学位論文要旨



No 121990
著者(漢字) 玄,武岩
著者(英字) HYUN,MOO AM
著者(カナ) ヒョン,ムアン
標題(和) 東アジアにおけるコリアン・ネットワーク、その歴史と現在 : 越境する民とメディアのネットワーク
標題(洋)
報告番号 121990
報告番号 甲21990
学位授与日 2007.03.07
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 博人社第575号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 姜,尚中
 東京大学 名誉教授 和田,春樹
 情報学環 教授 吉見,俊哉
 総合文化研究科 教授 三谷,博
 立命館大学 教授 文,京洙
内容要旨 要旨を表示する

 本論文の課題は、20世紀において東アジアで展開されたコリアンの越境・メディア・故郷の再生をネットワークとして捉え、朝鮮半島をはじめ、日本、中国東北部、極東ロシアの沿海州とサハリンというさまざまな地域における移動と定住、そしてアイデンティティの諸相を考察することで、コリアン系のネットワークをあぶりだすことにある。独立運動=朝鮮半島中心主義的な枠組みから距離をおき、歴史のなかに存在した帝国における在外朝鮮人の越境的な実践に光を当てると、そこにはコリアンのネットワークが形成されていたことが浮び上がってくる。そこで本論文では、20世紀の幕開けから今日にいたるコリアン・ディアスポラと本国の相互作用を「ネットワーク」という概念からアプローチし、植民地のなかで忘れ去られ、冷戦下において十分に顧みられることのなかった在外コリアンの多層的な歴史的位相を明らかにする。そうすることで、歴史的に形成され、今日再び浮上する東アジアにおけるコリアン・ネットワークの理論的根拠を提示する。

 本論文は、序章と終章を含めて総10章で構成される。序章「東アジアとコリアン・ディアスポラ」では、歴史軸/ネットワークという本論文の2つの視座を設定する。近年の韓国における「韓民族共同体」の議論は、規範的な実体として実践的に構想されることが多い。しかしここでは、「共同体」ではなく「ネットワーク」という方法概念から、本国とコリアン・ディアスポラのコミュニケーション的状況を歴史的に接近することになる点について言及する。それによって実体概念としての韓民族中心主義的な共同体から、東アジアにおける越境的なコリアン系のネットワークへとパラダイムを転換することができ、そうしたネットワークを民族的な意味を超える東アジア地域の脱国家的な実践として見ることができることを指摘する。

 第1章「東アジアのなかのコリアン・ネットワーク」では、コリアン・ネットワークの歴史的生成過程に注目する。そのネットワークは、「在外同胞」が誕生する朝鮮半島における移民時代の始まりとともに形づくられ、朝鮮が日本の植民地となる時期に、植民地統治に抗するナショナリズムを朝鮮の「内地」と「外地」が相互作用するなかで形成することで最盛期を迎えた。とくに本章で描いたのは、独立運動という直接的な行動としての「抵抗ナショナリズム」ではなく、観光訪問団、在外同胞慰問会、映画上映会、楽劇団などのイベントをとおして、むしろ帝国のネットワークを流用し、それを主体的に活用することで朝鮮内外の一体性を示す、エスニックなアイデンティティにもとづくナショナリズムであった。

 第2章「越境するエスニック・メディア」では新聞に焦点を当てた。1905年の保護条約以降、朝鮮が植民地へ向かう時期は、朝鮮国内よりも在外朝鮮人のコミュニティで発行された新聞が活発な「在外韓人新聞」の時代であった。極東ロシアの沿海州では『海朝新聞』『大東共報』『勧業新聞』などが発刊され、これらの新聞は、愛国啓蒙・近代思想の震源地となり、形成されつつあった朝鮮のナショナリズムを主導したのである。それは在外韓人新聞というエスニック・メディアが沿海州に止まらず、朝鮮にも流入したばかりか、太平洋を隔てて米国の朝鮮語新聞と提携し、あるいは紙上論争を展開するなど、コリアン・ネットワークとして機能することで、本国と在外朝鮮人社会の一大メディア空間を形成したことを明らかにする。

 第3章「『尋ね人』のネットワーク」では、ラジオのネットワークについて考察する。帝国崩壊後に引き直された国境線によりソ連邦に編入されたサハリン南部には、戦後、およそ4万人の朝鮮人が取り残された。57年から日本人の妻とともに「恵まれた帰還」を果たした一部の朝鮮人が、東京で「樺太帰還在日韓国人会」を立ち上げ、関係機関に嘆願書を出すなど帰還運動を展開し、サハリンと韓国の手紙の中継地にもなる。それがきっかけで韓国のサハリンに向けた「尋ね人」番組である「サハリンの同胞へ」が開始される。サハリン残留朝鮮人は韓国からのラジオ放送に耳を傾け、故郷に帰ることを待ちわびた。「ラジオを聴く人たち」は、こうして帰還する希望をつなげたのである。人の移動が最も制限された「冷戦の空間」でも、手紙やラジオはサハリンと韓国をつないだメディアとして、コリアン・ネットワークにおいて重要な意味を持っていたのである。

 第4章「浮遊するディアスポラ」では、中国朝鮮族を戯画化する番組に反対して在韓朝鮮族が設置したアンチサイトにおける掲示板の言説分析をとおして、インターネットが形成する「韓民族ネットワーク共同体」の虚実について検討する。インターネットの登場は、「韓民族共同体」の議論にも参照され、サイバースペースに仮想的な民族空間を構築しようとする動きを促した。しかしそれが民族同士のコミュニケーションを保障しているとは言い難い。このサイトの掲示板で、番組の是非をめぐって、朝鮮族と番組を擁護する韓国人が激しく衝突し、インターネットが実現するはずの仮想的な対話の空間は、本国民とディアスポラが対決する場となった。結局、朝鮮族の声は圧倒的多数の「ネイティブ」の声によって封じ込められ、その言説空間は支配的な公共圏の外部に締め出されたのである。

 第5章「越境する周辺」では、第4章で考察した韓国における朝鮮族の位置、そしてそれを規定する朝鮮族社会と韓国との社会的・経済的関係が明らかになる。朝鮮族社会は、中韓国交正常化以来、韓国との交流が活発化するなかで多くの人々が韓国へ出稼ぎに向かい、さらに国内各地への進出による人口流出によって、民族自治州である延辺を中心にするエスニック空間の危機がささやかれている。そこで朝鮮族は、衛星放送など韓国メディアの影響がホスト社会と「故国」との間で緊張を生み出すなかで、「祖国」と「故国」の狭間で自己決定に挑むことを迫られている。しかし同時に、少数民族でありディアスポラでもある二重のマイノリティが、どちらにも自らの忠誠心の独占を許さないことで、越境的な行為主体としての可能性を秘めている存在として位置づけた。

 第6章「歴史なき民族の復権」では、旧ソ連の高麗人におけるエスニック空間の揺らぎを考察する。経済のグローバル化によって促進される朝鮮族のコミュニティとは異なって、高麗人の移動はソ連邦の崩壊にともなう激動する国際政治に後押しされたところが大きい。こうした中央アジアにおける内戦や言語ナショナリズムに加えて、アジア太平洋地域と交流を深める極東ロシアの人口誘致政策の結果、強制移住させられた人びとがもとの居住地である沿海州に戻り、「故郷」を再生している。しかし沿海州という高麗人の「故郷」を必要とするのは、たんに高麗人だけではない。それはむしろ、韓国とロシアの政治的な意図によって「創造」されているのである。

 第7章「帰還のネットワーク」では、戦後の在日朝鮮人の帰還を取り上げ、本国における在日朝鮮人の位置について論じる。戦後、朝鮮から引揚げる日本人と「内地」から帰還する朝鮮人の入れ替えは、朝鮮半島において統治機構の転換以上にダイナミックな社会変動であった。そうした社会的混乱のなかでも、南朝鮮では在外朝鮮人の帰還を援助するため調査団や帰還船を派遣し、「帰還同胞」を救済する各種援護団体が組織された。在外朝鮮人の「原状復帰」は民族解放の具体的は表現だったからである。日本に多くの朝鮮人が定住することになっても、在日朝鮮人の国籍や財産の国内搬入をめぐる問題は、朝鮮半島では重大な関心事であった。ただし、そのような関心が集められたのは、在日朝鮮人こそが解放民族として敗戦国民の日本人よりも優越な地位を確認できる存在だったからである。言い換えれば、在日朝鮮人は解放民族のバロメータであるとともに、そうした位置を体現する朝鮮ナショナリズムの前衛だったのである。

 第8章「密航・大村収容所・済州島」では、戦後における帝国的な移動の連続性から、「密航」をメタファーとして用いることで、移動する主体のさまざまな経験として「密航」を概念化し、冷戦の状況で展開された済州島と大阪のネットワークを明らかにする。「密航」は移動の行為の形態であるため、これまでは移動そのものを表象する隠喩や象徴としては顧みられなかった。そこで「密航」は、否応なく内在する「不法」というイメージと、実定法による「密航者」の不可視性により、これまで生活史のレベルや、インタビューという方法による体験に基づいた記述のみが行われてきた。本章では、韓国の外交資料や日本の入国管理局の内部資料および国会議事録を用いて、戦後日本の入国管理体制の下で繰り広げられた「密航者」の強制送還の状況と、そうした強制送還者をめぐる日韓の政治交渉について論じ、大村収容所を中心にして「密入国」の歴史的・国際政治的側面を分析する。

 本論文の全体をとおして、コリアン・ディアスポラにおけるさまざまなメディアの領域と人の移動を、歴史と現在から比較対照し、東アジアの空間を重層的に交差するネットワークの視点をもって分析することを試みた。こうしたコリアンの越境的なコミュニケーション的状況を考察すると、コリアン・ネットワークをめぐる重要なポイントが確認された。まず、コリアン・ネットワークが歴史的に形成され、20世紀をかけて引き続き存続してきたことが明らかになった。そして、このような歴史的に形成されたコリアン・ネットワークは、観光訪問、講演会、映画上映会、音楽公演など各種イベントと、新聞やラジオ、衛生放送などマスメディア、そしてインターネットというコミュニケーション手段にいたるまでさまざまなメディアを媒介にしてきたのであった。しかし一方で、ディアスポラのコリアンは、それらを取り囲もうとする勢力の狭間でつねに揺れ動いてきた。だが、そうした状況だったからこそ、コリアン・ネットワークがある種の政治的ネットワークとして存在してきたのである。それは、今後東アジア共同体の政治的・経済的構想に批判的に介入しながら、東アジアの新たな連帯の条件となる開放性と市民性を映し出すことになるだろう。

 このような東アジアにおける将来的ビジョンのためにも、帝国主義と東西冷戦の渦に常に巻き込まれてきたコリアンの移動および文化やコミュニケーションのさまざまな交流の歴史と、それが照射するオルタナティブとしての地域主義の可能性は切り離せない。東アジアにおいてコリアンのネットワークを考えた場合、そこには南北の統一や東アジア共同体というリージョナリズムの問題が絡んでいることがわかる。歴史的形成されたコリアン・ネットワークから地域的に提起されている問題を考えるとき、今日の問題を照射する手がかりにすることができ、そうした取り組みを外に向けて開いていくとき、東アジア共同体というビジョンとして再生することができるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、朝鮮半島、日本、中国東北部、極東ロシアの沿海州・サハリンなどにまたがる朝鮮民族の移動と定住、アイデンティティの再編を、フィールドワークを交えた歴史・社会学的方法によって解明し、20世紀の東アジアに展開されてきた「コリアン・ネットワーク」の諸相を包括的に明らかにしたものである。

 本論文の特徴は、ネットワークの概念を方法論的な中心概念に据えつつ、その具体的な様態と変容を、植民地期、冷戦期、冷戦以後の三つの段階に即して明らかにしている点にある。本論文は、ふたつの部分から構成されている。

 第一部では、「メディアのコリアン・ネットワーク」をテーマに、植民地期の観光視察や巡回講演、音楽巡演や映画上映会、各種イベントや新聞が取り上げられ、それらが帝国の空間を越境しつつ広がっていく様子が分散型のネットワーク形成として明らかにされている。さらに、冷戦期において、集権的な分断国家の成立にもかかわらず、そのような国民国家の境界を越えて様々な「コリアン系マイノリティ」のネットワークが形成されていった様子を、極東ロシアの沿海州やサハリンと朝鮮半島との間のネットワークや、中国東北部の朝鮮族と韓国との間のネットワークの具体的な諸相に即して明らかにされている。そして第一部の締めくくりでは、冷戦崩壊後、にわかに活況を呈するようになった「コリアン系マイノリティ」の様々な越境的なメディアのネットワークが、ラジオや衛星放送、インターネットなど介してどのように形成されていったのかが具体的な事例に沿って明らかにされている。

 第二部では「越境と故郷の再生、アイデンティティの変容」をテーマに、越境的な移動と定住の諸相に光を当て、「コリアン系マイノリティ」がどのようにして新たな「故郷」を再生しつつ、ネットワーク的な結びつきを形成していったのか、その具体的な諸相を、中国東北部の朝鮮族や極東ロシアの沿海州の「高麗人」さらに済州島と繋がる「在日コリアン」などを取り上げながら、明らかにされている。とくに、この部分では、冷戦崩壊後、決定的に大きな存在として浮上することになった韓国とのネットワーク形成が、中国東北部、沿海州、サハリン、さらに日本などに越境し、定住する「コリアン系マイノリティ」のアイデンティティの変容と関連して具体的に明らかにされている。

 このように本論文は、20世紀の東アジアに形成されてきた「コリアン系マイノリティ」の様々な結びつきをネットワークの概念を通じて明らかにしようとした点できわめて独創的な研究である。ネットワークの概念をより精緻化していくことや、「コリアン系」と「非コリアン系」との関係をどう捉えるかなど、今後さらに取り組むべき課題が残されているが、先行研究の蓄積が乏しい研究分野を新たに開拓し、総合的かつ詳細に東アジアにおける「コリアン系マイノリティ」のネットワーク形成を明らかにした点で本審査委員会は、本論文が博士(社会情報学)の学位を授与するにふさわしい水準に達しているものと判断する。

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