学位論文要旨



No 121984
著者(漢字) 高田,まゆら
著者(英字)
著者(カナ) タカダ,マユラ
標題(和) 階層組織化理論に基づいたチビサラグモの個体数決定機構の解明
標題(洋)
報告番号 121984
報告番号 甲21984
学位授与日 2007.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3087号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 宮下,直
 東京大学 教授 樋口,広芳
 東京大学 教授 高槻,成紀
 東京大学 教授 富樫,一巳
 千葉大学 助教授 仲岡,雅裕
内容要旨 要旨を表示する

 生物の個体数を決定する要因は、同じ生物種であっても一様ではないことが知られている。その大きな理由のひとつとして、対象とする空間スケールによって要因が異なることが挙げられる。空間スケールの違いがもたらす決定要因の違いは、従来このように個別的に認識されていたが、本来は統合的に捉えるべきものである。個体数が決まるプロセスをこのように階層縦断的に捉えようという考えは、最近生態学の分野でも提唱されている階層組織化理論に集約される。階層組織化理論とは、生物集団を複数の階層をもつシステムとして捉え、対象とする空間レベルの性質が、隣接する上下の空間レベルとの相互作用によって決まるという考えである。こうした概念は、メタ個体群やランドスケープエコロジーの分野が深く関係しているが、階層組織化理論を明示的に意識した研究は少ない。

 個体数決定機構を階層組織化理論の視点から解明するうえで、重要と思われる点は2つある。1つは、上位空間レベルから対象空間レベルに及ぶ影響が、対象空間レベルのネットワークの外から生じるものなのか、それともネットワーク構造自体から生じるものかを区別することである。前者は上位レベルからの影響が下位レベルへ一方的に押し付けられるものであり、例えば気温や降水量、海岸の波の強さなどがもたらす大スケールでの影響を挙げることができる。後者は対象レベル間の相互作用で生じる創発現象であり、これまでメタ個体群研究などで注目されてきた効果である。仕組みとしては、パッチ間で生じる生物の移動分散や物質の移動などにより上位レベルでの個体数が決定され、その効果がパッチレベルにフィードバックされることが挙げられる。2つめの重要な点は、上位空間レベルから及ぶ影響が、対象空間レベルだけでなくその構成要素である下位空間レベルの性質を変化させるかどうかに注目することである。なぜなら上位空間レベルからの影響は、対象空間レベルの環境要因とは独立に個体数を変化させる場合もあるが、環境要因と個体数との関係性自体を改変することもあるからである。以下、前者を相加効果、後者を非相加効果と呼ぶ。階層組織化理論に基づいた上記2つの視点は、生物の個体数決定機構の状況依存性を統合し、より一般的な原理を探るうえで必要不可欠なものであると考えられる。

 本論文で研究対象とするチビサラグモ(Neriene brongersmai)は、主にスギ林に生息し、林床のリター上部に皿網を張る造網性クモである。造網性クモ類の個体群は、網上での採餌や休息を中心としたプロセスと網場所移動のプロセスという空間スケールが明確に異なる2つの生態的プロセスをもつ。造網場所移動時には採餌は行えず、死亡のリスクが高まることが知られている。そのため階層組織化理論をもとに個体数決定機構を解明するうえで優れた材料であるといえる。本論文では、前者のプロセスが生じる空間スケールをパッチレベル、後者が生じるスケールをランドスケープレベルと定義する。

 本論文では、チビサラグモのパッチレベルの個体数が、パッチとランドスケープの2つの空間レベルからどのような影響を受けて決定されているかを、パッチのネットワークの性質から生じる創発効果の存在と、それがパッチレベルにもたらす非相加効果の存在の2点に注目して個体数決定機構を解明することを目的とする。

 第2章では、野外の16個体群を対象に、ランドスケープレベルからパッチレベルの個体数に及ぶ相加効果と非相加効果の存在を明らかにし、それぞれの効果をもたらすランドスケープレベルでの環境要因を特定した。その結果、パッチレベルでの個体数はパッチ内の棲み場所量とともに増加するが、ランドスケープレベルでのパッチ密度(造網可能な場所の量)が高いほど個体数全体が底上げされるという相加効果が明らかになった。さらにパッチ密度が高いほどパッチレベルでの棲み場所量と個体数の関係性が強まるという非相加効果も検出された。相加効果には、パッチ密度が高いランドスケープほど造網場所移動時の死亡率が低下することが、また非相加効果については、相加効果による高密度化がパッチレベルでの棲み場所をめぐる競争を激化させ、密度依存的死亡を引き起こしたことが関与していると考えられた。

 第2章の結果から、ランドスケープ間でのクモの死亡率の違いはパッチ密度によりもたらされていることが示唆された。そこで第3章では、ランドスケープレベルでのクモの個体数変化に注目し、チビサラグモの死亡率とパッチ密度との関係を、2世代16個体群を対象とした個体数調査から解明した。各世代において、ランドスケープレベルでの個体数の変化率(発育ステージ間)を死亡率の指標として算出し、幼体期および成体期の死亡率がパッチ密度から影響を受けているかを検証した。その結果、パッチ密度が高いランドスケープほどクモの死亡率が低下するというプロセスが明らかとなった。また、それに伴う高密度化は密度依存的な死亡を引き起こすというプロセスの存在も明らかになった。

 第4章では、まず「パッチ密度が高いランドスケープほど、移動当たりの死亡率が低い」という仮説を検証するため、パッチ密度を人為的に操作した野外実験を行い、処理に伴うクモの死亡率の変化を調べた。その結果、パッチ密度が高い実験区でクモの死亡率が低いことが示された。すなわち野外のパターン解析で明らかになったパッチ密度とクモ死亡率との負の関係は、パッチのネットワーク構造がクモの移動時の死亡率を低下させることで生じたと考えられた。次に「個体群密度が高いほど造網場所をめぐる競争が強まり、その結果移動頻度が増加することで死亡率が高まる」という仮説を検証するため、個体群密度とクモの移動頻度の関係、および移動頻度と死亡率との関係を明らかにする野外実験を行った。前者の実験では、複数の高密度および低密度個体群においてクモを除去したパッチを設け、高密度個体群ほどパッチ内への移入率が高いかどうかを検証した。後者の実験では、人為的な網の撹乱によりクモの移動頻度を高める操作を行い、それによりクモの死亡率が高まるかを調べた。その結果、どちらの実験においても仮説は支持された。

 以上の結果をもとに第5章では、階層組織化理論を用いて個体数決定機構を探ることの意義を中心に総合考察を行った。まず本研究から推測されたチビサラグモの個体数決定機構は、以下のとおりである。パッチレベルでの個体数は、パッチ内棲み場所量に伴い増加するが、ランドスケープレベルでのパッチ密度が高いほど、造網場所移動時の死亡率が下がることで個体数がさらに底上げされる。一方、こうした個体数増加は、造網場所をめぐる干渉型競争とそれに伴う移動率と死亡率の増加をもたらし、結果的に密度依存的プロセスを誘発する。チビサラグモの個体群は、こうしたパッチレベルとランドスケープレベルの間で生じる相互作用により維持されていると考えられた。このような個体数決定機構は、階層組織化理論で述べられている創発現象に相当するものである。

 これまでさまざまな理論研究により、個体群の空間構造がもたらす創発効果の重要性が主張されてきた。特に、個体群が空間構造をもつことで生じる「生息地量と個体群サイズ」関係の非線形性は基礎的にも応用的にも注目されてきた。こうした創発現象に注目した野外研究は、分断化された森林や島など物理的に明確な境界のあるシステムを対象にメタ個体群生態学やランドスケープエコロジーの分野で活発に展開されてきた。しかし、チビサラグモの生息場所であるスギ林内のリターには、明確に区別できるいわゆるパッチ構造が存在するわけではない。造網性クモには、造網場所での定着と移動という2つの行動プロセスが存在し、それらとリターの不均一性が相まって創発事象が生じたのである。これは言い換えると、個体群の空間構造に由来する創発効果は、従来型の明確なパッチネットワーク構造をもつ個体群に限らず、空間レベルが定義されにくいシステムでも普遍的に存在すると考えられる。このような認識は、多くの野外システムにおける個体数決定機構の状況依存性の克服につながるとともに、個体群動態の予測性を高めるうえでも大きく貢献できると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 自然界における生物の個体数を決定する要因は、同じ生物種であっても一様ではない。その大きな理由のひとつとして、対象とする空間スケールによって決定要因が変化することが挙げられる。こうした違いは、従来スケール毎に個別に認識されてきたが、本来はスケール横断的に統合して捉えるべきものである。このような考え方は、近年生態学の分野で提唱され始めた階層組織化理論に集約される。階層組織化理論とは、生物集団を個体、局所集団、全体集団といった複数の階層をもつシステムとして捉え、対象とする空間レベルの性質が、隣接する上位と下位の空間レベルとの相互作用によって決まるという考えである。こうした概念は、メタ個体群生態学の一部の分野で重要性が認識されてはいたものの、階層組織化理論の視点から体系的に個体数決定機構を探求した研究は非常に少なかった。

 個体数決定機構を階層組織化理論の視点から解明するうえで最も注目すべき点は、生物が局所集団間を移動することによりもたらされる創発現象である。これはすなわち、局所集団が個体の移出入によって連結することで、それらの個体数の総和が、各局所集団が個別に存在する場合の総和に比べて大きくなる現象である。

 本論文では、上記視点から個体数決定機構を解明するうえで優れた材料であると考えられるチビサラグモを対象とした。本種は、主にスギ林の林床にあるリター上に皿型の網を造るクモである。これら造網性クモ類では、網上での採餌や休息と、網場所の移動という空間スケールの異なる2つの生態的プロセスをもつ。既存研究から、造網場所移動時には死亡のリスクが高いことが知られている。本論文では、網上で採餌などが行われるスケールをパッチレベル、移動が生じるスケールをランドスケープレベルと定義する。本研究の目的は、チビサラグモのパッチレベルの個体数が、当該レベルとランドスケープレベルの要因からそれぞれどのような影響を受けて決定されているかを、特にパッチのネットワーク構造に由来する創発現象に注目して解明することにある。

 第2章では、野外の16個体群を対象に、階層線形モデルを用いてランドスケープからパッチの個体数に及ぶ影響を評価した。その結果、パッチレベルの個体数はパッチ内の棲み場所量とともに増加するが、ランドスケープレベルでのパッチ密度が高いほど個体数全体が底上げされるという上位レベルからの相加的影響が明らかになった。さらに、パッチ密度が高いほど、パッチレベルでの棲み場所量と個体数の関係性が強まるという非相加的な影響も検出された。相加的影響が生じたのは、パッチ密度が高いランドスケープほど移動時の死亡率が低下した結果と考えられた。また非相加的影響については、相加的影響がもたらした高密度化が、パッチ内の棲み場所をめぐる競争を激化させ、密度依存的な死亡を引き起こしたことによると考えられた。

 続く第3章では、2世代16個体群を対象とした個体数調査を基に、ランドスケープレベルでチビサラグモの死亡率に影響を与える要因を明らかにした。その結果、パッチ密度とクモの死亡率に負の相関がみられる発育段階と、個体数密度と死亡率に正の相関がある発育段階が存在することが明らかになった。

 第4章では、上記の結果から導かれた仮説を野外実験により検証した。まずパッチ密度を人為的に操作した野外実験を行い、処理に伴うクモの死亡率の変化を調べた。その結果、パッチ密度が高い実験区ではクモの死亡率が低いことが示された。次にクモの移動頻度は密度依存的に増加するという仮説を、クモを除去するパッチを設けることにより検証した。さらに、移動頻度の増加が死亡率を増大させるという仮説を、網の撹乱によりクモの移動頻度を操作することで検証した。その結果、どちらの実験においても仮説は支持された。

 以上の結果をもとに第5章では総合考察を行った。従来の野外研究では、個体群が空間構造をもつことで生じる棲み場所量と個体群サイズの非線形的関係が注目されてきたが、そのほとんどは、島や池、分断化された森林など物理的に明確な境界のあるシステムを対象としていた。しかし、本研究で対象としたチビサラグモの生息地のように、空間的に明確に区別できるパッチ構造が存在しない場合でも、対象生物の行動や生活史と環境の異質性が相互作用することで個体数が創発的に決定されることが明らかになった。このようなシステムは、おそらく野外で普遍的に存在すると考えられるため、本研究で得られた視点や手法は生物の個体群動態の予測性を高めるうえで大きく貢献できると思われる。

 以上に述べたとおり、本研究は生物の個体数決定機構の解明についての新たな視点と実証例を提供しており、基礎的にも応用的にも価値の高いものである。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位として価値があるものと認めた。

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