学位論文要旨



No 121974
著者(漢字) 竹峰,義和
著者(英字)
著者(カナ) タケミネ,ヨシカズ
標題(和) 〈文字〉としての映像 : テオドール・W・アドルノの映像メディア観の変遷
標題(洋)
報告番号 121974
報告番号 甲21974
学位授与日 2007.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第696号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 高橋,宗五
 東京大学 教授 石光,泰夫
 埼玉大学 名誉教授 三光,長治
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、テオドール・W・アドルノ(1903-1969)が、映画をはじめとする映像メディアについておこなった思弁的考察の変遷の軌跡をそのコンテクストとともに辿っていくなかで、アドルノが複製テクノロジーに基づく映像メディアを必ずしも否定的に評価していたのではなく、そこに「文化産業」の概念に還元されない批判的潜勢力を見ていたという事実を立証する試みである。

 新しいメディアの受容という点に関して、一般にアドルノは、映画とその観客大衆のうちに美学的・政治的解放力を見て取ったベンヤミンとは逆に、テクノロジーの発展が芸術におよぼすものの意義を決して認めず、芸術美の内在的・自律的価値に終生固執しつづけたと見做されている。しかしながら、レコード、ラジオ、映画等の複製技術メディアについてアドルノが論じた諸々のテクストには、芸術の技術化・画一化の傾向に対する辛辣な批判やエリート主義的な抗議がある一方で、それに混在するようなかたちで、諸々の新たなメディアに媒介された芸術のポジティヴな可能性を積極的に認め、新たなメディア美学というべきものを萌芽的ながらも展開している箇所が少なからず見受けられる。本論文は、アドルノの多岐にわたるメディア分析を年代順に置き直し、それら相互の理論的関連を明らかにすることによって、アドルノの大衆メディアへの肯定的評価がけっして一過性のものではなく、その思考の内的な必然性から生ずるものであることを検証する。

 このような課題に取り組みにあたって、本論文がアドルノの哲学・美学・社会理論とメディア論とを繋ぐ導きの糸とするのが<文字(Schrift)>という概念である。もともとこの概念は、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』(1923-25)に由来するものであり、そのなかでベンヤミンは、ドイツ・バロック悲劇のアレゴリー的な表現様式と世界観の核心をなすものこそが<文字(シュリフト)>にほかならないと規定している。若きアドルノが、このベンヤミンの議論から決定的な影響を受け、<文字(シュリフト)>をみずからの哲学的思考の核に据えたことは、『啓蒙の弁証法』(1939-44)や『否定弁証法』(1961-66)、さらには『美学理論』(1961-69)といった主要著作において、この概念に決定的な意義が付与されていることからも明らかである。しかしながら、アドルノにとって<文字(シュリフト)>がもつ射程は、たんに哲学や美学の領野にとどまるものではない。すなわち、既に30年代からアドルノは、<文字(シュリフト)>という概念を、レコードや映画といった複製技術メディアに積極的に応用し、メディア映像を一種の<文字(シュリフト)>として捉えるという独自の議論をおこなっているのである。ただし、アドルノの映像メディア論のなかで、この<文字(シュリフト)>という形象は、深いアンビヴァレンツを孕んでいることに注意する必要がある。すなわち、一方においてアドルノは、支配機構によってメディア映像のなかに組みいれられたイデオロギー的なメッセージを<文字(シュリフト)>と呼んでいるのであるが、他方において、メディアが呈示する映像を<文字(シュリフト)>としてアレゴリー的に読解することのうちに、文化産業のシステムを批判的に超越するユートピア的な地平を知覚・認識する可能性を認めるのである。本論は、こうしたアドルノの大衆メディアをめぐる認識の弁証法的な揺らぎを、「レコードのフォルム」(1934)から「大衆文化のシェーマ」(1942)、『映画のための作曲』(1943-44)、「テレビ序論」(1953)を経て、晩年の「映画の透かし絵」(1966)に至るテクストを、<文字(シュリフト)>という形象を手掛かりとして検証・読解することによって、アドルノの映像メディア論のもつ理論的な射程が明らかにされる。

 また、本論文は、一般に流布しているイメージとは異なり、アドルノの映像メディアをめぐる思索が、大衆文化の実情から遊離した抽象的思弁の産物ではなく、具体的な知識と経験に裏付けられたものであること、そしてさらに、映像メディアの批判的可能性をめぐるアドルノの議論が、たんなる理論的省察の次元にとどまることなく、現実社会への実践的な介入という契機もその射程に収めていたという事実を明らかにする。とりわけ、1941年末に移住した南カリフォルニアにおいてアドルノは、ハリウッドの映画人たちと親密な交友を重ねるなかで映画製作の実情について知見を深めていた。そして、その成果がとりわけ『映画のための作曲』に反映されているのであるが、そこでは、映画音楽の変革プログラムを提起するなかで、ハリウッドの映画撮影所の中枢において文化産業の物象化されたシステムにたいする「ゲリラ戦」を遂行していくための方策として、さまざまな具体的提言もなされているのである。本論文では、そのようなアドルノの映画音楽論における実践的な契機がたんなる一過性のものではなく、その哲学的思想から内在的に生じたものであることを立証するべく、1930年代から60年代にかけてのアドルノの芸術およびメディアをめぐる思考を再構成することが試みられるが、そこから浮かび上がるのが、アドルノの美学理論のもつ多元性である。すなわち、とりわけ『新音楽の哲学』などのテクストにおいてアドルノが、現実から完全に孤絶した状態において社会の諸矛盾をモナド的に表象する「投壜通信」としてのモダニズム芸術作品をめぐる秘教的な芸術思想を練り上げたことは広く知られているが、その一方で、「音楽の社会的状況によせて」(1932)や『映画のための作曲』、「映画の透かし絵」、そして『美学理論』のなかにおいて、大衆の意識に能動的に働きかけていくなかで、人々が<非同一的なもの>の存在をみずから感覚・経験することを可能とするような<知覚媒体>としての芸術作品というヴィジョンが打ち出されていたのである。そして、本論文が何よりも注目するのが、アドルノの認識のなかで、そのような<知覚媒体>のうちには、シェーンベルクの音楽のような高級芸術だけでなく、映画をはじめとする大衆芸術の数々もまた含まれており、「ショック」・「ウィット」・「モンタージュ」・「笑い」・「道化的なもの」といった諸契機が、<非同一的なもの>への知覚の回路を拓くための鍵概念として、アドルノによって重要な意義が付与されているという事実なのである。

 第1章では、「ラジオの権威と流行歌放送」(1933)を出発点として、「ジャズについて」(1936-37)から『ヴァーグナー試論』(1937-38)を経て、『啓蒙の弁証法』に至るまでのアドルノの物象化批判を、「殴打(Schlagen)」という形象を中心に概観したうえで、さらに、「レコードのフォルム」(1934)と『音楽演奏の理論のために』(1946-59)をもとに、アドルノの物象化論が、メシアニズム的な契機をも内含していることが明らかとされる。

 第2章は、アドルノのベンヤミン宛書簡におけるカフカのオドラデクについての言及部分を中心に、商品経済体制のなかで徹底的に疎外・物象化された商品の<救済>の可能性をめぐる議論を再構成する。つづいて、「音楽の社会的状況によせてI」のクルト・ヴァイルの「シュルレアリスム音楽」についての記述をもとに、モンタージュ技法のなかにアドルノが、<文字(シュリフト)>的な布置状況を現出させる機能を見出していたことが示される。

 第3章は、『ヴァーグナー試論』から『啓蒙の弁証法』へと至る1930年代後半から1940年代前半までの時期におけるアドルノの思想のなかで、「イメージ=映像(Bild)」と<文字(シュリフト)>が占めるポジションを跡付けていくことが試みられる。

 第4章では、南カリフォルニア亡命期におけるアドルノの映画との関わりを検証したうえで、アドルノ/アイスラーによる『映画のための作曲』(1943-44)における映画音楽の批判的変革をめぐる議論の理論的・実践的な射程が究明される。

 補論(1)では、1940年代半ばにおける社会研究所の大衆メディアとのさまざまな取り組みについて考察するべく、戦時体制下のワシントンにおける社会研究所のメンバーの活動、アドルノのファシスト煽動家のラジオ演説分析、それにホルクハイマーが主導した反ユダヤ主義調査映画計画について考察される。

 補論(2)においては、『映画のための作曲』の出版をめぐる経緯を追うなかで、アイスラーおよびフリッツ・ラングとアドルノとの戦後の関係について跡づけられる。

 第5章では、1950年代に執筆されたアドルノのテレビ論を、社会心理学的なモティーフに着目しつつ考察することによって、<アウシュヴィッツ以後>における表象メディアとしてのテレビの機能にたいするアドルノの分析が検証される。

 第6章においては、<ニュー・ジャーマン・シネマ>の活躍に触発されるかたちで1966年に発表された「映画の透かし絵」をもとに、晩年のアドルノが萌芽的なかたちで構想した映画美学について検証していくなかで、映画メディアのなかに最晩年のアドルノが看取した美学的な可能性について明らかにするとともに、<知覚媒体>としての芸術作品という観点から、アドルノの美学理論の新たな射程を引き出すことが試みられる。

審査要旨 要旨を表示する

 竹峰義和氏の博士学位請求論文「<文字>としての映像――テオドール・W・アドルノの映像メディア観の変遷」は、アドルノの、映画をはじめとする映像メディアに関する多くのテキストを辿る作業のなかで、実は彼は複製テクノロジーに基づく大衆的な映像メディアを必ずしも否定的に評価していたのではなく、むしろそこにいわゆる「文化産業」の概念に回収できぬポテンシャルを見ていたことを緻密に考察・論証した画期的なアドルノ研究である。

 分量的にはA4用紙で230頁ほどの広いスペースの中で、竹峰氏はこの作業における分析の主要なツールとして、表題のような「文字」Schriftという概念を選んでいる。この概念は、ヴァルター・ベンヤミンの主著『ドイツ悲劇の根源』に出自を負うており、その後僚友のマックス・ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』を経て、彼自身の重要な哲学書『否定弁証法』や遺著の『美学理論』においてのみならず、映像メディアを論じた数多くの論文・エッセーのなかでアドルノ自身しばしば使っていたものなので、「文字」の概念は、氏の論文の主張の一貫性を支える重要な柱として機能した。

 音楽理論家としてのアドルノの立場はすでに欧米において確立されたものであるが、本論文において氏は、さらに映画、レコード、ラジオ、テレビなどの視覚的な複製技術メディアに関する彼の多くの発言を丁寧に分析して、アドルノがこうした映像メディアの領域においても、いわば「メディア美学の萌芽」を発展させていたと結論づけ、いままで注目されることの少なかったこの領域において、すぐれた美学的考察を展開した哲学者の姿を見事に捉えている。

 浩瀚な本論は、6章から構成されている。

 第1章では1930年代に発表されたエッセー「ラジオの権威と流行歌放送」や「ジャズについて」など初期の大衆音楽論が論じられている。アドルノはラジオによって流行歌、ジャズが流布するさまを取上げ、ナチが抑圧する現代音楽を擁護せんとする意図を秘めながら、表面的には「非アーリア的な文化」から押し寄せてくる「流行歌を叩こう」というナチスに似た主張を行い―「流行歌を叩き潰せ」という第1章のタイトルはここに由来する―、彼に特徴的な複雑で二面的な作戦を実行している。竹峰氏は、流行歌が大衆に体制側から供与されるプロセスでは、体制の「文化産業」の側は大衆に対し「(ハンマーでするように)叩き込む」einhammernとか、「殴打する」schlagenという単語から派生した言葉などが、アドルノにおいて意図的に使われていることを指摘する。このメタファーは彼の代表作の『ヴァーグナー試論』にも見出されると指摘する竹峰氏は、「殴打」を行う「文化産業」のなかで極端にまで物象化は進行するが、まさにこうした極端な状況こそが「急転」Umschlagしてユートピア的救済の可能性が現われ出ることを、文献的に着実な作業を基礎として明らかにしている。

 「物象化と救済」と題された第2章において竹峰氏は、ベンヤミンとアドルノに共通していたカフカへの深い関心を素材にしている。氏は、初期映画をことのほか愛好していたカフカの作品を介在させながら、商品経済体制のなかで徹底的に疎外・物象化された商品の「救済」の可能性をめぐるアドルノの議論を再構成し、また他方で、アドルノがクルト・ヴァイルの論考を踏まえつつ、モンタージュ技法のなかに、「文字」的な布置状況を現出させる機能を見出しており、これがのちにアドルノにおいて、映像と音楽とのモンタージュ的影響関係の問題に至ったことを竹峰氏は示している。

 第3章はそのタイトルの「複製技術時代のファンタスマゴリー」が示すように、1940年前後の『ヴァーグナー試論』から『啓蒙の弁証法』へと至る時期のアドルノの思想から、第1章における「殴打する」という言葉の分析に示されたと同じような機敏な手際で、「イメージ=映像(Bild)」と「文字」の両概念を丹念に辿り、ベンヤミン的な「中間休止」の結果としてその「星座的布置」Konstellationが現われ出る局面を鮮明にしている。以上3章はつづく第4章のための長い周到な準備作業となっており、読者は次の章の展開のなかで、その準備作業の周到さに納得させられる。

 第4章は「闘う映画音楽」と題され、付属する2編の補論をあわせると、ここだけで70頁強の分量があり、その内容とも相俟って、この論文のヤマ場をなすとも言える。南カリフォルニア亡命期はアドルノとハリウッド映画との関わりが非常に強まった時期であり、竹峰氏はここ数年のうちに刊行されたアドルノの書簡集、全集補遺だけでなく、関係者たちの書簡集や伝記資料、さらにはネットで公開されたFBI側の「要注意人物」の相当な分量の監視記録などに至るまで、じつに多くの資料を博捜渉猟して、アドルノと映画との関わりをまず明らかにする。そのうえで、アドルノ/アイスラー共著の『映画のための作曲』の分析に至る。実質的にほとんどがアドルノ自身の筆によるこの独自な映画音楽論は、彼が映画製作の現場を身近に経験して、彼の望む映画音楽と現実とがいかに掛け離れているか痛感するなかで、いわば映画音楽のゲリラ的戦略はいかにして可能か、その問題と格闘するのである。氏は、こうしたアドルノの議論を、日本で初めて詳細に紹介・分析している。ここで映画音楽の批判的変革をめざしたアドルノの実践的な姿が具体的に明らかにされるのである。アドルノの「実践性」が如実に示されたことは、ことにこの章における氏の大きな功績である。また2つの補論は、共著者アイスラーの戦後の東ドイツでの運命、また、ハリウッドからはじまった名監督フリッツ・ラングとの交友関係などについて記述しており、そのことによってアドルノの伝記的裏面を明らかにしている。チャップリンをはじめとする多くの俳優、プロデューサー、監督らとの出会いは、彼のなかに多くの痕跡を残すことになり、これら有名無名の映画人たちのパノラマ的展望を見渡せるのも、氏のすぐれた筆力の結果である。

 第5章では、こうしたイメージ=映像と音楽との激しい緊張関係にある映画音楽論を踏まえて、氏は1950年代のアドルノのテレビに関する発言を捉え直している。「アウシュヴィッツ以後」における主要な表象メディアであるテレビはいかなる機能をもつか、アドルノの議論が検証される。その検証の中でテレビに対する、必ずしも否定的でない対応が見出される。「文化産業」の主要メディアたるテレビにも実践的に参加して、難解な文章によるエッセーとは違う柔軟なわかりやすい語り口で、アドルノは社会への実践的働きかけにコミットしており、彼のこうした実践性を強調したのも竹峰氏の大きな業績である。

 さらに最後の第6章において、竹峰氏は、晩年のアドルノの掲げる「映画の透かし絵」という概念を導きの糸として、「ニュー・ジャーマン・シネマ」として喧伝されたドイツ映画運動とアドルノとの関わりを取上げる。アドルノはこの頃弟子の一人が実際監督として映画製作に携わったので、彼自身この芸術形式を「文字」や「自然美」の概念によって解読しようとしているが、このとき使われた「自然美」の概念は前述の「モンタージュ技法」を介して幼年時代の知覚を蘇生させるための装置として機能している。竹峰氏はこのプロセスも綿密な手続きで明らかにしている。

 アドルノは決して高級な知識人として社会に超然とふるまっていたのではなく、大衆的なメディアである映画やテレビに関して、むしろ彼は、そうした大衆的メディアからこそ「違う可能性」「ユートピア的可能性」の手掛かりを引き出そうと意図している。こうした観点に立脚しながら、アドルノの映像美学に、量的のみならず、質的にも高いレヴェルを保ちつつアプローチした氏の試みは、今後アドルノを論じる場合避けて通れぬ里程標的な位置を獲得している。

 以上、概観した論文に対し、審査においては、「文字」概念はもっとアドルノ的問題圏の外側からも捉えるべきではないか、またアドルノの映画論を論じる際も別な補助線を必要としたのではないか、など異論ないし提案は出されたが、氏の論文が全体として非常にレヴェルの高いものであることは、異口同音に認められた。これまでのアドルノ研究にない徹底性をもって氏の研究が遂行されただけでなく、難解をもって鳴るアドルノ哲学を暢達の日本語による読みやすい叙述で提示したことにも、多くの委員から称賛がよせられた。

 よって本審査委員会は全員一致で、氏の論文を博士(学術)の学位を授与するに相応しいものと認定した。

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