学位論文要旨



No 122021
著者(漢字) 宮下,聡子
著者(英字)
著者(カナ) ミヤシタ,サトコ
標題(和) ユングにおける宗教的倫理の可能性
標題(洋)
報告番号 122021
報告番号 甲22021
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第578号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関根,清三
 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 菅野,覚明
 東京大学 教授 熊野,純彦
 放送大学 教授 佐藤,康邦
内容要旨 要旨を表示する

 本稿はユング(1875-1961)における宗教的倫理の可能性を探る試みである。宗教的倫理とは、神と人間との関係が何らかの形で顧慮された人間のあり方を指す。ユングの宗教的倫理がどのようなものであり、そこにどういう意義を見出し得るかを考察することが本稿の狙いである。その際主として依拠するのは、ユングが経験的心理学の枠を超えて神学や形而上学の領域に足を踏み入れ、神についても比較的忌憚なく語るようになる晩年の諸著作である。

 構成は、大きく第1部と第2部に分かれる。第1部の論題は、「ユングにおける悪の位置」である。第2部で論じるユングの宗教的倫理の眼目が、善悪両面的な神との関連において人間悪への対処法を示すことにあるという意味で、第1部で予め悪の位置についてのユングの考えを明らかにしておくことが必要かつ有益であると考えたためである。第1部は第1章-第4章で構成される。

 第1章では、『自伝』(1961年)の「子ども時代」、「学校時代」の章に依拠して、悪をめぐるユングの幼年期から青年期までの体験と思索を辿る。ユングは日常生活での経験から、自然界や人間の内面に潜む悪を確実視するようになった。また、幼年期に見たファルス神の夢や少年期に見た大聖堂を破砕する神の幻によって、神に善の面と並んで悪の面があるということを知った。ユングは自らの体験的確信に基づいて、牧師をしている父をはじめとする身近な大人たちの説く専ら愛と慈しみの神という神観念に疑問を懐き、また、全き善なる神について説き、悪に対して思考を閉ざす姿勢が見て取れるキリスト教の教義学書やキリスト教的バイアスのかかった書物を拒絶した。その一方で、『ファウスト』で悪魔メフィストフェレスの活躍を描いて悪の存在、力、役割を生き生きと表現したゲーテや、世界における苦しみや悪について正面から語り、「意志」すなわち神の盲目性を洞察したショーペンハウアーに、ユングは親近感を懐いた。ユングが人生初期に悪のありかは世界の中、また神の中であると確信するに至る経緯を辿る。

 第2章以下は、悪についてのユングの晩年の思想を取り上げる。ユングの晩年期は第二次世界大戦をはじめとする、人間の巨悪が具現した一連の出来事が起こった時期と重なっている。そうした歴史的状況のためもあって、人生初期には未だ世界に存在する様々な悪の一つとして捉えられていた観のある人間の中の悪への関心が膨らみ、神の中の悪と並ぶ考察対象となる。

 第2章では、「キリスト、自己の象徴」(『アイオーン――自己の象徴表現への寄与』1951年、第V章)に依拠して、キリスト教の「善の欠如」の教説へのユングの批判について論じる。「善の欠如」の教説が前提としている「最高善」という神の規定が誤りであると示唆することで、また「善の欠如」の教説は人間の本性における悪の存在を否定していると難じることで、ユングが、悪が神の中に、また人間の中に存在するということを暗に主張していることを明らかにする。

 第3章では、「三位一体の教義への心理学的解釈の試み」(1942/1948年)に依拠して、父、子、聖霊、悪魔の四位一体として神を規定するユングの四位一体論について論じる。ユングはキリスト教の三位一体論に替えて、あるいは少なくとも三位一体論を補完するために、四位一体論を提示した。本稿ではユングが四位一体論を聖書によって根拠づけ得ると考えていた可能性に特に光を当て、四位一体論が実際聖書によってどこまで根拠づけられるのかを確かめつつ、ユングが、悪魔を神の一位格に位置づけることで、悪が神の中に存在するということを明示的に主張していることを明らかにする。

 第4章では、主として「現在と未来」(1957年)に依拠して、ユングの影論について論じる。ユングの影論は、人間の本性には、共存していくよりほかない、克服・根絶不可能な実体的な悪としての「影」が具わっているという主張である。キリスト教には伝統的に悪との対決を回避する傾向があり、例えば教会は悪をアダムのたわい無い過失、「原罪」に帰して説明しているが、ユングに言わせればこれは悪の過小評価にほかならない。ユングが、キリスト教の伝統的偏見と批判的に対峙しながら、影論によって、悪が人間の中に存在するということを明示的に主張していることを明らかにする。

 第1部では、以上の四章によって、ユングが生涯キリスト教と対決しながら、キリスト教によって奪われた悪のありかを神の中に、また人間の中に定めたということを明らかにする。

 続く第2部の論題は、「ユングにおける宗教的倫理」である。ユングの宗教的倫理には、神話的なものと理論的なものとがあり、それぞれ第5章、第6章で扱う。

 第5章では、『ヨブへの答え』(1952年)に依拠して、神話的に語られた宗教的倫理としての「倫理的神話」について論じる。同書でユングは聖書やマリアの被昇天の教義の解釈を通じて、神および人間の本性、神の意志、また道徳についての見解を作り上げ、それらを散りばめて人間のあり方を神話の形で語り、悪の問題と直面した同時代人に提示しているが、本稿ではその神話を「倫理的神話」と呼ぶこととする。さて、ユングが神の本性と見なすのは「対立の一致」と「無意識性」であり、人間の本性と見なすのは「意識性」である。なお、「善悪両面性」も人間の本性として前提とされているようである。ユングが神の意志と見るのは「人間化」である。そして人間が則るべき道徳としてキリスト教道徳あるいはキリスト教の徳と「悪の道徳」を提示する。神および人間の本性、神の意志、また道徳についての見解を散りばめてユングが紡ぎ出す倫理的神話とは、次のような筋である。「対立の一致」として善と悪の対立をはらんでいる「無意識」な神は「人間化」を欲し、人間に侵入して人間の魂あるいは無意識の中で新生しようとする。人間はこの神を受け容れるために、まず、キリスト教道徳を遵守することで義務の衝突に導き入れられて「魂の苦しみ」を知り、神の中の対立を受け容れる心理的態勢を整えなければならない。さらに人間は、一方でキリスト教の徳の実践によって有徳な人間になり、他方で「悪の道徳」に則って己の内なる悪や罪深さを自覚し、内なる善にも悪にも開かれていなければならない。そして人間は、善と悪の葛藤を心に感じ取った時、それを神の侵入のしるしと理解して受け容れ、神の中の善と悪の対立の統一こそ「意識」を持つ人間が無意識な神に対して果たすべき責任であると受け留めて、葛藤の苦しみに耐えなければならない。人間が意識を堅く保って葛藤に耐え統一に努めていれば、必ずや神は、対立が調和的に寄り添った「対立の結合」として人間の中で新生するはずである。その時今度は人間が、この新生した神に助けられて、己の内なる悪を内なる善で飼い馴らすことができるようになる。以上が倫理的神話の筋である。ユングは、人間のあり方としての倫理を、意味付与機能を持つ神話の形で語ることで、悪の問題と直面した同時代人に、善と悪の葛藤の苦しみは人間化を欲する神の侵入のしるしであると教えて励まし(苦しみの意味を説き)、善と悪の葛藤に耐えてその統一に努めることが神への責任であるとの使命感を発揚させ(使命としての意味を説き)、意識を堅く保って葛藤に耐え統一に努めていれば、必ずや神は人間の中で「対立の結合」として新生し、今度は人間がこの新生した神に助けられて己の内なる悪を内なる善で飼い馴らすことができるようになるという希望を与え(救いとしての意味を説き)、総じて悪との対決の意味を教えようとしたものと見られるのである。

 第6章では、「心理学から見た良心」(1958年)に依拠して、理論的に述べられた宗教的倫理としての「倫理的良心」について論じる。「倫理的良心」とは、善悪混淆する「神の声」としての良心に人間が「意識的吟味」を加えることで成り立つものである。人間が倫理的良心に従うということは、善悪混淆する、言わば無道徳な神の声としての良心に聞くことによって既存の道徳律の縛りを一旦超えたところへ導かれて道徳律から自由な境地に立ち、その境地から改めて神の声に意識的吟味を加えて悪を斥け善を選び取るということを意味する。倫理的良心に従うことで人間は、道徳律に縛られることなく、また神に唯々諾々と従うのでもなく、言わば根源的な善の判断を下すことが可能になり、真に人間的なあり方に到達できるとユングは考える。ユングは倫理的良心を最高の規範として提示したと見られるのである。

 第2部で論じた「倫理的神話」と「倫理的良心」は、善悪両面的な神との関連において人間悪への対処法を示そうという問題意識を共有していると言えるのである。

 終章である第7章では、前章までの議論を踏まえてユングの宗教的倫理を規定し、その意義について考える。ユングの宗教的倫理とは、善悪両面的な神との関係の中で、人間が意識において善と悪の対立を統一し、あるいは善と悪を吟味し、意識において悪を善によって制御する、あるいは悪を斥け善を選び取るというあり方のことである。神に対して人間が果たさなければならない、あるいは神のお蔭で人間が果たすことができるようになる心のあり方がユングの宗教的倫理の内容をなすのである。すなわち、善と悪の意識化、意識における善と悪の統一、あるいは善と悪の吟味、意識における善による悪の制御(悪の「撲滅」ではなく、あくまでも「制御」)、あるいは悪を視野に収めた上での善の選択という心のあり方である。そして、ユングの宗教的倫理の意義は次の四点に求められる。(1)ユングの宗教的倫理は、神と人間との相互関係を重んじるものであり、宗教と倫理の関係に関して、一方が他方を基礎づけるというのではなく、双方が規定し合う「宗教も倫理も」という豊穣な立場である。(2)ユングの宗教的倫理は規範ではあっても人間を拘束するものではなく、むしろ真に人間らしくあることへと人間を解放するものである。(3)特にユングの倫理的神話は、苦しみの意味、使命としての意味、救いとしての意味を説く物語であり、教条的にではなく人間の主体性の次元に働きかける意味を帯びたものとして倫理を提示し得る。(4)ユングの宗教的倫理は、悪への対処法を示すことを倫理的思索の中心に据えたものであり、まずそのこと自体意義深い。実に、悪への顧慮を欠く倫理は偏向の謗りを免れないからである。しかもユングの宗教的倫理は、悪の存在は認め、悪の価値は認めないという健全な感覚に支えられている。

 ユングの宗教的倫理は、人間を超えた次元を眼差しつつ、教条的にではなく、人間の主体性に働きかけ得る生き生きとした意味を帯びたものとして倫理を説き、悪を見詰め、悪への対処法を示すものとして、人間のあり方の一つの指針となり得る可能性を秘めていると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、C・G・ユングの主要諸著作を広範精細に読み解き、悪を見据えつつ神と人との関係から倫理を基礎付ける「宗教的倫理」の主張をそこに探り当て、その倫理学的な意義と可能性について考察することを、主たる課題としている。

 その考察には主に第2部(5、6章)と終章(7章)が当てられるが、それに先立つ第1部(1-4章)も、宗教的倫理へと結実する、ユングの神体験の分析、「善の欠如」としての悪論や、神の悪魔性を無視した三位一体論など、正統キリスト教の教義に対する批判、更には心理学的な影についての所論などを読解検討して、その考察に備えるものである。

 ユングには子供のころから既に、世界や、更に神の中に、悪が存在するという体験的確信があった(1章)。そして第二次世界大戦など巨悪を経験するに至ってユングは、キリスト教が悪を「善の欠如」とだけ規定することを批判し(2章)、また、神を父、子、聖霊に加えて悪魔の四位一体として把握すべきことを主張した(3章)。加えて、人間の本性には実体的な悪としての「影」が具わっていると説いて、この悪は克服不可能であり、人はこれと共存していくよりほかはないことを認定した(4章)。

 神と人間が助け合いながら互いの内なる善と悪の対立の統一を果たし、最終的には人間の中で善をもって悪を飼い馴らすという境地が実現されるという物語を、論者は『ヨブへの答え』の精緻な解釈を通して確認し、これを「倫理的神話」と呼んで、同時代人に悪との対決の意味を教えるものとして読み解く(5章)。

 それに対し、理論的な宗教的倫理は「倫理的良心」の思想とされ、善悪混淆する「神の声」としての良心に、人間が「意識的吟味」を加えることで成り立つものと考えられる。人間が倫理的良心に従うということは、無道徳な神の声に聞くことによって、既存の道徳律の縛りから一旦自由となったところへと超出し、その境地に立って改めて神の声に意識的吟味を加え、自覚的に悪を斥け善を選び取るということを意味する(6章)。そのことによって人は、道徳律に形式的に縛られることなく、また神の権威に唯々諾々と従うのでもなく、言わば根源的な善の判断を自律的に下すことが可能となり、真に人間的なあり方に到達できると、その意義が捉えられるのである(7章)。

 以上、各章ごとに独自の問題を提示し、テクストの周到な読みと先行研究との均衡の取れた対論の中で、新しい認識を紡ぎ出していく論述は、説得力に富み、しかも7つの章が一貫した問題意識によって、緊密に関連しつつ展開するのである。すなわち、倫理学的には、ともすれば独断的になることを恐れて口を噤みがちな宗教の倫理について、ユングの宗教批判を踏まえつつ、微妙な語り口を探り当てようとする試みであり、またユング研究としては、分析心理学、集合的無意識、元型などの概念分析や、西洋の正統的キリスト教の刷新、錬金術や東洋の易経・禅などの再評価等々、ユング自身の多岐にわたる問題関心に応じて分散しがちな状況の中で、それらの根幹に悪への眼差しが通底していることに着眼し、それと善との関係を問うことによって、ユング思想の一つの統括的可能性を示唆したものである。その意義は、高い評価に値する。

 他面、哲学史を顧みるならば、神の善性だけでなく悪性を考慮した神観は、例えばヤコブ・ベーメ、西田幾多郎等にも見られ、それらを踏まえた宗教的倫理それ自体のより多面的な展開は、今後に期待されるところである。とはいえ、そのことはユング内在的な本論文にとって特段の瑕疵となるものではない。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判定する。

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