学位論文要旨



No 121969
著者(漢字) 原,ひろみ
著者(英字)
著者(カナ) ハラ,ヒロミ
標題(和) 日本企業の人事戦略についてのマイクロデータを用いた実証研究
標題(洋)
報告番号 121969
報告番号 甲21969
学位授与日 2007.02.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第213号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 玄田,有史
 東京大学 教授 伊藤,元重
 東京大学 教授 市村,英彦
 東京大学 教授 仁田,道夫
 東京大学 教授 中村,圭介
内容要旨 要旨を表示する

1. 本稿の研究目的

 本稿の研究目的は、90年代後半から2000年代前半という期間において、日本企業がどのような人事戦略をとってきたのかを、マイクロデータを用いた計量分析から明らかにし、その背後にある人事戦略の規定要因を探ることである。あわせて、労働組合についての分析も行い、また、アメリカにおける政策評価の実践をサーベイを通じて紹介する。これら結果に基づいて、労働者の勤労生活を向上させるための支援策の検討を試みる。

 まず、マイクロデータを用いた計量分析による人事戦略についての研究、すなわち内部労働市場研究における本稿の位置づけを確認しよう。先行研究のほとんどは、分析の視点をはじめから内部労働市場に置き、企業に内在する問題を分析したものである。しかし本稿は、(1)マクロデータからは必ずしも観察することができない部分を、マイクロデータを用いた分析から浮き彫りにすることで、労働市場研究に新たな視点を提供することに主眼を置いていること、(2)正社員と非正規社員の雇用行動や、新卒採用、企業内訓練といった、これまでマイクロデータを用いた検証が不十分だった点について、それぞれ新しい切り口から検証を試みたことが、これら先行研究とは異なる点であり、当該分野に対する新たな貢献と考えられる。また、(3)労働組合や政策評価にも着目して全般的な検討を行ったことも、本稿の特色である。

2. 各章の分析結果の概略

 次に、各章の分析結果の概略を確認しよう。第II章では、日本企業の雇用行動を分析した。この時期に、日本企業は人件費節約のために、非正規社員を増やして、正社員を減らしたと言われてきたが、「Hicksの補完の偏弾力性」を計測して検証した結果、正社員と非正規社員の間には補完関係があることが示された。つまり、正社員と非正規社員の賃金格差を考慮に入れても、企業は正社員を減らすときに非正規社員を増やすという行動をとるのではなく、非正規社員を増やすためには正社員も増やしてきたのである。企業がこのような雇用行動を選択したことには、正社員の仕事を必ずしも非正規社員がこなせるわけではないから、との解釈が可能であろう。

 また、企業規模別や業種によっても異なる関係が観察された。全ての企業で一律に同じ雇用行動が観察されるわけではなく、企業属性によって異なることからも、企業によって正社員と非正規社員に期待する役割が異なることも示唆される。

 第II章の分析をうけて、第III章では、企業の新規高卒採用行動についての分析を行った。ここでは、採用の「量」ではなく、採用の「継続性」に着目した。その結果、90年代から2004年という高卒労働市場が縮小傾向にあった厳しい就職環境下において、長期的な視点に基づいて人材育成を積極的に行っている企業ほど高卒採用を継続的に行っている。つまり、競争力基盤として外部労働市場を通じては得ることが難しい企業特殊的技能をもつ人材を自社内で育成し、そうした技能を継承させることを経営戦略の核として位置づけている企業が、新卒採用を抑制する企業が多い中、新規高卒者を正社員として継続的に採用し、長期的な育成方針に基づいた企業内訓練を行っていたと考えられる。技能や技術を継承し、その担い手となることを期待して、企業は正社員を採用していると考えられる。

 そして、第IV章では、労働者マイクロデータを用いて、企業内訓練の実態を分析した。企業属性や労働者属性など様々な要因をコントロールしても、2000年代に入ってOff-JTの受講比率が低下していることが明らかにされた。企業が雇用者の能力開発に消極的になっている様子がうかがえる。

 しかし、企業内訓練が減少傾向にある中でも、2004年という近年においても、若手社員の仕事についての相談相手や将来的なキャリアデザインについて相談できる仕組みがある企業では、仕事上の能力を高めるための指導やアドバイスも積極的になされている。また、先輩が後輩を指導する雰囲気のある企業では、Off-JTへの雇用者の派遣にも積極的であることが示された。つまり、「相談」に関する制度があったり、「教える・教えられる」雰囲気の強い企業では、企業内訓練が積極的になされていると考えられる。

 第V章と第VI章では、労働組合について分析した。第V章から、2000〜2003年というデフレ下においては、日本の労働組合は、賃金と非金銭的な労働条件の両方を維持・改善する役割を果たしてきたことが明らかにされた。組合効果の存在が確認されたものの、同じ期間に労働組合員数が減少し続けていたのも事実である。

 そこで、第VI章では、組合に加入していない労働者、すなわち未組織労働者の組合支持の現状を、労働者マイクロデータを用いて分析した。特に、労働者の権利についての理解に着目して分析した。その結果、労働者の権利について理解している者ほど、組合を支持していることも示された。また、無組合企業に雇用されている未組織労働者が労働組合に関して無関心であることが示された。その一方で、労働組合が役に立つと考えている者および仕事上の不安や労働条件の低下を感じている者ほど労働組合を強く支持する。逆に、組合に対して否定的なイメージを持つ者は組合を支持しない。

 さらに、未組織者のうち正社員と非正規正社員の間に組合支持に違いがないことも明らかにされた。つまり、正社員と非正規社員の間で組合支持に差がないのであれば、組織化への取り組み次第では、パートなど非正規社員の組織化につながる可能性も十分にあると考えられる。

 そして、アメリカでは1960年代以降、試行錯誤を繰り返しながら政策評価を行っており、現在でもより良い政策評価を行うために不断の努力を続けているが、第VII章では、このアメリカの職業訓練政策に対する政策評価の経験を紹介した。

3. 労働者生活向上のための試論

 正社員としての雇用機会の減少、新規学卒採用の抑制、企業内訓練の減少など、90年代後半以降の時代は、労働者にとって必ずしも恵まれた労働市場環境にあったとは言い難い。しかし、以上のマイクロデータを用いた分析結果から、非正規社員の活用を進めてはいるものの、企業は正社員への期待をなくしたわけではなく、正社員には非正規社員とは異なる役割を期待していると考えられる。また、長期的ビジョンに基づいて新卒採用者を育成する企業ほど、新規高卒者を正社員として採用している。また、積極的な能力開発を行う企業では、「相談」に関する制度があったり、「教える・教えられる」雰囲気が強い。

 それでは、以上の結果から、労働者生活の支援策として、どのような試論が考えられるだろうか。まず、「職場内部の充実」が、労働者生活にとって重要だと思われる。「職場内部の充実」は、育成・相談・共有という3つの柱から成ると考える。正社員に対して、企業特殊的な技能や企業のコア的業務を担う役割を期待するのであれば、企業内できちんとした訓練が必要になる。同時に、長期的ビジョンに基づいて可塑性の高い新卒採用者を育成したり、雇用者に対して積極的な能力開発を行うことは、企業成長に結びつくだろう。そして、職場の同僚同士で教えあったり、職業生活上の相談に関する制度があったりする企業ほど、能力開発にも積極的であることが明らかにされている。育成・能力開発、相談の過程で、職場内部で「外部性」が発生し、職場における「暗黙知の共有」を可能とするだろう。

 職場が組織として十分に機能していなければ、教育訓練や指導・アドバイス、仕事に関わる相談も行われないだろうし、その過程で発生すると考えられる職場における暗黙知も共有されえない。つまり、育成・相談・共有という3つの柱によって「職場内部の充実」が実現される。これは、その企業の成長力の源泉となるだろう。

 また、このような職場で働くことは、労働者にとっても成長が見込まれる職場での雇用機会を与えられるだけでなく、能力開発機会を多く提供されることとなり、自分自身の生産性が高まるというメリットが生じる。加えて、日々の職業上の悩みやキャリアデザインを考える機会が与えられ、より良い職業生活を送ることが可能になるだろう。

 もちろん、労働者生活を向上させるには、企業側の努力だけでは不十分である。労働者自身の努力も不可欠である。「職場内部の充実」した企業に勤めていても、育成に耐えうるトレーナビリティがなければ、十分な職業訓練投資からのリターンは望めない。つまり、企業によって提供される職業訓練に対応できる柔軟性や、それを受け入れるだけの学習態度を身に付ける努力が必要である。また、職場の同僚と仕事について教えあう関係を築けたり、職業生活上の相談に関する制度を活用できたり、暗黙知を共有できるようになるには、対人関係を構築する能力やコミュニケーション能力が必要となる。就業以前の学校教育段階で、社会と向きあう基本的な姿勢を身に付けることも肝要である。

 次に、労働組合に目を向けると、組合には組合効果があることが示された。また、労働組合という集団的交渉手段に対しての期待は、労働者の中で決して小さくなってはいないことが、明らかにされている。組織化戦略の工夫次第では、巻き返しは十分に可能だと考えられる。

 最後に、政策評価を考えよう。日本でも、90年代後半から政策評価に対する関心が高まっているものの、客観的な指標を提供してくれる計量分析に基づいた政策評価については、データの準備も含めて、始まっているとは言いがたい。

 その一方で、労働市場政策に関しては、それまでは企業や事業主を対象とした政策が中心であったが、90年代後半に入って、労働者自身を対象にしたものも出てきており、政策のあり方について大きな転換点に立たされている。失業者や多様な就業形態の労働者が増大している昨今、労働者主体の政策の導入は不可避である。しかし、労働者の勤労生活を支える企業の役割は、いまだ大きいと思われる。事業主主体の政策ではカバーできない部分を明らかにした上で、労働者主体の政策を導入すべきである。

 また、限られた財源のうち投入された部分が有効に使われたのかを確認し、税金の納入者である国民に対して税金の使途についての説明責任を明示的に果たし、労働者を保護するために適切な政策立案を行うには、しっかりと政策評価を実施する必要がある。

4. 本稿に残された研究課題

 最後に、本稿に残された研究課題をまとめる。第1に、本稿の分析対象は、民間企業の「雇用者」に限定したもので、雇用されていない者に対する視点が不十分である。

 第2に、データ上の限界である。本稿で用いたデータは、クロスセクションデータおよびリピーティッド・クロスセクションデータであるが、同時性や内生性といったバイアスを回避するための十分な操作変数を備えたものではない。バイアスの除去に対して最大限の努力を行ったが、完全にできたとは思われない。

 第3に、本稿の分析全体を通じて、より良い労働者生活を実現するための基本条件として、能力開発が欠かせないと考える。シカゴグループが中心に発展させてきた人的資本理論についての実証分析を、さらに厳密な形で行えるようになるよう、今後の研究の発展に寄与していきたい。

審査要旨 要旨を表示する

1. 審査論文の目的と位置づけ

 本論文は、1990年代後半から2000年代前半における企業の人事戦略の特徴を、新卒採用、能力開発、非正規雇用の活用等に焦点を当てながら、実証分析したものである。そこでは標準的な労働経済学の実証分析の手法に基づくマイクロデータを用いた検証が行われており、公表データによって示されてきた労働統計の変化を、企業レベルに遡って詳細に検証している。さらにはマイクロデータを用いた考察であっても分析手法によっては誤った解釈を行う危険性を十分に意識し、セレクション・バイアスの可能性などにも最大限配慮する等、分析方法も慎重である。加えて分析の視点を狭く企業行動のみに限るのではなく、新卒労働市場の現状、労働組合の機能、公的職業訓練による能力開発支援の評価等、人事戦略を取り巻く諸々の環境にも幅広く目を向けながら包括的な考察を試みている。

 人的資源管理に関する研究はこれまでも経営学及び産業社会学などの学術領域において数多く重要な貢献がなされている一方、新古典派理論及び人的資本理論等に立脚した労働経済学による人事戦略に関する実証研究は、日本において未だ乏しいのが現状である。本論文は、原氏自身が実査に参加した調査を含む豊富なマイクロデータを駆使し、堅実な手法による分析を行うことで信頼出来る結果が数多く提示され、高い研究価値を有する。そこには労働問題についての一般的な通念に対して再考を促す内容も含まれている。

 2006年9月27日に論文が提出された後、審査委員会(審査委員:市村英彦、伊藤元重、中村圭介、仁田道夫、玄田有史(主査))を設置し、論文について検討した。さらに同年12月25日に口頭試問を行った上、慎重な審議を行った結果、審査委員一同、原ひろみ氏に博士(経済学)の学位を授与するのが妥当であるとの結論に達した。

 本論文の構成は次の通りである。

第I章 序論

第II章 非正規社員の活用が正社員の雇用を減らしたか

第III章 新規高卒者を採用し続ける企業とは

第IV章 能力開発に積極的な企業とは

第V章 労働組合は役に立っているのか

第VI章 労働者は組合を支持しているのか

第VII章 アメリカの公的職業訓練に対する政策評価

第VIII章 結論

参考文献

 以下、本論文の主要部分である第II章から第VII章の内容と含意を概観した上で、総合的な評価を述べる。

2. 各章の内容と含意

 第II章は、正規雇用と非正規雇用の企業レベルにおける補完・代替関係を計測したものである。マクロ統計からは、1990年代以降、正規雇用の減少と非正規雇用の増加が同時並行的に進展してきた。しかしながら、ここで企業レベルでの雇用変動に着目しヒックスの補完偏弾力性を計測した結果、企業内部ではむしろ正社員と非正規社員の間に代替関係よりもむしろ補完関係の見られる場合が多いことを発見している。さらに本章での分析では、補完性や代替性の度合いに産業や企業規模による違いもみられ、小売業、サービス業、大企業等に強い補完性が見られた。そこからは、非正社員の増加に伴い、その指導管理を目的に正社員の確保を続ける企業がある一方、正社員と非正社員といった就業形態にかかわらず雇用全体を減らす企業が多数存在した結果として、マクロレベルでの非正規雇用の増加と正社員の減少が観察されたことが示唆される。

 トランスログ型生産関数を前提に、経済理論的な観点から補完・代替性を厳密に計測するには、就業形態ごとの雇用者数についてのデータと同時に、両者の生産要素としての費用を表す賃金や福利厚生費など包括的な人件費に関するデータ、さらには資本および生産量に関するデータ等が不可欠となる。これまで正規・非正規間の代替性・補完性が十分に検証されてこなかった背景として、以上の変数をすべて網羅的に含んだデータが存在していないことがあった。それに対し、本章では複数の調査を慎重に接合しながら、分析に資するデータを作成し検証を行った点に独自性を見出すことが出来る。

 第III章は、企業の新規高校卒者に対する採用行動について、その継続性に着目した分析である。その結果、1990年代から2000年代前半にかけて、高校卒の新卒市場が全般的に縮小傾向にあった時期においてすら、長期的視点に基づき人材育成に積極的であった企業があり、そこでは新規高校卒の採用が継続的に行われている事実が発見された。以上からは、不況期においても企業特殊的技能をもつ人材の自社内での育成を経営戦略の核として位置づけている企業が少なからず存在していた事実が示唆されている。

 企業全般として長期的視点に立って能力開発に注力する傾向が弱まり、新卒労働者に求められる技能要件にも短期的な収益に直結する即戦力的要素を課す傾向も強まっているという通念が90年代後半から2000年代初めにかけて広がった。しかしながら、筆者も実査に加わり実施された調査に基づく本章の実証分析からは、そのような通念が必ずしも事実ではないことを示しており、興味深い結果となっている。

 では、長期的視点に立って社員の能力開発に積極的な人事戦略を採用している企業の特徴とは何だろうか。この点について、2004年に別途行われた調査にもとづき、実証分析したのが第IV章である。そこでは個人を対象に行われた能力開発に関する調査結果のマイクロデータを用いて企業内訓練の実態を検討している。その結果、仕事上の能力を高めるための指導や助言が積極的になされている企業ほど、連携して仕事をする体制づくりや、若手社員の将来的なキャリアデザインについて個別に相談出来る仕組みが整えられていることが確認されている。また先輩が後輩を指導する「教える・教えられる」雰囲気の強い企業ほど、企業内訓練が積極的になされていることも発見された。

 1990年代後半以降、成果主義的人事制度の広がりなど、新制度の導入を伴う人事戦略の実行が広く強調されてきたが、実際のところ、労働者の能力を高めるには、単に制度の設計にとどまらない職場の環境づくりや連携した仕事体制づくりこそ重要であったことを、その結果は物語っている。

 第V章と第VI章では、視点を企業や労働者個人から労働組合に転じて分析している。1980年代までのいわゆる日本的雇用システムに対する肯定的評価には、企業と労働組合の長期的信頼関係の構築が含まれていた。企業の直面する状況に関する情報を企業別組合も共有することで、業績悪化の際にも柔軟な賃金調整を受け入れたり、反対に組合の発言による環境改善が労働者の離職を抑制する効果を持つこと等が議論されてきた。ひるがえって、労働組合の組織率が趨勢的な低下を続けるなか、労働組合のどのような機能が人事戦略や労働環境の改善に寄与する可能性を持つのだろうか。

 第V章によれば、2000年から2003年というデフレ進行下においても、労働組合は、正社員の賃金及び仕事満足度や雇用安定といった非金銭的な労働条件の両方について、維持・改善するための一定の役割を果たしていたという。さらに賃金決定の要因分析に関する労働経済学の標準的手法であるオハカ分解を用いた分析の結果として、組合の存在は賃金格差の縮小に寄与することも示されている。そこから賃金格差拡大の背景として、組合組織率の低下が一部寄与していたことを指摘している。

 以上からは、労働組合への加入は、2000年代においても労働者の就業条件を改善する機能を有することが見て取れる。にもかかわらず労働組合の組織率が下がり続けた背景として、労働市場に非競争的な制約が存在する結果、組合の存在する企業への労働者の参入が事実上制限されていたことが予想される。その意味で本章の結果は、日本の労働市場には、賃金を通じた価格競争を実現する競争的市場メカニズムではなく、数量調整による割当現象(rationing)にもとづいて労働力の配分が決定されている、いわば「二重構造」的側面が含まれていることを物語っている。

 第VI章では、労働組合に加入していない(出来ない)未組織労働者が、組合についてどのような意識を形成しているのかを、労働者を調査したマイクロデータを用いて分析している。そこでは、未払い賃金請求権、有給休暇取得権といった、労働者の基本的権利の内容について正確に理解している個人ほど、労働組合を支持しているという結果が得られた。さらに未組織者に限定した場合、正社員と非正規正社員の間で組合支持の傾向に有意な違いがないことも明らかにされた。

 労働経済学の実証研究のなかで、労働者の権利に関する知識や情報に着目する本論文の位置づけはユニークである。派遣や職業紹介など労働に関する法制度の変更が行われた1990年代後半以降、労働者が自らの権利についての正確な知識を有することは、基本的な勤労生活の確保や改善にいっそう重要なものとなっている。労働に関する法制度の基本的知識を獲得にしている就業者にとって、労働組合の活動が一定の評価を得ている一方、未組織労働者は、正社員、非正社員を問わず、十分な知識を有していない可能性がある。その意味で今後の労働政策には、政策の立案や実行のみならず、その前提となる権利に関する知識の広範な共有を進める具体策の検討が重要であることを、本章の分析結果は示している。

 さらに労働政策との関連としては、能力開発や採用について長期的視点に立って継続する企業が今後減少した場合、経済全体での持続的な生産性上昇には、能力開発向上に向けた政策の立案とその効果的な実施が日本でも必要となる。そこで第VII章では、1960年代以降、様々な試行錯誤を繰り返してきた米国の職業訓練政策に対する政策評価の経験を紹介している。本章は単に政策内容の紹介にとどまらず、政策評価の手法の進展に関する優れた研究サーベイともなっている。

3. 総合評価

 以上、本論は、1990年代から2000年代前半における労働市場の変化のなかで形成されてきた「パートタイム労働者が正社員の雇用を奪っている」「長期的な視点からの採用や人材育成は重要性を失っている」「新しい人事制度の導入により効果的な能力開発が実現可能」「労働組合は労働条件の改善に貢献していない」といった、いわば検証なき通念に対して果敢に挑戦し、その見解を覆す実証結果を見出している。それらはマイクロデータを丹念に分析した上で導き出されたものであり、信頼性の高い結果となっている。

 無論、本論にも課題は他にも少なからず残されている。口頭試問でも指摘されたところであるが、なかでも実証分析の結果についての解釈が必ずしも十分ではない。たとえば本論からは、長期的視野に立ちながら採用や育成を行っている企業が少なからず存在することが示唆されたが、だとすれば、いかなる企業がいかなる理由で、そのような人事戦略を選択し、継続しているのかについて、説得的な解釈が示されているわけではない。また単に新たな人事制度を導入するのみでなく、「教える・教えられる」雰囲気が職場にあることが重要とされているが、だとすればどのような職場でそのような雰囲気が実質的に醸成されるのかといった点についての言及も乏しい。

 これらを検証するには、人事評価や要員管理、産業や企業規模を超えた企業属性についてのより詳細なデータ分析ならびに多くの事例に基づく丹念な実態調査が不可欠であろう。またデータ分析には、因果関係に解釈が説得的でない場合や、依然としてセレクション・バイアスや同時性バイアス等が除かれていない場合も散見される。それらの課題や限界について、原氏も十分に自覚しており、今後、更なる改善に向けた努力が必要であろう。

 以上のような課題こそ残されてはいるものの、本論は従来の労働経済研究になかった重要な知見と貢献をもたらしており、高く評価されるべきと考える。また審査委員会では、労働経済学の博士論文の基準として、原則として学術雑誌に投稿し採択された論文が3本以上含まれていることが望ましい(うち少なくとも1本は単著であることが更に望ましい)との意見が提出されたが、本論文はその基準も満たしている。

 以上より、慎重な審議の結果、審査委員一同、原ひろみ氏に博士号(経済学)の学位を授与するのが妥当であるという冒頭の結論に至った。

以上

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