学位論文要旨



No 122027
著者(漢字) 遠藤,野ゆり
著者(英字)
著者(カナ) エンドウ,ノユリ
標題(和) 或る自立援助ホームにおける養育実践の解明 : サルトルに基づく思春期の意識の在り方と養育者の働きかけの事例研究
標題(洋)
報告番号 122027
報告番号 甲22027
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中田,基昭
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 助教授 西平,直
 東京大学 助教授 中釜,洋子
 東京大学 助教授 能智,正博
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、或る自立援助ホーム(「ホーム」と略)における養育者と思春期の子どもとの関わり合いの内実を、サルトルの意識論に基づき、事例に即して明らかにすることを課題とする。この課題を遂行するため、本論文は、サルトルによる意識の解明に依拠し、第I部「本論文の課題と意識の現象学的解明」、第II部「事例研究1:対自の在り方に着目した子どもの意識の解明」、第III部「事例研究2:対他の在り方に着目した子どもの意識の解明」、第IV部「サルトルの真理論に基づく養育者の働きかけの解明」、という四部構成になる。

 第I部では、第II部以降の事例研究を基礎づけるべく、本論文に関わりのある先行研究を概観し、サルトルの『存在と無』に依拠する必要性を導き出す。

 第一章では、ホームで暮らす子どもたちは被虐待や非行経験を抱えることが、自立援助ホーム設立の経緯と合わせて概観される。

 第二章ではまず、諸先行研究の不十分さが考察され、思春期の子どもたちの在り方を解明するためには、意識の揺れ動きそのものである自己へと向き合わされる人間の在り方を明らかにする必要性が示される。そのうえで、メイ、レイン、木村に基づき、自己を捉えることによって変化してしまう、という二重性を備えた意識の根源的な在り方が示されると同時に、世界、時間、他者関係に関する彼らの記述の不十分さが導き出される。

 第三章では、教育研究は子どもたちの生に寄与すべきことが示され、子どもたちの生を描き出すためには現象学を理論的背景とすること、とりわけ思春期の子どもの意識を解明するためには、『存在と無』におけるサルトルの意識論に基づくことの必要性が導き出される。そのうえで、『存在と無』を中心としたサルトルに関する先行研究を通覧した結果、意識の具体相がこれまではほとんど描き出されていないことが明らかにされ、世界内に具体的に存在している一個の人間の在りように定位して、『存在と無』における記述を筆者なりの仕方で再構成することになる。その結果、「対自」であるがゆえに決して安住することができず苦悩する意識の在りようが描き出されることになる。

 第II部では、対自は自己との差異を乗り越えようとする動態の中にあり、この動態こそ時間経験を基礎づける時間性であるがゆえに、人間は、時間の形式においてしか捉えられない、というサルトルの解明に基づき、子どもたちの意識の在り方が、現在、過去、未来という時間の観点に沿って、事例に即して考察される。

 第四章「現在において自己から脱自する意識」では、「それがあらぬところのもので在り、それがあるところのもので在らぬ」、という対自の根源的な在り方に即し、養育者から厳しく叱られる事例を中心に、自らの在りようを捉え成長していく子どもたちを描き出す。人間には、あるがままの自己は捉えられず、自己を捉えるためにはしばしば因果論的な説明が必要となる。ところが、被虐待経験を直接指摘された時のように、因果論によってでは自分の在りようが説明できなくなると、子どもたちは、話の中心をずらすという逃避によってしか、その辛さから逃れられなくなる。しかし、何かから眼を逸らせば、その何かが強く意識され、自分の被虐待体験へと向き合わざるをえなくなる。このように、逃避そのものにおいて自己自身と向き合うことこそ、対自が自己へと現前すること、といえる。子どもたちも、苦悩の中で自己と向き合う時、意識の二重性に気づかされことになる。

 第五章「過去を自己の事実性とする意識」では、自己への現前によってこうした作用を及ぼされる対自が、自身の経験を自分自身の事実性として引き受けていくことにより、過去を本当の過去としえるようになるまでの過程が描き出される。とりわけ、深刻な被虐待経験を抱える或る少女が、ホームに入所当初は、自分の経験を母親からの厳しい躾として捉えているが、養育者からの指摘を受けて、また養育者との間に柔らかな信頼関係を築きつつ、徐々に被虐待の事実を受け入れるようになっていく過程が記述される。このように、被虐待の過去が、当の子ども自身によって、「もはや取り返しのつかないもの」として選択される時初めて、過去は、既に過ぎ去った己の事実性となりえることが、明らかにされる。

 第六章「未来へと自己を超出する意識」では、未来の在り方と密接に関わる価値に定位して、自立に至るまでの子どもの変化が考察される。サルトルによれば、人間の掲げる価値は、当人が自己を超出していくその方向づけそのものであり、その価値を価値づけるのは自分でしかない。にもかかわらず、対自の不確かな在り方に甘んじることができずに、自ら掲げた価値を実現しようとせざるをえない即自的な在り方に伴う或る少年の苦悩が記述される。この少年のこうした苦悩からは、自らの在り方は自分以外の何ものにも支えられていない、という対自に根源的に備わる不安が明らかにされる。他方、自立を単に表象するのではなく、そのための準備を一つひとつ実現していくことによって、自立そのものを実感しながら自立へと至る子どもたちの、喜びに満ちた様子が描き出される。

 第III部では、対自論に基づく第II部の解明を受けて、やはり『存在と無』に基づき、対他論の観点から、ホームでの出来事が考察される。

 第七章「対象-他者との出会い」では、まず、共に生活している他者の集っている空間に入ってくることさえ実現しえなくなってしまう子どもの様子が事例に即して描き出される。この記述を通して、他者は、「対象-他者」として現われる際にも、自己の宇宙を崩壊させる、というサルトルの解明が具体化される。しかし他方では、他者の出現が、それまでの自らの世界を変様させるからこそ、世界を新たにそして豊かにされることも可能であることが、未知の食べ物を摂り入れる或る子どもの事例を通して、明らかにされる。

 第八章「『人』への埋没」では、他者の出現のこうした本来的な作用を入所当初は経験することのできなかった或る少年の在りようと、半年間にわたる彼の変化とが考察される。サルトルによれば、私たちは日常的には、他者の本来的作用を意識せず、むしろ、他者を誰でもよい誰かの一人としての「人」とみなしえる。しかし、本章で考察される少年は、他者と関わりつつあるという自己についての非定立的意識さえ十全に機能させられず、自分自身をも「人」の中に埋没させてしまう意識となっていることが描き出される。さらに、彼の変化を考察することにより、サルトルによっては考察されていない、他者を他者として経験しうる基盤が損なわれている際の人間の在りようが明らかにされる。

 第九章「主観-他者からの超越」では、「主観-他者」としての養育者の「眼差し」により己の可能性を奪われると感じる子どもたちの経験が描き出される。特に、養育者からの叱責を逃れようとする或る少女の事例において、養育者による強い「内的否定」がもたらす作用の大きさと、主観-他者から蒙る辛さにより可能となる自己の乗り越えとが描かれる。

 第十章「対象-我々への変様」では、相克関係にはない第三者の出現によって、子どもたちは自己を変様させながらもその辛さを支えられているという事態と、養育者と共に第三者にとっての「対象-我々」となる時の子どもたちの経験とが記述される。特に、償うべき相手に真に償うことが決してできない己の在りように気づかされた或る少年が、償うべき相手からの眼差しの脅威を少しでも和らげてくれる他者としての養育者を必要とし、自らの苦悩を語りかけざるをえなくなったことが明らかにされる。

 第IV部では、サルトルの『真理と実存』、『文学とは何か』、『倫理学ノート』に基づき、養育者が子どもをいかに支え、何を己の責任として引き受けているのかを明らかにする。

 第十一章では、このことを解明するための基盤として、先行研究と対比させながら、存在の在りようを、自ら能動的に暴露していくことこそ真理の開示である、というサルトルの真理論の特質が描き出される。

 第十二章では、生活の細々とした営みを支える女性養育者の働きかけが、働きかけられているという実感を子どもたちに味わわせる「贈与」としての真理開示となっていることが明らかにされる。しかし、養育者のこうした働きかけは、真理としていつでも検証できるようにと子どもたちへ「開かれて」いるがゆえに、検証は行なわれないかもしれないという危機に、養育者自身を常に晒すことになる。それどころか、こうした危機は、その真理開示の結果を引き受けるのは子どもであって自分ではない、ということをも引き受ける責任として覚悟されることになる。そうであるからこそ、養育者は、「ジェネロジテ」の態度でもって、己の真理開示に生を懸けることになるのであり、そうして初めて、子どもたちの内面深くにまで響く、時に厳しい作用の及ぼし合いが可能となるのである。

 以上、本論文では、対自としての意識の在り方に徹底して定位することにより、辛い経験を抱えた思春期の子どもたちが、養育者と自己自身との存在によって作用を及ぼされ続ける、その変様を克明に記述し考察した。このことにより、日常的な関わりだけでなく、子どもが辛さを味わう関わりの、子ども自身にとっての意味を明らかにし、被虐待や非行経験を抱える子どもたちに対する支援や養育の具体的在り方を示唆することとなった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、或る小舎制自立援助ホームにおける、養育者と思春期の子どもたちとの関わり合いを、サルトルの意識論に基づき、事例に即して明らかにしている。被虐待や非行体験を抱える子どもたちについての研究の必要性は、近年特に強調されるが、これまではほとんどなされてこなかった、養育者と寝食を共にしている養育実践場面での長期に亘る本事例研究は、極めて独創的であり、子どもの意識に即した、質の高い労作となっている。

 第I部では、第II部以降の事例研究を基礎づけるべく、意識に関する先行研究の不十分さが指摘されると同時に、サルトル研究における従来の解釈とは異なり、具体的な人間の意識の解明という観点から、『存在と無』について筆者独自の捉え直しと解釈がなされる。

 第II部では、「それがあらぬところのもので在り、それがあるところのもので在らぬ」という在り方で、己自身に対峙している意識は、自己とのこうした差異を乗り越えようとする動態の中にあることが描き出される。この動態こそ、現在、過去、未来という時間経験を基礎づけるがゆえに、対自としての意識は、時間の形式においてしか捉えられない、というサルトルの解明に基づき、第四章「現在において自己から脱自する意識」、第五章「過去を自己の事実性とする意識」、第六章「未来へと自己を超出する意識」という観点に沿って、自己に向き合わされる時の子どもの意識の在り方とその変化が克明に解明される。

 第III部では、『存在と無』における対他論の観点から、第七章「対象-他者との出会い」、第八章「『人』への埋没」、第九章「主観-他者からの超越」、第十章「対象-我々への変様」といった他者経験に定位し、過酷な過去をもつ子どもが辛さを味わいながら、自己を乗り越え豊かに変様し、社会人として自立に到る過程が、辛さの克服として明らかにされる。

 第IV部では、『真理と実存』、『文学とは何か』、『倫理学ノート』に基づき、養育者が子どもたちをいかに支え、「リスク」を覚悟しつつ、何を己の責任として引き受けているかが、サルトルにおける「贈与」としての真理開示や「ジェネロジテ」の観点から、考察される。

 対自としての意識の在り方に徹底して定位する本論文は、時にはサルトルの不十分さを克服するまでに到りながらも、一貫してサルトル哲学との緊張を保持している。このことにより、個々の事例における養育者との対話の流れに即した子どもの意識の微妙な変化と、長期に亘る子どもの変化が丁寧に記述され、深い次元で豊かに解明されている。特に、子ども自身が被虐待や非行経験といった辛い過去を養育者と共に乗り越えていく過程の記述と解明は他に類をみない。過去においてだけでなく、現在においても辛い経験を抱えた思春期の子どもが、養育者によって、また自己自身によって作用を及ぼされ続けながら、その在り方を変えていく様子を克明に解明した本論文は、日常的な関わりだけでなく、子どもが辛さを味わう関わりの、子ども自身にとっての意味を明らかにし、被虐待や非行経験を抱える子どもたちに対する支援や養育の具体的在り方を示唆している。以上のことから、本論文は、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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