学位論文要旨



No 121998
著者(漢字) 水野,明日香
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,アスカ
標題(和) 下ビルマ・デルタにおける稲作経済の繁栄と凋落 : 1860年代から1950年代まで
標題(洋)
報告番号 121998
報告番号 甲21998
学位授与日 2007.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第217号
研究科 大学院経済学研究科
専攻 経済史専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加納,啓良
 東京大学 教授 高橋,昭雄
 東京大学 教授 池本,幸生
 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 加瀬,和俊
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の課題は、19世紀半ば以降のイギリス植民地支配下でビルマの米輸出経済が興隆し、1930年代の変容を経て、独立後のビルマ政府が社会主義体制を採用するに至る過程を明らかにすることである。

 古典的なビルマ経済史研究では、独立後のビルマ政府が社会主義体制を採った起源は、植民地時代の経験に求められている。19世紀半ば以降のイギリス植民地支配下で、広大な密林地帯であった下ビルマのデルタ地帯は急速に開墾され、1930年代には約300万トンを輸出する世界最大の米輸出地帯となった。この開墾の過程で、ビルマ人農民は徐々に農地を失い、小作人や農業労働者に転落していったとされている。このような植民地時代の経済体制から脱却するために採用されたのが、社会主義体制であった。

 しかしながら、植民地期の下ビルマにおける農民の土地喪失が、いつ頃から、どの程度発生したのかは実は明らかにされていない。又、社会主義体制を採用するに至った過程についても、不明な点が多い。政治史研究においては、独立後の政権を担ったのは、植民地体制の中で富を築き、形成された層であるビルマ人中間層であったとされている。そして、そのようなビルマ人中間層が、社会主義思想を受容したことは「矛盾」であったと捉えられている。このような研究状況から、本研究は、植民地時代にビルマの農民はなぜ土地を喪失したのか、独立後に制定された社会主義体制の根幹を成す政策は、どのように形成されたのかという二点を論文全体の大きな問いとする。

 全体は4部で構成される。第I部では、イギリスによる下ビルマ領有後の1860年代から1880年代までを、稲作経済の揺籃期として扱い、第I部1章では、イギリス植民地支配下で、米の輸出が増加し、籾の価格が上昇したことに刺激され、デルタの開墾が進んだことを確認する。2章では、デルタの開墾にあたり、イギリス植民地政府が採った土地政策を、地租制度の改革過程に沿い、検討する。ここでは、イギリス植民地政府は、開墾を促進しながら、自作農を育成することを基本的な方針として、様々な土地政策を実施したが、実際に土地政策を運営したのは、当時、地税の徴収を行なっていたダヂーであり、植民地政府が当初意図した自作農の育成は果たされなかったことを明らかにする。

 第II部では、稲作経済が最盛期にあった1890年代から1920年代までの、籾価格の推移(3章)とそのような時代背景の中での農村部における変化を明らかにする(4章)。4章においては、一村落区、マウービン県のンガヂーガユェッ村落区を事例として取り上げ、上述の第一の問いである農民が土地を喪失した過程を検証する。同村落区では、開墾当初から土地を取得したのは、農業従事者であっても自作農ではなく、20世紀の初頭にかけて、彼らは小作料として得た籾を携えて、商業に進出したこと、農業従事者と非農業従事者は通常理解されるように明確に分かれた存在ではなく、又、系譜的にもつながりを持っていたこと、「農民」の土地喪失は商業への進出と関係して起こったこと等を明らかにする。

 1930年代から独立までの稲作経済の変容を扱う第III部では5章では、世界恐慌下で、籾の価格は大暴落し、さらに、1930年代には輸出市場の狭隘化、タイ、インドシナとの競争の激化にも見舞われ、ビルマの米輸出経済は1930年代に決定的に変容したことを論じる。その上で、第二次世界大戦中の1941年には、米管理庁の設立、土地買い上げ法など米の生産、流通に政府が大きく介入する政策が相次いで打ち出されたことを述べる。続く6章では、これらの政策の策定を下から支えた、この時期の農村部における変化を明らかにする。すなわち、籾の価格が大きく低下した1930年代には、地主にとって、大規模な土地を所有する意義はもはや薄れたこと、又、インド人金貸しカーストのチェティヤーが、回収が不可能な債権の代償として、大量の土地を抱え込むことになったことを明らかにする。

 1948年の独立から1950年代までを扱う第IV部では、独立後のビルマ政府が植民地時代の政策を引き継ぎながら、一定の改変を加え社会主義体制の建設を進めたことを、1948年農地国有化法の内容の分析と国家農産物販売庁の機能から明らかにする(7章)。8章では、農地国有化法によって、植民地時代に形成された土地制度が清算され、社会主義体制の基礎付けが行なわれたかを、これまでも見てきたンガヂーガユェッ村落区の事例に即して明らかにする。第III部と第IV部は、上述した第二の問いである社会主義体制下の政策の起源について論じる部分である。

 本研究の最大の特徴は、米輸出、米価といった稲作経済全体の変化に応じて、農村部で生じた変化を一村落区に焦点を当て、考察することである。資料の中でagriculturist総称される人々の多様性を析出するためである。又、資料が豊富ではなく、それを読み解くための前提となる社会経済史的背景に関する情報も十分ではない研究状況において、これらの不足を聞き取り調査によって補いたいと考えたからである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、19世紀半ば以降のイギリス植民地支配下でビルマ(現ミャンマー)の米輸出経済が興隆し、世界大恐慌後の1930年代の変容を経て、1948年に独立を達成した後のビルマ政府が社会主義体制へと向かうまでの過程を、輸出向け稲作の中心地域であった下ビルマのイラワディ川デルタ地域農村の事例に即して明らかにすることを目的に執筆された。各章ごとの主な論点は次のとおりである。

 まず序章では、論文全体の課題、構成、方法が説明される。1963年に軍が政権を掌握して「社会主義へのビルマの道」を宣言してから1988年までビルマは社会主義体制下にあったが、その起源を明らかにすることが論文全体の課題であると述べたうえで、さらに次の2つの問題が提起される。第1は、19世紀後半以降のイギリス植民地支配下での下ビルマの社会変容の特質である。著者はその核心を、輸出向け稲作の展開にともなう負債による自作農の土地喪失と地主への土地集中の過程に求めたうえで、土地喪失はなぜ発生したかが本研究の最初の問いであるとする。そのうえで、独立後に土地問題の解決のためにとられた政策を南ベトナムの場合と比較しながら、イギリスに対抗するナショナリズム運動のなかで「ビルマ人中間層」によって受容された社会主義思想が、独立後の1953年農地国有化法に代表される社会主義体制の根幹を成す政策へと結実していく過程を具体的に問うことが第2の問いとなる、と述べる。この2つの問いを解くため米輸出経済の変化(輸送経路、輸出の形態、米価)にもとづき、(1)1860〜80年代、(2)1890〜1920年代、(3)1930年代〜1947年、(4)1948年〜1950年代、の4期に時代区分を行い、一村落(マウービン県ンガヂーガユェッ村落区、以下NG村落区と略)の事例に焦点を当てて考察する、として本論文の構成(4部8章)と方法を説明する。

 第I部「稲作経済の揺籃期-イギリスによる下ビルマの領有から1880年代まで」は、米輸出の増加と下ビルマ・デルタの開墾について述べた第1章と、同地域におけるイギリス植民地政府の地租制度改革と土地政策を論じた第2章とに分かれる。まず第1章では、1860〜1880年代の間に開墾が急速に進んだことを主に二次文献資料から確認したうえで、その誘因がとくにヨーロッパ向け米輸出の増加と籾価格の上昇であったことを指摘し、デルタの開墾が上ビルマからの移住民の手で上流のラングーン(ヤンゴン)周辺から沿海部の感潮デルタへと進んだ様子が統計的に確認される。

 次いで第2章では、1850〜1890年代までの地租制度の改革過程が扱われる。当初イギリス植民地政府は王朝時代の課税方法を踏襲し、英語でサークルと呼ばれた行政区画の長であるダヂーを通じた徴税を行った。しかし、地租の賦課単位は犂や役牛の数から収穫面積へと変更され、ダヂーは土地測量を義務づけられるようになったが、実際は正確な測量はまだ実施困難だった。さらに1860年代後半には、作付面積や収穫面積にかかわらず一定の額を課税する固定算定制への移行を推進するため、地租査定を行った土地に対して数年間の借地契約を結んで借地権保有者に政府に対する定額の地代の納入を義務づける「借地制度」も導入されたが、正確な測量の実施がはかどらず1875年には廃止された。その後1876年に「下ビルマ土地・租税法」が制定され、これにもとづいて(1)測量、(2)課税台帳の作成、(3)1エーカー当たりの課税額の算定、という手順による地租査定事業が実施され、開始から10年足らずの短期間にデルタ全体で完遂された。しかし、このように迅速に実施しえたのは、ダヂーがすでに作成していた地租算定簿を元に課税台帳を作成したからで、実際の査定作業は原則どおりに行われなかった可能性が高いと著者は推測し、NG村落区について残されている課税台帳の分析からそのことを傍証している。

 第II部「最盛期の稲作経済-1890年代から1920年代まで」は、この時期の籾価格、輸出、生産統計を検討した第3章と、NG村落区の「農民」像を描いた第4章から成る。第3章ではまずラングーンにおける船荷籾の価格の年次推移を検討してそれが全体として上昇傾向にあったことを確認したうえで、その要因が堅調な輸出需要とそれに支えられた籾の投機的取引であったことを指摘する。とくに第一次大戦中から戦後にかけては投機が過熱したため、イギリス植民地政府は籾価格と輸出量の統制によってそれを抑えようとしたが失敗に終わる。そのため、1921年にはヨーロッパ系大規模精米所の間でプールが形成されて籾価格は高値で安定するようになった。大規模精米所が政府に圧力を加えて籾の生産統計を低めに操作し、投機の過熱を抑制しようとしたことからも分かるように、プールの目的は従来言われてきたような籾価格のつり上げではなく暴騰の抑止であったというのが著者の主張である。

 続く第4章は後の第6章とともに本書の核心とも言える部分で、最初に自作農の土地喪失と非農業従事者への土地集中に関するファーニバルとアダスの先行研究が検討され、農民の土地喪失がいつ頃から発生したのか統計的には明らかでないこと、そのためには土地記録局に残された資料の検討が必要なことが指摘される。ついでそのような資料の具体例としてNG村落区について1894年、1903年、1912年に作成された3つの土地課税台帳がとりあげられ、その比較分析により、村落レベルで土地所有関係の変化の事例を示すとともに、そこに浮かび上がる「農民」像の検証が試みられる。まず1894〜1912年には非農業従事者への土地集中が最も急激に進んだことが確認されるが、1894年時点で村落内の土地所有者の約半数はすでに不耕作地主であるうえ、農業従事者と非農業従事者の概念的境界もじっさいには不鮮明であった。これに対して1912〜1929年は、全体としては階層格差の大きな変化はなかったが、個々の土地所有者の浮沈については激しい変動が見られた。史料の分析から明らかになるのは、早くからNG区の「農民」すなわち耕作者の多くが比較的経営規模の大きい小作人であり、時期が下るにつれその耕地借入規模が拡大する傾向にあったことである。こうした実態は「高率の小作料に苦しみ、貧窮に沈む小作人像とは合致しない」と著者は述べている。

 第III部「稲作経済の変容-1930年代から1947年まで」は、この時期の米輸出と政府の米管理政策の推移を述べた第5章と、同じ時期のNG村落区における変化を農村社会変動の事例として追跡した第6章から成る。第5章ではまず、1930年代の世界不況のもとでビルマ米の価格も下落し、それがビルマ人農民の土地喪失とインド人金貸カーストのチェティヤーによる土地集中をいっそう促進したという既存研究があるものの、米の輸出量自体はインド向けの増加によりむしろ拡大したため、1930年代の稲作経済全体の変化への関心が薄いことが指摘される。そのうえで籾価格の推移を検討して価格の低迷が従来考えられてきた以上に深刻であったこと、中国、海峡植民地、蘭印への輸出減少と仏印、タイとの競争激化、インドからの分離(1937年)による関税問題の発生など、ビルマの稲作経済の国際環境は1930年代に激変したことが強調される。第二次大戦中の1941年における米管理庁設立と、地主からの土地収用と耕作者への分配を定めた土地買い上げ法の制定(施行には至らず)は、こうした変化への対応の結果であり、大戦後の独立ビルマ政府に引き継がれる内容を備えていたというのがここでの著者の主張の要点である。

 ついで第6章では、土地課税台帳と小作人台帳を手がかりにNG村落区における1930〜1940年代の変化が検討される。まず土地課税台帳に記載された受戻権喪失手続きの執行状況の確認により、チェティヤーへの土地売却は1931年にピークを迎えたのちしだいに減少し1935年に収束したことが明らかにされる。たしかにチェティヤーの土地所有面積は増加したものの、「回収の見込のない債務の代償として、価値が著しく低下した農地を抱え込むようになっていた」というのが実情である、と著者は主張する。次に1934、35年の小作人台帳の分析から小作面積の全般的縮小傾向が検出されたうえ、1935年以降は土地取引そのものが減少し、1937、39年には地税の滞納による政府の土地差し押さえすら起きていたことが明らかにされる。この時期には籾価格の低下のために耕作が放棄される農地も現れており、「地主による土地所有の衰退」がすでに始まっていた。そして1940年代にはこの傾向がいっそう顕著になり、分割相続による地主所有地の縮小と農業従事者による土地所有の微増さえ見られたという。つまり、「地主にとっても、大規模な土地を所有する意義はもはや薄れつつ」あり、それを解体する必要は農村の内部でも発生していた、というのがこの章の結論である。

 第IV部「独立後の稲作経済の凋落-1950年代まで」は、農地国有化法の制定と国家農産物販売庁の機能変化を論じた第7章と、NG村落区における農地改革の実施事例を検証した第8章とに分かれる。第7章ではまず、農地改革実施の根拠となった1953年農地国有化法が検討される。同法は、水田については、農業従事者世帯が所有する50エーカー以下のそれを除いてすべて国家が収用し、土地をもたない農業従事者世帯に対して1世帯あたりダドーントゥンずつ、つまり「一丁のまぐわを引く役牛一対で耕作可能な面積」を配分するとした。この配分原則は、日本、韓国、フィリピンなど第二次大戦後のアジア諸国で行われた農地改革とも、革命後中国の土地改革とも異なる独自のものであるが、それは植民地期の1941年土地買い上げ法に定められた「経済的ホールディング」という概念を継承するものであると著者は主張する。他方、1953年農地国有化法は農地の抵当、売却、その他の譲渡を禁止し、文字通り農地の国有化を実現しようとした点で土地買い上げ法とは異なっていた。地主を排除し、農業から得られる利益を国家が工業化のために活用することが立法の目的だったからである。こうして、農地改革と軌を一にして実施されたのが、独立以前からあった国家農産物販売庁の機能強化による米輸出の国家独占であった。これは農民からの籾買い上げ価格と輸出価格の差から生ずる利益を国家が取得するという、農民への「インプリシットな課税」(レヴィン)に他ならなかった。しかし、ビルマ政府は1953年以降の米の国際価格の動向を見誤って高値での輸出に固執したうえ、農民からの買い上げ価格は1948年から1960年まで据え置きのままにして生産意欲を阻害したため、米の生産も輸出も停滞を招く結果となった。

 最後の第8章では、「植民地時代の土地制度の清算と社会主義経済の基礎付け」としての農地改革が実際にどう行われたかが、NG区の事例によって明らかにされる。ここでは1954〜55年に村落区単位に設置された農地委員会の手で改革が実行された。実際に農地委員に就任したのは、小作人の有力者から成る6人であった。土地収用の対象となったのは、計43人が所有する水田約1,500エーカーである。それは、ダドーントゥンに該当すると考えられた一定面積、すなわち優良地で8.5エーカー、劣等地で10エーカーに分割され、各農家世帯(単身者世帯を除く)へ平等に配分された。その結果、世帯間の耕作規模は均等化したが、各世帯が所有する役牛数と分配された耕地面積の間には不適合が生じることにもなった。また、大規模小作人からは耕作面積の縮小に大きな抵抗があり、例外的に14エーカー以上の分配を受ける世帯も見られた。ともあれ、NG区のように農地改革が実施された地域では、不耕作地主が消滅し原則として耕作規模の等しい農民が政府の手で創出されたことの意義は大きいと著者は評価する。かくして、1963年以降ネーウィン政権下で急速に進められる経済の社会主義化の基礎付けは1950年代に行われたというのが、終章で要旨がまとめられた本論文全体の結論でもある。

評価と結論

 本論文は、次の点で現代ビルマ経済史研究に新たな知見を加えたものとして高い評価に値する。

 (1) イギリス植民地期のビルマ、ことに輸出向け稲作農業が顕著な発達をとげた下ビルマのデルタ地域の社会経済史については、つとにJ. S. ファーニバル(『ビルマ政治経済序説』第3版、1957年刊)、チェン・シオック・フワ(『ビルマの米産業 1852〜1940年』1968年刊)、M. アダス(『ビルマ・デルタ-アジアの稲作フロンティアの経済発展と社会変容 1852〜1941年』1974年刊)の先行研究があり、新開耕地の消滅と負債による農民の土地喪失、チェティヤーなど不在地主への土地集中の問題をめぐって論議が重ねられてきた。しかし、土地記録局に残された地方資料、とくに土地課税台帳の分析によるその具体的解明はこれまでほとんどなされていなかった。地租制度改革過程を検討したうえで事例としてのNG区の土地課税台帳のデータを詳細に分析し、土地喪失・集中の過程を個別具体的にクローズアップさせたことは、本論文の第1の功績と言えよう。

 (2) その結果、19世紀末から1910年代初めにかけて非農業従事者への土地集中が最も急激に進んだことが確認されたものの、この期間の最初の時点で土地所有者のかなりの部分がすでに不耕作地主であったこと、商業活動に手を染める農民や逆に農業従事者に転身する商人が多数いて農業従事者と非農業従事者のあいだの境界は実際にはあいまいであったことも明らかにされた。これは、商人への負債から自作農が土地を手放して小作人に転落するという通説的理解に見直しを迫る発見で、本論文の第2の功績と評価できる。

 (3) 第3に本論文は、価格低迷と輸出市場逼迫により1930年代のビルマの稲作農業が陥った危機がきわめて深刻であったこと、農地の多くがますます金貸の手中に集中したのは事実だが農地の資産価値そのものの低下の結果、地主の土地所有の形骸化が進んでいたこと、こうした事態に政策的に対応するため、米管理庁設立による米の流通統制と土地買い上げ法制定による農地改革の準備がすでに、植民地政府により行われていたことを明らかにした。これは、植民地期から独立後への歴史的変化を連続した流れの中に位置づける視点を提起したものとして重要であろう。

 (4) 以上を踏まえて最後に本論文は、独立後の農地改革立法と米輸出の国家独占政策が、植民地期最末期の政策を継承していること、従来は不徹底に終わった試みとして概説的に語られるだけだった1950年代の農地改革の実像を村落レベルの事例に即して研究し、それが1960年代の社会主義化への基礎付けとなったことを解明して、独立後にまで至る現代ビルマ経済史の変化のなかの連続性を説得的に解明した、と評価できる。

 だが本論文には、次のような問題点も残されている。まず、本論文のテーマがビルマの稲作経済全体の歴史的変化を論じようとしているにもかかわらず、実際の考察対象が国土の全体ではなく下ビルマのイラワディ川デルタ地帯だけに限られていることである。これは資料上の制約の他に、輸出向け稲作がもっぱらこの地域で営まれたという事情によると思われるが、本論文で得られた知見がビルマ全国の動きとどのように関係し位置づけられるのか、もう一歩踏み込んだ説明を聞きたいところである。第2に、「稲作経済」を主題に掲げながら土地所有と小作関係の考察に終始していて、農業経営の分析がほとんど欠落していることも不満が残る点である。第3に、農民の土地喪失はなぜ発生したか、という本論文全体の柱のひとつとなるべき問題に詳細な実証研究によって答えようとしたにもかかわらず、論理的に明快な解答が出せたのかどうかにもやや疑問が残る。また、本論文の各章の記述の間には分量と精粗のばらつきがかなりあり、論文としての論理展開にもじゅうぶん詰め切れていない点があるという印象は否めない。

 とはいえこのような問題点は、先に述べた本論文の学術的功績を決して損なうものではない。本論文は、植民地期から独立後初期までのビルマの経済史を、従来用いられることのなかった史料を駆使し、農村レベルに視座を置いて一貫した流れとして再構成することに挑戦した意欲的な研究成果であり、著者が自立した研究者として研究を継続し、その成果を通じて学界に貢献しうる能力を備えていることを示している。以上の理由により、審査委員は全員一致で、本論文の著者は博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいと認定した。

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