学位論文要旨



No 121979
著者(漢字) 高橋,理恵
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,リエ
標題(和) 低酸素刺激による生体応答の機構
標題(洋)
報告番号 121979
報告番号 甲21979
学位授与日 2007.02.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第701号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 教授 石井,直方
 東京大学 教授 跡見,順子
 東京大学 助教授 村越,隆之
 東京大学 助教授 松田,良一
内容要旨 要旨を表示する

第1章 緒言

 心疾患および脳血管疾患は、共に、血液の循環が絶たれ、細胞が虚血あるいは低酸素状態に陥ることで発症する。低酸素状態による影響を細胞レベルで検討することは、それらの疾患の予後治療の向上に貢献する可能性があり、重要な研究課題である。これまでに、長時間(1時間以上)の低酸素状態への応答を細胞レベルで検討した研究は数多く報告されている。長時間の低酸素刺激は、細胞周期の停止や細胞死を誘導するが、その一方で、12時間以上の低酸素刺激の継続により、血管増殖因子(vascular endothelial growth factor: VEGF)の発現が誘導されるなど、細胞増殖や生存に向かうシグナルが伝達されていることも明らかにされてきた。また、低酸素刺激による細胞周期の停止や細胞死、VEGFの発現誘導を引き起こす細胞内シグナル伝達経路についても明らかにされている。しかし、短時間(1時間未満)の低酸素刺激の影響を検討した研究はほとんど行われていない。以上のことより、本研究は、短時間(15分間)の低酸素刺激が細胞に及ぼす影響を明らかにすることを目的として検討を行った。

第2章 低酸素刺激が心筋細胞の細胞死および細胞増殖に及ぼす影響

 短時間(15分間)の低酸素刺激がラット心筋由来株化細胞(H9c2細胞)の細胞死や細胞増殖に及ぼす影響を明らかにし、長時間(3, 6時間)の刺激との相違点を明確にすることを目的として検討を行った。

 低酸素条件下(<2.5% O2)で、「低酸素無血清培養液(<0.1% O2)」を添加し、15分後、3, 6時間後に細胞数および生存率を測定した結果、長時間の低酸素刺激により、細胞数および生存率が、刺激前(0時間)と比較して有意に減少した(Figure 2A)。また、細胞形態の変化から、長時間の低酸素刺激によりapoptosisが誘導されたことが確認されたが、15分間の刺激後には、刺激前と比較して有意な変化は認められなかった。

 細胞増殖への影響を検討するために、低酸素刺激後に24時間培養し、細胞数を測定した(Figure 2B)。その結果、長時間(3, 6時間)の低酸素刺激により、刺激を与えていない群(0時間)と比較して、細胞数が有意に減少していたが、15分間の低酸素刺激群は、細胞数が有意に増加していた(Figure 2C)。

 以上のことより、15分間の低酸素刺激は、細胞死を誘導せず、細胞増殖を促進することが明らかとなった。

第3章

低酸素刺激が心筋細胞の細胞内シグナル伝達経路に及ぼす影響

 第2章で15分間の低酸素刺激がH9c2細胞の細胞増殖を促進することが明らかとなったため、その作用に至る細胞内シグナル伝達経路を明らかにすることを目的として、ウェスタンブロッティング法を用いて検討した。

 その結果、MEKおよびERKのリン酸化レベルがnormoxic controlと比較して有意に促進されていた(Figure 3A)。MEK阻害剤であるPD98059を低酸素刺激時に添加したところ、ERKのリン酸化促進作用が抑制された。また、GSK-3βのリン酸化レベルも有意に増加していたが、GSK-3βのリン酸化を制御していると考えられているAktのリン酸化レベルには変化が認められなかった(Figure 3B)。Aktのリン酸化を制御しているPI3Kの阻害剤であるLY294002を低酸素刺激時に添加したところ、Aktのリン酸化は抑制されたが、GSK-3βのリン酸化レベルにLY294002添加の影響は認められなかった。このことより、GSK-3βのリン酸化にはPI3K/Akt経路が関与していないことが示唆された。また、G1/S期細胞周期制御シグナルの変化を検討したところ、p27タンパク質発現レベルが有意に減少し、CDK2およびRbのリン酸化レベルが有意に増加していた(Figure 3C)。さらに、MEK/ERK経路がp27の発現量を制御しているとの報告がなされていたことから、PD98059を低酸素刺激時に添加したところ、p27の発現減少作用が抑制され、Rbのリン酸化増加作用も抑制されていた。以上のことより、15分間の低酸素刺激はMEK/ERK経路を活性化させ、細胞周期の進行を促進することが示唆された。

 第2章において、長時間(3, 6時間)の低酸素刺激はapoptosisを生じさせることが明らかとなった。そのため、apoptosisの実行役であるcaspase-3前駆体の発現量を検討したところ、15分間の刺激後では刺激前と比較して変化が認められなかったのに対し(Figure 3D)、長時間の刺激後には前駆体の発現量が減少し、caspase-3が活性化していると考えられた。また、6時間の刺激後には、apoptosis特有の現象であるDNAの断片化も確認された(Figure 3E)。長時間の刺激後には、p-38, JNKのリン酸化増加も確認された(Figure 3F)。

第4章 低酸素刺激による細胞増殖促進作用に対する阻害剤の影響

 第3章において確認されたMEK/ERK経路の活性化が、第2章で示した細胞増殖作用の機構であることを確認するため、低酸素刺激時にMEK阻害剤であるPD98059を添加し、細胞増殖に及ぼす影響を検討した。

 阻害剤は低酸素刺激時のみ添加し、刺激後は阻害剤を除去して培養した(Figure 4A)。その結果、PD98059添加により、低酸素刺激による細胞増殖作用が有意に抑制された(Figure 4B)。従って、15分間の低酸素刺激がMEK/ERK経路の活性化を介して細胞増殖を促進していることが確認された。

第5章 低酸素刺激が血管内皮細胞に及ぼす影響

 第2章および第3章において、15分間の低酸素刺激がラット心筋由来株化細胞の細胞増殖を促進することが明らかにされた。血管内皮細胞においても同様の作用が認められれば、低酸素刺激により血管新生が促進されることとなる。よって、第5章では、15分間の低酸素刺激がウシ肺動脈由来血管内皮細胞(CPAE細胞)に及ぼす影響を明らかにすることを目的として検討した。

 第2, 3章と同様に低酸素刺激を与え、ウェスタンブロッティング法を用いて検討したが、G1/S期細胞周期制御タンパク質およびMEK/ERK経路、Akt, GSK-3βのリン酸化レベルに変化は認められなかった(Figure 5A, B)。従って、15分間の低酸素刺激は、血管内皮細胞には影響を与えないと考えられた。

第6章 総括

 ラット心筋由来株化細胞において、15分間の低酸素刺激はMEK/ERK経路の活性化を介してG1/S期細胞周期制御タンパク質の発現およびリン酸化を制御し、細胞増殖を促進することが明らかとなった。一方、長時間(3, 6時間)の低酸素刺激はp38, JNKの活性化を促進し、caspase-3の活性化を介してapoptosisを誘導することも明らかとなった。しかし、15分間の低酸素刺激は血管内皮細胞には影響を与えなかった。

Figure 2

Figure 3

Figure 4

Figure 5

審査要旨 要旨を表示する

平成18年10月26日に学位請求の内容及び専攻分野に関する学識について口頭による試験を行った。下記のような内容の口頭発表を行い、公開および非公開での質疑応答(主要なものを記載する)があり、的確に答えることができ、専攻分野に関する学識が確認できた。

発表内容: 低酸素状態による影響を細胞レベルで検討することは、心疾患および脳血管疾患の予後治療の向上に貢献する可能性があり、重要な研究課題である。これまでに、長時間の低酸素刺激に対する細胞応答に関しては、数多くの報告がなされているが、短時間の刺激に対する応答に関しては検討されていないことから、15分間の低酸素刺激がラット心筋由来株化細胞(H9c2細胞)とウシ肺動脈血管内皮細胞(CPAE細胞)に及ぼす影響について検討した。その結果、長時間(3, 6時間)の低酸素刺激はH9c2細胞のapoptosisを誘導したのに対し、15分間の刺激はMEK/ERK経路を介して細胞増殖を促進することが明らかとなった。

質疑応答の内容: 研究がin vitroの実験であるのに、in vivoの背景を重視しすぎているとの指摘を受けたため、論文の緒言をin vitroの先行研究を中心とした背景に改正した。また、低酸素刺激の時間経過に伴い、細胞形態がどのように変化しているかとの質問を受けたため、apoptosis特有の細胞凝縮が認められたことを報告すると共に、論文に細胞の写真を追載した。緩やかな低酸素刺激を長時間継続する方法との比較検討は行ったかとの質問を受けたが、実験設備上、緩やかな条件の検討を行えなかったため、そのことを報告した。リン酸化レベルの評価法について、リン酸化タンパク質発現量/アクチン発現量で評価していたが、リン酸化タンパク質発現量/非リン酸化タンパク質発現量で行うべきとの指摘を受けたため、評価法を変更し、論文データを改正した。有意差検定は全て2群間で比較していたため、Student's t-検定を用いていたが、群数が3群以上であるため、分散分析が適切であるとの指摘を受けたので改正した。

以上のように、学位請求の内容及び専攻分野に関する学識から判断し、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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