学位論文要旨



No 121975
著者(漢字) 玄,承洙
著者(英字) Hyun,Seung soo
著者(カナ) ヒョン,スンス
標題(和) チェチェン紛争とイスラーム : 抵抗・統合・分裂
標題(洋)
報告番号 121975
報告番号 甲21975
学位授与日 2007.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第697号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 小松,久男
内容要旨 要旨を表示する

 本稿の目的は、チェチェン紛争のなかでイスラームがどのように関わってきたかを解き明かすことにある。

 1991年ソ連消滅に向かう怒濤のような激動の渦中で、それまでロシア連邦に属していたチェチェン共和国は独立の動きを強めていき、連邦のエリツィン政権と真っ正面から対立するようになった。以来、チェチェンに派兵を決めたロシア軍との戦闘で民間人3万6千名が殺傷される悲劇が起きた後、1996年8月両側に成立した停戦合意に基づき、ロシア軍はチェチェン共和国からいったん撤退した。ロシアから事実上の独立を認められたチェチェンは、民選大統領のマスハドフのもとで、戦後復旧と新しい国づくりを進めていくはずであった。

 しかし国内外からの期待に反して、チェチェンでは連日のように殺人とテロ、誘拐が横行し、厳格なイスラーム主義とシャリーア(イスラーム法)で武装したいわゆる「ワッハーブ派」と通称される勢力がチェチェンのイスラーム国家化を押し進めた。権力をめぐる争いで経済の復旧はないがしろにされ、社会全体が総体的危機に落ち込んだ。混乱が続くなかの1999年8月、北カフカースにイスラーム国家をうち立てることを提唱する一団の武装集団が、チェチェン側から近隣共和国ダゲスタンの山岳地域に浸透して軍事行動を起こすという事件が発生した。

 これを受け、ロシア当局は「イスラーム・テロリズム」の殲滅を掲げ、チェチェンを再攻撃した。こうして再発したチェチェン戦争はロシア軍の圧倒的な軍事力に加え、戦争を支持するロシア世論の雰囲気に便乗し、一旦ロシアの勝利に終わったかのように見えた。だが2000年3月に戦争終了を宣言したプーチン大統領の公式発表にもかかわらず、今日までチェチェン抵抗派によるゲリラ攻撃は後を絶たず、チェチェン人の犯行とされる無差別テロ事件がロシア各地で続発するなど、チェチェン戦争がロシア社会に落とす影は薄いものではない。

 さて、ソ連末期から現在にいたる15年間のチェチェン分離主義運動の推移を見ていくと、どうしても腑に落ちないひとつの変化に気づく。それは、いまやチェチェン紛争を語る際に必ずと言っていいほど言及されるイスラーム・ファクターである。そもそも1990年代初期からチェチェン人の分離独立運動を主導した抵抗派の指導者たちが、抵抗運動の前面に宗教イデオロギーを出していたわけではなかった。チェチェン人たちが信仰の自由を取り戻すためにロシアへの帰属を拒否したわけでもない。当初彼らの目指した独立国家像が民主主義と市場資本主義にもとづいた西欧型世俗国家であったことは、まず間違いない。それなのに、1999年に再発する第2次チェチェン戦争では、抵抗派自らがこの戦争をイスラーム聖戦として自己規定し、ロシアからの分離独立を世界イスラーム革命の一部として位置づけている。他方、ロシア政府も連邦軍がチェチェンで起こした軍事行動を国際イスラーム・テロリズムとの戦いと主張してはばからない。

 本稿は、こうした紛争の性格変化に注目し、チェチェン紛争のなかでイスラームがどのように関わってきたかを解明する。そのためには何よりもまずチェチェン人とイスラームの関係を通時的に考察することから出発しなければならない。とりわけ19世紀にロシア帝国がチェチェンを含むカフカース地域を植民地化する征服戦争を起こした際、北カフカースに住んでいた土着民たちがイスラームの旗印のもとで抵抗運動を展開した歴史を理解する必要がある。そして無神論を標榜したソビエト政権のもとでイスラームはいかに命脈を維持し、ソ連末期に復興し得たのか。さらに分離独立運動の宗教化が誰によってどういう経緯をへて進められたのかを考察することも本稿の狙いである。

 チェチェン紛争そのものについてはロシアと欧米に多くの先行研究があり、世界各国のマスメディアでもかなり多くの分析がなされてきた。だが宗教がこの戦争で演じる役割は少なくとも1999年に第2次チェチェン戦争が始まる前までは、あまり注目されなかった。というより、研究者の間ではチェチェン抵抗派が示した様々なイスラーム的言説や装置を、宗教的動機によるものではなく、政治的動機によるものとして捉える傾向が強かったため、チェチェン紛争で宗教は常に第二次的な意味しか持てず、懐疑の対象でしかなかった。そのうえ、チェチェンで引き起こした軍事行動を国際イスラーム・テロリズムと頻りに結びつけるロシア政府の自己主張が強まれば強まるほど、研究者の疑念は募るばかりであった。しかし現在のチェチェン抵抗派が、表面的であれ内心であれ、イスラームを抵抗のイデオロギーとして前面に打ち出していることは厳然たる事実である。

 こうした問題意識を踏まえて、本稿ではまず第1章で、チェチェン人とイスラームの歴史を考察し、チェチェン人にとってイスラームとは何かという疑問に対し、総括的な解答を試みる。ここでは分析の対象をチェチェンに限定せず、長い歴史を通して共通の文化圏を形成してきた北カフカース地域全体を視野に入れることから、次第にチェチェンという個別の地域へと分析を細密にしつつ、イスラームとチェチェンの関係論を展開してみたい。第1節では北カフカースという地域のなかでチェチェン人を位置づけし、第2節では山岳民たちの対露抵抗の歴史を概観した後、第3節ではソ連期における北カフカースのイスラームの動向を考察する。

 第2章では、チェチェン紛争を語る際に欠かせない「ワッハーブ主義」について論じる。無神論を標榜していたソビエト体制が終焉を告げる1991年を前後して、旧ソ連およびその継承国家であるロシア連邦では、ものすごい勢いで宗教が復活すると同時に、イスラームの脅威が語られるようになった。それはチェチェン紛争で露呈したイスラーム過激主義と関連するが、その際必ずといっていい程「ヴァッハビズム」(ваххабизм)という言葉が用いられている。この言葉は「ワッハーブ主義」またはワッハーブの教義と訳され得るが、それに内包された意味合いは非常に複雑で政治的である。第2章ではこの「ワッハーブ主義」という語の概念定義と起源を、現代ロシアという空間的かつ時間的枠のなかで考察し、それがチェチェンと結びつけられる意味合いを探りたい。まず「ワッハーブ主義」という言葉そのものの成立背景を検討した後、それがソ連末期から脅威としてのイスラームという意味合いを持つようになった経緯を考察する。続いて北カフカース、そのなかでもダゲスタンで急速に復興したイスラームが急進的な政治化を通して「ワッハーブ派」と呼ばれる勢力の勃興につながる過程に照明を当てる。

 第3章では、ソ連崩壊という未曾有の激動の時期において、独立を果たそうと試みるチェチェン人の分離独立運動と、そこに内在する宗教的要因を考察する。特に第1次チェチェン戦争期からこの地にその姿を現した外国人ムジャーヒディーンについては、未だ解明されていない点が多く、それだけを対象にした本格的研究は皆無に近い。そこで本稿では、チェチェンで活動した外国人ムジャーヒディーンのなかで、以降のチェチェン政治に多大な影響力を与えたアラブ人野戦司令官ハッターブを取り上げ、彼の人物像と軌跡に照明を当てることによって、今後の研究の展望を切り開いてみたい。そのために、まずソビエト政権の弱体化に触発されて始まったチェチェン人の独立運動がいかなる過程を経てロシアとの戦争に至ったのかを概観し、この時期のチェチェン・イスラームの動向を、特にドゥダエフ政権との関連性に注目して分析した後、ハッターブというアラブ人野戦司令官とチェチェン戦争との関連性を追究する。

 第4章は、停戦後の戦間期において、民選大統領マスハドフのもとで国家構想をめぐり権力闘争と混乱を繰り返すチェチェン共和国の政治情勢を分析し、そこで反体制派としての立場を固めていく「ワッハーブ派」勢力の役割を検討する。第1節で停戦後ヤンダルビエフ大統領によって推し進められたイスラーム国家化の経緯を検討した後、第2節ではマスハドフ大統領のもとで国家建設構想をめぐって繰り広げられる各勢力間の権力闘争の様相を分析する。第3節ではこれまでの研究が「ワッハーブ派」勢力のチェチェン抵抗派への影響力を一方通行のように捉えがちだったことに一定の修正を加え、チェチェンの独立抵抗派が「ワッハーブ派」をいかに反体制派に取り込んでいったかに注目して論じる。

 第5章では、チェチェンの野戦司令官バサエフとハッターブが中心となって引き起こした隣国ダゲスタン侵攻事件を検討する。まずダゲスタン共和国の緊迫した政治・宗教情勢を検討し、第2節では、独立イスラーム国家を打ち立てようとするチェチェン抵抗派勢力の一部が、つねにダゲスタンとの統合を意識していた点を通時的に考察する。引き続き第3節では、1999年の夏に起きたダゲスタン侵攻事件を、攻勢をかけるイスラーム武闘派側からの情報と、それに対応するダゲスタン共和国および連邦両側の資料を比較しつつ検証する。

 なお現在のチェチェン抵抗派勢力が新しい宣伝手段としてインターネットを積極的に利用している事情を踏まえ、本稿ではネット上に散在するチェチェン抵抗派および「ワッハーブ派」とよばれるイスラーム主義者側のサイトを積極的に参考するとともに、チェチェン紛争に直接および間接に関わった人たちによる回顧録や証言も利用した。これらの資料にはロシア当局の一方的なアジテーションや解釈を、戦争に参加した個人の立場から批判する内容が多くみられる。

審査要旨 要旨を表示する

 「チェチェン紛争とイスラーム-―抵抗・統合・分裂」と題する本博士論文は、1990年代後半から宗教色を強めているチェチェン紛争の性格変化に注目し、同紛争のなかでイスラームがどのように関わってきたかを解き明かすことにある。そのために、ヒョン氏はチェチェン人とイスラームの関係を通時的に考察するために、ます19世紀にロシア帝国がチェチェンを含むカフカース地域を植民地化する征服戦争を起こした際、北カフカースに住んでいた土着民たちがイスラームの旗印のもとで抵抗運動を展開した歴史を提示した。次いで、無神論を標榜したソビエト政権のもとでイスラームはいかに命脈を維持し、ソ連末期に復興し得たのかを分析し、分離独立運動の宗教化が誰によってどういう経緯をへて進められたのかを明らかにする手法をとった。

 著者は、ロシアとチェチェンとダゲスタン両共和国で発行された定期刊行物の記事の分析に加えて、現在のチェチェン抵抗派勢力が新しい宣伝手段としてインターネットを積極的に利用している事情を踏まえ、ネット上に散在するチェチェン抵抗派および「ワッハーブ派」とよばれるイスラーム主義者側のサイトを参考した点に国際的にもユニークな本論文の大きな価値がある。5章からなる論文の考察によって、次の点が明らかにされた。

1 チェチェン革命の初期段階でイスラームの果たした役割は、これまでの研究が示した通り、あまり著しくなかったことは確かである。それにもかかわらず、初代大統領ドゥダエフと彼を支持する超民族主義者勢力がスーフィー教団を住民動員と正統性確保のために政治的に利用した事実は、決して無視すべきではない。同時に、ロシアの侵攻が、ドゥダエフ支持派と反対派との区別なしにチェチェン人を団結させ、イスラームとジハードのイデオロギーへと走らせた主な原因になったことの意味合いは大きい。

2 チェチェンで見られるサラフィー主義勢力とスーフィー教団との対立が、改革主義と伝統主義の競合という側面をもっていたる。

3 チェチェンにおけるイスラームの急進化および政治化は、数百年にかけて形成されたイスラームの民族化という文明論的かつ客観的要素を有しながら、同時に、相互対立する政治勢力間のイスラームの利用という側面に露呈する主観的要素ももっていた。

4 チェチェン国家の失敗の責任は、ロシアの攻撃だけでなく、民族国家に変貌しかねたチェチェン社会にもあった。と考えられるからである。

5 チェチェン人の間で繰り広げられたテイプ同士の競争が、油田など主に経済的利権をめぐって展開されるケースが多かったため、それでなくても弱い戦後国家の経済基盤をさらに衰弱化した。テイプを乗り越えたチェチェン人の民族国家を建設するためには、その基盤をイスラームにおく以外に方策はなかった。

6 暴力とチェチェン紛争の関係を考えるにあたっては、基本的にチェチェンの抵抗派が決して一枚岩的な存在ではない。

7 「ワッハーブ派」と呼ばれるサラフィー主義勢力と「伝統主義者」と通称されるスーフィー教団との対立は、チェチェンにおいても、ダゲスタンにおいても様々な惨事をもたらしてきた。

8 「ワッハーブ派」から生じる諸問題が、民族集団の相違を克服し、スーフィー宗教者の統一戦線を形成させる重要な動因になった。

9 ロシア社会の非ムスリムの間で増加している「イスラーム・フォビア」の問題の背後には、イスラームという宗教が本質的に暴力性を内在しているという印象を繰り返し報じることによって、イスラームとムスリムに対する否定的イメージを再生産するロシアのマスコミがある。

10 近いうちにチェチェンを含め北カフカース地域でイスラームの過激化現象が消滅する可能性は低い。連邦政府が紛争解決の政治的可能性を無視し武力に依存する傾向で一貫しているからである。

11 チェチェン人たちが純に民族独立のスローガンのもとで抵抗した第一次戦争より、イスラームの要素が深く関わった第二次戦争のほうが、ロシア側から見るとよりチェチェン攻撃の正当性が得られて有利であった。結局、チェチェンは闘争のためのモラル高揚のために、ロシア側はみずからが「国際イスラーム・テロリズム」と戦っていることを宣伝するために、ムジャーヒディーン・ファクターを誇張しているところから、両者の利害の奇妙な接点を見つけることができる。

 以上のような点を400字1000枚に及ぶ緻密な実証と理論構成で明らかにした本論分は審査委員全員によって高く評価された。イスラーム研究とロシア研究の境界領域に正面から挑戦した意欲と、国際学界でも例のない緻密なチェチェン地域研究の実証的な研究として申し分ないものであり、五名の審査委員からは論旨への疑問に類する発言はほとんど出されなかった。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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