学位論文要旨



No 122023
著者(漢字) 坪井,祐司
著者(英字)
著者(カナ) ツボイ,ユウジ
標題(和) 英領期マラヤにおけるマレー人枠組みの形成 : スランゴル州の植民地統治におけるマレー系移民の役割
標題(洋)
報告番号 122023
報告番号 甲22023
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第580号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 教授 水島,司
 東洋文化研究所 教授 中里,成章
 東洋文化研究所 教授 加納,啓良
 法政大学 教授 吉村,真子
内容要旨 要旨を表示する

 本論は、英領期マラヤにおける植民地行政の分析を通じて「マレー人」という概念の成立の歴史的過程の解明を試みるものである。

 マレーシア研究において、種族(エスニシティ)は重要な分析概念の一つである。マレーシアは、マレー人、華人、インド人という三つの主要な種族により社会が構成される複合社会(Plural Society)であるとしばしば形容されてきた。マレーシア社会は種族集団の集合体としてとらえられ、種族という枠組みそのものをめぐる議論を含めて、その構造の解明が大きな焦点となってきた。本論では、英領期におけるマレー人という集団とその概念の形成過程を再検討することを通じて複合社会論を相対化しつつ、マレーシアにおける民族、種族概念の形成過程の一部を明らかにすることを試みる。

 現在のマレーシアにおいて、マレー人は華人、インド人と比べて先住性を持つことから政治的な優位が保証されており、憲法ではマレー人の公的な定義づけがなされている。一方で、マレー人とは誰かという問題は歴史的なものであり、前近代から現代に至るまで幅広い関心を集めてきた。そのなかで、英領期はイギリスにより人種概念が導入され、枠組みが固定された時期とみなされるが、前植民地期の研究においてはマレー概念の多様性が強調されており、その多様性が植民地期にどう変化したのかは問題とされねばならない。

 本論は、マレー人という枠組みの成立という視角からイギリスの植民地統治の展開を概観し、当局と在地社会の相互作用を通じて在地社会の在り方とその変容を描くことを試みる。そのため、英領マラヤを構成した一州であるスランゴルをとりあげて当局と在地社会の接点にあたる地方行政を分析する。地方行政におけるマレー人の位置づけを検討するとともに、植民地当局に対して在地社会が見せた働きかけを検討する。なかでも本論では、行政的にはマレー人とされた移民(マレー系移民)の果たした歴史的な役割を検証する。マレー系移民の比率の高い地域であるスランゴルの事例は、従来の定着的なマレー社会像や固定的なマレー概念をめぐる議論を相対化するものである。

 第一章では、マラヤにおける人口統計の分析を通じて、イギリスの植民地行政上の人種概念、マレー人概念の成立過程を通時的に整理する。英領マラヤにおける植民地当局の人種概念は、マラヤにおける行政機構と人口把握体制と密接に関連したものであり、植民地当局の在地社会に対する認識が反映されていた。移民への依存度が高かった19世紀末のマラヤで成立した人種範疇では、人口はその出自ごとに分類された。マレー人は、地元のムラユ人を指す概念であると同時にジャワ人などのマレー群島に出自する集団全体を含む概念であり、重層性を持った。マラヤという地理的枠組みが成立した20世紀になると、ムラユ人には英領マラヤに帰属する人びとという意味を帯びるようになり、移民が定着してムラユ人になる傾向も見られた。人種概念はマラヤの人口状況に応じて変更を迫られるものでもあり、マレー人概念は移民の定着という植民地期における長期的な社会変容とともにマラヤという行政体との結びつきを強めた。

 第二章からは、第一章で述べたマレー人概念がスランゴル州の植民地行政に適用される過程を扱う。第二章では、19世紀末のイギリスの植民地統治体制における「現地人(natives)」概念とそのなかでのマレー系移民の役割を検討する。スランゴルはムラユ世界の周縁地域であり、住民のなかには多様な移民集団が含まれていた。王権も外来の有力者をとりこむことで成立していた。イギリスは現地人の秩序を植民地統治機構に取り込むべく、有力者に首長を意味するプンフル(penghulu)という称号を与えて、地方行政の責任者として現地人を管轄させる体制をしいた。当局もスランゴルの現地人の多様性は承知しており、マレー系移民も現地人のなかに含めた。そして、積極的に移民出身の首長を任命して統治の浸透を図った。現地人首長として制度化されたプンフルに対しては、在地社会からの働きかけがみられた。なかでも移民集団は、しばしば自らの首長をプンフルとして公認することを求める陳情を行った。彼らは代表者を通じて政庁と関係を持つことで、行政のうえで地元マレー人など他集団と互いに対等な立場となっていた。

 第三章では、20世紀における植民地政策の変化を扱う。FMSにおけるマレー人優遇策である「親マレー人政策」を検討し、植民地政策におけるマレー人概念の形成とその適用の過程を考える。第一にマレー人官吏の登用政策では、政策の根拠としてマレー人がマラヤにおける土着の人びとであることが強調された。マレー人上級官吏の養成は英領期に成立した州、連邦という行政単位で行われ、その行政体に帰属していることがエリートの資格となった。第二に対マレー人土地政策においては、定着的な稲作に従事する自給的な小農としてのマレー人像が形成された。マレー人のなかには移民も多数含まれていたが、政策のうえでは彼らの存在は考慮されなかった。マレーという概念は土着民としての側面と移民としての側面を併せ持っていたが、定着性、領域性を基盤とする植民地体制下において、定着的なマレー人概念が移動的なマレー人概念に優越していった。一方で政庁は政策枠組みにマレー系移民を取り込むことも意図しており、現実には移民やその子供たちがマレー人として土着性を獲得していく過程が存在していた。

 第四章では、中央行政において成立したマレー人という枠組みがスランゴルの地方行政に与えた影響を考える。20世紀以降、現地人に代わってマレー人という枠組みが政策に適用されたことにより、プンフルは現地人首長からマレー人官吏へと性格を変えた。プンフルはスランゴル州のマレー人官吏として州への帰属が強調され、現地で生まれた「スランゴル・マレー人」であることが条件となった。一方で、移民はその出自意識を維持し、当局への働きかけを続けた。出自ごとの移民集団の代表者という役割は、プンフルからクトゥア・カンポン(Ketua Kampong、村長)へと継承されつつ存続した。しかし、クトゥア・カンポンはプンフルの下位に位置づけられ、各移民集団はマレー人という概念の下位に位置づけられた。移民集団は、プンフルやクトゥア・カンポンをめぐる行政手続きに参加することを通じてマレー人の枠内へととりこまれたのである。

 イギリスが概念化したマレー人という枠組みは、政策の展開過程で在地社会によりさまざまに再解釈された。特に、政策枠組みから外れた人々(マレー系移民)は当局に対し積極的な働きかけを行った。スランゴルのマレー人とは、こうした不断の移民の流入と定着の過程を経て、移民を取り込むことで成立した。イギリスは州という領域的枠組みが持ち込み、土着性をもつ人びととしてマレー人を定義したが、一方で移民の存在を無視することはできず、彼らを取り込む形でマレー人の輪郭を形成した。行政におけるマレー人という枠組みは、こうした地方レベルでの植民地当局と在地社会の相互作用を通じて形成されたものである。また、マレー系移民の集団形成の枠組みはマレー人という枠組みの下に埋没しながらも存続した。そうした在地社会による植民地枠組みの解釈、現地化の過程を経て、重層的な「マレー人」という枠組みが成立したのである。

 マレー人概念は政策のなかで重要な位置を占めており、植民地当局と在地社会の双方の意見が交錯する場となっていた。移民が重要な役割を果たしたスランゴルの事例は、マレー人社会の移動的な要素が領域的、定着的な植民地支配下でいかなる変化をみせたかを分析する材料となる。移動的な社会が定着し、領域的枠組みが成立したことが植民地期の根源的な変化の一つである。植民地期以降マレー人が論じられる際にはその土着的な側面に焦点が当てられがちであるが、こうしたマレー系移民の存在とその定着過程にもより焦点があてられるべきである。移民が定着して在地社会へと位置づけられる20世紀前半、特に1920、1930年代における変化はより注目されるべきであろう。マレー人枠組みの形成過程は、植民地統治を通じた社会の変化を映しだしている。

 人口が希薄で移動性の高かったマレー半島では、集団形成の枠組みが歴史的にも重要性を持ってきた。なかでも、バンサ(bangsa)という概念は、植民地期にもたらされた人種概念に対応する概念として近代以降マレー人を核とする集団形成の基本的な枠組みとなった。スランゴルでは移民集団が自らの首長を有しており、スマトラ出自の移民集団は自らをバンサと称した。イギリス人は移民集団をバンサと認識し、バンサを現地人首長として公認することで彼らを土着化させようと試みた。植民地政策のなかでマレー人という枠組みが強調されるようになると、当局はバンサ概念をマレー人概念の下位へと位置づけた。しかし、バンサ枠組みは当局への申し立てをする際の枠組みとして新参の移民にも共有されていた。移民が定着することでマレー人枠組みへと参入していく過程がみられるように、スランゴルの社会は移民を位置づけていく柔軟性を持っていた。

 このスランゴルの社会のあり方は、土地に比して人口が稀少であったマレー半島地域においては程度の差はあれ共有されていたと思われる。複数の集団が権力とそれぞれに関係を結ぶことで不均質な社会が形成される構造を複合社会的構造とするならば、前植民地期から脱植民地化の時期に至るまでこの地域の歴史のなかで、複合社会的構造はひとつの共通性を持っていた。植民地の遺産として複合社会概念が強調されることで人口稀少な移動的商業空間であるマレー半島における社会形成のあり方が隠されてしまいがちであるが、その社会の持つ多様性は植民地期を越えた歴史的文脈に位置づける必要がある。「マレー人」というあいまいな枠組みは、マレー半島の社会が生み出した歴史的な産物であるといえるのではなかろうか。

審査要旨 要旨を表示する

 マレーシアは典型的ないわゆる複合国家であり、それぞれ異質な文化・社会を有するマレー人、インド人、華人が併住する国家である。諸民族の統合による民族国家の形成は、独立以来、マレーシアの抱える最大の国家的課題である。本論は、「土地の子」として概括され、外来二民族に比して専論されることの少なかったマレー人概念の形成を論ずる。

 第1章では、英領マレーで実施された各種センサスにおける民族分類概念の変化を追跡する。19世紀末には、華人、インド人、マレー人という在住民族の3分類が確定していた。しかし、植民地当局のマレー人概念には、半島マレー人をさす狭義のマレー人と、現在の東マレーシア、インドネシアなどマレー半島出自のマレー系民族をまとめた広義のマレー人という二重性があった。

 第2章では、このマレー人概念の二重性が在地の管理体制の変化にどのように照応していくかを分析する。新開地スランゴル州では、さまざまな地方から多様な移民が渡来してきた。植民地末端地方行政の長はプンフルと呼ばれ、本来は現地人の有力者であった。しかし、植民地当局はゴム園労働力の定着のために、外来集団の長をプンフルに任命し、在地社会の管理責任をもたせた。移動的な外来マレー人も、その土地に定着し、管理されるマレー人と観念され、マレー人概念が著しく拡大した。植民地統治に適応した外来マレー人がその出自にかかわらず、マレー人として統括される秩序が生まれたとする。

 第3章では、新たに植民地によって創出されたマレー人が半島の社会秩序の基幹として育成される過程が、植民地当局の政策及びスランゴルでの対応を通じて論じられる。植民地下におけるマレー人優遇策として、自給稲作農民の保護を目的とするマレー人保留地制と、マレー人を秩序の主体とするマレー人エリート育成策が積極的に講じられる。ムラユ王権と植民地権力との合作により、マレー領域内に定着する「土着的」なマレー人という言説が生まれた。

 第4章では、再びスランゴル州の事例に戻る。スランゴルでは、上述の土着的マレー人概念の形成とともに、プンフル職はスランゴル出生のマレー人に限定された。従来の外来マレー系集団の長はプンフルに従属するクトゥアカンポン(ムラの長)に任命され、行政末端に参加することによって、マレー人概念の中にとりこまれていった。

 結論では、植民地における移動型社会から領域型社会への移行にともない、土着的、定着的なマレー人言説が生まれたとする。

 本論は現代の言説を相対化するものとしての歴史学の意味を遺憾なく発揮している。従来のマレー人、華人、インド人の枠組を越えて、マレー人と概括された集団の形成を細かく分析した学術史上の意味はおおいに評価できる。また植民地期史料の分析も、地域を限定した結果、緻密で瑕疵がみられない。なかんずく、マレー人形成にいたる論理展開は、きわめて説得力がある。

 一方で、植民地という国際経済関係に中に位置づけられた社会の中の民族概念の分析としては、イギリス植民地政策全体からのアプローチがなく、またマレーシア内に限っても、マレー人概念の成立に決定的であった華人、インド人概念への考察が不充分である。しかし、これは本論によって得られた貴重な知見を基礎にして、はじめて本格的に展開されるものであり、致命的な瑕疵ではない。

 よって、審査委員会は本論に対し博士(文学)の授与に適当であるという判断に達した。

UTokyo Repositoryリンク