学位論文要旨



No 122028
著者(漢字) 榊,美知子
著者(英字)
著者(カナ) サカキ,ミチコ
標題(和) 感情が自伝的記憶の想起に及ぼす影響 : 自伝的記憶の領域構造に注目した検討
標題(洋)
報告番号 122028
報告番号 甲22028
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 教授 南風原,朝和
 東京大学 教授 下山,晴彦
 東京大学 助教授 針生,悦子
 東京大学 助教授 岡田,猛
内容要旨 要旨を表示する

 自伝的記憶とは,人が過去に経験した出来事に関する具体的な記憶を指す。"憂鬱な気分になって,悲しい経験ばかりを思い出す"といった日常経験からも分かるように,こうした自伝的記憶の想起はその時の感情によって大きな影響を受けている。従って,人の記憶のメカニズムを包括的に解明するためには,感情の影響を含めて自伝的記憶の検討を行うことが不可欠と言える。しかし,感情は主観的なもので,客観的に捉えるのが難しい。こうした曖昧さゆえに,認知心理学や社会心理学では,感情が自伝的記憶に及ぼす影響は十分に検討されてこなかった。そこで第1章では,感情に関する心理学研究を概観し,その定義を明確化した。

 第1章における感情の定義を踏まえ,第2章では,感情が自伝的記憶の想起に及ぼす影響に関して先行研究を概観した。その結果,2つの相反する現象が存在することが明らかになった(レビューとしてBower & Forgas, 2001)。第一に,"感情と一致する記憶の想起が促進される"という気分一致効果である(例.ネガティブ気分時にネガティブ経験の想起が促進される)。第二に,"感情と逆の記憶の想起が促進される"という気分不一致効果である(例.ネガティブ気分時にポジティブ経験の想起が促進される)。感情が自伝的記憶の想起に及ぼす影響に関して包括的に理解するためには,これらの矛盾する現象を統一的に理解する必要がある。

 また,先行研究では,気分一致効果と気分不一致効果は,感情制御に相反する影響を与えることも指摘されている。具体的には,気分一致効果はネガティブ気分の悪化や抑うつをもたらし,感情制御に負の影響を与えることが見出されている(e.g., R. Erber & Erber, 1994)。それに対して,気分不一致効果はネガティブ気分を緩和し,感情制御を促進することが示されているのである(e.g., Josephson, Singer, & Salovey, 1996)。従って,気分一致効果と気分不一致効果を弁別する要因を特定することは,感情制御の観点からも非常に重要と考えられる。

 実際,これまでの研究においても,気分一致効果と気分不一致効果を弁別する要因に関して様々な検討が進められてきた(レビューとしてForgas, 1995)。これらの研究では,もっぱら"自分の感情状態を緩和しよう"という気分緩和動機が注目を集めてきた。そして,"気分緩和動機が高いときには気分不一致効果が生起するのに対して,気分緩和動機が低いときには気分一致効果が生起する"ことが見出されている(e.g., Smith & Petty, 1995)。

 しかし,気分緩和動機の有無だけで,"気分一致効果が生起するか,気分不一致効果が生起するか"が規定されている訳ではあるまい。そもそも,気分一致効果や気分不一致効果の際に想起される記憶は,自らの自伝的記憶の知識表象から検索されたものと考えられる。従って,"自伝的記憶がどのように構造化されているのか"もまた,気分一致効果や気分不一致効果に大きな影響を与えていると考えられる。そこで本論文では,自伝的記憶の知識構造が気分一致効果と気分不一致効果に及ぼす影響を検討することを目的とした。

 ただし,自伝的記憶の構造についても十分に明らかにされているとは言い難い。そこで第II部では,前提となる自伝的記憶の知識構造に関して検討を行うこととした。その際,自己概念(個々の自伝的記憶から抽象化された自己に関する抽象的知識)の構造を手がかりとした。先行研究では,自己概念の構造に関してはある程度の研究が蓄積されてきた(e.g., Showers, 1992)。そして,自己概念の構造は,感情経験と密接な関連を持つことが明らかにされている(e.g., Linville, 1985)。これらのことから,自己概念の構造を手がかりとして自伝的記憶の知識構造を検討することで,自伝的記憶の構造の中でも,感情との関わりを考える際に本質的な側面を取り出せると考えられる。

 ただし,こうした議論は,"自伝的記憶が自己概念のもとに保持されている"ことを前提としている。自伝的記憶が自己概念のもとに構造化されているのであれば,自己概念の構造が自伝的記憶の構造に反映されている可能性も高い。そのため,自己概念の構造は,自伝的記憶の構造を検討するための有用な手がかりとなりうると考えられる。それに対して,KleinとLoftusらは一連の研究の中で,両者は独立に保持されていることを繰り返し見出している(e.g., Klein & Loftus, 1993)。彼らの知見が妥当なものであれば,自己概念の構造と自伝的記憶の構造が類似している保証はなく,自己概念の構造を手がかりとすることは難しいと考えられる。しかし,KleinとLoftusらの研究には,結果の解釈に不適切な前提が置かれている。

 そこで第3章〜第7章では,KleinとLoftusらの研究の問題点を排除した上で,自伝的記憶と自己概念の関連を検討した。第3章では,Klein & Loftus (1993)と同様,課題促進パラダイムを利用した。その結果,自己概念にアクセスすると,関連する自伝的記憶の想起が促進されることが示された。こうした結果は,KleinとLoftusらの主張に反して,自己概念は自伝的記憶と関連付けられて保持されていることを意味している。同様の結果は,プライミング法を利用した場合にも(第4章),知覚的処理の効果を統制した場合にも(第5章),意味的知識の影響を考慮した場合にも(第6章)認められている。これらの知見から,自伝的記憶は関連する自己概念のもとに構造化されていると言える(第7章)。そして,自伝的記憶の知識構造を検討する際に,自己概念の構造を手がかりとして利用できると考えられる。

 以上の知見を踏まえ,第8章では,自己概念を手がかりとして自伝的記憶の構造を検討した。具体的には,自己概念は,"家族","勉強","仕事","友人関係"などのテーマごとに分かれた構造を持つと考えられてきた(e.g., Linville, 1985)。このことから,自伝的記憶も同様の構造を持つ可能性が示唆される。第8章ではイベント手がかり法を利用して,この点について検討を行った。その結果,自伝的記憶も"勉強","友人関係"といったテーマごとに分かれた領域構造を持つことが明らかになった。更に,階層線形モデルによる分析を行ったところ,それぞれの領域が感情と特異的に連合していることが示された。このことから,感情が自伝的記憶に及ぼす影響は,自伝的記憶の領域構造によって調整されている可能性が示唆される。

 こうした第II部の結果を踏まえ,第III部では,「自伝的記憶のどの領域から記憶を想起するか」を実験的に操作した。そして,自伝的記憶の領域構造が,気分一致効果と気分不一致効果に及ぼす影響について検討を行った。まず第8章では,ポジティブ気分時について検討した。その結果,感情を喚起した状況と関連する領域(以後「状況関連領域」と記す)から記憶を想起すると,気分一致効果が生起するのに対して,感情を喚起した状況と無関連な領域(以後「状況無関連領域」と記す)から記憶を想起した場合には,気分不一致効果が生起することが明らかになった。こうした結果は,ネガティブ気分時においても再現された(第10章)。更に,日常的な記憶想起に近い自由再生法を用いても,同様の結果が認められた(第11章)。以上のことから,状況関連領域から記憶を想起すると気分一致効果が生起するのに対して,状況無関連領域から記憶を想起すると気分不一致効果が生起すると言える。

 ただし,自伝的記憶は個人のこれまでの人生を反映するものであり,自伝的記憶の領域構造には大きな個人差が想定される。そこで第IV部では,自己複雑性(Linville, 1985, 1987)を利用して,自伝的記憶の領域構造の個人差が気分不一致効果に及ぼす影響を検討した。まず第12章では,ネガティブ気分時について検討を行った。その結果,自伝的記憶が数多くの領域に保持されており,これらの領域が明確に分化している人は,気分不一致効果を示しやすいことが明らかになった。それに対して,自伝的記憶が少数の未分化な領域に保持されている人は,気分不一致効果を示しにくいことが示された。次に第13章では,自己複雑性から気分緩和動機の効果を分離した上で,同様の検討を行った。その結果,気分緩和動機の効果を統制しても,自伝的記憶の知識構造の個人差が気分不一致効果に影響を与えることが示された。更に,第14章では,ポジティブ気分時においても同様の結果が再現された。これらの第IV部の結果から,自伝的記憶の領域構造の個人差が気分不一致効果に影響を与えていると考えられる。

 最後に,第15章では,本論文の知見が,感情と記憶の関連に関する先行研究にどのような示唆を与えるかを考察した。また,上述のように,本論文では第II部において,自伝的記憶の知識構造に関して基礎的な研究を行った。こうした第II部の研究が"自己"に関する研究に与える示唆についても考察を行った。更に,近年,感情の自己制御に関する研究が飛躍的に増加している(e.g., Ochsner & Gross, 2004)。本論文の知見は,感情の自己制御の研究にも大きな示唆をもたらすものである。そこでこの点についても考察を行った。

審査要旨 要旨を表示する

 憂鬱な気分になると悲しい経験を思い出すという日常経験からもわかるように、記憶の想起は感情によって大きな影響を受ける。本研究は、感情と一致する記憶の想起が促進されるという「気分一致効果」と、感情と逆の記憶の想起が促進されるという「気分不一致効果」の生じる要因と心理的メカニズムを明らかにしようとする実験心理学的な研究である。第I部の第1章・第2章では、感情、および感情が自伝的記憶の想起に及ぼす影響に関する心理学的研究を概観し、これまでの研究では、もっぱら、自伝的記憶の知識構造の果たす役割を検討するものとしている。

 第II部では、本研究の前提となる自伝的記憶の知識構造に関して、自己概念との関連をもとに検討している。先行研究において、KleinとLoftus(1993)は、自己概念と自伝的記憶は独立に保持されていることを主張してきたが、第3章〜第7章では、彼らの研究の問題点を指摘し、自己概念は自伝的記憶と関連づけられて保持されていることを示した。具体的には、課題促進パラダイムを用いた場合(第3章)、プライミング方を利用した場合(第4章)、知覚的処理の効果を統制した場合(第5章)、意味的知識の影響を考慮した場合(第6章)のそれぞれにおいて、自己概念にアクセスすると、関連する自伝的記憶の想起が促進されるという結果が認められた。これらの知見から、自伝的記憶は関連する自己概念のもとに構造化されている可能性が示唆され(第7章)、自己概念が、家族、勉強、仕事、友人関係などのテーマごとに分かれた構造を持つと考えられていることから、自伝的記憶も同様の構造を持つと推察された。第8章ではイベント手がかり法を利用して、この点について検討を行い、自伝的記憶もテーマごとに分かれた領域構造を持つことを示した。また、階層線形モデルによる分析を行ったところ、それぞれの領域が感情と特異的に連合していることが示され、感情が自伝的記憶に及ぼす影響は、自伝的記憶の領域構造によって媒介されている可能性が示唆された。

 第III部では、自伝的記憶の領域構造が、気分一致効果と気分不一致効果に及ぼす影響について検討を行った。まず第9章では、ポジティブ気分時について検討し、感情を喚起した状況と関連する「状況関連領域」から記憶を想起すると気分一致効果が生起するのに対して、感情を喚起した状況と無関連な「状況無関連領域」から記憶を想起した場合には、気分不一致効果が生起することを示した。こうした結果は、ネガティブ気分時においても(第10章)、日常的な記憶想起に近い自由再生法を用いても(第11章)、同様に得られた。

 自伝的記憶は個人の人生経験を反映するものであり、自伝的記憶の領域構造には大きな個人差が想定される。そこで第IV部では、自伝的記憶の領域構造の分化の程度を表す「自己複雑性」が気分不一致効果に及ぼす影響を検討した。第12章では、ネガティブ気分時について、自己複雑性の高い人ほど、気分不一致効果が生じやすいことが示された。第13章では、気分緩和動機の効果を統制しても、自伝的記憶の知識構造の個人差が気分不一致効果に影響を与えることが明らかになった。第14章では、ポジティブ気分時においても同様の結果を得ている。

 上記のように、本研究は、感情が想起に影響を及ぼすメカニズムを理論的に検討し、詳細な心理実験を通して自伝的記憶の知識構造に関する基礎的な知見を得るとともに、感情の自己制御に関する研究分野にも大きな示唆をもたらすものと考えられ、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達している論文として評価された。

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