学位論文要旨



No 122020
著者(漢字) 谷口,薫
著者(英字)
著者(カナ) タニグチ,カオル
標題(和) ベルクソン哲学における秩序生成の諸相
標題(洋)
報告番号 122020
報告番号 甲22020
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第577号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 助教授 榊原,哲也
 東京大学 助教授 鈴木,泉
 学習院大学 助教授 杉山,直樹
内容要旨 要旨を表示する

 従来の教科書的解釈では、ベルクソン哲学とは、生の哲学であり、生命の創造性を主題とするものであるとされてきた。分析的な認識や空間的記号の使用など、私達が通常行う認識の仕方は、彼の哲学の本来の主題である持続や直観に即して考えた時、創造的で力動的なものである直観や持続に対する歪んだ陰画として位置づけられることになる。このような単純な解釈を改めて問いに付し、ベルクソン哲学における知性批判の射程を正確に捉え返すこと、これが本論文を貫く問題意識である。すなわち、本論文の考察は、固定化され限定されて成立する諸秩序の生成や、不動の記号を用いて認識を構成する知性のはたらきに注目して考察を進める。

 私達が通常なしている認識は全て、個物についても現象についても、秩序の反復的再認であり、何らかの秩序を再認すること、一般的なものを再認することで成立している。これらの、まさに私達の日常の生の中で成立する様々な認識、実践的な関心の下で世界を秩序立てて捉える認識を丁寧に読み解いていくことで、一方で私達のなすさまざまな理解が形式的で限界を持つものでありながら、他方で、私達の理解が単なる形式や不動の反復には留まらない力動性へと結びつくことを確認させてくれるだろう。

 序論では、この考察の背景として、科学の意義について激しい論争が巻き起こった19世紀のフランスの思想状況を確認する。いわゆる「新哲学論争」のただ中において、ベルクソンはどのような位置づけにあったのか。当時、ベルクソンは反科学の側の首謀の一人と見なされていたが、実際には、彼の科学論は単なる科学擁護論でも科学批判論でもないものである。彼が主張したのは、分析的認識に基づく科学を全否定することではなく、その射程と限界の慎重な画定である。彼は科学にも一定の有効性を当然認めていた。ベルクソンの批判は、科学そのものというより、科学にその限界を超えた能力を認める主張に対して向けられたものである。にも関わらず、ベルクソンが置かれた複雑な立場は、分析的認識や日常の行動の中で反復的に見出される秩序や分析的認識の有効性と限界について、一面的にはくみとりきれない彼の思考の難しさをよく示したものである。

 秩序生成の諸相を考察する本論文では、知覚、知性、自然、仮構機能、静的宗教など、ベルクソン哲学においては、どちらかといえば創造とは異質なもの、創造を見失わせるものとして論じられたはたらきや場面ばかりを取り上げて、考察を進めて行く。

 第一章では、私達のあらゆる活動の基盤になっている知覚の成立について考察する。ベルクソンの知覚の議論には、二義的な側面がある。彼は、知覚が、行動の関心によって構成されるもの(言ってみれば、人為的に作り出された秩序)であると主張する一方、直観と同様に実在を捉えることができるとも論じる。もちろん、直観とは異なり、知覚は実在の全体を十全に把握することはできないが、少なくとも実在の一部を捉えることができると論じるのである。そこで、知覚が実在を捉えるとはいかなる仕方によってか、またその限界がどこにあるのかという問題について検討する。

 第二章では再認と知覚について考察する。知覚が行動の関心によって構成されるというベルクソンの主張について、彼が身体的再認の事例について論じている箇所を参照しつつ検討する。身体的再認とは、はじめは意識的になしていた運動が、習慣化することで自動化するという現象である。身体運動の自動化と相即的に、運動の対象の再認も自動化されていく。これはある意味、新たな知覚認識の成立と言ってよい現象であり、知覚が人為的に作り出された秩序であるという側面がとくにクローズアップされるような場面である。そうした場面について検討することで、そうした人為的秩序である知覚が、それでも実在の一部を捉えているといえるのかどうかという点について検討したい。またこの章では、身体的再認による秩序づけと、本能による秩序づけを対比することで、身体的再認が、人間的知性の働きを待ってはじめて可能になるものであることも確認する。言語による思考の本質とは、例えば、身体をもってはたらきかけることのできない不在の対象の代理として記号を操作することで、実際にその対象を操作したらどうなるかをシミュレートしてみることである。先に見たように、知性が生み出す新たな行動パターン=習慣は、既存の身体的習慣の組み換えによって作られるしかないという限界をもつ。だが、記号を駆使することにより、知性はもはや外的状況に依存することなく新たな記号を自ら生み出し、自己触発を重ね、自らの思考を展開していく。数学や論理学は、記号に対する行動という特殊な行動領域の典型である。だが、記号使用に過度に依存する思考は、時に具体的な行動から遊離し、夢想に耽り、ややもすると思弁的な方向へと傾いて、ついには、世界のささやかな一側面を捉えるに過ぎない筈である自らの構築した記号体系を実在そのものと取り違えることになる。これこそが、ベルクソンの知性批判の眼目なのである。

 第三章では、第二章での議論を受けて、知性について論じる。序章ですでに触れた通り、科学的認識については簡単に論じてきたが、第三章ではまず、科学的認識という形で成熟していく知性的認識が、本来は知覚や本能と同様に行動の関心によって構成された秩序であるということを確認する。知性は、既知の固定的な要素で運動を再構成しようとする点で創造的運動を取り逃がしてしまう。しかし、自らの行動とその行動の対象を意識にのぼらせ、自らの行動として統制して行く知性は、未来の行動を計画するものであり、そのため不在の対象を操作することが可能なはたらきである。知性の特徴をベルクソンは道具の製作と記号の使用に見出した。道具の製作とは「機械」のように既知の部品の組み合わせによって求める運動を構成する思考にその本質がある。また、記号の使用は、代理のための判明で扱いの容易な表象をただ代替するという役割のためだけに使うという特殊な態度を生み出すことになる。いずれの場合も、知性の特徴となるのは、眼前の行動や状況から離れて、自らと自らを取り巻く状況を反省的に捉え、自らと異質なものを捉えるというはたらき方が、意識を必然的に覚醒させ、活性化する点である。直観は直接的で無媒介な把捉であるが、その直観へと向かう最初の一歩となる意識の覚醒には知性の発揮が大きく寄与することになる。けれども知性の限界は、それが求める行動の動機自体を自らは決して与えることが出来ない点にある。知性は動機となる感情が到来した時に適切な行動を組み立てること、与えられた枠組みの中で行動を精緻化することに威力を発揮するはたらきなのである。

 さらに第四章では、知性を象徴する道具の製作と一見似ているようで異なる二つの活動として、仮構機能と芸術の創作についても考察してきた。

 仮構機能は、知識や行動に関わるのではなく、事象の背後に「人格的」な存在を仮定することで知性の見出す機械論的なメカニスムとは異なる「心情的」な秩序を見出す。知性が与える機械論的な説明は、ものごとを反復的に再構成するには役立つが、不安や恐怖、エゴイスムの暴走など、私達の行動を左右するような感情の力に対して無力である。

 芸術の創作は全く異なる性質を持つ。芸術は、何か有用な結果を獲得するための産出ではなく、創造を突き動かしている感情の動きそのものへの一致であり、感情の直接の実現である。芸術は、直観に似て、もはや行動の有用性に縛られない芸術家によってのみ可能な創作であるが、私達に感情の共有を可能にすることあっても、行動の場面を離れたまま再び私達の行動を導く力を多くの場合与えない。直観は、人格による自由な行為として結実し、新たな切望を生み出すのである。直観は再び行動の場面に立ち戻り、新たな秩序の創造へと向かう。決まった結果、決まった目的、決まった手順などにもはや縛られない仕方で、直観が異質なレベルへと自らを射し込み続けることがそのまま絶え間ない創造の展開となる。

 こうして、私達にはさまざまな仕方で、既存の行動を脱し、既存の行動の関心から離れることで、既存の見方では見えていなかったものを新たに見出すはたらきと方法が与えられている。既存の枠組みを反復することの中で、その枠組みから離れるに至り、新しい行動の枠組みを獲得し、新たな生の在り方を導いて行くことが、まさに生命の姿である。そこに私達は、従来の哲学が重視してきた自由意志や合理性を逃れる、新しい哲学の可能性を見出すことが出来るだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ベルクソン哲学の中に読み取れる、人間の生における秩序生成の諸相を論じたものである。ベルクソンは人間の意識を主題にするときも生命を主題にするときも、その根底に、明確な輪郭をもたず絶えず新しいものへと変化する実在を見、そのような実在の有り方を持続と名づけ、それを把握する方法を直観とするが、その持続と直観の有り方を記述するために、それらに対立する実在の見方や方法を批判するという戦略を採る。しかし批判される側に置かれる事柄も豊かな実質的内容をもっていること、従ってベルクソンはそれらを否定したのではなく、それらに限界を設けたに過ぎないこと、そこでベルクソンの読み手は、ベルクソンの批判的な叙述のうちに積極的に評価すべき内容を収集することができること、ここに着目したところに本論文の独自性があり、本論文は、収集したものを人間の生における秩序生成の諸相として提示するのである。

 序章で問題設定を行った後、第一章は知覚の秩序の生成を見る。行動関心を引き付けるもののみが知覚対象として抜きだされ、かつ反復的な行動と対応する一般性において知覚される。第二章は、記憶と再認、新しい行動様式の習得・習慣化とそれに対応した対象知覚の再編を取り上げ、人間の意識的行動における知性というものの登場を見、次章につなげる。

 第三章はベルクソンの知性論を扱う。動物の本能とは違う仕方で世界を秩序づける能力としての知性の働きを、不在対象についての表象、対象との関係で一義的に確定されない人間の行動の組織化、道具の製作、世界の機械としての理解、記号や言語の使用等の諸方面において考察する。反知性主義の哲学者と見なされることの多いベルクソンの知性論は、むしろ私たちの生活がいかに知性の有効性のもとで秩序を形成して成り立たっているかを示していると論者は考えるのである。

 第四章と終章は、ベルクソンが知性と対立させた直観によって発見できると主張する実在とその価値という問題を、前章までの考察とつなげて扱うために、知性の働きを動機づけ知性に目的を与え更に知性以上のものに向かって人間を推し進める情動に焦点をおくという仕方で論ずる。具体的には、よりよい生を生きたい、そのために世界をよりよく理解したいという人間の有り方によって、宗教ともつながる仮構機能と芸術というものとが発生し、そこに人間の生の新たな秩序がみられると説くのである。

 以上のように、本論文は、ベルクソン哲学が一見は批判する相手としているものが、現実には人間の生にさまざまな秩序を生成させるものとして当のベルクソンによって大きな価値をも与えられていることを明らかにした労作である。他面、その代償として本論文では、ベルクソンが追求して止まなかった持続と直観との概念がどのようなものであるのかについての踏み込んだ考察は薄くなっている点、もの足りなさはある。とはいえ本論文はベルクソン哲学が描いた人間の生の実相をよく描きだし、今日の私たちにどのような課題があるかを示す力をもつものである。よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するに値すると判断する。

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