学位論文要旨



No 122002
著者(漢字) 森,修一
著者(英字)
著者(カナ) モリ,シュウイチ
標題(和) 湯の沢部落と日本のハンセン病政策 : 自由療養地研究と医学の進展を中心として
標題(洋)
報告番号 122002
報告番号 甲22002
学位授与日 2007.03.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第707号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 助教授 岡本,拓司
 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 助教授 野矢,茂樹
 東京大学 助教授 市野川,容孝
内容要旨 要旨を表示する

 日本のハンセン病政策は明治40(1907)年の法律第11号「癩予防ニ関スル件」による浮浪する患者の収容政策に始まり、その後、大正、昭和の隔離世論の高まりの中、昭和6(1931)年の全患者収容を目指した「癩予防法」の成立により確立し、戦後の「らい予防法」に継続されたといえる。今日のハンセン病政策研究からは、それは、全患者収容、生涯隔離、社会防衛、患者の人権軽視という複数の言葉に形容され得る日本独自の絶対隔離政策であり、結果、多くの悲劇が生じたのだと説明されている。しかし、日本のハンセン病政策は本当に独自のものであったのか、絶対隔離政策の進展の要因は何であったのかという疑問に明確に答え得る研究は少なく、かつ、曖昧である。本研究はこれらの疑問に対し、日本で唯一のハンセン病患者の自由療養地であった湯の沢部落の実態解明と日本のハンセン病医学の進展の要因の研究を中心に、その二者の関わりを含めて、日本の隔離政策の独自性と世界の政策との共通性の検証、絶対隔離政策の進展の要因などを明らかにしようとするものである。

明治以前から隔離政策の開始期(-1912年)

 ハンセン病患者の隔離政策は、その起源を中世欧州に求めることができる。それは、キリスト教による宗教的隔離であった。19世紀末、ドイツのメーメル地方でハンセン病の流行がおきた。これを受けて、ドイツ医学界は俊敏に対応、明治30(1897)年、ルドルフ・ウィルヒョウが中心となり、ベルリンで「第一回国際らい会議」が開催され、ハンセン病は感染症であることが認められると共に、世界の医学者、行政官などにハンセン病患者の隔離が呼びかけられた。日本からは、欧州留学中であった土肥慶蔵が出席した。この後、世界各国は公衆衛生政策としてのハンセン病隔離政策を実施して行った。

 明治の始め、日本では医学教育制度の創設が始まり、近代医学の成立を目指した動きが加速され、その最初に、国家としての急務であった公衆衛生政策が進められた。この様相の中、明治34(1901)年、東京帝国大学皮膚病黴毒学講座教授 土肥慶蔵、警察医長 山根正次などの医学者により、ハンセン病患者の隔離が提唱された。

 明治初期、群馬県草津温泉はその大火からの復興にあたり、ハンセン病への効用を宣伝し、全国から患者の流入が増加した。それはやがて、草津温泉の発展への危惧となり、明治20(1887)年、草津町は温泉街からの患者の分離を目的とし、温泉街と隣接した湯川の下流に行政区湯の沢を設置、ここにハンセン病自由療養地湯の沢部落が誕生する(自由療養地は隔離の一形態で、特定地域に患者を集め、患者による自治を認め、穏やかに隔離を行おうとするものである)。この後、湯の沢には、ハンセン病患者の流入が増加し、温泉治療を行うハンセン病患者を対象とした宿屋業が盛んとなった。

 日本の絶対隔離政策推進の中心人物とされる光田健輔は、明治期から、全国のハンセン病患者部落を行脚し、湯の沢部落にも大きな関わりを有していた。湯の沢部落に対する光田の見解は、明治後期は隔離地域としての湯の沢部落の是認、大正期末からはその解散、住民の療養所への収容へと変遷して行くが、その要因は、自由療養地湯の沢部落の実態、世界のハンセン病医学の見解、日本に於ける近代医学成立の時代背景、日本の近代化を目指す人々の意見、世論の変遷などであった。

 光田は土肥、山根と親しく、土肥は医学教育を通じて、山根は帝国議会への働きかけにより、光田は渋沢栄一などの財界人、政界人への啓蒙を通して、ハンセン病予防法の成立を訴えていった。この結果、政府は明治40(1907)年、「癩予防ニ関スル件」を制定、本法は明治42(1982)年に施行され、全国に療養所が設置されると共に浮浪する患者の隔離が始まった。本法施行にはロベルト・コッホとその弟子、北里柴三郎の影響も大きかった。

 明治42(1909)年にはノルウェーのベルゲンで「第二回国際らい会議」が開かれ、日本からは北里が出席した。本会議以前、世界の隔離は自由療養地への隔離と療養所を中心とした隔離が並立していたが、本会議以後、自由療養地隔離は否定され、世界各国では患者の強制隔離と療養所への入所を含んだ絶対隔離政策が実施されて行った。

絶対隔離政策の進展期(1912-1926年)

 大正12(1923)年、フランスのストラスブールで「第三回国際らい会議」が開かれ、日本からは光田健輔が出席した。本会議では療養所からの回復患者解放制度である「パロールシステム」の審議も行われた。その後、「パロールシステム」は再発率の高さ故に否定され、絶対隔離政策が強化されていった。

 大正5(1916)年には、光田、山根などの医学者を中心に「内務省保健衛生調査会第四部会」(調査会)が発足し、日本のハンセン病政策について世界の医学の動向、世界の隔離政策の研究を含んで討議を開始した。調査会は大正6(1917)年、国立療養所を設け、患者一万名を収容することが必要であるとの見解を示し、絶対隔離政策を提言した。しかし、患者たちの自由療養地を望む声は大きかった。

 湯の沢部落では、大正6(1917)年、コンウォール・リーによりハンセン病患者救済事業、バルナバ・ミッションが開始された。この時期、湯の沢部落は名望家、知識人の患者を中核とし、住民の意思統一が可能な高度な自治システムを確立、大正11(1922)年、帝国議会に対して、湯の沢部落に国策としての自由療養地認定を求める建議を行った。この後、帝国議会では自由療養地議論が続き、湯の沢部落の検証を中心に自由療養地隔離が検討されて行った。しかし、医学的見地から感染予防上の不利、地理的な拡張の限界などから不適と判断され、草津温泉の近くに温泉設備と自由療養区を設けた国立療養所栗生楽泉園の設置が提案された。

 大正期末、湯の沢部落では日本人キリスト教者による救済事業も始まり、安倍千太郎の草津明星団、三上千代による鈴蘭村などが設立された。光田も、「鈴蘭村」への支援を行い、それはやがて、世間へのハンセン病患者救済を促す活動へと発展し、患者救済の世論は高まって行った。

絶対隔離政策の確立期(1926-1945年)

 1920年代後半より、世界ではハンセン病の疫学研究が進展、感染源、感染経路についての知見が明らかになり始め、1930年代からは、ハンセン病研究の国際的統合が実現し、予防策、治療法の統一が模索され、世界では絶対隔離が確立していった。

 この時期、鈴蘭村による救済事業は衰退へと向かって行った。鈴蘭村は比較的裕福な患者を集め、農耕などに従事させ、心穏やかに隔離を行おうとする一種の自由療養地を目指すものであった。しかし、湯の沢部落で暮らす患者から「鈴蘭村」に入所する者はごく少数でしかなく、やがて、彼らも「鈴蘭村」から湯の沢部落へと戻って行った。昭和5(1930)年、「鈴蘭村」の運営は限界に達し、内務省社会局でその救済が話し合われ、民間救済の限界を確認すると共に、国立療養所の建設促進が意見された。

 昭和6(1931)年、本格的なハンセン病予防策である「癩予防法」が成立した。同年には日本初の国立ハンセン病療養所 長島愛生園が完成し、栗生楽泉園の建設が始まり、患者の収容能力は飛躍的に高まり、ハンセン病患者部落の強制解散、自宅で暮らす患者の強制収容が始まった。

 昭和15(1940)年、湯の沢部落ではバルナバ・ミッションが解散、翌年には群馬県より湯の沢部落に解散命令が下り、昭和17(1942)年、その56年の歴史を閉じ、多くの住民は「栗生楽泉園」へと入所していった。湯の沢部落の解散は日本における自由療養地隔離の否定と官民一体の絶対隔離政策が始まった事を示すものであった。

絶対隔離政策の継続決定期(1945-1953年)

 昭和18(1943)年、米国のファゲットにより、プロミンのハンセン病に対する劇的な薬効が報告された。しかし、プロミンは静脈内投与が必要であった事、その治療過程での副作用が大きく、施設内での入院治療が必須であった。1960年代からは、それまでハンセン病対策の主軸であった隔離に代わり、経口薬ダプソンを主体とした外来治療へと世界のハンセン病対策は変化していった。その政策の中心はWHOであった。その後、ダプソン治療の再発率の高さ、新薬リファンピシンの限界も明らかとなり、昭和56(1981)年、WHOはダプソン、リファンピシン、クロファミジンの3剤を利用した多剤併用療法(MDT)を提唱、その後、MDTは世界のハンセン病を激減させて行った。

 日本では、昭和21(1946)年、東京大学薬品分析化学講座 石館守三が国産プロミンの合成に成功、同年から東京大学医学部皮膚科、多摩全生園、長島愛生園などで治験が始まった。昭和23(1948)年以降、本格的なプロミン治療が開始され、多くの患者が回復して行った。しかし、昭和28(1953)年、新法「らい予防法」は国会で賛成多数で可決・承認されるのであった。

 戦後の隔離政策維持の中で、療養所の患者自治組織として隔離政策と対峙し、プロミンの獲得、らい予防法闘争、患者の権利の確立などに果たした全癩患協の役割は非常に大きかった。本組織は栗生楽泉園での患者運動から生まれ、それは、湯の沢部落に連なるものであった。

 戦後、プロミンに始まるハンセン病の化学療法は、患者に隔離からの解放、社会復帰の希望を与え、医学者は化学療法の黎明期を手探りで進んでいった。この二者のコントラストは患者運動の形成、「らい予防法」の成立・継続という相反を生み、患者およびその救済に携わる人々に意見の相違をもたらした。この時代、未だハンセン病の夜明けは遠く、その道は険しく、社会悲劇は繰り返されていった。この後、患者運動の進展,ハンセン病医学の進歩,人権意識の高まり、世代交代などの諸要因の中で、「らい予防法」は平成8(1996)年に廃止され、ここに、明治40(1907)年に始まり、89年間の長きにわたる日本のハンセン病政策は終焉を迎えるのであった。

 今後は世界のハンセン病の歴史的実態の解明、ハンセン病政策と医学の関係などの詳しい考証がさらなる研究の課題であると考えられた。この過程から、日本のハンセン病政策進展の真相、光田健輔の実像などが明らかとなるであろう。それは、ハンセン病だけではなく、科学と社会、人権と社会など、現代が模索する命題へ新たな視野から解決策を提示するものでもあろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文の狙い

 平成8(1996)年、「らい予防法」が廃止された。本法律が成立したのは昭和28(1953)年である。すでに昭和23(1948)年、日本においても治療薬プロミンを主体とする本格的な治療がはじまっており、「らい予防法」による隔離政策は適切さに欠け、「らい予防法」の成立および継続は、人権侵害など多くの悲劇を生みだし、平成8(1996)年における廃止は遅きに失したものであった。

 「らい予防法」廃止を受けた形で、ハンセン病に関する人文学的・社会学的研究が2001年ころより相次いで発表されるようになった。本論文はこうした流れに棹さす研究である。先行する研究は、ハンセン病に関する医療政策の特徴を以下のようにまとめてきた。(1)日本におけるハンセン病に関する医療政策は世界的な趨勢に背を向ける独自なものであった。(2)日本においてそうした独自な政策が成立したのは、隔離政策の強力な推進者であった光田健輔なる人物の個性によるところが大きい。(3)日本におけるハンセン病に関する医療政策は、日本ファシズムおよび優生思想の発露として捉えることが適切である。

 本論文の狙いは、医学史のおける一次史料の再検討、および地域研究(area studies)の手法を導入することにより、先行研究における上記の概括を批判的に再検討し、新たなハンセン病政策史像を打ち立てることにある。具体的には、湯の沢部落で実施された自由療養地療法(という隔離政策)の全体像を明らかにし、次に医療政策者たちが湯の沢部落へどう関与したかを解明し、湯の沢部落という一地域への政策的関与から逆に日本におけるハンセン病医療政策の全体像を逆照射せんとする意欲的な試みがなされている。

本論文の構成

 森氏は、日本のハンセン病政策史と湯の沢部落(およびその出身者集団)の変遷に基づき、次のようなメルクマールを5時点設定する。(1)医学者・宗教家・財界人などを中心に、それまで放置されるのみであったハンセン病患者救済の動きがはじまり、また湯の沢部落が開村した明治20(1887)年、(2)世界的に相対隔離政策から絶対隔離政策への移行が進み、湯の沢部落が自由療養地としての地位を確立する明治45(1912)年=大正元年、(3)自由療養地よりも療養所が政策的に志向されるようになり、湯の沢部落が解散の道を辿りはじめる大正15(1926)年=昭和元年、(4)戦時下で国際的情報が入手できなくなり、「特別病室」への懲罰入室など、療養所の患者への扱いが悪化する昭和19(1944)年、(5)戦後再び世界の動向と協調をとりうるようになりながら、「らい予防法」が成立し、患者運動(その多くが湯の沢部落出身者であったと推定される)が展開されはじめる昭和28(1953)年。

 その上で、まず序章では、問題意識が表明され、先行研究のまとめと、地方自治組織としての湯の沢部落の概要が記される。その後、ハンセン病患者に対する世界レベルでの対応、日本における対応、湯の沢部落の動向が、明治9(1887)年以前(第1章)、およそ明治20(1887)〜明治45(1912)年=大正元年の25年間(第2章)、およそ明治45(1912)年=大正元〜大正15(1926)年=昭和元年の14年間(第3章)、およそ大正15(1926)年=昭和元年〜昭和19(1944)年の18年間(第4章)、そして、およそ昭和19(1944)〜28(1953)年の9年間(第5章)の各時期において分析される。最後に、これらの歴史的過程が総体的に捉え返した上で、結論が導かれる。なお、現時点におけるハンセン病の医学的知識と課題が付されている。

本論文の寄与

 森氏は、国際らい会議の討議内容を第1回から長期にわたり検討し、また日本からの参加者および日本への助言者がその後どういう政策を支持したかを、光田健輔に限らず、コッホ、東京帝国大学医科大学皮膚病黴毒学講座教授をつとめた土肥慶蔵および土肥一門、北里柴三郎、警察医長をつとめた山根正次など、主要人物について系統的に調査した。

 その結果、従前、日本は早くから独自のハンセン病政策をとったとされてきたが、かなり後期まで国際的動向と軌を一にしていることを明らかにした。また、日本独自の政策は、戦争等によって国際的動向が不明となることに相関があることを示唆した。さらに、相対隔離政策から絶対隔離政策への移行も国際的動向と軌を一にしており、日本の独自性は、確かに日本ファシズムおよび優生思想とかかわりがあるにしても、絶対隔離政策への移行までをも日本の独自性ととらえるのは無理があることも説得的に示した。これが第一の大きな寄与である。

 また、日本におけるハンセン病政策においては、光田の発言は、他の主要人物の意見と酷似しており、個人プレーというよりは、当時の医学者集団の総意であり、光田はその代表者として捉える方がより適切であることも解明した。これは、特異な人物が医療政策を「歪めた」わけではなく、当時の医療政策は当時の最善の医学知識に基づいた「妥当」なものであったことを示唆する。しかし、森氏はこれをもって、相対隔離政策から絶対隔離政策へと傾いた当時の医療政策判断を擁護するわけではない。日本におけるハンセン病政策の「誤り」は、特異な人物を責任者として指弾すれば済む問題ではなく、最善の医学知識に基づいてさえなお「誤り」うる性格をもつ深刻な問題であることを的確に指摘したものである。これが第二の大きな寄与となる。

 さらに、当初は一地域に注目するのは、そこから日本の医療政策全体を照射するための方法的仮設であったのだが、研究の結果、湯の沢部落は日本の医療政策の影響を一方的に受けたのではなく、医療政策の責任者もケーススタディとして湯の沢部落に注目しており、湯の沢部落の動向が日本の医療政策に影響を与えたことも鮮明にした。これは、医学史と地域研究の協働作業が実りあるものである可能性を示したものと言えよう。特に現代史においては、公害など、科学史的研究手法と地域研究の協働が必要とされる研究領野が確実に存在する。例えば、水俣病は、企業城下町と言われた水俣市の特異な性格と、科学技術政策のある段階が交錯した地平で生じた問題であり、こうした問題へのアプローチとして、科学史的研究手法と地域研究の協働が有効であることも本研究は示唆しているであろう。これが第三の大きな寄与である。

 上記以外にも、戦後における患者解放運動は、栗生楽泉園が主体となって行われてきたが、その多くが湯の沢部落出身者であること、したがって、自由療養地による療法を経験していたことが適切な医療政策を求める原動力になったこと、隔離政策は人権侵害と生活保護の両側面をもち、患者自身からも支持があったことを証拠とともに示すなど、新たな知見が随所に盛り込まれている。

審査委員からの指摘等

 医療政策において強制力をもつ法律が果たす役割は大きい。法律に注目した場合、ハンセン病対策は、明治40(1907)年の「癩予防ニ関スル件」(法律題11号)にはじまり、昭和6(1931)年の「癩予防法」を経て、昭和28(1953)年の「らい予防法」に至り、平成8(1996)年におけるその廃止で終結を見る。本研究は「らい予防法」の成立時までしか扱われていない点で、全体像を捉ええていないし、「らい予防法」がなぜ長期にわたり継続したかについても解明されていないことが指摘された。

 また、森氏は、昭和28(1953)年の「らい予防法」に大きな転換を認めるが、昭和6(1931)年の「癩予防法」にむしろ大きな政策の変更を認めるべきではないかという問題提起がなされた。

 次に、確かにある時期までは国際的動向に軌を一にしていたとしても、早期にも例えば大正5(1916)年の懲戒検束権の設定など、日本独自の(問題のある)施策はやはり見られるのであって、何が「国際標準」であり、何が日本独自であったかをより精査に解明すべきではなかったかという質問がなされた。

 第四に、ハンセン病の医学的側面については最後にまとめられているものの、主たる分析対象となるのは国際会議での議論などであり、病因論の進展などについて歴史的記述が弱いため、医学知識と医療政策の関連について、本論文のみでは全体像を再構成しえない憾みが残った点が指摘された。

 最後に、ハンセン病の性格と他の疾病の性格の違い、およびハンセン病政策と他の感染病政策の差、および政策の差と疾病の違いの相関についても、たとえば結核などと比較する視点があれば、ハンセン病政策史の特質がより鮮明になった可能性がある。特にハンセン病は相貌が変容するなど、疾病イメージ論の手法からのアプローチも重要ではなかったかとの示唆が与えられた。

 しかし、上記の指摘・質問・示唆は本論文の完成度が低いことを示すものではなく、今後の研究課題であると総括された。

結論

 以上、本論文は、ハンセン病の人文学的・社会学的研究に対し多くの独自な指摘および貢献をなしえており、審査委員全員から、博士(学術)に値すると評価された。なお、本論文中の湯の沢部落に関わる部分は、加藤三郎・横山秀夫・田中梅吉・兼田繁諸氏との共同研究であり、医療政策に関する部分は、石井則久・鈴木幸一諸氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究が推進されてものであり、論文提出者の寄与は十分であると判断する。

 よって本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位請求論文として合格と認定する。

UTokyo Repositoryリンク