学位論文要旨



No 122024
著者(漢字) 李,衣雲
著者(英字) LEE,I YUN
著者(カナ) リ,イユン
標題(和) 台湾における「日本」イメージの変化、1945-2003 : 「哈日現象」の展開について
標題(洋)
報告番号 122024
報告番号 甲22024
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会情報学)
学位記番号 博人社第581号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋元,良明
 情報学環 教授 吉見,俊哉
 情報学環 教授 姜,尚中
 情報学環 助教授 水越,伸
 筑波大学 助教授 石井,健一
内容要旨 要旨を表示する

 1990年代、台湾では日本大衆文化を中心として、10年間ほどの哈日ブームという現象が起きていた。哈日ブームは強大な経済力を引き起こしただけでなく、「日本」イメージを一種の高い文化資本や上品さをそなえるブランドとした。

 しかし、日本大衆文化の台湾における発展は、1990年代から始まったことではない。1970年代以前、台湾では、日本映画、日本のものである「手掛かり」が抹消された日本漫画、カバー曲にされる日本流行歌などの日本大衆文化がすでに存在していた。1972年、日中国交樹立以降、台湾では日本文化が禁止され、公的なマーケットから消えたが、アンダーグランドで発展していった。その後、日本大衆文化は戒厳令の解除、特に1992年のCATV局の日本ドラマの放送以降、拡大していった。元々、アンダーグランドのものだった漫画、アニメやファッションもそれによって顕在化して、一つのブームになった。

 哈日現象は単なる突発的なブームではなく、台湾における日本大衆文化の発展の累積による現象である。これを解明するため、本論文は、哈日ブーム、あるいは日本大衆文化によって形成された「日本」イメージを論じる時には、1990年代の断面から考えるだけでなく、研究の時間点を1950年代以降に拡大して、日本大衆文化が台湾で発展してきた歴史を探究する。そして、その発展によって累積されたエネルギー、多様性や親近感が、哈日ブームの形成基礎であるということを示して、哈日現象の特異性を明らかにする。

 ところで、台湾は旧日本植民地であり、戦後、反日教育も実施されていたが、同じ旧日本植民地である韓国や他の東亜諸国と比べると、台湾は旧植民地支配者である日本に対抗的意識が薄く、ブームを起こすほどの好意が存在している。このような状況、あるいは哈日ブームを理解するために、台湾独自の歴史を看過してはならない。

 終戦後、日本が台湾の領有権と台湾民衆に対する責任を放棄するとともに、台湾人も日本に対する国家アイデンティティを捨て、同盟軍の指令を受けて台湾を接収しにきた中国(国民党)政府を、平等に扱ってくる「祖国」とみなした。この頃、「日本」イメージは「旧植民地支配者=悪」の象徴であった。ちなみに、1945年の日本の敗戦まで、台湾人が認識していた「祖国」イメージは、日本に対抗して生じた「虚像」であり、共通の経験や実践によって生じたものではなかったのである。しかし、当時の台湾人の日本植民地時代に身体化されたハビトゥスや社会準拠図式は、異なる歴史を経験してきた中国人のものとは全く異質であり、しかも短期間に主観的意欲だけで変化させられるものではなかった。したがって、たとえ1945年には台湾人は積極的に中国化していったが、ハビトゥスや社会準拠図式の制限で、これらの中国化行動の効果には限界性があった。

 逆に、国民党政府を中心とする外省人にとって、日本は長い間戦争してきた敵である。戦時には台湾は日本の一部であり、日本の罪悪を分け合うべき存在と思われた。かくして、国民党政府は、一方では、漢民族共同体の名分で、台湾人の中心を構成する漢民族の台湾人をその共同体に引き込むことを意図していたが、他方では、日本植民地時代のように、社会における支配者と被支配者の区分をつけ、「省籍対立」という現象が発生した。台湾人が想像した「祖国」は、実際の国民党政府との絶えない衝突、および1946年の「228事件」によって、ついに新植民地支配者となった。これらの新植民地支配者に抵抗するため、当時の台湾人は外省人と区別する基準を探し始めた。漢民族の慣習は、このような区別の機能を有していなかったので、当時の台湾人と外省人と最も際立った差異である日本植民地時代の経験が、その基準になった。こうして、台湾における「日本」イメージに好転傾向が現れ、しかも抵抗的な象徴的意義が生じた。

 1950年代以降、台湾に移ってきた国民党政府は中国化政策を強力に行い、中国本位の集合的記憶や国家アイデンティティを台湾全島に及ばせた。この集合的記憶では、日本は「民族の敵=悪=外」を代表しており、国民党政府はこの悪に対抗して、しかもそれを負かした指導者として、民族的栄光を受けた。つまり、国民党政府の集合的記憶の中で、「日本」は、内部を結束する「外的な敵」という意義を持っている。

 このような集合的記憶が普及したにもかかわらず、日本大衆文化は依然としてアンダーグランドで発展していた。一方、日本を敵と見なす集合的記憶を抱く台湾の消費者も、日本大衆文化や消費文化を受け入れた。この現象について、以下に理由を述べる。

 第一、国民党の集合的記憶に対抗する集合的記憶の存在である。1946年に国民党の統治に抵抗する中で、「日本」イメージが好転し、1950年代以降も、このような対抗や区別の意義は依然として続いていた。1960年代末以降、戦後世代が構築した台湾本位の集合的記憶には、「日本」は国民党統治に対して、対抗や区別の意義を持ち、相対的な好意が形成されるようになった。日本植民地時代を経験した台湾人は、主観的には「日本」に対して好意を抱いているので、日本植民地時代から身体化されたハビトゥスや実践を放棄する意欲が薄く、これらを再生産の次元で次の世代に伝承した。したがって、公的に反日教育が実施されていたにもかかわらず、台湾人の戦後世代は、「日本」/日本文化に親近感、さらに好意を持っている。

 また、台湾社会や生活に残っている日本の痕跡、および台湾人との接触の中で、外省人も日本文化に馴染んでいき、日本大衆文化やその表現方式を受け入れるようになった。1990年代以前、台湾における日本大衆文化は、日本風の物事などの表現が抹消されていたため、異なる集合的記憶や「日本」イメージを抱く消費者は、それらのものを日本製だと意識せずに消費した。したがって、日本大衆文化は静かに発展する可能性を得て、信頼度を徐々に構築し、しかも台湾の消費者に自らの叙述体系を習得させた。

 第二、大衆文化は、政治・歴史と分立する特質、いわゆる「擬中立性」をそなえている。大衆文化自体は文化の一種として、事実上、ある程度のイデオロギーを持っており、消費者にその生産国に対する好感をもたらす。しかし、大衆文化は日常世界と断裂するカーニバルの特質や、感性でその内容に含まれたイデオロギーを包み飾る傾向がある。換言すれば、大衆文化の領域に留まっている消費者にとって、「日本」は実際の日本国ではなく、一種の「虚像」でしかない。しかし、一旦大衆文化の非日常性が、政治・歴史問題という現実に侵入されれば、反日感情も発生しかねない。

 第三、「日本」に対する好感は、必ずしも日本国への好感と一致するわけではない。台湾では長期にわたり二つの集合的記憶が絶えず闘争し続けてきたので、戦後世代に一種の歴史的連続性の断裂を形成させた。このような現象は、かえって日本大衆文化によって形成された政治などと分立した「日本」イメージを、二つの集合的記憶と共存させている。

 第四、長期間にわたる台湾文化市場の空白である。終戦以降、国民党政府は自由権をけん制し、出版物に検閲制度を実施した。しかし、1970年代以降、台湾は経済的に急速に発展して消費社会に進み、余暇や消費生活に対する需要と実行力が高まった。したがって、台湾の文化市場の欠乏は、外国からの大衆文化商品によって埋められた。親近感や文化近似性をそなえる日本大衆文化は、台湾の産業界に能動的に導入され、アンダーグランドで多くの分野をカバーして、自らの勢力を作り上げていった。これは、日本大衆文化の叙述体系を台湾の消費者の大衆文化に対する認知概念に刷り込むことを促した。

 戒厳令解除後の1990年代に至ると、台湾の市場では大量の日本大衆文化商品があふれ、強い経済力が生じた。いわゆる哈日ブームである。哈日現象の形成の土台は、日本大衆文化の台湾における長期間にわたる発展の累積、および国民党政府の統治への対抗意識が形成した対日の好感によることであり、一種の突発的で一過性のブームではない。

 1990年代、哈日ブームは起き、いまひとつの「日本」イメージを構築した。日本大衆文化は長い間その実用価値で消費者の信頼性を築き、その後、日本番組は、撮影の技法などを通して、一種の上品な「日本」イメージを形成した。台湾における「日本」イメージは次第に大衆文化や電気製品などの各々の分野を越え、自らの信頼度を得るとともに、上品さや流行を代表するブランドをも築いた。日本大衆文化は一種「上品な」イメージを表現し、しかもそれが次第に「日本」に移転していった。消費者は「日本」の商品を使用する際、「日本」というブランドが持つイメージも分ち合う。「日本」イメージは日本大衆文化や商品から離脱して、一つの独立した記号になった。しかし、このような「日本」イメージは、一種の虚像であるので、流動的で、他の対象に取って代わられるモノである。したがって、消費欲望や新鮮さを刺激し続けることができる「物」を提供しなければ、そのブランドの存在を喚起することができない。海賊版や代替商品の出現、消費対象の多様化、日本アイドルの来台回数の激減などの哈日ブームを支える「物」の消失につれて、イメージを保てていても、ブームは続かなくなった。そして、台湾で約10年続いた哈日ブームは沈静化し、台湾の消費者の一般的な日常生活の一環に退いてしまった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、旧日本植民地時代から戦後を経て、現在に至るまでの台湾における「日本」イメージの変遷をたどり、「哈日ブーム」が単なる一過性の現象ではなく、台湾における日本大衆文化の発展の累積による現象であることを明らかにするとともに、台湾人における「日本」という他者の動態的位置づけの変容を理論・実証の両面から明らかにしたものである。本論は以下の五章からなる構成をとる。

 第一章では、台湾の哈日現象に関する日本、台湾における先行研究を紹介し、あわせて東アジアにおける台湾の哈日現象の特殊性に言及している。たとえば同じく日本の植民地支配を受けた韓国でも「日流ブーム」はあるが、対日イメージの向上には結びついていない。第二章では、1950年代以降の台湾の社会状況を背景として、日本大衆文化の台湾での発展を論じている。その時期、台湾では自国特有の大衆文化市場が停滞し、とくに歌曲、漫画、アニメ、ドラマ等の領域でアンダーグラウンドにおいて日本の大衆文化が発展した。第三章では、45年以降の「日本」イメージの変化を歴史的にたどっている。戦後、中国に対する「祖国」イメージは、外省人との衝突や1946年の228事件によって瓦解していく。一方で、植民地時代の「集合的記憶」がノスタルジックに日本に対する好意を増幅した。第四章では、潜在化した日本大衆文化の発展が累積し、総合的に「日本」イメージが独立したブランドに成長する過程を、記号論的考察も交えて論考している。終章の第五章では、90年代以降、台湾において日本大衆文化が、一種独特の文化資本を有するブランドとして構築されていった過程、その後、哈日ブームが沈静化し、日本文化が日常化する様相を分析している。

 このように、本論文は、台湾における日本大衆文化の受容、とくに哈日現象を、植民地時代からの集合的記憶、戦後の国民党政府政策との軋轢、台湾固有の文化市場の停滞等、歴史や民衆心理の側面から多面的かつ深層に分け入って考察し、日本イメージの形成が累積的で台湾独自の複雑な歴史によるものであることを明らかにした意欲作である。これまで台湾の日本大衆文化研究は90年代以降のドラマの分析に片寄る傾向にあったが、本論文は時期を植民地時代にまでさかのぼり、また分析対象を漫画や歌曲にまで広げた。また、韓国を初めとする東アジア諸国との日本文化受容の差異についても歴史的経緯から明らかにしている。

 植民地時代における「ハビトゥス(P.Broudieu)」形成過程の考察や「日本」という他者に対する意識変化を説明する理論的根拠付け、哈日現象沈静化以降の日本大衆文化の位置づけの考察等、今後、分析を深めるべき課題も多々残しているものの、本論文で示した成果と研究手法をさらに発展させるならば、当該研究領域において多大な功績を残すことになろう。そのために必要な視座と学識は、本論においてすでに十分披瀝されている。

 よって、本審査委員会は、本論文が博士(社会情報学)の学位を授与するにふさわしい水準に達しているものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク