学位論文要旨



No 121999
著者(漢字) 小森,和子
著者(英字)
著者(カナ) コモリ,カズコ
標題(和) 中国語を第一言語とする日本語学習者の単語認知処理に関する研究 : 同形語の処理過程を中心に
標題(洋)
報告番号 121999
報告番号 甲21999
学位授与日 2007.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第704号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,安月子
 東京大学 教授 岡,秀夫
 東京大学 教授 伊藤,たかね
 東京大学 助教授 藤井,聖子
 広島大学 教授 玉岡,賀津雄
内容要旨 要旨を表示する

 日本語の漢語には,日本語と中国語において,同じ漢字によって表記される同形語がある.文化庁(1978)の定義に従うと,同形語には,日中両言語で意味が完全に共有されている同形同義語(S語),両者に共通する意味(以下,共有義)があるが,どちらか一方の言語,または両方の言語に独自の意味(以下,独自義)がある同形類義語(O語),両言語の意味が完全に異なる同形異義語(D語)があり,さらに,O語は日本語と中国語のいずれの言語に独自義があるかによって,O語(1)(日本語にのみ独自義がある),O語(2)(中国語にのみ独自義がある),およびO語(3)(日本語と中国語の両方にそれぞれ独自義がある),と下位分類される(上野・魯, 1995).

 共有義と独自義の関係が複雑なこれらの同形語は,中国語を第一言語とする日本語学習者(以下,中国語L1L)にとって,学習や習得が難しいことが,対照研究や誤用分析等で明らかになった.しかし,これらの研究は,中国語L1Lの同形語の意味に関する知識の有無を測定するのみであり,L1の中国語とL2の日本語の心内辞書に貯蔵された漢語をどのように処理しているのか,処理において二言語の知識がどのように相互作用するのか,といった処理の過程を検討していない.また,心理学の分野では,二言語併用者(以下,バイリンガル)の単語認知処理に関する研究が盛んに行われており,その処理過程を説明するモデルがいくつか提示されているが,本研究が扱う中国語L1Lの同形語の処理過程は,過去のいずれのモデルでも上手く説明できない.

 そこで,本研究は以下のような3つの研究課題を8つの実験から検討する.

 課題1.中国語L1LのL2としての日本語の同形語O語(1)の認知処理において共有義と日本語独自義の活性化は異なるのか,それは日本語習熟度と関係があるのか,

 課題2.中国語L1LのL2としての日本語の同形語O語(2)とD語の認知処理において中国語義が活性化し,日本語の処理に干渉を及ぼすのか,共有義を持つO語(2)と共有義を持たないD語とでは,中国語義の活性化による日本語処理への干渉は異なるのか,それは日本語習熟度と関係があるのか,

 課題3.中国語L1LのL2としての日本語の同形語の処理過程を説明する新規モデルとして,どのようなモデルが妥当であるか.

 実験1では,日本語としてのO語(1)の単語認知処理が,共有義と日本語独自義とでどのように異なるか,を検討した.実験計画は,意義条件(共有義,日本語独自義,中立条件)を被験者内要因,習熟度条件(上位群,下位群)を被験者間要因とする,3×2の二元配置の反復測定で,実験方法は語彙性判断課題のプライミング実験である.実験の結果,上位群は共有義と日本語独自義の両方でプライミング効果が認められ,いずれの意味的表象も迅速に活性化されることが分かった.一方,下位群は共有義でも日本語独自義でも意味的表象の活性化が認められなかった.

 実験2では,実験1の結果を正当に評価するために,O語(2)を用いて中国語の単語認知処理過程を分析した.実験計画,および実験方法は実験1と同様である.実験の結果,上位群も下位群も,共有義でも中国語独自義でも,プライミング効果が認められた.このことから,L1の中国語では,書字的表象と意味的表象が相互に活性化することが示された.

 実験3では,実験1で下位群に共有義でもプライミング効果が認められなかった理由が,入力の問題か,出力の問題か,不明であるため,実験1のプライム語を中国語で呈示した場合に,プライミング効果が認められるのかを,分析した.実験計画,および実験方法は実験1と同様である.ただし,プライム語が中国語,ターゲット語が日本語の,L1→L2の実験である.実験の結果,上位群は,実験1と同様に,共有義でも日本語独自義でもプライミング効果が認められたが,下位群は共有義でも日本語独自義でもプライミング効果が認められなかった.このことから,下位群は日本語の書字的表象と意味的表象の相互活性化は,入力と出力の双方で,迅速ではないことが示された.

 実験4では,下位群の結果が知識の不足によるものではなく,活性化の問題であることを議論するために,O語(1)の共有義と日本語独自義の意味に関する知識を測定した.実験方法は,一文呈示の文正誤判断課題である.実験計画は,意義条件(共有義,独自義)×習熟度条件(上位群,下位群)の2×2の二元配置の反復測定である.実験の結果,日本語独自義については,上位群の方が有意に正答率が高かったが,共有義に関しては,上位群と下位群の間に有意差が認められなかった.このことから,下位群は共有義に関しては正しい知識を有しているが,活性化が迅速ではないため,処理が遅延するということが示された.

 実験5では,O語(2)を用いて,中国語独自義が日本語の処理に干渉的な影響を及ぼしているか否かを検討した.実験計画は,刺激条件(干渉語,非単語)を被験者内要因,習熟度条件(上位群,下位群)を被験者間要因とする,2×2の二元配置の反復測定である.実験方法は継時呈示の文正誤判断課題である.実験の結果,上位・下位両群共,干渉語で判断が遅延し,また誤答が認められた.このことから,下位群のみならず上位群でも,日本語のO語(2)の処理において,中国語独自義が迅速に活性化し,日本語の処理に干渉することが示された.

 実験6では,D語を用いて,実験5と同様の分析を行った.その結果,D語でも,O語(2)と同様の結果が得られた.ただし,O語(2)とD語の結果を直接比較すると,共有義のないO語(2)の方が,D語より干渉が小さいことが分かった.

 実験1から6までの結果から,同形語では中国語義の活性化が優勢であることが示された.しかし,翻訳相当語で中国語と日本語のいずれが優勢的に活性化するかを確認せずに,同形語の処理過程における中国語の活性化の優位性を議論できない.そこで,実験7と実験8とでは,同じ意味的表象を共有するが,日本語と中国語とで書字的表象の異なる,非同形語の翻訳相当語の処理を分析した.実験の方法は継時呈示の文正誤判断課題で,ターゲット語は文意に合うが,言語記号が正しくない漢字二字熟語である.実験計画は,刺激条件(適合語,非適合語,非単語)×習熟度条件(上位群,下位群)の反復測定である.実験7では,日本語文中に中国語のターゲット語が混入された文,実験8ではその反対の刺激文を,刺激とした.実験の結果,実験7でも,実験8でも,適合語の干渉が有意であった.このことから,翻訳相当語においては,L1とL2の書字的表象が意味的表象を媒介にして,相互に,対称的に活性化することが示された.

 以上の8つの実験の結果,以下のことが示唆された.

1.中国語L1Lの同形語O語(1)の認知処理において,L2としての日本語の書字的表象と意味的表象における相互活性化は,L2言語習熟度に依存する.これは, L2の書字的表象と意味的表象との結合が弱いことによる.

2.中国語L1Lの,L2としての日本語の同形語O語(2)とD語の認知処理において,L2言語習熟度に関わらず,中国語義の意味的表象が活性化し,日本語の処理過程に負の干渉を及ぼす.

3.共有義を持つO語(2)と共有義を持たないD語とでは,共有義のないD語の方が正しく処理されやすい.

4.中国語L1LがO語(2)やD語を処理する際に起こる中国語義の意味的表象の活性化の要因は,日本語の書字的表象(例:「輸入」)が中国語義(例:<input>)を活性化してしまうこと,また,下位群では,中国語義が,それに相当する日本語の書字的表象(例:「入力」)との間で活性化が起こりにくいことによる.

 さらに,本研究の結果から導き出される中国語L1Lの同形語の処理過程モデルとして,以下が提案される(図1).

 図中で示したように,同形語の処理過程においては,文脈との照合により意味決定を行うシステムの想定が不可欠である.本モデルにおける文脈照合システムの計算システムは,以下のパターンが想定される(表1).

 本研究は,図1のような新たな単語認知処理過程モデルを提示した.先行研究のモデルの多くは,L1とL2とで意味がほぼ一致している翻訳相当語や同根語(cognates)には説明力があるが,日中同形語のように,二言語間で意味的関係性が複雑な単語の処理に関しては,説明力に欠ける.また,先行研究では,超級レベルの学習者のみを対象としたものが多く,L2の習熟度の向上に伴って,処理の過程がどのように変化していくのか,検討していない.本研究は,こうした先行研究の不足やモデルの不備を補うべく,新たなバイリンガルの単語認知処理過程モデルを提示したという点で意義がある.

 さらに,これまでL2習得研究では,言語知識の有無を測定し,その結果に基づく分析や記述が多かった.こうした研究では,L2学習者が当該単語を処理する過程で,その心内で何が起こっているのかを明らかにすることはできない.知識の習得を妨げる,または,誤用を引き起こす要因を検討するべく,心理学的手法を用いた研究は,L2の言語知識の処理のメカニズムを明らかにするものであり,L2習得の基礎理論研究に資すると考える.

図1 本研究の実験結果が示唆する同形語処理過程モデル

表1 文脈照合システムにおける二値的計算のパターン

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「中国語を第一言語とする日本語学習者の単語認知処理に関する研究-同形語の処理過程を中心に-」は,中国語を母語(以下L1)とする,第二言語(以下L2)としての日本語学習者を対象に,日本語と中国語で同じ漢字で表記される日本語の漢語(以下同形語)に関する一連の実験を実施し,中国語を母語とする日本語学習者の同形語の単語認知処理過程のモデル化を試みたものである.

 本論文は全7章から成る.第1章は,L2習得の単語認知処理研究に占める,本研究の位置と概要の記述に充てられる。基本概念に操作的定義を施し,「同形語」に加え, 同形語に共通する意義を「共有義」,同形語のいずれかにしか認められない意義を「独自義」とし,単語認知処理過程に関わる符号として,書字,音韻,意味の情報が処理過程で変換される形式を「表象」とした.

 第2章では,日本語教育での同形語習得研究の現状と課題を論じる.また,バイリンガルの単語認知処理研究を概観し,先行研究で提示された単語認知処理モデルの問題点を指摘した上で,以下3点を研究課題とする.

 課題1は,日中共有義と日本語独自義を有する同形語(以下O語(1))の認知処理における,共有義と日本語独自義の活性化の異同及び日本語習熟度との関係の解明;課題2は,共有義と中国語独自義を有する同形語(以下O語(2))と共有義を持たない語(以下D語)の認知処理における,中国語独自義の活性化による処理への干渉の有無,中国語義の活性化による日本語処理への干渉の異同,及び日本語習熟度との関係の解明;課題3は,中国語L1学習者のL2としての日本語同形語の処理過程を示す妥当なモデルの構築である.

 第3章から6章では,上記課題解決を目標に,周到に計画された8つの実験を詳述し,結果が示唆する中国語L1学習者の同形語の認知処理過程を論じる.

 まず,第3章では,2つの実験を記述し,結果を考察する.実験1は,日本語のO語(1)の単語認知処理が共有義と日本語独自義とでどのように異なるかを見るための,語彙性判断課題によるプライミング実験である.実験計画では,意義条件(共有義,日本語独自義,中立条件)を被験者内要因とし,習熟度条件(上位群,下位群)を被験者間要因とした.実験結果から,上位群は,共有義と日本語独自義両方でプライミング効果が認められ,いずれの意味的表象も迅速に活性化されるが,下位群は,共有義でも日本語独自義でも意味的表象の活性化が認められなかったと論じる.

 実験2は,O語(2)の中国語の単語認知処理過程に迫ることを目的とする.実験計画,実験方法ともに実験1に準じる.結果から,上位群も下位群も,共有義,中国語独自義ともに,プライミング効果が認められ,L1の中国語では,書字的表象と意味的表象が相互に活性化することが示されたと論じる.

 第4章では,第3章の結果に基づいた2つの実験を記述し,結果を考察する.実験3は、実験1のプライム語を中国語で提示した場合のプライミング効果の有無を測ることを目的とした.実験の結果,実験1同様,上位群は,共有義でも日本語独自義でもプライミング効果が認められたが,下位群はいずれもプライミング効果が認められなかったことから,下位群は日本語の書字的表象と意味的表象の相互活性化が,入力と出力の双方で,迅速ではないと論じる.

 実験4は,下位群の結果が知識不足によるものか活性化の問題かを明らかにすることを目的に,O語(1)の共有義と日本語独自義に関する知識を,文正誤判断課題で測った.結果は,日本語独自義は,上位群が有意に正答率が高く,共有義は,上位群と下位群の間に有意差が認められないというもので,ここから,下位群は共有義に関する正しい知識を有していても活性化が迅速でないため,処理が遅延することが示されたと論じる.

 第5章では,さらに2つの実験を記述し、結果を考察する.まず、実験5では,O語(2)を用い,中国語独自義が日本語の処理に干渉的な影響を及ぼしているか否かを検討した結果,上位群も下位群も共に,干渉語で判断が遅延し,誤答が認められた.この結果から,下位群だけでなく上位群でも,日本語のO語(2)の処理において,中国語独自義が迅速に活性化し,日本語の処理に干渉することが示されたと論じる.

 実験6は,実験5と同様の分析をD語を用いて行った.その結果,D語の場合も,O語(2)と同様の結果が得られたとするが,実験5の結果との直接比較から,共有義のないO語(2)の方がD語より干渉が小さいと結論する.

第6章では,翻訳相当語を用いた補足実験7と8を記述する.これらは,実験1から実験6の結果が示唆する,同形語では中国語義の活性化が優勢であるということを確認するために行った.

 実験7と実験8は,日本語と中国語で意味的表象は共有するが,書字的表象の異なる非同形語として,翻訳相当語の認知処理を測ることを目的とした.文正誤判断課題を実験方法として,ターゲット語には,文の意味に合うが書字が異なる漢字二字熟語を用いた.実験7では,日本語文中に中国語のターゲット語が混入された文,実験8ではその反対の刺激文を用いた.その結果,いずれの場合も,文の意味との適合語の干渉が有意であったとする.この結果から,翻訳相当語では,L1とL2の書字的表象が意味的表象を媒介にして,相互に対称的に活性化することが示されたと論じる.

 第7章では,以上の結果をまとめ,3つの研究課題に回答を与える.まず,課題1について,同形語O語(1)の認知処理では、L2としての日本語の書字的表象と意味的表象における相互活性化がL2習熟度に依存すると結論づける。また,課題2について,同形語O語(2)とD語の認知処理では、習熟度に関わらず,L1語義の意味的表象が活性化し、L2の処理過程に干渉を及ぼすことが明らかになったとし,共有義のないD語がO語(2)より正しく処理されやすいと結論づける.そこから課題3への回答として,中国語L1の日本語学習者による,同形語の認知処理過程モデルを提案した.最後に,さらに精緻化した実験に基づいた本研究の提示モデルの実証が今後の課題であると述べている.

 以上が本論文の概要である.中国語をL1とする日本語学習者の同形語の習得に関して,認知処理過程に焦点を当てた研究は少なく,その意味で,本研究の当該研究領域への貢献と学問的意義は大きい.とりわけ,本論文が提示する,同形語の単語認知処理過程モデルは,先行研究が提案する種々の単語認知処理モデルが扱わなかった,二言語間で意味的関係性が複雑な単語の認知処理に一定の説明を与えることができることから,バイリンガルの単語認知処理過程に新たなモデルの可能性を示唆した点に意義があり,今後の著者の研究成果が大いに期待される.

 とはいえ,改善の余地が無いわけではない.審査では,本研究が提示する単語認知処理過程モデルについて,いくつかの指摘がなされた.まず,本実験から得られた単語認知処理過程モデルに基づく理想モデルが提案されているが,それがL2習得の最終ゴールとなるのか,意味拡張と見られる共有義と独自義の習得過程に,何らかの説明を与えることが出来るか,L2の習得過程への具体的な示唆があるか等である.また,最後に,理想的処理モデル図について,共有義の存在が及ぼす影響についてどのように説明されるか,分散型であることが適切に表現されていないのではないか,L1からL2への干渉に抑制リンクを想定した方が良い等、今後の改良に向けた具体的な指摘があった.

 しかし,これらの指摘は,本研究の根幹を左右するようなものではなく,また,多くは著者の将来の研鑽に期すべきことがらであり,本論文の大きな学術的貢献をいささかも損なうものではない.

 以上の理由により,本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する.

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