学位論文要旨



No 122008
著者(漢字) 野村,晴夫
著者(英字)
著者(カナ) ノムラ,ハルオ
標題(和) 自己語りの構造と機能に関する心理学的研究
標題(洋)
報告番号 122008
報告番号 甲22008
学位授与日 2007.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,晴彦
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 助教授 西平,直
 東京大学 助教授 中釜,洋子
 東京大学 助教授 能智,正博
内容要旨 要旨を表示する

 自己についての語り(self-narrative:以下自己語り)には,近年,心理的適応性や生涯発達を担う機能が想定され,心理学領域の幅広い注目を集めている。本論では,これらの理論的に想定されてきた自己語りの機能が,人々の実際の語りのなかに,どのように現れるか検討することを目的とした。そのために,臨床心理面接を例にとり,自己語りの機能が具現化した様相を記述し,語りの構造という観点の有用性を示した上で,高齢者を対象とした生活史面接によって,自己語りの構造と機能との連関を吟味することを試みた。

 第1部では,まず,自己語りに関連する近年の理論的提言と研究例を概観した上で,それらに伴う問題点と将来的課題を指摘し,本論の目的を示した。人文社会科学領域に広範な影響を与えてきた物語論は,心理学が黎明期から研究対象としてきた「自己」に関しても,活発な議論を触発している。この物語論的な自己論が提起する骨子は,「自己は語る行為によって構成される」というものである。すなわち,伝統的な心理学の研究が前提としてきた自己という実体を,語り「を」生む主体ではなく,語り「が」生む産物と位置づける提起である。特に臨床心理面接や,高齢者の人生回顧による適応性を論ずるための理論的基盤として,この提起は積極的に取り入れられてきた。しかし,これら理論的提言の活発さに比べ,語りの構成的な機能を支持する具体的な証左を求めようとする研究の動向は,低調である。その結果,物語論的な自己論が心理学にもたらした高い期待感に比して,研究上の知見の生産性や臨床心理実践上の有用性が定かではない。したがって,自己語りをめぐる提言が,スローガンを超えたどれほどの生産性と有用性を有するのかを,理論的,実証的に検討する作業が必要であると考えた。本論は,その作業の一端として,自己語りに想定されてきた機能を,それが顕在化すると考えられてきた臨床心理面接(第2部)と高齢者の生活史面接(第3部)における語りに基づいて吟味することを目指した。その際,さまざまな語りの内容(何を語るか)に通底する構造(いかに語るか)の観点から語りを分析し,自己語りの機能が具現された様相の把捉を図った。

 第2部では,臨床心理面接を例に取り,自己語りの機能が具現された様を吟味した。そして,語りの構造という観点の持つ可能性を示した。従来,臨床心理面接は,自らの経験を組織化して納得することのできる物語を作るという自己語りの機能が,十分に発揮されるよう設えられた場面と考えられてきた。そのため,自己語りの機能を例示するために,臨床心理面接事例は適切な素材であると考えられた。まず,第3章では,自己語りがいかに機能しているのかを,臨床心理面接の事例に基づいて,例示することを試みた。はじめに,主訴が家族や自身へ展開した臨床心理面接事例を提示した。そして,その事例を,「語り」に着目して考察し,そこから読み取られる自己語りの機能を推測した。

 第4章では,臨床心理学におけるナラティヴ・アプローチの動向を踏まえた上で,語りの構造という観点の持つ可能性を示した。まず,理論横断的な様相を呈しているナラティヴ・アプローチを概観整理し,その今日的意義と将来的課題を探った。なかでも,語りを精緻に分析する研究を触発した意義を踏まえ,前章で提示した臨床心理面接の事例に基づき,経験を組織化する自己語りの機能が具現された様相を検討した。すなわち,臨床心理面接におけるクライエントの語りの構造を仮説的に提起し,事例におけるその推移に基づいて,語りの機能性を考察した。主訴に関連する出来事についての語りからは,「並べる」,「進める」,「遡る」,「省みる」,「留める」といった語りの構造のカテゴリーを抽出した。各カテゴリーが現れた推移を語りの主題別に検討した結果,精緻化を指向するナラティヴ・プロセスのみならず,精緻化を指向せずにいったん語りを留保するナラティヴ・プロセスにも,面接の進展上,固有の機能があることが示唆された。すなわち,経験を組織化する自己語りの機能には,精緻化を指向して不可解な経験の解明を図るのではなく,経験を名づけて距離を置くことで,とりあえずのおさまりをつける働きも含まれることが示された。以上の結果から,語りの構造は,自己語りの機能性を吟味するために,有用な観点と考えられた。そこで次に,より明確に自己語りを促す調査面接場面を設けることによって,自己語りの構造と機能との連関の解明を図ることとした。

 第3部では,特に自己語りの機能の生涯発達的意義が高まる老年期を対象として,自己語りの機能と構造の連関を検討した。そのために,自己語りの機能のなかでも,人生を意味づける機能が顕在化する場面として,高齢者の生活史についての自己語りを取り上げた。老年期には,自らの人生の歴史に物語様の構造を付与し,人生を意味づけるという生涯発達的機能が想定され,その機能が,回想法に代表される高齢者を対象とした臨床心理面接の理論的根拠ともされてきた。しかし,老年期の語りをめぐる理論的予測は,必ずしも実証的研究の裏づけが十分とは言えず,学際的な老年学を視野に入れた,理論的予測と実証的研究結果との照応作業を要する。そこで,語りを鍵概念とした近年の老年学の研究を概観し,将来的課題を明らかにした上で,自己語りの構造を高齢者の生活史面接事例から仮説的に提起し,その構造的特質の一部と,自己語りの機能との関連を検討した。

 まず,第5章では,老年期の自己語りの生涯発達的意義を,これまでの理論的予測や先行研究から探った。老年期の語りを取り扱う研究群は,研究目的に応じて,「老い」に付与された主観的意味や社会文化的意味のほか,自我同一性の様態や自伝的記憶の構造の解明を目指したものに分けられる。これらの研究が語りを鍵概念に据えたことによって,「老い」に対する領域横断的な理論構成を促した意義と,概念定義や認識論的立場の曖昧さを残した問題点を挙げ,将来的に求められる研究の方向性を示した。

 第6章では,人生を意味づける自己語りの機能が具現された様相を,実際の語りのなかに探索した。そのために,高齢者の人生転機の語りに現れた構造から,高齢者が転機に付与した意味の推測を試みた。語りの構造の分析に際しては,語りの有意味性との密接な関連が指摘されてきた,語りの構造の一貫性に焦点を当てた。まず,一高齢女性に生活史面接を施行して,人生転機の語りを得た。そして,従来提起されていた時間的・因果的・主題的な構造の一貫性の分析枠組みに依拠し,それらの下位カテゴリーを抽出した。その後,理論的な推測を考慮しつつ,当初の分析枠組みを検討することによって,新たに語りの状況要因を加味した状況的一貫性の分析枠組みを付加し,同様にその下位カテゴリーを抽出した。その結果,故人や神仏等の超越的他者に起因する因果的一貫性や,聞き手との相互性を考慮した状況的一貫性等,物語様のさまざまな構造を把捉し得る分析カテゴリーが,見出された。そして,最終的に得た分析カテゴリーを用いて,転機の語りを分析し,転機に付与された意味づけを考察した。本研究によって,高齢者の自己語りの構造に基づいて,人生を意味づける自己語りの機能が具現された様相を推測する方途が,示唆された。

 第7章では,人生の有意味性の獲得によって得られると考えられてきた,老年期の自我同一性達成と,自己語りの構造との連関を明らかにしようと試みた。まず,高齢者30人を対象に,既存の質問紙によって自我同一性達成度を測定した。次に,性格特性語の自己への帰属を過去の経験から例証する課題により,自己語りを得た。そして,前章で検討した状況依存的な語りの要素を考慮し,自己語りが伴う聞き手との相互性や,聞き手にとっての了解可能性の観点から,語られた経験の信憑性を表す特定性,情報量の多寡を表す情報性,主題である性格特性に則していることを表す関連性の3次元の構造的な一貫性に基づき,語りを分析した。その結果,情報性,関連性の2次元において,語りの構造的特質が自我同一性達成度により異なることを見出し,自己語りの構造的特質が自我同一性の様態と連関することが示唆された。なかでも,自我同一性達成度が低い一群の高齢者は,自己の否定的な性格特性について語るに際して,情緒的な明細化が顕著になり,主題との関連性が低い自己語りを構成することが明らかとなった。

 第4部では,以上の研究結果の意義を総括し,将来に向けた課題を論じた。本論の意義には,第一に,語りの構造を観点とし,自己語りの機能を,具体的に人々の語りの実態に照らして検証する方向性を示したことが挙げられる。第二に,老年期の自己語りが人生を意味づける機能を,実際の語りのなかに探索し,その機能の発現を仮説的に提起したことに加えて,自己語りの機能と構造との連関を検証したことが挙げられる。第三に,自己を語ることのみならず,語らないことの機能性,つまりは自己語りの功罪を共に考慮する必要性を提起したことが挙げられる。第四に,臨床心理面接や老年期発達の領域における多義的なナラティヴ・アプローチの見取り図を描き,内包する問題点を示し,将来性を占うための基盤を提供したことが挙げられる。第五に,自己語りの研究を思弁的議論から実証的研究に発展させる方途を示したことによって,自伝的記憶等,自己に関連する心理学的研究との間で,議論のための共通の地平を提供したことが挙げられる。しかし,その一方で,本論は,語ることと語られないことの認識論的位置づけや,面接で得た自己語りの日常性,自己語りに対する聞き手の寄与等の明確さに,限界と課題を擁すると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 近年、心理学領域においては、自己概念や自我同一性といった基本概念や心理療法といった方法を、物語(ナラティヴ)論の観点から再構成する試みが注目されている。この動向は、新たな観点として発展が期待される反面、依拠する立場によって論点が異なるといった理論的混乱もみられる。本論文は、このような混乱を整理すべく、心理学における物語論を幅広くレビューして問題点を明らかにした上で、臨床事例および高齢者を対象とした研究を通して自己語りの機能と構造についての枠組みを提示する。論文は、4部8章から成り、段階的に自己語りの機能と構造を明らかにする構成となっている。

 第1部第1章で自己語りに関するレビューを行い、第2章で先行研究における概念使用の混乱、検証作業の立ち遅れ、心理学の知見との希薄な結びつきといった問題を指摘する。そして、語りの構造の観点から自己語りの機能を検討するという本論文の目的を示す。

 第2部では臨床事例に基づき、自己語りの機能を例示し、語りの構造という観点を提案する。まず第3章において発達遅滞児である息子のことで来談した49歳女性が、臨床心理面接における自己語りを通して、息子を初めとする家族の混乱という不可解な事象を理解していく過程を詳述する。次に第4章では、臨床心理面接に関する語りの理論を概観した上で、経験の組織化という「自己語りの機能」が具現化される様相として、面接過程を解釈できることを示す。また、その語りの構造を5カテゴリーとして抽出することによって、語りの構造が自己語りの機能性を検討するのに有効な枠組みとなり得ることを示唆する。

 高齢者の自己語りは、自らの人生を意味づける機能をもつ。そこで、第3部では、自己語りの機能と構造の関連性の検討を目的として、高齢者の生活史面接を取り上げる。第5章では、老年期の自己語りに関する先行研究を、老いの意味づけ、自我同一性、記憶、社会文化の観点からレビューし、その生涯発達的意義を明らかにする。次に第6章では、83歳女性の生活史面接を題材とし、老年期の自己語りの構造を分析する枠組みとして「一貫性」の概念を提示する。人生の転機に関する語りから、時間的、因果的、主題的、状況的の一貫性が語りの構造を把握する分析カテゴリーを見出すとともに、高齢者の語りの構造に基づき、人生を意味づける自己語りの機能が具現化される様相を推測する方途を示唆する。さらに第7章では、性格特性語を過去経験によって例証する課題を用いた面接法を、在宅健常高齢者30名に実施し、高齢者の語りと自我同一性との関連性を検討する。その結果、情報性と関連性の2次元で語りの構造的特質が自我同一性達成度によって異なることを明らかにし、語りの構造的特質が自我同一性の様態と関連することを見出す。

 本論文は、語りの構造という観点による自己語りの機能への接近の有効性を質的研究法および量的研究法によって実証的に示したものであり、老年期における自己語りの機能を明確化し、自己語りの構造と機能を多面的に示した点で、特に意義が認められる。よって、本論文は、博士(教育学)の学位を授与するに相応しいものと判断された。

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