学位論文要旨



No 122019
著者(漢字) 郭,素秋
著者(英字) KUO,SU CHIU
著者(カナ) カク,ソシュウ
標題(和) 彩文土器から見る台湾・福建と淅江南部の先史文化
標題(洋)
報告番号 122019
報告番号 甲22019
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第576号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 今村,啓爾
 東京大学 教授 大貫,静夫
 東京大学 助教授 佐藤,宏之
 東京大学 助教授 熊木,俊朗
 北海道大学 助教授 吉開,将人
内容要旨 要旨を表示する

 従来、台湾・福建・浙江南部の彩文土器を提起する際に、各地の文化性格や時期区分を考えずに、彩文土器のみをもって文化類縁を論ずるのは普通である。このようなやり方で台湾と大陸東南沿海地域との彩文土器の起源やそれに関わる先史文化の実態をいまだに解明することができないといわざるをえない。本稿は最新の考古学成果を取り入れ、地域ごとに彩文土器が出土した諸遺跡の文化性格・時期区分をしっかり検討した上で、各地の彩文土器に関する先史文化の編年を立て、さらに、これらの地域編年に基づいて、彩文土器を通じて、地域間の編年と可能な接触関係を論ずる。本稿の彩文土器の研究によって台湾・福建・浙江南部において彩文土器の時期区分・起源問題と三地の先史文化の関係を明らかにすることができた。

 台湾の彩文土器を次の二つの系統にまとめることができる。

 新石器時代前期の大〓坑文化からすでに少量の剥落しやすい赤色線列や点状の彩文土器とまとまった量の赤色スリップをもつ土器が現れはじめた。この彩文土器の伝統は、新石器時代中期の細縄蓆文土器文化を経て、後述する三つの外来彩文土器の一部影響を受けながら、新石器時代後期まで持続した。

 台湾における大〓坑文化以来の固有の赤色彩文土器という系統を除けば、外来の彩文土器と考えられるものは、細縄蓆文土器文化後期(新石器時代中期後半、台湾北部の万里加投、澎湖の鎖港・南港遺跡、V字・格子・人字彩文・太線と細線交互に施されるV字と人字彩文など)、北部の芝山岩遺跡第4層(新石器時代中期末)、南部の鳳鼻頭遺跡上層(新石器時代後期)である。

 台湾の外来と考えられる彩文土器の起源問題を明らかにさせるため、筆者は国立清華大學原科中心加速器組の牛圜博士に台湾と福建の庄辺山遺跡上層の彩文土器(王振〓氏提供)の元素分析(PIXE particle induced X-ray emission)を行ってもらった結果、台湾南部の鳳鼻頭遺跡上層・亀山遺跡の黒色スリップをもつやや硬質赤色土器は、〓江下流域の庄辺山遺跡上層等から、直接に台湾南部に搬入される可能性があると筆者は考える。

 福建において、彩文土器は最も早くから〓江下流域の曇石山文化前期に現れはじめるが、曇石山文化後期に至るまで彩文土器は依然として稀である。本稿は曇石山文化の遺留を良渚文化の出現によって前後二期にわける。この時期に浙江南部においてまだ先史文化が現れていない。その後の庄辺山上層類型になると、同じ〓江下流域において、彩文土器は盛んとなり、庄辺山上層類型の一つの重要な特徴にもなっている。庄辺山上層類型の彩文土器は〓江下流域のみならず、福建東北部(黄瓜山遺跡下層が代表とする)にまで分布する。その後の庄辺山上層類型末から黄土侖類型に至る時期になると、福建東北部における彩文土器の持続的な発展(黄瓜山遺跡上層)がみられ、しかも東北部のほとんどの地域から彩文土器が検出される。また、この庄辺山上層類型末から黄土侖類型の時期になると、東北部だけでなく、福建各地・浙江南部と台湾からも少量やまとまった量の彩文土器が検出される。その中で、福建の彩文土器のおわりの年代については、従来は庄辺山上層類型の時期に限ってしかみられないとされたのに対して、本稿の検討によって、福建や浙江南部の彩文土器は黄土侖類型やもっと遅れる時期まで持続していたことがわかる。例えば、福建東北部黄瓜山遺跡・浙江南部において彩文土器と伴出した土器には、すでに黄土侖類型やより遅れる要素(例えば典型的器形や文様・釉・刻劃符号等)がみられる。

 曇石山文化から庄辺山上層類型まで、〓江下流域は彩文土器の唯一または主な中心地であった。しかし、その後、〓江下流域の彩文土器の数や発展は伸びないのに対して、福建東北部に数多くの彩文土器の遺跡が発見されただけでなく、黄瓜山遺跡において豊富かつ多様の彩文土器の発展があった。さらに福建〓江下流域の東張遺跡や浙江南部の獅子崗遺跡から福建東北部の特有の格子+点状+平行線列彩文図案などが検出されたことから、浙江南部や東張遺跡の彩文土器は、福建東北部の彩文土器の影響を受けて生じた可能性が考えられる。つまり、伝統の幾何学形文様は、土器製作技術の発達につれ、庄辺山上層類型の時期になると、幾何学形印文土器のピークに達し、叩き印文のほか、彩絵の方法で類似の幾何学形図案を表す彩文土器も新たに発展した。また、〓江下流域の庄辺山上層類型の発達による東北部への影響により、福建東北部は彩文土器の新たな中心となる。〓江下流域における黄土侖類型になると、彩文土器がほとんど消失した際に、福建東北部から福建各地・浙江南部と台湾に影響を与えることによって大陸東南沿海地区における一時的な幾何学形彩文土器分布圏を形成することになった。なお、台湾・福建と浙江南部の彩文土器の分布状況と地理位置をみると、陸路の可能性も排除できないが、その伝播ルートは主に河川・海路を利用し、周辺へ拡散した可能性が強い。

 台湾における細縄蓆文土器文化前期・細縄蓆文土器文化後期・芝山岩遺跡第4層・鳳鼻頭遺跡上層などの新要素が現れる時期はちょうど台湾の文化変容(新石器時代前期→中期、中期→後期)の時期と一致することから、台湾の文化変容の主な動因は外来要素、特に福建からやってきた何回かの外来要素である可能性が強い。これに対して、福建における曇石山文化前期から後期への移行には良渚文化後期、曇石山文化後期から庄辺山上層類型への移行は雲雷文様などの新要素、庄辺山上層類型から黄土侖類型への移行には青銅器の器形や装飾技法・複雑な雲雷印文などの新要素がともに現れることから、これらの新要素が福建の文化変容に影響を与えたと筆者は考える。福建における外来の影響は主に浙江や周辺の大陸東南地区からやってきたものであるのに対して、台湾のこれらの外来要素は主に福建からやってきたものである。ところが、これらの時期に台湾から福建やほかの大陸東南地区への逆行影響はあまり見られない点に注意すべきである。

 しかし、この時期の彩文土器はなぜ現れるのか?本稿の彩文土器の研究を通じて、"幾何学形彩文"という文化要素は、主に福建の〓江下流域から福建の東北部へ、そして東北部から周辺地域の浙江南部・〓江下流域・福建の西部や南部へ影響を及び、さらに台湾海峡を越えて台湾まで拡散してきた。これらの彩文土器は小人数の移入と搬入品の形で現れるものもあれば、文化の接触などによる"幾何学形彩文の概念のみの伝播"によって各地の先史文化によって吸収・融合されてから、当地の伝統の土器伝統に基づいて再表現するものもみられる。ただし、このような物の伝播や人間の拡散は最初〓江下流域から福建東北部にやってきた後、東北部から逆行して再び〓江下流域に伝播したほか、ほとんど片方向の形で止まり、被伝播地(台湾・浙江南部や福建のほかの地区)から逆に〓江下流域や東北部に影響を与える現象はあまり見られない。また、これらの地域において次の共通点を有する。福建の〓江下流域と福建の東北部において彩文土器の起源や発展過程をはっきりたどることができるのに対して、ほかの地域は彩文土器の発展過程が見られない。また、年代的にいえば、これらの地域の彩文土器の年代はほぼ庄辺山上層類型・黄土侖類型に相当するものである。これらの彩文土器は幾何学形印文土器の盛衰とともに発達したり衰微したりしになり、しかも土器作りと器形だけでなく、印文土器と似たような幾何学形文様を装飾する彩文土器の出現は、このような幾何学形文様を表徴とする先史文化の発達を語る一つの重要な特徴ではないかと筆者は考える。この時期に福建〓江下流域と福建東北部の彩文土器は周辺地区への(人間)拡散や(物のみの)伝播などの背後に、より発達した文化の周辺のあまり発展していない文化への一時的な影響と理解してもよいであろう。

 本稿の彩文土器の研究を通じて、台湾と福建において次の二つの伝播(物)や拡散(人間の移動)ルートが存在する可能性が強いと筆者は考える。一つは福建→澎湖→台湾西南部というルートであり、このルートは台湾の新石器時代前期の大〓坑文化の時期にすでに存在する。大〓坑文化後期になると、台湾南部の南関里遺跡からまとまった量の澎湖のカンラン石玄武岩の石器が出土したことと、福建南部の大帽山遺跡から澎湖群島のカンラン石玄武岩と似たものが発見されたことを加えて、この時期に台湾南部〓澎湖や澎湖〓福建という双向的な伝播や拡散も頻繁的であったと筆者は考える。また、大〓坑文化の時期に、台湾北部の大〓坑文化と福建の殼丘頭遺跡下層にはそれぞれ異なる少量の浙江の河姆渡文化の要素が見られることをみると、当時浙江→台湾北部と浙江→福建という二つのルートもあった。もしこれらのルートが成立すれば、大〓坑文化あるいはもっと古い時期から、大陸東南沿海地区・台湾海峡の島嶼(例えば澎湖群島)と台湾本島の間に接触ネットワークはすでに形成することとなる。各地域のこのような密接な接触と海洋向けの立地は、この時期の台湾と大陸東南沿海地域の先史文化をかなり似た文化性格を持たせる重要な原因であろう。その後の台湾の新石器時代後期になると、即ち福建の〓江下流域の庄辺山類型上層末・黄土侖類型とその後の東張上層類型の時期に、台湾南部の鳳鼻頭遺跡上層や亀山遺跡から福建の黄土侖類型と東張上層類型の要素が出土し、しかも亀山遺跡と庄辺山遺跡上層の彩文土器の各元素の含量が一致するをあわせてみると、この時期に福建の〓江下流域→台湾南部という伝播(物)や拡散(人間の移動)ルートが持続に使われる可能性が強い。もう一つは福建東北部→台湾北部というルートである。このルートの出現はより遅れて、即ち福建の庄辺山上層類型晩期、台湾の新石器時期中期末(北部の芝山岩遺跡第4層が代表とする)時期である。台湾北部の芝山岩遺跡第4層には一部の浙江・福建東北部と〓江下流域の要素がみられ、その立地から、福建東北部の黄瓜山遺跡等から芝山岩遺跡第4層への接触ルートが存在する可能性が強いが、今後の研究が待たれる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、彩文土器という文化要素とそれに付随する文化事象に注目し、台湾と福建・浙江南部との比較を通して、紀元前3千〜2千年紀における台湾海峡を挟む両岸地域の先史文化の動態を読み取り、台湾先史文化の展開について新たな展望を切り開こうとした意欲的な研究である。

 台湾海峡を挟む文化交流の解明は、戦前から今日に至るまで一貫して関心が寄せられ続けてきた研究課題であるが、両地域における資料の不足に加え、台湾の歴史的位置付けという政治的にデリケートな問題に関わることもあってその解明は遅れていた。

 郭素秋氏は、台湾の研究者として種々の制約がある中で、中国本土を含む遺跡と資料の調査を行い、近年飛躍的に増加した海峡両岸地域の彩文土器に関するデータを可能な限り網羅的に集成し、中国大陸における最新の研究成果をも踏まえつつ、土器の各種属性や土器群としての構成なども検討し、資料に密着し、客観的姿勢に徹した考察を進めた。その結果、台湾における彩文土器の系譜と展開について、かつて予想されたような中国北部の仰韶文化の彩文土器の流れを引くものではないこと、至近距離の福建省の彩文土器と基本的な対応関係を保ちながら変化することを資料によって提示し、両者の関係について体系的な見通しを示すことに成功し、ひいては台湾の独自な文化変遷と大陸からの影響の交錯が織り成す両地域の文化交流のありかたを解明した本論文は、博士学位授与に見合う研究成果として高く評価されるものである。

 増えたとはいえ、なお十分とは言えない発掘調査資料によって全体を組みたてようとする作業の過程にまったく無理がないわけではなく、示された土器編年にも確実な部分となお不安を感じさせる部分が混在し、土器その他の遺物の類似と相違の裏に潜む文化現象の本質に対する切り込みが不十分であること、従来の台湾考古学で中心的問題とされてきた民族の移動と形成の問題に本論文の成果をどう関連づけるかなど、今後のとりくみが必要と感じさせる部分も少なくないが、資料の現状で可能な限り問題を解明した意義は大きく、本論文に盛り込まれた学術的価値を損なうものではない。よって本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するものと認定する。

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