学位論文要旨



No 121973
著者(漢字) 林,少陽
著者(英字) Lin,Shao yang
著者(カナ) リン,ショウヨウ
標題(和) 「イロニー」と「文」 : 西脇順三郎の詩学理論を手掛りに
標題(洋)
報告番号 121973
報告番号 甲21973
学位授与日 2007.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第695号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小森,陽一
 東京大学 教授 エリス,俊子
 東京大学 教授 石田,英敬
 立正大学 教授 藤井,貞和
 東京大学 助教授 齋藤,希史
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、「イロニー」という、西洋の文学的・哲学的概念の整理を通して、それと関連付けながら「文(ぶん)」という漢字圏固有の思想的文学的概念を究明し、世界の東西の文化圏における文学に対するもっとも根源的思索の歴史の一側面を総合し、理論的に再構築しようと試みるものである。「イロニー」と「文」との関連という本論文のテーマに関わる問いは、ひとりの日本人文学者――具体的には詩人であり詩論家でもある――、西脇順三郎(1894-1982)によって問いかけられたものである。西脇は、生涯を通じて、詩とは「イロニイ」であると主張していた。「イロニイ」の「詩学」に関する彼の議論は、フランスの近代詩、とりわけ象徴派の理論に示唆されつつ、彼の中にある老荘的な言語思想と結びつけられながら再構築されたところが特徴的である。「ポエジイ=「イロニイ」=「文」という西脇詩学の式によって触発された問題は、中国や日本の近代における言語と思想との関係を考えるに際して、重要である。その理由の一つとしては、「文」は、漢字圏の固有の概念でありながら、中国と日本の近代においてむしろ忘却された概念だからである。「文」と漢字圏における近代との関係を新たに考えることは、西脇の意図の外ではあれ、これまでの思想史や批評史研究の一つの空白領域に入ることをも意味するものである。

 本論文は、西脇の「イロニイ」という概念を、西洋的な修辞理論からいったん切り離し、敢えて漢字圏思想史における「文」の概念に引き寄せて解き明しつつ、そのことを通して「修辞」という概念を「レトリック」という翻訳語としてでなく、その二字熟語が漢字圏において歴史的に機能してきた思想的・文学的役割を整理するところから位置付けなおしたものである。また、その過程で見えてきた「興(きょう)」という概念とそれに関わる「象」や「徴」の概念、「反」とそれに関わる「矛盾」といった漢字語概念の、思想史・批評史上への新たなる位置づけを行った。その中で「反」と比喩的な表現としての「矛盾」概念に関して漢字圏の「矛盾」解釈史を総括しつつ、特に毛沢東(1893-1976)とフランスのルイ・アルチュセール(1918-1990)の解読との比較で分析した。さらに歴史的に「文」を説明するために、清朝末期・民国初年に活躍していた思想者章炳麟(しょうへいりん)(太炎、1869-1936)の「文」と「修辞」解釈を取り上げた。この意味において本論文は、「文」の概念に関わる、これらの概念に関する思想史・批評史的な概念史の研究でもある。

 西脇における「イロニイ」概念を西脇の問題意識の内部で研究した本論文は、結果として西洋における近代以来の「イロニー」を批判的に再検定する過程を経ざるを得なかった。まず西洋のそれに対する批判的検定の整理に当たっては、本論文第I部において、ヘーゲルのイロニー、即ち絶対的な実在としてすべてのものの根拠となる理念を実現させる手段としてのヘーゲルの「イロニー」を取り上げた。次に、キルケゴールの、実存や主体的個別性を強調した、「主体性の規定」としてのイロニーが取り上げられた。そして最も重要なのが、言語論的なイロニーである。一方に初めて言語論的視点においてヘーゲル主義に反旗を翻したケネス・バークの、「言葉はすべて否定的な前提によって生まれた産物」という視点からとらえられた「イロニー」の概念がある。他方でポール・ド・マンはFr・シュレーゲルの悟性的言語における理解の限界性としての「イロニー」を発展させながら、読書主体と記号体系との間の乖離、経験的自我と記号化された自我との間の乖離、自我自体の二重化、等々といった乖離を明らかにした上で、ヘーゲル的な「歴史」、即ち目的論的な発展経過の秩序または神的理性の顕現としての秩序に対して一つの撹乱する装置としての「イロニー」を取り上げたのである。

 日本の批評史においては、中村雄二郎(1925-)と前田愛(1931-1987)が修辞学を復権させる立場において評価すべき業績を残した。ただし、両者の修辞理論における「イロニー」への接近には挫折がともなっていた。なぜならば、二人とも日本語の文脈に身を置きながらも、デカルト以後の二元論的思考の伝統から完全に逸脱できていない西洋の修辞批判にばかり着目していたからである。そして、この時代の修辞批評の意味と限界を検討する文脈において、その次に登場した批評家である柄谷行人(1941-)は、自他の問題の乖離、倫理と存在の乖離を前提にする実存主義的「ユーモア」または「イロニー」について論じたのである。

 また、上のような「イロニー」解釈を念頭に置きつつ、本論文では西脇の「文」という概念の別名としての「イロニー」概念について検証した。つまり、本論文第II部での修辞批評史の整理を経たうえで、西脇の「イロニイ」の詩学を彼の「文」の意識との関連から批評史に位置付けなおす、というプロセスを取ったのである。そこで本論文は、西脇の「イロニイ」解釈を、いままで東/西、古/今、アルファベット圏/漢字圏、日本/中国といった二項対立的な世界像を無効化し、つねにそれを混合させ、交通させたものとしてとらえようとした。このような西脇における「イロニイ」または「文」概念は、日本の70年代以来の修辞批評の限界を説明できるものとして位置づけなおすことができるのだろう。

 本論文の用語の「修辞批評」は、言語的視点または「文」を基とする批評理論を指すものである。日本近代文学における「修辞批評」の系譜にある夏目漱石や、横光利一から、西脇順三郎にいたる問題の提起は、いずれも近代批評に対する批判意識に基づく文学的実践として再定義できる。このような視点において本論文は、特に夏目漱石の『文学論』を例に、漱石の文学理論と翻訳語としての「歴史」「文学」との関係を明らかにしようとしながら、特に漱石の『文学論』における「文」と「史」と彼の心理学的方法論との関連を論じた。とりわけ西洋/東洋のような二項対立を相対化する意味において、漱石における西洋心理学の影響が彼における「漢学」とどのように結合したのか明らかにしようとした。こうした研究は近代における、西洋中心的色彩の強い『文学論』解読史を批判的に見ることをも意味しているものである。

 日本や中国の近代批評史は、19世紀ヨーロッパの歴史主義とその基とされているヘーゲル主義的観念論および合理主義の一変種としての科学実証主義の影響が強く、「歴史」を「理性」の実現の場と見て、目的論的社会進化論的色彩を有しているヘーゲル主義的近代主義の歴史観の深い支配下に置かれている。この意味において本論文は、日本と中国近代における「修辞批評」の希薄な歴史ないし不在の歴史を告発し、批判する試みでもある。それは、漢字圏思想史の核心的な概念であるはずの「文」と、その問題の系譜にある「修辞」という概念が近代中国と日本の思想史的叙述、とりわけ近代中国の思想史的叙述において完全に消えてしまったままであることに対する批判でもある。特に後者に関してはまだ沢山の課題を残しているが、「文」という概念を中心とした「修辞批評」の復権が、「近代」の深い支配からの解放という重任と直結していることは明らかである。この意味において漱石らの提起した「文」という概念は、東アジア、取り分け中国における近代的な学術史に潜むイデオロギー性を批判的に再整理する必要性を提示したものである。

 本論文の「結論」の部分において「文」と「ドクマ的コミュニケーション」との対照・比較をしながら、「文」は、ドクマ的コミュニケーションが基にしている秩序、規範、法、制度とは常に対立的な関係にあるものであることを明らかにした。この意味において「文」の提起した問題は、「主体」が言語的に操られる服従を強いられることに対して、如何に言葉の権力性に依存せず・支配されずに主体性を保持するのかという問題でもある。「文」の生成はつねに言葉の秩序を撹乱するものとして境界の画定を破壊する実践であるがゆえに、「文」はドクマ的なるものを相対化することができる。この意味において「文」はほかならず、如何に暴力を介さない形で他者とコミュニケーションをするのか、という問題に関わる可能性そのものなのだ。この意味において本論文で再構築した「文」という概念は、伝達の暴力性の問題を問い直す概念でもある。

 本論文は「修辞立其誠」という言葉の再提起によって「文」と倫理性との関係を再三議論したが、「文」の問題提起はさらに主体との関連で近代における倫理的、美的なものを考察する一つの契機をわれわれに与えたのである。なぜなら、漢字圏の批評概念としての「文」は、美的なものと倫理的なものとの不可分性を主張してきたのであるが、美的なものと倫理的なものの近代における二分割は、近代における「文」の運命と、そして「主体」のあり方の変容と無関係ではないからである。

 漢字圏における「近代」において事実上の死刑を宣告された「文」という概念は、実際未完のプロジェクトであることを明らかにしようとしたのが本論文の意図であるの中心の一つである。未完のプロジェクというのは、繰り返し強調したように、「文」が主体性と直結している問題だからである。これがドクマ的なものが横行している今日において「文」という概念が含有している政治的思想的可能性である。

審査要旨 要旨を表示する

 林少陽氏の博士論文『「イロニー」と「文」-西脇順三郎の詩学理論を手掛りに』は、日本の近代詩を現代詩に転換するうえで重要な役割を担った詩人西脇順三郎の詩論を中心にしながら、その中心となる「イロニー」と「文」という概念を軸に、ヨーロッパ文化圏における批評理論と漢字文化圏におけるそれとの動的な相互関係を精緻な理論的分析をふまえたうえで、歴史的に位置づけ直したものです。

 林氏はまず、近代の欧米の批評における「イロニー」という概念の系譜を、ヘーゲルからキルケゴール、そしてそれらを経由したケネスバーグやポール・ド・マンの「イロニー」に対する解釈をとおして明らかにし、こうした修辞学再評価の流れを受容した中村雄二郎、前田愛、柄谷行人といった現代日本の哲学と批評理論における「イロニー」の位置づけを理論的にあとづけています。こうした「イロニー」の系譜と西脇順三郎の使用した「イロニー」の概念を比較する中で、西脇の「イロニー」に対する解釈が、漢字文化圏における「反」という概念や「矛盾」という概念を媒介にしたところに独自性があることを明らかにしました。

 次に林氏は、西脇順三郎の詩論における「文」という概念に注目し、漢字文化圏における「修辞」という二字熟語における「修」の論理的射程の広さを、古代から近世にいたる歴史的検証によって明確にしました。そして欧米文化との接触が始まる近代において、「修辞」という概念に内在していた身体性と倫理性が希薄になることを指摘し、あわせて江戸時代の漢字におけるこれら諸概念をめぐる歴史的文脈の中で、「文」と「辞」そして「修辞」という三つの概念の有機的結合の様態を、理論化することに成功しました。

 以上の歴史的検証を基に、林氏は西脇順三郎の詩論と詩学における中心概念である、「超自然」「客観的の意志」「純粋意識」「純粋芸術」といった用語を、欧米の術語との影響関係としてだけでなく、漢字文化圏における批評理論の中ですべて位置づけ直し、「興」という概念にこそ、西脇詩学の一つの要があることを論証しました。

 林少陽氏の論文が文学研究として際立っているのは、一連の批評概念の分析に基づき、西脇順三郎の代表的な詩作の詩的表現自体を自らの理論的枠組で解釈し直したところです。この作業をふまえて林氏は、西脇の詩と詩学を、やはり漢字文化圏の批評理論を深く理解していた夏目漱石の『文学論』、横光利一の「形式論」との関係の中に位置づけ直し、日本近代文学史の重要なとらえ直しを行っています。

 最終審査においては、個別の詩の分析は行われているが詩集全体あるいは詩集同士の相互関係が明らかになっていないこと、現代詩における西脇の果たした功罪が十分明確になっていないこと、論旨にかかわる漢文訓読のいくつかの訂正、フロイトをはじめとする精神分析的な理論への言及の不十分性などが指摘されたが、論文のスケールの大きさ、影響関係に矮小化しない異質な文化圏を横断する論理のダイナミズムとしてとらえようとした方法の独自性などが高く評価され、審査委員全員の合意で博士(学術)の学位を授与することができるという判断をしました。

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