学位論文要旨



No 122016
著者(漢字) 谷林,慧
著者(英字)
著者(カナ) タニバヤシ,サトル
標題(和) STMを用いた単分子コンダクタンス測定に対するエネルギー安定性の影響の研究
標題(洋)
報告番号 122016
報告番号 甲22016
学位授与日 2007.03.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6411号
研究科 工学系研究科
専攻 超伝導工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 教授 渡邊,聡
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 教授 長谷川,哲也
内容要旨 要旨を表示する

1 背景

 最も身近なナノスケール構造物である分子にデバイスやワイヤーの役割を担わせる分子エレクトロニクスは、その実現が大いに嘱望されている。故に、BDT(Benzene-DiThiolate,S-C6H4-S)等の構造の単純な分子と対向する2つのAu電極から成る単分子架橋系をデバイスやワイヤーのプロトタイプとして使用した研究が、内外で盛んに行われている。

 しかしながら、これまでに報告されている電気伝導特性の実験例の中で、信頼出来るものはわずかである。その最大の理由は、「測定値が間違いなく単分子架橋のものであるという証拠を提示することが、極めて困難であること」である。この点を克服した実験例として、XiaoらによるSTMブレークジャンクション法を用いた実験が知られている[1]。これは、分子溶液中で基盤に圧着されたSTMプローブを引き離す過程でのコンダクタンス変化を1000回程度繰り返し測定し積算して得られるヒストグラムの第1ピーク値から、単分子架橋のコンダクタンスを得る実験手法である。彼らはBDT溶液に対してこの手法を適用することによって、単位BDT架橋のコンダクタンスとして0.011G0(G0=2e2/h)を得た。この数値は、以前のReedらの実験値とは異なり[2]、最近の理論計算とオーダー的に良く合っている[3]。さらに、「コンダクタンス・ヒストグラム中の第nピーク値をnで規格化した(G/n)と測定バイアスVから求めたI=(G/n)Vカーブが、nに全く依存しない」という結果を得ている。これは、第nピーク値が、電極間に並列に存在するn本の単位BDT架橋によって与えられていることを示す強力な証拠であるといえる。

 しかしながら、単分子架橋系のコンダクタンスを十分理解できたとはまだいえない。特に大きな問題は、理論計算でSTMプローブを引き離していった際にコンダクタンスが一旦大きく増大した後に減少し、架橋切断時にゼロになると予想されているのに対し、実験ではこのような振る舞いが見られていない点である。

 そこで本研究では、STMプローブ引き離し時の架橋構造について実験的にも理論的にもまだ十分には検討されていないことに着目し、この点を第一原理計算を用いて明らかにすることにより上記の問題を解明することを目指した。

2 計算方法

 電子状態の計算には、密度汎関数法(DFT)を用いた。採用した交換・相関エネルギー汎関数は、B3PW91である。

 コンダクタンスの計算には、グリーン関数法を用いた。また、電極の表面グリーン関数の計算には、Tadaらの考案したGaussian broadening法を使用した[4]。この手法は、分子-表面の境界付近に存在する原子のみを含む小さなクラスターモデルから表面グリーン関数を効率良く求めることを可能にする手法である。

 基底関数には、LanL2DZ、およびCEP-31Gの2種類を使用した。前者を安定構造や全エネルギーの計算に、後者をコンダクタンスの計算に、それぞれ使用した。

3 クラスターモデルの選択

 単位BDT架橋を構成する2つのAu電極は、FCC結晶構造を持つ。また、BDTは、それらの(111)表面(Au(111)表面)に吸着する。これを表す必要十分なクラスターモデルを選択するために、表面の大きさと層数の異なる計10種類のクラスターモデルを用意し、これらの第1層表面上に定義された5種類の吸着サイト(on-top、bridge、hollow、fcc、hcp)上に吸着したS-C6H4-SHの安定構造および吸着エネルギーを比較した。さらに、Naraらがより大規模な4層スラブモデルを用いて求めた計算結果[5]とも比較した。その結果、1)2層以上の層構造の確保が必要であること、2)表面の大きさは比較的小さくても実用的に十分であること、の2点が明らかになった。

 そこで、以下の第4章および第5章の計算では、2電極系である単位BDT架橋を組み立てた際の計算コストを抑えるために、表面最外層のAu原子8個と第2層のAu原子5個を含む2層構造モデルAu8/Au5を採用した。

4 単位BDT架橋の安定構造とコンダクタンス

 STMブレークジャンクション実験で得られるコンダクタンス曲線(STMプローブ引離しに伴うコンダクタンス変化)上の各点の示す測定値は、1つの架橋構造に対するコンダクタンスではなく、複数の架橋構造に対するコンダクタンスが各々の実現確率によって重み付け平均された期待値であると考えるのが妥当である。なぜならば、室温の測定では、複数の架橋構造間の構造遷移の速度がSTMプローブの移動速度に比べてはるかに大きいために、架橋構造ゆらぎからの影響は平均化された形で測定値に反映される可能性が高いからである。しかしながら、単位BDT架橋のコンダクタンスについて、このような構造揺らぎを考慮した期待値の計算例はまだ存在しない。

 そこで本章では、各々の架橋構造の実現確率が対応する形成エネルギーのボルツマン因子に比例すると考えて、コンダクタンスの期待値を計算した。このためにまず、図1に示す単位BDT架橋の8種類の構造に対する形成エネルギーE(form)=E(Au8/Au5+BDT+Au8/Au5) - {E(Au8/Au5) + E(BDT) + E(Au8/Au5)}を求めた。いずれも、Au8/Au5とその第1層表面上に設定された4種類の吸着サイトのいずれかに吸着したS-C6H4-SHから成る1電極系の最適化構造を基に、C6環の中心点に対する反転操作を施すことによって組み立てたものである。tiltedとperpendicularの違いは、前者ではS-C6H4-SHの傾きを最適化しているのに対して、後者では表面に対して垂直に拘束している点である。

 次に、E(form)<0を満たす構造に対してコンダクタンスを計算した。最後に、具体的な電極間距離としてl=11.00Åを与えたときの単位BDT架橋のコンダクタンス期待値を計算した。これは、コンダクタンス曲線(以下ではトレースカーブと呼ぶ)上の具体的な1点を計算で求めたことに相当する。l = 11.00Åを選んだ理由はE(form)<0を満たすperpendicular構造である(bridge,bridge)、(fcc,fcc)、および(hcp,hcp)の3者では、lを最適化した値がいずれも11.00±0.11Åの範囲に収まっていたためである。

 図1の各構造の形成エネルギーとコンダクタンスの計算結果の比較から、まず安定な構造とコンダクタンスの大きな構造が一致していないことがわかった。次に期待値計算の結果、0.029 G0が得られた。これは、l = 11.00Åにおける(fcc,fcc)のコンダクタンスの計算値0.028 G0にほぼ一致する。その理由は、l=11.00Åにおける形成エネルギーより得られる(bridge,bridge)、(fcc,fcc)、および(hcp,hcp)のボルツマン因子の比が、1: 4300: 120であり、(fcc,fcc)の因子が残り2つを圧倒しているからである。このことは、l=11.00Åでは、コンダクタンス・トレースカーブ上の測定値が、事実上(fcc,fcc)のみによって与えられることを示唆しているといえる。そこで、このl=11.00Åにおける(fcc,fcc)を、第5章でコンダクタンス・トレースカーブを計算する際の初期構造に採用した。

5 コンダクタンス・トレースカーブに対するエネルギー安定性の影響

 既に述べたように、BDT架橋のコンダクタンスの振る舞いについては、実験と計算との間に未解決の大きな食い違いが見られる。Xiaoらの実験で報告されているBDT架橋のコンダクタンス・トレースカーブは、0.011G0付近にプラトーを示している[1]。それに対して、Xueらの理論計算で報告されているコンダクタンス・トレースカーブは、単位BDT架橋の電極間距離の増大に伴いシャープなピークを示している[6]。彼らは、最適化された電極間距離Δl=0ではXiaoらの実験値0.011G0に近い0.07G0を報告しているが、ピークに対応するΔl=1.5 Åでは0.40G0という極めて大きな数値を報告している。また、Keらの理論計算も同様のカーブを報告している[7]。

 XueらやKeらの理論計算[6,7]の最大の問題点は、各Δlで形成されるBDT架橋の過渡構造について十分な検討を行っていない点である。すなわち、他により安定な構造があるか否かについてほとんど考慮していない。そこで、本研究では、各Δlの過渡構造を与えるプロセスとして図2に示す3種類を設定し、コンダクタンス期待値を求めた。

 プロセスaでは、2つのS-Au(111)表面間の間隙が等しく引き伸ばされる。これは、Keらの採用したプロセスに等しい[7]。プロセスbでは、1つの間隙のみが引き伸ばされる。これは、Xueらの採用したプロセスに等しい[6]。また、Δl=0におけるプロセスa、およびプロセスbの構造は、いずれも、第4章で述べたl=11.00Åにおける(fcc,fcc)に等しい。プロセスcでは、プロセスbと同様にAu(111)表面と間の間隙のみが引き伸ばされる。しかしながら、BDTの傾きは、Au8/Au5とS-C6H4-Sから成る1電極系の示すBDTの傾きに固定されている。これは、本研究で新たに追加されたプロセスである。追加の理由は、Δl=∞の極限では、BDTは宙に浮いているよりもどちらか片方の電極に吸着して1電極系を成した方が安定であることが容易に予想できるからである。

 本研究で計算された得られたコンダクタンス・トレースカーブを、図3下図の実線に示す。これは、図3上図に示すプロセスa、b、およびcの形成エネルギーと、図3下図に示すコンダクタンスから計算された期待値のΔl依存性である。プロセスaおよびbのコンダクタンスは、それぞれKeらおよびXueらの報告からの引用である[6,7]。挿入図は縦軸を実スケールに改めたものであり、Xiaoらの実験で得られたコンダクタンス・トレースカーブと定性的に良く一致しているといえる。

 このコンダクタンス・トレースカーブを、プロセスa、b、およびcのコンダクタンスと比較すると、XueらやKeらの理論計算[6,7]で見られたコンダクタンス・トレースカーブのシャープなピークがXiaoらの実験[1]では見られない理由が、コンダクタンス期待値を支配するプロセスが0.4<Δl <0.8 Åでaからcに遷移したことであるといえる。

6 総括

 本研究では、単分子架橋系のSTMプローブ引き離しに伴う構造変化をエネルギー安定性の面から考察し、さらに各プローブ−電極間距離における構造揺らぎを考慮したコンダクタンス期待値の計算をはじめて行った。その結果、これまでプローブ−電極間距離変化に伴うコンダクタンス変化の振る舞いについて実験と理論計算とで大きな不一致が見られていたのに対し、Xiaoらの実験と定性的に良く一致するコンダクタンス・トレースカーブを得ることができた。このことは、STMブレークジャンクション実験で得られるコンダクタンス・トレースカーブの理解には、架橋構造のエネルギー安定性に対する考察が不可欠であることを示唆している。よって、今後様々な単分子架橋系に対する研究を進める上で、本研究のアプローチは大変有用であると期待される。

[1]X. Xiao et al.: Nano Lett. 4 (2003) 267.[2]M. A. Reed et al.: Science 278 (1997) 252.[3]J. Nara et al.: J. Chem. Phys. 121 (2004) 6485.[4]T. Tada et al.: J. Chem. Phys. 121 (2004) 8050.[5]J. Nara et al.: J. Chem. Phys. 120 (2004) 6705.[6]Y. Xue and M. A. Ratner: Phys. Rev. B 68 (2003) 1221.[7]S. Ke et al.: J. Chem. Phys. 122 (2005) 074704.

図1 単位BDT架橋の構造。

図2 BDTジャンクションの過渡構造を与えるプロセスa、b、およびc。

図3 形成エネルギー、マリケンスピン密度、およびコンダクタンスのΔl依存性。

審査要旨 要旨を表示する

 半導体デバイスの微細化が物理的限界に近づきつつあることから、それに代わりうる候補として単分子デバイス等の分子エレクトロニクスが注目を集めている。単分子デバイスの可能性を探るために電極間単分子架橋の電気特性の研究が実験的にも理論的にも活発に進められているが、単分子架橋のコンダクタンスについては実験と理論の結果に大きな違いが見られる。本論文は、このような現状に鑑み、金電極間ベンゼンジチオレート分子を例に、単分子架橋のコンダクタンス測定法の中で最も信頼性の高い手法の1つであるSTMブレークジャンクション法の実験データの理論計算による解析を試み、実験で見られる振舞いの物理的意味を解明しようとしたものである。本論文は6章からなる。

 第1章では、本研究の背景を述べている。分子エレクトロニクスが注目を集めている理由と分子エレクトロニクスの潜在的可能性について概観した後、分子エレクトロニクスに向けた電極間単分子架橋の電気特性に対する研究の現状を概観している。特に、STMブレークジャンクション法による単分子架橋のコンダクタンス測定について、STMプローブ-基板間距離を引き伸ばしていく際のコンダクタンスの振舞いを既報の理論計算が解明できていない点を述べ、本研究の目的を明確にした。

 第2章では、本研究の計算方法を述べている。本研究においては電極への分子の吸着エネルギーをはじめとしたエネルギー計算と、単分子架橋系に対するコンダクタンス計算を基に解析を行うが、前者には密度汎関数法を、後者はグリーン関数法を用いている。これらの方法の概略を述べている。

 第3章では、本研究に用いるモデルの検討を行った結果を述べている。STMプローブと基板にはいずれもAu(111)表面を用いているが、これらを表すモデルとして大きさと層数の異なる10種類のクラスターモデルを検討した。Au(111)表面に吸着したS-C6H4-SHの吸着エネルギーを必要十分な精度で与えるか、なおかつ計算コストが現実的であるかという観点から検討した結果、表面最外層のAu原子9個と第2層のAu原子5個を含む2層構造モデルAu8/Au5が最もこれらの条件に適っていることを明らかにした。

 第4章では、対向する2つのAu(111)表面と両者に吸着したベンゼンジチオレート(BDT)から成る単位BDT架橋のコンダクタンスと形成エネルギーについて、配置による変化を理論計算で検討した結果を述べている。第3章で得られたAu8/Au5を用いて設定した架橋構造モデル8種類について検討した結果、BDTが両表面に対して垂直な姿勢を示す表面間距離(単位BDT架橋が切断される直前で実現)においては最安定な吸着サイトの組み合わせが(fcc fcc)であること、および同構造の与えるコンダクタンスが他の構造の与えるコンダクタンスに比べて明らかに小さいことを明らかにした。さらに、この最安定配置と他の準安定配置との間の熱揺らぎの可能性を考慮してコンダクタンス期待値を計算し、期待値がほとんど(fcc fcc)構造のみによって与えられることを明らかにした。異なる配置の間の熱揺らぎの可能性を考慮して単分子架橋系のコンダクタンス期待値を計算したのは、本計算が初めてである。

 第5章では、STMブレークジャンクション測定で得られるトレースカーブ、すなわちSTMプローブ-基板間距離を引き伸ばしていく際のコンダクタンス変化曲線について解析した結果を述べている。引き伸ばしによる架橋構造の変化について、分子が常に両電極の中央に位置する配置(配置A)、分子が一方の電極との結合を常に保ちつつ電極表面に対し垂直である配置(配置B)、分子が一方の電極と強く結合して分子軸が傾いている配置(配置C)の3種類の配置を考慮し、これらの配置間の遷移の可能性を考慮してコンダクタンス期待値の引き伸ばし距離に対する依存性を求めた。その結果、STMブレークジャンクション測定で得られるトレースカーブが良好に再現され、トレースカーブについて従来見られた実験データと理論計算との相違を解消することができた。さらに、この結果が配置Aから配置Cへの遷移によるものであることを明らかにした。

 第6章は総括である。

 以上のように、本論文は、STMブレークジャンクション法によるコンダクタンス測定において異なる配置間の遷移が起こる可能性にはじめて注目し、配置間の遷移ないし熱揺らぎを考慮することの重要性を示すとともに、この点を考慮するための理論的アプローチを確立した。これは、今後単分子架橋系を含む種々のナノ構造の電気特性の研究を進める上で大変有用な知見である。よって本論文のナノスケール物性工学への寄与は大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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