学位論文要旨



No 122009
著者(漢字) 中村,百合子
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ユリコ
標題(和) 占領下日本における学校図書館改革 : 初期から中期の日米の協働の分析
標題(洋)
報告番号 122009
報告番号 甲22009
学位授与日 2007.03.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 根本,彰
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 助教授 影浦,峡
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では,戦後初期の学校図書館改革期における,戦後日本の学校図書館の理論的・実践的な始点であり,原点であると考えられる学校図書館論の形成を検証した。それは,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下で取り組まれたため,日米からの影響要因に注目して,両国の関係者の協働を分析した。

 第1章「学校図書館改革の基盤形成:1945-47」では,終戦から1947(昭和22)年春の占領初期,教育改革の基本的な方針が定まり,新しい教育制度の土台が固まる中で,のちの学校図書館改革の基盤が形成されたことを明らかにした。占領下日本の教育改革の政策立案に影響を与えた教育家たち,そして民間情報教育局(CIE)教育課と文部省に,日本の学校では伝統的に教科書が偏重されてきたことが問題視され,教科書以外の資料の充実とその活用,学校の施設・設備の充実の一環としての図書館の設置が課題として認識された。1946(昭和21)年春には,「新教育の指針」「米国教育使節団報告書」「米国教育使節団に協力すべき日本側教育委員会報告書」にそれが記された。また,新教科課程の編成作業,日本側では特に自由研究の新設,占領軍側では特に社会科の新設に向けての作業の中で,学校図書館の必要性がより具体性を持って認識された。そして,1947(昭和22)年の3月には学校教育法が成立,副教材の活用の自由が認められ,また同年5月には学校教育法施行規則が成立,学校への図書館の設置が定められた。こうして,6・3・3制の成立とともに,日本における学校図書館の制度化の第一歩が踏み出された。

 第2章「学校図書館改革の具体的着手:1947」では,1947(昭和22)年春に新しい学校教育制度が成立し,実施に至った中で,学校図書館の改革が具体的に着手されたことを明らかにした。同年2月末頃から約3ヶ月間,その招聘が占領軍側で前年の秋から計画されていた学校図書館コンサルタントのグラハム(Mae I. Graham)が来日した。それを契機に,学校図書館改革は日米の関係者の協働作業に移って具体化し,本格化した。まず,占領軍側の関係者との面談を経て,国立図書館の加藤宗厚,東京第一師範学校の阪本一郎,成蹊小学校の滑川道夫,文部省では深川恒喜が協力者に選ばれた。そして,日本人の学校・図書館関係者ら20名から成る「学校図書館(室)運営の手引」編修委員会が文部省により設置され,『学校図書館の手引』の編集が着手された。その編集作業の他にも,グラハムは多くの日本人と会合を持ち,各地で講演を行うなどして,学校図書館についての啓蒙活動を行った。そして最終報告「日本の学校図書館(School Libraries in Japan)」を執筆して,帰国した。同報告書中でグラハムは,学校図書館にまつわる日本の状況を分析し,米国の経験を示すなどしていたが,同報告はグラハムの帰国後もCIE教育課内で参照されており,占領期のその後の学校図書館改革に影響を与えた可能性が考えられた。

 当時の学校現場を知る人々による回顧録や先駆者たちに対して行ったインタビューでは,この占領初期に,児童・生徒の読書熱が高揚し,児童・生徒がより多くの図書を入手できるようにするための図書の共有を実現する読書施設設置の欲求が学校現場に生まれ,設置の取り組みがはじまっていたことが明らかになった。その後,1947(昭和22)年春以降に新教科課程が実施されたこと,特にその秋に新設の社会科が実施に移されたことで,学校での図書館の建設が広まった。この頃,新たな学校教育のあり方,新しい学習/教授の方法が模索され,学習/教授のための多様な資料や,それらを活用のために準備し,提供する学校内の図書館に注目する教師が各地に現れてきた。

 第3章から第6章では,占領初期から中期に作成された『学校図書館の手引』と学校図書館基準の作成の経緯・経過とその内容を検討した。この2つに焦点をあてたのは,それらが学校図書館法の制定で学校図書館の法制化が実現する歴史的背景をなすものと言われてきており,それらによって日本ではじめてまとまって提示された学校図書館論が,戦後の日本の学校図書館の理論的・実践的な始点であって,原点であると考えたからである。

 第3章「「学校図書館(室)運営の手引」編修委員会の設置とその活動:1947-48」と第4章「『学校図書館の手引』の構成と記述:日米の影響要因に注目して」では,「学校図書館(室)運営の手引」編修委員会の活動を明らかにし,同委員会を中心に作成され,1948(昭和23)年12月15日付で文部省から出版された『学校図書館の手引』を分析した。『学校図書館の手引』は,1947(昭和22)年の春に中央に設置された「学校図書館(室)運営の手引」編修委員会に所属した日本人たちによって,執筆・編集が行われていた。加藤,阪本,滑川,深川と,板橋区立上板橋中学校の鳥生芳夫が,各章の執筆を実際に担当したと考えられた。彼らの原稿は英語に翻訳され,グラハムやCIE教育課の第2代図書館担当官のバーネット(Paul J. Burnette)らがそれに目を通し,指示・指導を行っていた。米人担当官たちの意見は,『学校図書館の手引』の編集にしばしば大きな影響を与えていた。また,日本側の委員たちは米国で出版された学校図書館に関する図書を手にし,それらを参照していた。

 第5章「学校図書館協議会の設置とその活動:1948-49」と第6章「学校図書館基準の策定:日米の影響要因に注目して」では,学校図書館協議会の活動を明らかにし,同協議会が文部大臣に答申した学校図書館基準を分析した。『学校図書館の手引』の編集に目処がついた1948(昭和23)年夏に,日本側の関係者たちが声をあげて,文部大臣の諮問機関として学校図書館協議会が設置された。そこに集められた日本人の学校・図書館関係者ら31名と議事・運営に関わった文部省職員13名が,約1年間かけて,学校図書館基準を作成し,1949(昭和24)年8月5日に文部大臣にそれを答申した。その策定作業については,占領軍側の米人担当官から指示・指導があり,それが影響したということを示す記録は見つからなかった。設置後の活動を,バーネットは,会議に出席したり,欠席した場合には報告を受けたりして把握していたものの,その活動は鳥生ら日本人の委員たちが主体となって進められていた。その日本人の委員たちの間では,学校図書館職員制度等に関する異論が出て,その意見の調整に多くの時間が割かれていた。また,日本の現場の状況が調査され,現場からの声が集められて,それらが反映されようとしていた。ここでも,米国の学校図書館基準等の資料が,日本人の委員たちに参照されていた。

 第1章から第6章までの検討をとおして,占領初期から中期の日米の協働において,両国の関係者がお互いのその時点までの経験を持ち寄っており,そして学校図書館の各要素の戦前と戦後の断絶・連続の取捨選択が行われていたことが明らかになった。本研究の『学校図書館の手引』と学校図書館基準の分析から,米国からの主な影響は,学校図書館基準の策定;「図書および図書館利用に関する指導」の重視;学校への「司書」の配置とその養成の3点に整理された。これらはすべて,20世紀中頃までに米国の学校図書館で行われるようになっており,当時の米国の学校図書館の達成とも言うべきものであった。一方で,主として戦前の経験に基づいて,『学校図書館の手引』に日本人執筆者の判断や意志が反映されていた要素として,「図書委員」;「読書指導」;「学級文庫」;「読書会・発表会」;「読書クラブ」,そして日本十進分類法(NDC)をはじめとする,日本で戦前から発展させられてきた図書館経営や資料整理の技術の学校図書館への適用があった。これらの戦前の遺産の反映または継承の動きには,前者には特に滑川,鳥生,阪本,後者には加藤の影響があった。彼らは,戦前から,戦後の学校図書館に関連する分野で豊富な経験を持っており,それがそのような戦前との連続性を求める動きを導いていた。

 以上のように,占領下にあって戦後日本の学校図書館の始点・原点としての学校図書館論が形成されたとき,そうした戦前から関連分野での経験をもっていた日本人が集められ,占領軍側から協力が依頼された。そのような状況にあって,占領軍側と日本側の協働は,占領軍側の米人担当官の指示・指導や米国からもたらされた図書・資料を日本側がそっくり受容するという構造にはなっていなかった。日本側では,占領軍側の米人担当官らの指示・指導に沿うよう努められ,米国の図書その他の資料が頻繁に参照されながらも,日本人協力者のリーダーたち自身の経験の反映という戦前からの連続性も追及されていた。『学校図書館の手引』の執筆や学校図書館基準の策定の作業は実際には日本人の協力者によって行われており,占領軍側の担当館と日本人の協力者は互いに理解し合い,合意を得ながら進んでいくことが求められていた。このような両者の基本的な関係は,占領初期から中期にかけて,大きく変化することはなかった。

 最後に,今後の研究課題を指摘した。まず,本研究で明らかにした,米国からの影響にを受けて戦前から断絶して日本に移入・受容されようとした要素と,戦前の遺産の反映または継承の意志によって連続性を帯びた要素について,本研究で対象としなかった時期を含めての断絶・連続と移入・受容および日本人の主体性の本格的な検証は,今後の大きな課題であることを述べた。その他,本研究の作業から浮かび上がってきた,学校図書館の理論的根拠や意義の再検討に繋がるだろうさらなる研究の可能性等について論じた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、学校図書館の制度化が戦後教育改革の取り組みの初期における重要な出来事であったとの認識に立ち、新しい歴史資料の発掘をはじめとした広範な文献調査と当時の関係者を知る人たちへのインタビューを行うことによって、制度化の議論がどのようになされたのかを解明したものである。その後共有されるようになる学校図書館概念の基盤がどのように形成されたのかを、一次資料を使用して明らかにした初めての研究として位置づけられる。

 まず、「序論」では本論文の分析の枠組みとして、占領史研究が一般に採用してきた戦前と戦後の連続と断絶という視点に加えて、米国の学校図書館論の移入と受容がどのようになされたかという視点を採用することが述べられる。また研究対象として、敗戦直後から1949年までの占領軍の教育改革の意図がもっとも純粋に現れた時期におけるCIEと文部省を中心とする議論の場が選択されている。

 第1章と第2章では、学校図書館政策を導入する背景として、敗戦をきっかけに戦前までの学校教育における教科書偏重を問題視する考え方が現れ、新教育課程の策定において、初等教育における自由研究の新設や中等教育への社会科の導入などが検討され、それらを支えるために学校図書館の必要性が認識され始めたことが述べられる。その認識に基づいて、占領軍が1947年に米国から専門コンサルタントを招請したことを起点にして、文部省、CIEおよび図書館・学校関係者の協働作業が始まったとされる。続く第3章から第6章では、具体的に『学校図書館の手引』(1948)が編集される過程と「学校図書館基準」(1949)が策定される過程とが分析され、議論における影響関係が丹念に解明されている。

 本論文では、この協働作業において1920年代から40年代前半までの米国の学校図書館論が参照されていたにも関わらず、学校図書館に配置された専門職員が教授学習過程に積極的に関与して教材や読書資料を提供するという、その中核にある考え方が十分に展開されなかったこと、そして、戦前から学校で読書教育に関わっていた人々が日本側の議論の中心を担ったこともあり、日本的な読書教育を展開する場として学校図書館をとらえる考え方がそのまま強調されたことが示された。本論文は、1953年に学校図書館が法制化されてからはっきりしてくる問題構造の端緒がすでにこうした最初の概念形成の時期に見られることを明快に論証したものであり、今後の学校図書館政策論に対して示唆するものも大きい。以上の点から、本論文は、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達していると評価された。

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