学位論文要旨



No 121978
著者(漢字) 神島,裕子
著者(英字)
著者(カナ) カミシマ,ユウコ
標題(和) 正義論のポスト・ロールズ的展開 : コスモポリタニズムとケイパビリティ・アプローチ
標題(洋)
報告番号 121978
報告番号 甲21978
学位授与日 2007.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第700号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 教授 森,政稔
 東京大学 助教授 遠藤,貢
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 池本,幸生
内容要旨 要旨を表示する

 本論の目的は、ジョン・ロールズの『正義論』が1971年に発表されて以降グローバル化のなかで紡がれてきた正義論の展開を、コスモポリタニズムとケイパビリティ・アプローチによって再構成し、グローバル正義の原理および道徳的基礎について可能な限り明らかにすることである。グローバルな地平における正義は切迫した課題であるが、正義論の歴史においてグローバル正義の研究がはじまったのは比較的最近のことである。その背景にあるのがロールズの『正義論』であるがゆえに、グローバル正義へ向けた正義論の展開は、ロールズの遺産を受け継ぎながらもその限界を乗り越えようとする論者たちの思想的営みを原動力とするものとなっている。本論が前期ロールズの再検討からはじまるのはそのためである。

 本論の議論は、正義論を構成する三つの要素である地平、評価基準、道徳的基礎を、ロールズ的なものからポスト・ロールズ的なものへと展開させるという流れをとる。第一の展開では、正義を考察するさいの地平が、国内社会から国内社会を含む世界へと拡張される。第二の展開では、人びとの社会的・経済的状態を評価するさいの評価基準として、資源に加えてケイパビリティが導入される。第三の展開では、正義論の正当化根拠としての道徳的基礎が、契約論から離れてゆく様が検討される。これらの三つの展開は、それぞれ本論の第一部(第一章および第二章)、第二部(第三章および第四章)、第三部(第五章および第六章)に相当する。

 第一章では、ロールズの『正義論』の意義が再検討される。実証主義と分析哲学が隆盛を極めていた時代に発表されたロールズの正義論は、まさにアメリカで正しい制度のあり方が模索されていた時代に規範理論を復権させた。ロールズは社会の基礎構造に着目し、社会でもっとも不遇な人びとを同定するための評価基準として「基本財」の観念を導入した。また、従前において支配的であった功利主義の難点を克服するために、新しい道徳理論として、契約論と反照的均衡を屋台骨とする「公正としての正義」(公正主義)を構築した。正義原理の修正可能性のみならず、私たちの道徳判断の修正可能性をも含む公正主義は、正義の構想の道徳的基礎を提供する、普遍化可能性のある道徳理論であると言える。だが、前期ロールズの正義論には、少なくとも次の三つの限界がある。第一に、公正主義に依拠する正義論は、地平の設定いかんでは、国内社会の利益のみに配慮する構想を正当化してしまう。第二に、基本財の平等をもってしても、人びとの実質的自由の平等は達成されない。第三に、社会を「相互有利性のための協同の企て」と見なすならば、交渉力において乏しい主体の利益が等閑視されてしまう。以下本論では、これらの限界を乗り越える方法が模索される。

 第二章では、冷戦終結後の1993年に本格的に構想が開始され、1999年に『諸国民の法』として発表された、ロールズの国際正義論が検討される。「諸国民の法」と呼ばれるロールズの国際正義の構想は、リベラルな諸国とリベラルではない諸国の共存可能性の追求を基本的な課題としている。その構想は普遍的人権の保障を要請するものであるが、いわゆる消極的人権を保護する目的で主権国家への介入を正当化する一方、他方では国境を越える地平における社会的・経済的価値の分配を不要としている。グローバルな社会的・経済的正義が不問に付された原因としては、第一に、ロールズがグローバル化に伴うさまざまな変化をじゅうぶんに認識していなかったこと、第二に、ロールズの理論上の軌道修正が正義の構想における道徳的基礎の役割を軽視することにつながったことが指摘できる。この第一の原因は前章で指摘されたロールズの第一の限界と密接に関係しているものであるが、この限界を乗り越える方法は、ロールズが棄却したコスモポリタン的観点を正義論に取り入れることである。

 第三章では、正義論にコスモポリタン的観点を取り入れるならば、国家というフィルターを通して描写される国民の福祉のみならず、グローバルな地平における個人の福祉にも、関心が向けられることが明らかにされる。また、コスモポリタニズムはあらゆる人がコスモポリタンであることを要請するものでもなければ、世界国家の樹立を要請するものでもないことも、明らかにされる。これらのことは契約論、功利主義、自然法論を道徳的基礎とする正義の構想にあてはまるが、本章では、前期ロールズの批判的継承から出発したトマス・ポッゲが、コスモポリタン的観点を採用し、道徳的基礎としては契約論というよりはむしろ権原論を採用していることが確認される。また、原則的にはロールズの基本財を評価基準として受け継いでいるポッゲの資源主義の検討を通じて、資源は人びとの福祉にとって不可欠であるものの、より公正な正義のためには、資源と異なる評価基準が必要であることが指摘される。

 第四章では、評価基準をケイパビリティとするアマルティア・センのアプローチが、人びとがどのような資源をどれほど持っているかではなく、人びとがなしたいと思うことをなしてなりたいと思うものになる実質的自由の度合いで、人びとの福祉を判断するものであることが明らかにされる。また、ケイパビリティ・アプローチを正義論に導入するならば、実質的自由の平等のために資源の不平等な分配が要請されることも明らかにされる。これらのことによって、正義論におけるケイパビリティ・アプローチの導入が第一章で指摘されたロールズの第二の限界を克服する鍵であることが判明するのだが、他方で、センが基本的ケイパビリティの内容を形式的には同定してこなかったことが、また、ロールズ正義論のなかでは基本財の内容が同定されていたことと比較するとそれは特異であることが、指摘される。

 第五章では、マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチが、センのアプローチとの比較のうえで考察される。ヌスバウムのアプローチは、人びとの資源の所有状態よりも人びとの主体力(エージェンシー)の状態を重視するという点でセンのアプローチと同じであるが、基本的ケイパビリティの内容を同定し、すべての諸国がそれらのケイパビリティを市民に保障すべきことを要請している点で、少なくとも近年までのセンのアプローチとは異なる。このようなヌスバウムのアプローチに対しては少なからぬ批判があるが、他者のより多くの利益のために犠牲にされてはならない個人の自由の領域に基本的ケイパビリティを位置づけようとしている点で、ロールズの正義論と同様にカントの理念を継承するものである。だが、価値多元的な現代世界において、何らかの基本的ケイパビリティのリストに文化横断的な価値を付与する正義の構想が説得力をもつためには、普遍化可能性をもつ道徳的基礎による正当化が必要とされる。

 第六章では、近著『正義のフロンティア』のなかで提示されたヌスバウムのグローバル正義論が批判的に検討される。ヌスバウムは、本論の第一章で指摘されたロールズの第三の限界を乗り越えるために、ケイパビリティ・アプローチによる正義論を構築しようとしているのだが、そのさいに道徳的基礎に据えられたのは、ヒューム的正義の環境が取り払われた契約論、すなわち豊かな必要をもち相互にケアを施し合う人びとを当事者とする契約論である。だが、ヌスバウム自身が示唆しているように、そのような契約論はむしろ自然法論に親和的なものである。しかしながら、そもそもヌスバウムがケイパビリティ・アプローチと契約論を収斂させようとしたのは、善の言語をもちいる自らのアプローチに合理的な受容可能性をもたせるためであり、そのことからすると一定の規範を所与とする自然法論は当初の目的に逆行しているようにも見受けられる。本章では、これらのヌスバウムの試みを、正義論の道徳的基礎に関する新たな論争の幕開けとして位置づける。

 まとめとして、本論を通して言えることは、第一に、国境を越える地平を対象とする正義論の展開は可能であること、第二に、資源の分配に関する議論はケイパビリティ・アプローチを踏まえることが望ましいこと、第三に、正義論の道徳的基礎に関する新たな探究が必要とされていることである。正義論のポスト・ロールズ的展開は、国内のみならずグローバルな地平に目を向け、資源に加えてケイパビリティを重視し、契約論に代わる新たな道徳的基礎を模索しはじめたヌスバウムにおいて新たな局面に入ったと言える。

 以上は本論の思想史研究としての側面に関する結びであるが、本論には理論研究としての側面もある。その結びとして本論が合意できるグローバル正義の「原理」を提示するならば、それは〈基本的ケイパビリティの平等〉となる。基本的ケイパビリティの内容の妥当性は、理論および実践における公共的な議論のなかで明らかになってゆくものだと思われる。また、グローバル正義の道徳的基礎の模索が進み、その正当性がじゅうぶんに高まった時点で、「原理」は原理として提示されることになると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、現代政治哲学の最先端のイシューの一つである「グローバル正義」に関して、独自の観点から包括的・体系的に論考した力作である。周知のごとく、1971年にジョン・ロールズ『正義論』が刊行されて以来、規範としての「正義」は様々な立場の論者によって広く論じられるようになった。しかし、国境を越えたグローバルなレヴェルでの正義論の適宜性・有効性については、晩年のロールズが否定的だったこともあり、見解が大きく分かれる思想状況が今なお続いている。そうした中、論者は本論文で、晩年のロールズの見解を批判し、むしろ初期ロールズの道徳哲学のメリットを活かすという意図の下、トマス・ポッゲ、アマルティア・セン、マーサ・ヌスバウムなど最先端の正義論を批判的に検討しながら、現代におけるグローバル正義論の意義と可能性を説得的に解明している。

 著者は序章で、現下の世界に存在する貧困状況を的確に認識し、その状況を改善するための「グローバルな正義論」の必要を強調する。この場合、貧困とは、飢餓や容易に回避可能な病気を原因として早死にしてしまう状態を意味するだけでなく、意義ある生活をするために必要な自由の機会が奪われる状態や、働きたくても働く機会が乏しい状態をも意味する。そして、グローバルな正義論とは、グローバルな地平でそのような人々の貧困状態を学問的に判定し、それを改善するための道徳的基礎や方法を提示する規範理論を意味している。その規範理論の有効性を示すために、著者が採るのは、ロールズの『正義論』の再検討から出発しつつ、その限界を乗り越えるべく、コスモポリタニズムとケイパビリティ・アプローチという観点の導入によって、グローバル正義論を再構成する方法である。

 まず第一章で、著者はロールズ正義論の意義を再検討する。著者によれば、ロールズが1971年の『正義論』で展開した「公正としての正義」は、アメリカ社会と異なる地平においても、正義の構想を可能にする普遍的な道徳理論として読まれうる内容を有していた。実際に、チャールズ・ベイツの『政治理論と国際関係』(1979年)とトマス・ポッゲの『ロールズを実現する』(1989年)は、それぞれロールズの正義論をグローバルなレヴェルで適用する試みであった。ロールズの正義論は「個人の不可侵の自由原理」を第一原理とし、「公正な機会均等原理」と「格差原理」を正義の第二原理とした上で、第一原理が第二原理に、また、機会均等原理が格差原理にそれぞれ優先することを説いていたが、著者が特に重視するのは、正義の第二原理に含まれるところの、制度変革を通して人々の劣悪な経済的・社会的状況を改善する道徳理論(格差原理)である。著者は、『正義論』で自由権が経済的必要事項に優先することを説いたロールズ自身が、後の『公正としての正義、再説』(2001年)で、ハートの批判に応える形で、個人の自由権を行使するために必要な「市民の基本的ニーズ」が自由権に優先されることもありうると譲歩した点や、人々が社会的に生きる上で必要不可欠な「主要な基本善/財(primary goods)」と呼ばれる考え方を導入した点を重視しなから、このようなロールズの公正主義が「ツール」としてグローバルな地平で正義を論じるうえでも有効とみなす。然るに、政治的リベラリズムを標榜するようになった1980年代以降のロールズは、こうした自らの公正主義をアメリカなどの先進国に限定し、その普遍化を断念した点で批判されなければならない。

 第二章で、著者はロールズの晩年の著作『諸国民の法(The Law of Peoples)』(1999年)における公正主義の普遍化断念を批判する。この書でロールズは、「公正主義の適用可能なリベラルな社会」と「公正主義の適用が不可能だが真っ当(decent)な非リベラルな階層社会」との共存のための国際政治哲学を提示した。しかし著者によれば、こうした二分法は、グローバルなレヴェルでの経済的不平等を認識し、その打開を探る道を放棄している。確かにロールズは、歴史的、社会的、経済的条件によって秩序ある政権を樹立できないでいる「重荷を背負った社会(burdened societies)」に対する援助義務を説いてはいる。だが、彼は援助義務のレヴェルを超える分配論(分配的正義)の必要性は否定した。著者によれば、そうした普遍化否定の背後には、世界各地の文化の多様性を尊重し、リベラルな社会の政治文化を非リベラルな社会に押し付けること(一種の文化帝国主義)を回避しようとする姿勢が窺えるが、そのような懸念には根拠がなく、人々の最低限の生活を維持する権利を保障するような道徳理論としての正義論が、グローバルなレヴェルで展開されなければならないのである。

 このようなロールズの限界を乗り越えるべく、著者は第三章で、ロールズが拒んだコスモポリタン的観点を導入する。それは、先に挙げたベイツやポッゲがロールズを普遍主義化するために採った観点であったが、著者が注目するのはポッゲの「資源主義的なコスモポリタニズム」である。ポッゲは、世界に蔓延している極度の貧困などの不平等に、社会構造の改善と「最も不遇な人々」の状況の改善というロールズの正義論を適用させようとし、「地球資源税」という仕組みを提言した。その目的は、「すべての人が尊厳と共に基本的必要を満たし、同国人および外国人に対して自らの権利と利害を表現できるにじゅうぶんな教育、ヘルスケア、生産手段(土地)、仕事のアクセスを保障すること」である。さらに後の彼は、地球資源税を「地球資源の配当」と呼び直し、グローバルな観点から貧者と判断される人々への、グローバル・エリート(富裕諸国の諸政府や途上国の腐敗した統治者に加えて、富裕諸国の市民も含まれる)による賠償責任を提言するようになった。著者は、こうしたポッゲの提言がいくつかの難点を抱えながらも、それがロールズの基本的善/財論の発展として意義あるものと評価した上で、さらにポッゲが採っている資源主義や所得主義的な観点を乗り越えるべく、A・センのケイパビリティ・アプローチの導入へと論を進める。

 第四章で著者が考察するのは、グローバル正議論に対するセンの経済学的ケイパビリティ・アプローチの有効性である。効用主義や所得主義を批判して登場したケイパビリティ・アプローチは、ある人が何かを行ったり、自分の望む状態になったりするための実質的自由を意味する「ケイパビリティ」と、人々の目に見える状態や活動を意味する「諸機能(functionings)」という二つの根本概念から成り立つが、著者によれば、センが重要な機能とみなす「適切な栄養を得ている、健康状態にある、避けられる病気にかかっていない、早死にしない、医療や住まいが満たされている」といった基本的状態や、「幸福である、自尊がある、社会生活に参加している、恥をかかずに人前に出ているなど」の複合的な状態、及びこれらの機能に対応する「ある人が価値あると考える生活を選ぶ自由」「長生きすること」「教育をうけること」などのケイパビリティは、グローバル正義論に大いに資する内容を持っている。しかし、センにおいて、そうしたケイパビリティ・アプローチが経済学の次元を越えて、通文化的(文化横断的)価値を持つことを基礎づける道徳理論が展開されていない点で不十分だと、著者はみなす。

 そうした不十分さを乗り越えるために、次の第五章で著者が導入するのは、センと共同研究を推し進めた哲学者マーサ・ヌスバウムのアプローチである。センの言う諸機能をアリストテレスの「エネルゲイア(現実態)」と、ケイパビリティを「デュナミス(可能態)」とそれぞれ読み替える彼女は、「人間の尊厳としてふさわしい」ケイパビリティの具体的内容をリスト化した。ヌスバウムによれば、それは人間らしい生活の「閾値(threshold)」を示すものとして理解されなければならない。著者はこのヌスバウムの見解に対し、たとえそのリスト全部には合意できないとしても、それが基本的ケイパビリティに具体的内容を与え、他者によって犠牲にされてはならない個人の不可侵性の領域を明らかにしたという点で、センよりも優れているとみなす。

 そうした評価を踏まえ、第六章で著者は、ヌスバウムが昨年(2006年)出版した『正義のフロンティア』を取り上げ、それがある意味でロールズの正義論に接近した点に注目する。この書でヌスバウムは、『正義論』におけるロールズの直観的理念に共鳴しつつ、グロティウスなどの伝統的自然法論者が承認してきた「(前制度的)エンタイトルメント」という考えを用いて、基本的ケイパビリティを論じるようになったが、そこに著者は、ロールズの「基本善/財」という考え方との親近性を見出す。そしてまたヌスバウムが、グローバル正義に関する原理を10項目挙げたことを、著者は、グローバルなレヴェルでの公共的議論に基づく「重なり合う合意(overlapping consensus)」のために活用できると評価すると同時に、正義論の「新たな幕開け」として位置づける。

 結びに代えてと題する終章で、著者は、それまでの論考をコンパクトにまとめた後、ロールズの基本善/財の考えを受け継いだポッゲのコスモポリタン的な資源主義と、センのケイパビリティ・アプローチを人間論的に基礎づけたヌスバウムの正義論とを総合したようなグローバル正義論が、政治思想的な意義を持つのみならず、今後の「人間の安全保障」政策や「グローバルな制度改革」論に理論的基礎を与えうることを示唆して、論を結んでいる。

 以上の論考は、これまで我が国では論じられることの少なかった「グローバル正義」という現代政治哲学の最先端のテーマに、著者なりの観点から一石を投じた試論として高い評価に値しよう。その評価すべき業績を具体的に挙げると、第一に、ロールズの公正主義が潜在的に持つグローバルな射程を晩年のロールズの見解に反対する形で再定式化したこと、第二に、我が国でほとんど知られていないポッゲの資源主義を援用しつつ、グローバルな分配的正義論と政策論を架橋する視点を明確に打ち出したこと、第三にセンのケイパビリティ・アプローチを人間論的哲学で補強したヌスバウムの正義論を評価すると同時にその修正可能性を指摘した点で、文化横断的(transversal)な正義論の可能性と課題を浮き彫りにしたこと、そして第四に、豊富な註と文献が示すように、1971年のロールズから2006年のヌスバウムに至る正義論の展開を包括的に再検討する作業を、二次文献に頼ることなく、また二次文献を無視することもなく、一次文献に即して企てたことである。これらの点で本論文は、今後我が国でグローバル正義を論じる上で常に参照されるべき先駆的な位置を占めることは疑いない。

 とはいえ、本論文には次のような弱点も存在する。それは、終章での著者の示唆にも拘わらず、グローバルな正義論が道徳理論や政治哲学のレヴェルを超えて、どのように制度変革や新しい国際公共政策に影響力を与えるかという点が、未だ不明瞭なままに留まっていること、センのケイパビリティ・アプローチをあまりにヌスバウムの理解に引きつけて解釈したために、著者のセン理解に一面的な点がみられること、そしてまた、ヌスバウムの基本的ケイパビリティ・アプローチのリスト化がはらむ本質主義的で非歴史的な傾向に対して肯定的過ぎること、などが挙げられよう。

 しかし、このような弱点は、本論文の全体のすぐれた業績と比べればマイナーなものに過ぎない。したがって、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する次第である。

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