでみることにして,簡単化のために制度的要因を捨象して考えてみると,そこから導き出される銀行券は金貨幣債務として捉えられることになる。資本主義経済の原理的考察を行なう原理論の領域においても,基本的にはこうした金貨幣・信用論とでも呼びうる枠組みの中で分析が進められてきた。

 しかし現実において示された一般的等価物の一定量を意味しない貨幣単位の出現は,金貨幣・信用論に基づいて現代の銀行券を捕捉することを困難なものにしている。この点は,以下の簡単な例において確認することができるだろう。

 発券銀行としてのZ銀行を想定してみると,金貨幣・信用論においては,保有資産(単純化のために金貨幣と手形)に見合うだけの銀行貨幣(単純化のために銀行券と預金)の発行・創出がなされることになる。もちろんこうした基本的な関係は,現代の発券銀行が発行・創出する銀行貨幣にも当てはまるものだと考えることができる。しかし,貨幣単位が一般的等価物から切り離されているということによって,現代の発券銀行が保有する資産にたとえ金が含まれているとしても,それは貨幣としての金というのではなく,あくまでも商品としての金の保有として捉えられることになるとも考えられる。この点が,金貨幣・信用論に基づく銀行貨幣と現代の銀行貨幣との間に見出される相違になる。

 もちろんこの相違は,兌換請求が生じない限り問題にならないとも見うるのであり,現代の不換制下においてはそもそも兌換請求が生じることはありえない。とすれば,現代の銀行貨幣は兌換請求が生じない場合の金貨幣・信用論の一変種と見ることもでき,このように考えるならば,発券銀行の資産項目に貨幣が含まれている/いないという点は,本質的な問題ではないと見ることもできなくはない。しかし,金貨幣・信用論において論じられる銀行貨幣が,終極的には貨幣債務を意味させられていたという点にあえて固執して現代の銀行貨幣を眺めてみると,そこには〈貨幣〉なき銀行貨幣という構図が浮かび上がることになるだろうとも考えられる。

 そこで本稿ではまず第1章において,宇野弘蔵の発展段階論に対して加えられた検討に着目し,現状分析と原理論とを架け橋する段階論の再構成は,不可避的に原理論の再検討という反作用を生じさせることになると捉えて,原理論の方法をめぐって交わされた小幡・山口論争について考察を行なっている。そのことによって,自立した一社会として描写されてきた純粋資本主義が抱える類型性とその基盤となる原型,言い換えれば,純粋資本主義論を構成する要素がいかなる内容を有するものなのかという問題に対する再検討の必要性について考察を行なっている。

 続く第2章では,第1章での方法論的考察を踏まえて,諸商品の交換比率と投下労働量との関係についての原理的考察を行なっている。マルクスの商品貨幣説は,『資本論』の冒頭諸章で提示されているが,そこでは,交換比率論としての投下労働価値説を土台にした商品価値の現象形態論が展開され,その論理の極致として,「貨幣は生まれながらに金銀である」という命題が導かれる運びになっている。しかし,諸商品の交換比率を規定する〈価値〉を投下労働の相で捉えることに関しては,若干の疑問を挟む余地もあるだろうと考えられるのであり,本稿第2章ではこの点についての考察を行なっている。具体的にはスミス(Adam Smith)の価値論を考察対象として取り上げることになるが,それはリカード(David Ricardo)の投下労働価値説を継承・発展させたマルクスの一源流として位置付けられるからであり,投下労働価値説をその原初的なかたちで検討しておきたいという理由による。

 先回りして結論のみを述べてしまえば,商品の交換比率が投下労働量によって規定されるという命題は,限定された条件下で成立するものであり,これを一般化することは,転形問題を俟たずして既に行ないえないと考えられる。

 ただし,諸商品の持ち手変換は物々交換を通じて行なわれるわけではなく,貨幣を介した商品交換として行なわれる。そこで第3章では,マルクスの商品貨幣説と,マルクスの議論を再構成した宇野弘蔵の商品貨幣説とを手がかりにして,商品世界において貨幣がどのように位置付けられることになるだろうかという問題を考察している。それは言い換えれば,貨幣の論理的生成論に対して検討を行なっていくということに他ならない。商品貨幣説が提示されるマルクスの議論,具体的には初版『資本論』本文と現行版『資本論』の価値形態論,さらには交換過程論を手がかりにして,そこで説かれている貨幣の論理的生成論に残される問題点の検討をまず行ない,その上で,商品所有者の交換要求という観点からマルクスの議論の再構成を行なった宇野弘蔵の論理に残される問題点を検討している。その際の要諦は,いかなる論理によってあらゆる商品所有者にとっての〈共通等価物〉,つまり一般的等価物が導出されることになるかという点に存すると考え,クナップ(Georg Friedrich Knapp)によって論じられている議論との摺り合わせを試みている。そのことによって,一般的等価物である貨幣商品を析出する最後の一押しを担う契機として,国家に代表される統治機構の存在が位置付けられるだろうことを論じている。

 しかし,現代の不換銀行券に象徴される現代の銀行貨幣を,貨幣商品の導出がなされる商品貨幣説との連続性の下で捉えることには無理があるとも考えられるのであり,そもそも〈貨幣〉はどのような概念として捉えられるのかという問題を第4章で考察している。そこでの要諦は,一般的等価物が存在しない一般的等価形態を想定することは可能だろうかという点に存すると考え,「貨幣は生まれながらに金銀である」という貨幣観とは区別される貨幣概念が提示された議論として,ステュアート(James Steuart)の計算貨幣論への注目を行っている。そして結論としては,商品所有者によってなされる交換要求の中に,件の一般的等価形態の成立を可能ならしめる機制を見出すことは形式的には可能であることを考察している。

 これらの考察を踏まえて現代の銀行券が抱える貨幣債務性について考えてみると,それは一般的等価物の支払約束としてではなく,一般的等価形態が存続されるということに対する責務として捉えられることになるだろうと考えることができる。これは言い換えれば,現代の銀行貨幣を発行する主体(中央銀行)が抱える責務として見ることもできるが,銀行貨幣の発行・創出が原理的には社会的再生産に基づいて行われることに鑑みると,一般的等価形態を存続させるという責務は,ただひとりこの発行主体に帰せられれば事が足りるという性格のものではなく,その責務は詰まるところ,社会的再生産によって支えられているものとして捉えられることになるという点が,本稿で論じられている事柄になる。

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1 論文概要

 本論文は、不換銀行券に代表される今日の貨幣の現実をふまえて、K・マルクス『資本論』に示された商品貨幣説の問題点を検討し、価値概念と貨幣論をより大きな歴史的観点から再構築することを課題としているということができる。全体は「序」vii頁(1頁あたり40X37字)、本論131頁(同)、および参考文献リストからなり、本論は4章で構成されている。その概要は以下のとおりである。

 「序」では、基本的な課題が概括され、全体の構成が紹介されている。「貨幣は生まれながらに金銀である」というマルクスの金属貨幣を基礎におく貨幣論は、兌換停止下の中央銀行券が法貨となり、貨幣の度量標準を金重量をもって与える条項が、貨幣法からもすがたを消した今日、原理的にいかなる意味をもつのか、再考しなくてはならないと問題を提起し、この解明のためには(1)資本主義全般の基礎理論たる原理論を現実の資本主義が示す多様な歴史的現象にどのように関連づけるのかという根本に立ちもどって方法論から見なおす必要があること、また(2)マルクスの貨幣論を基底で支えている投下労働価値説も再検討すべきであること、これらをふまえて(3)金属貨幣をめぐる諸説との関係においてマルクスの金属貨幣説の含意を批判的に吟味し、(4)信用貨幣と不換銀行券を視野に収め、新たな貨幣論の再構築することが不可欠になると論じ、本論4章の間の関連が示されている。

 第1章「純粋資本主義論の原型性と類型性」では、歴史社会としての資本主義を解明するためには、原理論と発展段階論と現状分析という研究領域を明確に区別すべきだという、宇野弘蔵の三段階論の方法が紹介され、今日の資本主義を捉えるためには、この宇野の方法自体が提唱された当時と同じような意味で、もう一度、根本から見なおされるべき状況に直面しいるという。事実、段階論の時期区分をめぐってはすでに、いくつかの異論が提起されているが、この時期区分の見直しは、さらに原理論の内容にまで踏みこんだ再検討を要請するものであるという。そして、このような試みとして、純粋資本主義をあたかも自立した経済社会として説くためには、原理論においてもいくつかの問題を「ブラック・ボックス」に入れて考える必要があるという、最近の山口重克氏の原理論の方法論が批判的に吟味される。山口氏は、原理論は市場経済的な行動原理だけにしたがって社会的再生産が編成される関係を理論的に構成するものだが、現実の資本主義はそれとは異質な社会的な諸関係が介在する「混合体制」であり、このことは原理論の内部にもそうした非市場的な諸関係がはいるブラック・ボックスが存在すると考えるべきである、という主張を展開した。このブラック・ボックスになにが入るかによって、資本主義の諸類型が整理できるというのである。このような山口氏による宇野弘蔵の純粋資本主義論の深化に対し、その後、このブラック・ボックスの概念が多義的ではないかという批判が提示されたが、この章では、こうした批判に対する山口氏の回答に対する検討をふまえ、次のような独自の主張が提示されている。

 第1に、非市場的要因がブラック・ボックスに充填されるという関係は、単なる「混合」ではなく台木に接ぎ穂を継ぐときの生じる「合成」であり、接ぎ穂に当たる非市場的な要因は台木に当たる市場的な要因と無関係に選択されるのではない、という点である。これは、このかぎりで資本主義の構造的な変化を原理論の射程に含めるという意味で、一種の変容論的アプローチに当たり、歴史的な変容を遂げる資本主義の現実に原理論を直接関係づけることができるという現状分析に対する原理論の「直接的関係説」に与することを意味する。

 第2に、山口氏がブラック・ボックス論で提示した核心は、特定のかたちの非市場的な要因の関与をとりあえず「不問に付す」ということにあり、それが「不必要」であるということを積極的に意味するものではないという。本論文で主題的に追求されている貨幣論に即していえば、貨幣形態の金への固定化には、貨幣制度といった、なにがしかの非市場的な要因の関与を「必要」とするが、それがどのような貨幣制度であるのかは「不問に付す」という展開方法なのであり、この点では山口説とこれに対する批判との間に大きな懸隔はないというのである。そして、本論文の課題は、以上2点の理解にたち、原理論の価値概念と貨幣論を、現実の資本主義の歴史的変容の解明に向けて、深化・拡張するものであると論じられている。

 第2章「商品の交換比率と投下労働量」では、マルクスの貨幣論を性格づけている独自の商品価値論が、スミスの価値論とリカードによるその批判という学説史的な流れのうちに考察される。本論文の主題は、今日の貨幣現象を射程におさめた貨幣論の再構築にあるといってよいが、その解明にはマルクスの貨幣論を基礎づけている投下労働価値説、ないしは商品価値の内属性という概念に遡って再検討しておくことが不可欠であるというのである。

 スミス価値論の適否自体に関してはすでに夥しい研究の堆積があるが、本論文では、リカード、マルクスに代表される「スミス= 不徹底説」と、『国富論』を読みかえすかたちでこれに反批判を試みる「スミス= 一貫説」の両説に大きく類別し、再解釈が試みられている。スミスが投下労働価値説をひとまず提示しながら、それで一貫させることなく、支配労働価値説を混入させたというリカードによる批判、資本・賃金関係が発生するとスミスは投下労働量による商品価値の内在的尺度を放棄してしまったというマルクスによる批判の典拠を厳密に再検討し、スミスが交換比率を労働によって説明しようと努めた背景には、「労苦と手数」が時代をこえて富裕の尺度として不変性をもつとする認識が終始一貫して存在する点が読みだされる。

 「スミス=一貫説」は、このようなスミスの労働に対する洞察を再評価し、スミスのいう労働量には、(1)ある商品A に投下された労働量、(2)商品A と交換される商品B に投下された労働量y、(3)商品A によって雇用できる労働量、という3種類が含まれており、また『国富論』のテキストには(A)価値の源泉論、(B)交換比率を決定する価値の量的決定論ないし原因論、(C)価値尺度論という面が併存していると解釈し、これらの関係を区別して理解すればスミスの議論は整合性をもつというのである。本論文は、このような一貫説をさらに再検討し、スミスの交換比率論は基本的に投下労働価値説で一貫しており、支配労働価値説の意味は労働による富裕度の測定論であるとして、「労働の価値の不変性」の意味内容を吟味し、とくに分業が成立し資本・賃労働関係が成立している社会において生産力が変化するなかでは、富裕度は支配労働量を尺度に比較するほかないと説く。

 このようにスミスにおける支配労働価値説の課題を確定した後、投下労働価値説がその課題である交換比率論としてどこまで妥当性を有するのかに、考察を進めている。本論文は、この問題に関しては、4つのケースが考えられるという。(1)生産物がすべて労働主体に帰属し、「貯え」が存在しないケース、(2)生産物が労働主体にすべては帰属せず、「貯え」が存在しないケース、(3)生産物がすべて労働主体に帰属し、「貯え」が存在するケース、(4)生産物が労働主体にすべては帰属せず、「貯え」が存在するケース、である。従来、「スミス= 不徹底説」も「スミス=一貫説」もいずれも、(1)と(4)とを対象とするものであった。これに対して、山口重克氏などによって「価値法則の論証」問題して再検討されてきたのは、スミス解釈に引きつけていえば、(3)を「必要生産物連関」、(4)を「剰余生産物連関」とよび、剰余労働のおこなわれない(3)の範囲では投下労働量に基づく交換が必然性をもつが、剰余労働がおこなわれるようになる(4)では、その範囲で交換比率に弾力性ないし自由度が与えらえると論じたことになるという。これはマルクスの生産価格論で、利潤が剰余価値の再配分であるという範囲で、対象化された労働量と取得される労働量との間に一定の乖離が許されると捉える立場に発展する。これに対して、本論文は、(2)のケースに着目し、不等労働量交換の余地を与えているのは全生産物が労働者に帰着する必要がないという点こそ、その本質をなすという。投下労働量による規制関係に弛緩をもたらすのは、必要労働と剰余労働との区別に本質的に弾力性があるということに求められるべきであり、取得された剰余労働の再配分という範囲に限定するのでは狭すぎるというのである。

 マルクスが投下労働量による交換比率の規制を<そうならざるをえない>という必然性として捉えたのに対して、本論文はここには<あるいはそうであろう>という「蓋然性」に属する問題であり、しかも、それは、これまで指摘されてきたような転形問題を俟たずして「希薄化」されると論じる。この第2章を通してみると、要するに、マルクスが、スミスの価値論を投下労働価値説で一貫しなかったというリカードの批判を基本的に踏襲したことで、マルクスの貨幣の把握が、金属貨幣説に流れてしまった背景をなすという主張がなされているということができよう。こうして、マルクス貨幣論を基底で拘束してきた投下労働価値説による交換比率の決定論を相対化したうえで、現代の貨幣現象を射程におさめたとき、原理論の貨幣論はいかに再構築されるべきかという本題に進む。

 第3章「貨幣生成論の問題群」では、マルクスの商品貨幣論とそれに対する諸批判を検討しながら、一般的等価形態から貨幣形態への展開における貨幣の単一性・統一性の問題が考察される。まずはじめに、現代の貨幣を強く意識した「商品-貨幣の同時存在説ないし貨幣先行説」が検討される。この説は、『資本論』初版本文を含め、マルクスの「価値形態論」ならびに「交換過程論」の諸テキストを読むかぎり、いずれのマルクスの説明も商品から貨幣が生成するという論証に、実は成功していないことは明らかであり、その点で実は、商品貨幣説の不可能性を自ら語らしめたところに逆説的な意味があると主張する。そしてそこから、貨幣が制度的に創出されるものであり、貨幣が登場することで諸商品の「価値関係」もはじめて「市場の内部に出現」するのであり、「現象することのできない価値」は「事実上無に等しい」といった結論を引き出すのである。本論文ではこうした説の拠り所となったテキストを再度綿密に考証し、その無理を正すとともに、商品から貨幣を導出するのに「失敗」したという解釈から、一気に貨幣先行説に進むところに大きな論理的飛躍があるという。こうして本論文は、貨幣と商品との同時存在は現象としては当然であるが、逆にそこから「貨幣が貨幣たる所以は、もうそれ以上遡求することができない」ものだということにはならないと批判的総括を下した後、商品の価値形態論のうちに貨幣の論理的な生成の契機を読みとろうとする、もう一つの異説の検討に移る。

 この立場は宇野弘蔵によって積極的に提示されたものであるが、本論文ではこの方向で最近、論争点となっている一般的等価物の統一、単一化の論理に焦点を合わる。価値形態のうちに、「多くの商品の等価物」から「すべての商品の等価物」への展開を説くことの可否をめぐる山口重克-岡部洋實論争、各商品所有者は全体の欲望を「知りえない」以上全体的な共通等価物としての貨幣は原理的には導出できないという岡部氏の説に対して、知識や情報が不完全であるからこそ、貨幣の必然性が生じるのだとして、媒介物としての適正を重視する奥山忠信氏の説などが紹介され、他者の交換要求を「察知」し、それに「同調」する結果、等価物の統合が生みだされてゆく営力の存在は認めながら、なおそれだけでは貨幣を特徴づける「あらゆる商品所有者にとっての共通等価物」の成立の論理としては不充分であると結論づける。

 これら二つの異説を排した後、さらに貨幣の単一化の論理を探るべく、この問題を重視したクナップ(Knapp, Georg Friedlich) の『貨幣国定説』における議論が検討される。その本質は、国家がそれを支払手段として受け取るか否か、すなわち「表券的支払手段」の規定こそが貨幣たるか否かの判別基準であるという主張にあると整理したうえで、強制通用力は「<国家が受取人になる支払>と<国家が支払人になる支払>、そして<私人間の賠償>という領域には作用するとしても、<私人間の支払>という領域には必ずしも適用可能ではない」という。この点で、貨幣の単一性は、商品経済的な動力だけでも、国家による強制によっても、論理上の無理を抱えており、そのかぎりで第1章で検討されたブラック・ボックスによる処理の必要性が課題として浮かびあがってくるという。そして、商品貨幣説の立場から「不換銀行券の実質的有用性」を論じ、それが「いわば制度によって支えらえた有用性」であるが、実は奢侈品としての有用性もいわば慣習によるという面もあり、国家が登場しているような世界では、「制度がつくり出している有用性」も当然あるとする山口氏の見解を紹介し、この課題を信用貨幣を含む次章の考察にゆだねている。

 第4章「現代の不換銀行券と貨幣」では、価値形態による貨幣生成論に立脚した商品貨幣説が抱える難問、単一性の問題が、今日の不換銀行券をどう捉えるかという観点から考察される。ここではまず、この課題が「不換銀行券論争」の検討から掘りさげられている。商品貨幣説に立脚して、金貨幣が貨幣の本質規定をなすとする立場は、金兌換停止という状況に対して、不換銀行券=国家紙幣説をとることになる。これに対して不換銀行券といえども、なお銀行の負債として計上される点などを論拠に、不換銀行券=信用貨幣説をとる立場が対立することになる。本論文は、信用貨幣説に対して一定の評価を与えながら、しかし「貨幣論において導かれる貨幣は商品貨幣、具体的には金貨幣であり、この金貨幣を起点として信用取引の考察が行われた」(95頁)点で、国家紙幣説と同じ限界を残しているという。

 こうした不換銀行券論争が共有している金属流通=本質論の問題点を明らかにするために、つぎに、価値尺度の視角から貨幣の単一性にいち早く注目したステュアート(Sir. James Steuart)の「計算貨幣論」が再検討される。貨幣制度に支えられた、鋳貨も国家紙幣も、実在する素材はいずれも、「観念的(ないし理想的)度量標準(ideal scale)」たり得ないというスチュアートの貨幣認識に着目し、マルクスの価値尺度論とその基礎をなす「抽象的人間労働」の概念は、交換比率を規制する価値の量規定とは異なる、単一の貨幣による同質な表現を理念的に要請する。マルクスの価値形態論を貨幣の単一性を説明する理論とみなしたしたうえで、これに種々の疑問・批判が投げかけられてきたが、単一性の問題は、マルクスがステュアートから引き継いだ観念的な価値尺度という別の問題として捉える必要があるというのである。こうして本論文は、多くの商品の共通な等価物があればよいのであり、すべてに共通な等価物が存在する必要はないという価値形態論、流通手段論的な観点からする最近の複数貨幣説の盲点を指摘し、商品の価値表現、あるいは価値尺度という側面から貨幣の単一性は捉えられるべきだと論じ、この観点から、「一般的等価物」と「一般的等価形態」とを概念的に区別し、今日の不換銀行券も含めて単一の「一般的等価形態」の必然性は示せるが、ここから金貨幣に代表されるような単一の「一般的等価物」に進むかどうかは蓋然性の問題となり、次元を異にする問題としてブラック・ボックスに入れて処理すべきだという結論を導いている。

 最後に短い「結語」が付され、第1章から第4章の考察をふり返り、金兌換も貨幣の度量標準としての金規定も消えた今日の貨幣にも、本論文の原理的な貨幣概念が及びうる点が再述されている。

2 評価

 以上のような内容を有する本論文の積極的意義を述べれば、つぎのようになる。

 第1の意義は、マルクス経済学における価値概念と貨幣論をめぐる諸研究を入念に検討するかたちで、従来の研究史のうちに論文筆者の見解が提示されている点である。原理的研究のなかでも、この分野はとりわけ過去の研究の蓄積が厚く、そのなかで、いままでだれも論及したことのない新説を立てるということは事実上不可能といってよい。それは研究対象が歴史的にさまざまな現象を生みだし、複雑で多面的な問題群を形成するためである。このような対象を一般的に捉えるようとすると、一方で抽象的な規定内容となるとともに、他方で微妙な差異を伴う多様な理論が叢生せざるをえない。その意味で、個別的に新説が生まれる可能性は低いが、そのことはこの分野の研究が完成したことを意味するわけではない。そもそも商品価値とはなにか、貨幣とはそもそもなにか、という基本問題に一般的な解答が与えられたとはいえず、語彙が増した分、逆にそれによって語られる内容は多様化している。こうした分野の研究では、まず、これまで提示されてきた諸説を精確に解釈し、異論を洗いだすことが肝要であり、それらを組み合わせる統語の技量が問われることになる。もちろん本論文はこの分野の諸研究を網羅的に紹介したものではない。スミス価値論をめぐる論争、商品貨幣説に対する貨幣先行説からの批判、一般的等価物の必然性をめぐる論争、貨幣国定説批判、不換銀行券論争、計算貨幣をめぐるマルクスのステュアート批判、等々、本論文の主張に深く結びつく議論に絞り、それをより深く捉えることに力点がおかれている。このような基礎技量において、本論執筆者は異説解釈、整理・系統化に充分な能力を有していることがまず評価されてよい。

 第2に、抽象的な理論が、歴史的現象の解明に対して、どのような意義をもつのか、理論の適用方法に関する意識的な探求も評価されてよい。類型論として段階論を原理論の視点から見なおしてゆくという、山口重克氏のブラック・ボックス論は、今日の資本主義を射程におさめ、伝統的な純化・不純化論による段階論を根本から見なおす試みであった。本論文は、この山口氏の方法論をさらに仔細に見なおすことで、原理論と段階論の関係を「原型論」と「類型論」というかたちで再構成している。これ自体は抽象的・一般的な方法論的な考察であるが、本論文は枠組の整理にとどめることなく、貨幣の単一性に焦点を合わせ、この枠組を実地に適用し有効性を確かめようとしている。抽象的な貨幣論はこうした歴史的射程を見失うかぎり、主観的な貨幣観の投影か、雑多な現象の記述に終わるおそれが多いだけに、まず慎重に方法的な反省からはじめた意義は少なくない。

 第3に評価すべきは、理論的に可能なかぎり、現代の貨幣をも射程におさめんと努めている点である。これは第2点として指摘した、方法論的な見直しと密接に関連する。既存の原理論を前提とし、その枠組のなかで解明できるかできないかによって、考察範囲を絞るのではなく、あくまで明らかにするべき課題のほうを優先させ、現代の貨幣をも包括しうる貨幣論が、既存の原理論でもし捉えきれないのであれば、それを捉えることのできるような新たな枠組を再構築せんとする方向が模索されている。現代の貨幣は表面的な現象としては、当然、『資本論』が想定した金属貨幣の世界とは大きく異なっている。このような懸隔を強く意識したうえで、本論文はあえて、原理論における「貨幣論」の金属貨幣と「信用論」における信用貨幣との理論的な繋がりを追求している。このような貨幣=信用論的なアプローチ自体は、近年の研究の一つの傾向でもあり目新しいものではないが、ただそのなかにあって、不換銀行券を信用貨幣として捉えうる論拠を、ステュアートの計算貨幣の再検討を通じて、原理的に深めた点は新たな知見を付け加えるものと評価してよい。同じく現代の貨幣を強く意識して提示された「貨幣先行説」、「貨幣国定説」、不換銀行券=信用貨幣説などとの限界を批判する作業を通じて、本論文が独自に主張する、計算貨幣的な観点からする単一貨幣説の独自性も、これら諸説との異同を詳らかにするかたちで明らかにされているように解される。

 第4に、本論文は『資本論』における商品・貨幣論の検討を根幹とするが、さらにそれが学説史的な観点から相対化され、客観的・批判的に捉えかえされている点にも意義を認めることができる。『資本論』の枠組を前提とし、それになじまない論点を捨象するのではなく、アダム・スミスやステュアートの議論との関係を再解釈することで、マルクスの貨幣論がもつ限界もかなり明確にされている。ステュアートとの関係については、上でふれたとおりであるが、また、アダム・スミスの価値論に関しても、それを深く吟味することで、スミスの支配下労働価値説が歴史的射程を具えた価値論であること、すなわち、異なる時代の経済社会の富裕度を比較するという独自の課題を有する価値論であること、が明確にされ、リカードからマルクスが継承した、純生産物の分割尺度として有効性を発揮する投下労働価値説との違いが理論的に示されている。投下労働量による個々の商品の交換関係(交換比率)の規制には弾力性ないし一定の自由度がある点は従来から指摘されてきたが、本論文はこれに学説史的な検討を加え、投下労働量による交換関係の規定を弛緩させる原理が、資本間における剰余価値の再配分によるだけではなく、必要労働と剰余労働の間の弾力性に潜むことが明らかにされる。こうした考察を通じて、投下労働価値説に基づく商品価値の内属性という、マルクスによる貨幣の単一性という認識の背景も、学説史的に反省を加えられて深められている。

 第5に、一般的価値形態における等価物の単一化という基本問題を、本論文は一貫して追及し、それに一定の解答を与えている。この問題に関しては、1980年代から、マルクス経済学、とりわけ宇野弘蔵氏の価値形態論を評価する論者から、そのさまざまな再解釈や、部分的な修正が唱えられてきた。しかし、それらは多くの場合、価値形態論のうちに、複数の共通等価物から単一の等価物が形成される契機を探る内容の理論だった。そしてこのような研究への批判から、等価物の単一化は理論的には導出できないという主張も強まり、貨幣の単一性の問題は、けっきょく、原理論の説明範囲を越えた課題だという方法論的な反省もみられるようになってきている。本論文はこうした理論状況を整理しながら、交換の媒介物という観点だけからでは、金属通貨への単一性を原理的に説明することはできないが、これに対して、計算貨幣としての性格をもつ価値尺度の観点からは、最後まで単一性が不可避となるという主張が展開されているように読める。流通手段論的な観点からは複合貨幣論的な主張に理解を示しつつ、価値尺度論的な観点からみると、複合貨幣を乗り越える単一化の力が内在するという見地が形成されつつあるように思われる。この点において、本論文は最近の見解を根本から見なおす独自性を有している。

 しかし、本論文には、疑問とすべき論点、さらに研究すべき未解決の問題も残されている。

 第1に、中心課題をなす貨幣の単一性に関する考察が、交換の媒介物としての貨幣、流通手段としての貨幣の側面に偏して進められている点である。本論文では、価値形態論の内部において多数の商品所有者グループから交換を求められる共通の等価物へと、相対的に少数の商品所有者グループがその間での共通の等価物を変更するかたちで、けっきょく、すべての商品所有者に共通の一般的等価物が導出されるのだという立場と、これに対して異を唱える立場との間の論争を取りあげ、この検討を貨幣の単一化の問題を究明しようとしている。しかし、この論争はあくまでも、交換を求める諸形態の展開という基本的な枠組の中での議論になっている。この論争にのみこだわると、貨幣のもつ他の性格、とくに蓄蔵貨幣としての性質、購買力の保持という機能からの考察を欠くことになる。この側面は貨幣の単一性の問題においてはなお従属的であるというのであればそれでもよいが、いずれにせよ、なぜ、交換の媒介という側面のほうが中心となるのか、その理由が明らかにされるべきであろう。いずれにせよ、貨幣のもう一面にほとんど目を向けていないという点で、本論文はなお射程の狭さを露呈しているといわざるをえない。

 第2に、各章はそれぞれ興味深い論点を含んでいるといってよいが、全体の論旨の展開からするとやや枝葉末節的な深追いが理解の障碍となる場合がみられる。とくに第2章におけるスミス価値論に対する詳細な再評価は、貨幣の単一性をめぐる主題からかなり逸れた方向に進んでいるように思われる。基本はスミス価値論における混乱というリカードの批判を、マルクスが高く評価したために、投下労働価値説が『資本論』の冒頭から絶対化され、その副作用として、一般的等価形態とそれを担う貨幣素材が労働生産物以外に考えられなくなるという論理的閉塞に陥る遠因をなした、ということであろうが、この基本的な論旨を示すためだけなら、スミス価値論に対する近年の諸説を詳細に検討する必要があったかどうか、それ自体は検討するに値する問題であるが、本論文の基幹をなすロジックからは外れている観がある。むしろ、投下労働価値説をとることが、どこまで貨幣素材を労働生産物に限定することになるのか、また労働生産物に限定されるとことと、それが金に絞られるということとがどこまで必然的か、こうした論点こそ、もっと詳しく分析さえるべきではなかったのかと悔やまれる。

 第3に、諸説の詳細な紹介と検討が丹念になされているの比して、自説の理論的な展開、独自の掘り下げが不足している憾みが残る。たしかに、貨幣の問題を考える場合、資本主義の歴史的発展を通じて、金属貨幣だけではなく、信用貨幣、とりわけ不換中央銀行券が普及する状況を、資本主義の本来の貨幣のあり方から逸脱した、原理的には解明できない事態として埒外におくことはできないという主張はよくわかるし、その点で、歴史的に多様な現象を呈する貨幣を理論的に考察するために、単一の理論を歴史的に変容する対象にどう適用するのかという方法論に遡って検討しておく必要があることも納得がゆく。この点で山口重克氏の原理論における複数の「ブラック・ボックス」の挿入を認める見解と、それをめぐる異説を手がかりにしているところまでの詳細な紹介の必要は諒解がゆくが、しかし、それをふまえて、本論文がどのようにそれを深化したのか、振り返ってみると、けっきょく、ブラック・ボックスの外在的な設置とそこにやや恣意的に挿入される外的条件という切断に疑問を呈し、それにかわって原理論の側は接ぎ木の「台木」をなし、それに対して非市場的要因が「接ぎ穂」のかたちで「合成体」を構成するというような比喩的な説明の域を脱しておらず、また内容的にも既存の論争に対して折衷的な見解の域をでていない。方法論的な領域ではむずかしいことではあるが、もう少し、自説に対する多面的な深化、説明の多様化が求められる。

 第4に、本論文が重視する、国家や制度、規制や慣習といった非市場的な要因の役割に関しても、さらに詰められるべき論点を残している。クナップの貨幣国定説を批判し、いかに国家といえども、私人間の取引に対して、事前に「国家紙幣」の授受を強制しても、それは私人間の自由な契約のなかで、別の投下形態が採用されるのを強制的に抑制できる保証はなく、もし資産的な裏打ちのない紙券が無闇に増発されれば、それを回避し、結果的に価値形態論に示されるような、商品間の関係から貨幣が発生するという関係が現実化せざるを得ない、したがって、国家がなしうることは商品所有者の内部から選定されてくる貨幣候補から、一つを選び認定する最後の一押しの役割を果たすに過ぎない、という点までは了解したとして、では、貨幣に対する国家の影響力はこれにつきるのかどうか、市場の生みだす変化に対抗するような、非市場的な国家の関与をどう評価するのか、こうした点のさらなる検討が必要であろう。不換銀行券に対する国家の関わりは、この種の同調的な認定作用をこえており、とりわけ膨大な国債を抱え、それを基礎に大量の不換銀行券を発行する今日の中央銀行に関して、その流通根拠を「社会的再生産の円滑さ」という抽象的な説明に還元するのでは、今日の貨幣をめぐる外的条件の複雑で強力な関与に対する理論的な考察を、事実上反故にすることになるのではないかと危惧される。貨幣に対する原理的検討を方法論的に今日の貨幣現象も含むかたちで展開するというかぎり、そこにおける非市場的な要因の役割について、もう一段、貨幣の単一性を支えている諸要因を分析的に捉える必要がある。

 第5に、本論文の積極的な結論に残された未展開な内容が問題となる。本論文は、最終的に「一般的等価物」と「一般的等価形態」とを概念的に区別し、一般的等価形態は貨幣素材としての「物」を離れて純粋に「形態」として捉えることができるし、またそうすべきである、という。そして、ステュアートの強調した「計算貨幣」の議論を参観しつつ、この固有の意味での「一般的等価形態」に「計算貨幣」としての役割を読み込む。これは畢竟、貨幣の単一性は貨幣素材を離れた、統一された計算単位であるとみなすことになる可能性がある。しかし、このようなステュアートの「計算貨幣」解釈の適否はおくとしても、商品相互の関係のうちから生みだされる貨幣が、特定の素材から離れて純粋な形態となる論理が充分究明されているとはいいがたい。マルクスをして労働生産物を貨幣と考えざるを得ない方向に誘った遠因が明らかになったとしても、それはあくまで「形態」を「物」から区別して独立に規定できる可能性を示したに過ぎず、本来分離すべきだという積極的な論拠となるとはいいがたい。難問ではあるが、本論文の成否はこの点の解明にかかっているといわざるを得ない。

 以上のような問題は残されているが、本論文は博士(経済学)の学位を授与するのに充分な研究成果を含むという点で審査員全員の評価は一致した。

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