学位論文要旨



No 122032
著者(漢字) ガブラコヴァ デンニッツァ ステファノヴァ
著者(英字) GABRAKOVA DENNITZA STEFANOVA
著者(カナ) ガブラコヴァ デンニッツァ ステファノヴァ
標題(和) 文明と希望 : 近代日本における「雑草研究」
標題(洋) Civilization and Hope : "Weed-Study" of Modern Japan
報告番号 122032
報告番号 甲22032
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第709号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 教授 岡部,雄三
 東京大学 教授 小森,陽一
 立命館大学 教授 西,成彦
内容要旨 要旨を表示する

「雑草」と「草」をモチーフにした文学的・文化的表現に注目することによって、日本近代文学を貫く想像力の系譜を浮き彫りにし、「雑草」のイメージで読み解くことのできる作品群の系譜に光を当てることが、本論の第一の目的である。次に、このイメージが、激変する世界において、近代文明に対する不安と希望に結びついていることを明らかにすることが、本論の第二の目的である。最後に、「雑草」というイメージが、作品の内容に止まらず、「雑草」を扱った文学作品の形式に及んでいること、つまり「雑草」のイメージの性質や伝達が「雑草」的であることを示し、「雑草」のイメージの共有を通して比較文学的な研究の可能性を探ることが、本論の第三の目的である。

まず、与謝野晶子の詩から着想を得た魯迅の『野草』に焦点を当て、「野草」を激変の中における「希望」の心理の文学的イメージとして位置づける。「希望」は本論を貫くモチーフ(文明の進歩を表すプロメテウス神話との関係において)になる。同時に「野草」は「故郷」に対する郷愁を「子供」への「希望」に託したものとして解釈できるので、本論における「雑草」のイメージと「故郷」や幼児回帰の関係をも反映している。魯迅の「野草」は文学作品そのものを表す比喩でもある。

本論は大きく三部に分かれているが、それぞれの部分は、近代的な内面的主体、近代的国民国家と、そこに埋め込まれる「故郷」、そして、第二次世界大戦の断絶によって同時に生じた「世界」の概念と、近代的主体や国家への反省を、大まかな背景にしている。

第一部、「温室の雑草園」では、北原白秋の詩的活動を手掛りに、「雑草」が現れる空間を内面との関わりで論じている。白秋の詩に現れる「雑草園」は夢に類似した内面的な空間を造形するためのイメージである。「雑草園」は『屋上庭園』という白秋他主催の雑誌に嵌め込まれ、『屋上庭園』編集の活発な詩的活動は都市空間の「雑草園」、小石川植物園の中に埋め込まれる、入れ子の構造を持つ。詩の中にさえ「温室」や「雑草園」の縮小図、ガラスの器が見出される。そのような自己言及的入子型の内面の探求は、それ以上開けることのできない不透明な核(「種子」)、内面的空間の最小単位に辿りつく。その動きは、白秋が『思ひ出』という詩集で扱っている記憶の詩法によって、自己の内面的空間の奥底に埋め込まれている「故郷」(柳川)と「子供」に到達し、詩的想像力は「外」(共同体への帰属感、自然という共同の故郷)に向かっていく。

第一部が内面への覚醒、そして内面という「夢」への探求を辿るのであれば、第二部、「雑草の季節」は、こうした閉ざされた内面が外の世界と関係を結ぶ欲望による「自然」への目覚めを分析する。与謝野晶子の社会評論では、性欲、政治欲、そして詩人としての製作欲がお互いを貫き、近代女性の覚醒と結びついていく。晶子に見られる「性欲」、「政治欲」、そしてそれらを統括する詩人としての「製作欲」の相互内包は、抑圧と噴出の具現化である「雑草」を、性(内面)や政治(共同体)が融合したものとして捉えなおすきっかけとなる。

晶子が「雑草」の生い茂るに任せた庭に向ける眼差しは、これまで注目されたことのない白秋の散文を照らし出している。白秋に対する晶子の言及は1929年のエッセーでなされているが、彼女の「雑草」を扱った最も早い詩「雑草二篇」(1915)から十年以上の隔たりがある。その間には関東大震災という大きな亀裂があるのにも係わらず、「雑草」への関心と共に、「雑草」のイメージが残存していることと共に、その亀裂を補う希望もここから感じ取ることができる。白秋の散文「雑草の季節」が震災の翌年の夏を描いたものであるのはそのことを暗示している。「温室」の「雑草園」のような閉ざされた内的空間から、牢獄からの開放のような開放感が、「雑草の季節」のみではなく、それが属している「季節の窓」という白秋の散文集などを充たしている。白秋において、閉ざされた夢から覚醒することの心理は既に『雀の生活』に見られる。震災後の開放感に対する白秋の喜びは、生命への喜びと共に、閉ざされた内面からの自然と共同体への脱出を表している。この想像力の延長線上にあり、そしてその頂点をなすのは前田夕暮(『緑草心理』)による「雑草」の文学的イメージである。白秋の描いた夕暮の肖像が『緑草心理』のイラストになっているという二人の関係、そしてそれに類似した「雑草の美」を歌った相馬御風と「雑草」を描いた日本画家郷倉千靭の関係を、この第二部で見ることによって、「雑草」への共有された関心がいかに他者と自然との関係を築く時に機能しているかを考える。生命主義、民主主義その他、色々な意味で覚醒状態として捉えられる戦間期は、ますます高まる「故郷」という国家への(無)意識によって、新しい夢、「起きているという夢」に繋がっている。以上素描した「雑草の季節」の時期は子供の発見として位置づけられ、児童文学が盛んになる時期である。晶子も白秋も子供を相手に文学を書くが、ここで問題になっているのは夢と覚醒の複雑な関係と回帰不可能な「故郷」を表現しようとする「子供」の表象である。相馬御風の『雑草苑』などの分析はこうした視点を裏付けていると同時に、「雑草」のイメージを、不毛な「希望」として相対化させてもいる。

第三部「不屈の草」の中では第二次世界大戦後を扱う。「不屈の草」はカミュの「地獄のプロメテウス」からの引用で、プロメテウスの神話が子供の救済の希望の形で再現される時期を指す。魯迅から影響を受けたに違いない太宰治の「希望」、さらに太宰がプロメテウス神話にある「パンドラの匣」を、玉手箱と結びつけたことを通して、大庭みな子の『浦島草』に繋がる、夢と覚醒をめぐる想像力を明確に見るため、太宰治の『パンドラの匣』の分析を行なう。太宰の作品と類似した病と死の空間を舞台にした福永武彦の『草の花』を通して、「草」のイメージと第二次世界大戦の語り方の関係を再確認する。その他に、野呂邦暢の『草のつるぎ』の中の国家と土の間、さらに戦時中と戦後の間に動く「草」としての自衛隊のイメージを視野に入れる。太宰と福永の作品は結核のサナトリウムが舞台であるから、死と深い関係にある生の体験の空間的な次元の文学的構築として解釈できる。野呂の作品では死の限りなき接近の感覚は、自衛隊の駐屯地によって空間的に再現されていると言えるし、野呂の「草」の用い方に幼年期の記憶を喚起する「故郷」から全人類が共有している「故郷」の表現までを見ることもできる。両方の場合において、病や戦場訓練という体験を通して自己の輪郭は「共同体」の中に溶解していく。その感覚は大庭みな子の作品群では、さらに深まり、世代や国籍や性差を問わず、生命によって結ばれている複数の人間同士の総体のイメージに発展していく。太宰、福永、そして野呂の作品から、「草」のイメージによって齎された物語の自己言及性(日記形式、手帳形式)を見ることもでき、それは大庭みな子の作品における物語的な入れ子構造とも類似している。

最後に、大庭みな子のエッセー、詩、小説を例にとって、「雑草」や「草」のイメージの戦後を論じる。『浦島草』の中で語られる第二次世界大戦の記憶と浦島草という「草」、そして夢と覚醒の間に実感される隙間は、「故郷」と「子供」を喚起しながら、大庭の言葉では「夢」である文学作品によって自己言及的に強調されているのである。過去に埋もれた悪夢に対する共有された無言の記憶としての「草」は、『浦島草』の原型である『ふなくい虫』の中で無理やりに抑圧された生命、「雑草」としての胎児のイメージに遡る。『ふなくい虫』では、痛々しい体験とはいえ、「故郷」に繋がる「雑草」は第二次世界大戦後の世界とでも解釈できる抽象的な空間、「温室」とのコントラストで際立っている。「雑草」に象徴される抑圧されたもののイメージ群を追い、『花と虫の記憶』に見られる「故郷」と自然に憧れる、都会的な現代人の孤独、現代女性の自由と孤独と「野草」のイメージに辿りつくことができる。終りに、「雑」なジャンルである随筆集『野草の夢』を通して、魯迅の『野草』の存在の意味と文学表現の奥に潜む生命の種子のイメージに触れる。

以上三部の大きな流れの間に、さらに「雑草」を「園」として統御させるメカニズムを対象にした、二つの考察を挟むことにする。日本における幼稚園教育の先駆者倉橋惣三の『幼稚園雑草』を切り口に「植物園」の一種としての子供の園の空間の構築に込められた希望を、やはり「雑草」のイメージで解くことができる。「小国民」を幼稚園の枠内に入れる考察の次に、国民主義に向かう時期の「国民」の動員を「雑草」のレトリックで考える。そこで「雑草」の対語である「雑木」とその限定された領域「武蔵野」を日本の比喩と解釈し、戦争中に形成される「武蔵野雑草界」の愛国主義や戦後の皇居を「野草園」や「武蔵野」の縮図として語る語り方に注目する。

「雑草」が文学的、社会的、政治的言説の間の隙間を思いがけない形で潜り抜け、多数の詩人や作家の表現の中に姿を現し、見えないところに複雑な関係性の網の目を織りなしている。与謝野晶子の詩「雑草」は魯迅の散文詩集『野草』と繋がり、魯迅の『野草』は大庭みな子の『野草の夢』と結びつく。そのルートの意外さは「雑草」のイメージの伝達の特徴であり、文学的営みの核心に迫る、自らを裏切ってしまう表現や表現できないものの表現への「不屈」の努力のイメージでもある。

審査要旨 要旨を表示する

 ガブラコヴァ デンニッツア ステファノヴァ氏の「文明と希望―近代日本における「雑草研究」」は、「雑草」をキーワードにして、明治末から一九七○年代までの日本近代文学を論じた意欲作である。

 ガブラコヴァ氏は、近代文学に描かれる多くの雑草のイメージに着目し、これを手がかりとして多くの文学作品を横断的に読み解くとともに、それらのイメージが担う意味を考察する。自然としての雑草は、人間が作り上げる人工物に入り込み、これを覆いつくす一方で、破壊のあとの生命の萌しを告げる。こうして雑草は近代文明が抱え込む不安と、再生への希望を象徴する。また、雑草のイメージを伝える多くの作品の表現形式自体と、多様な作品間に共有される雑草イメージの伝播にも、雑草的性質が観察できるという自己言及的な現象が指摘できる。ガブラコヴァ氏が用いる分析の方法は、テクスト内およびテクスト間において、隣接性の原理すなわち換喩的なレトリックと換喩的関係性を指摘することであり、また、多くのイメージの間に「入れ子」的構造を指摘することである。それは一種の記号論的テクスト分析であるとともに、近代文学にみられる近代の意識とその歴史的変遷を辿ろうとする文学史的記述の試みでもある。また、雑草をキーワードに、異なる時代の異なる書き手による多様なテクスト群を、一つの視野のもとに収めようとした比較文学的テーマ研究でもある。

 本論文は、四部五章に分かれる。以下、論文の構成にしたがって内容の概略を記す。

 序章においては、与謝野晶子の「雑草」に触発されて書かれたとされる魯迅の『野草』から、生と死、記憶と忘却、夢と覚醒、内面と共同体といった、本論全体で問題となるいくつかのテーマ軸を取り出し、それらを近代文明に生きる希望と結びつけて論じる。

 次に「割り込む」と題された第一部では、まず第一章「温室の中の雑草園―北原白秋における内面的空間の構築」において、北原白秋の詩に現れる「温室」や「雑草園」のイメージが、植物園、露台、屋上庭園、花壇、植木鉢などとともに、人工的都市空間に存在する閉ざされた内面空間を表現していることを指摘する。そのような内面空間は故郷の記憶と幼児回帰につながるものでもある。ここには、本論の主要な分析概念である「入れ子」の構造が十分に確認できるのである。

 続く第二章「子供の「園」の「雑草園」」においては、植物園の延長としての子供の園の空間に焦点があてられる。雑草としての子供たちと、園に生える雑草の関わりが、賀川豊彦の幼稚園教育の思想や、倉橋惣三『幼稚園雑草』における雑草礼賛と未来への希望に絡めて論じられるのである。

「生い茂る」と題された第二部では、まず三章「「雑草の季節」―大自然の「雑草園」」で、「雑草研究」に強い関心を寄せる与謝野晶子が、自己の性欲、政治欲、制作欲を、雑草のイメージで捉えていることが確認される。関東大震災を隔てて晶子の詩「雑草二編」(1915)と北原白秋の随筆「雑草の季節」(1929)が響きあうなど、雑草のイメージは日本近代文学の空間にまさに雑草的にはびこっているが、こうした関係性のなかに、前田夕暮の『緑草心理』や、相馬御風の『雑草園』や、雑草を描く日本画家郷倉千靱の作品も位置づけられることが確認される。震災後の生命の蘇りと開放感を描く白秋の『雀の生活』には、幼児回帰、故郷回帰の願望が濃厚に漂うが、夕暮は雑草園のイメージに共同体への夢を投影し、御風は雑草によって子供を語るのである。

 第四章「雑草の生い茂る故郷的空間―武蔵野」では、故郷回帰の願望が一つの具体的な空間を対象とする例として、武蔵野の表象が取りあげられる。国木田独歩の『武蔵野』や大岡昇平の『武蔵野夫人』が言及されるとともに、織田一麿の『武蔵野の記録』、白石実三の『新武蔵野物語』などが引用され、随筆や写真のなかに定着される武蔵野の姿が確認されるとともに、都心に残された武蔵野としての皇居の空間が論じられる。

「生き延びる」と題された第三部の第五章「不屈の草」では、太宰治、福永武彦、野呂邦暢、大庭みな子といった作家の小説群が、魯迅の『野草』と大庭みな子の『野草の夢』をつなぐ想像力の系譜の中に位置づけられる。「文明の患者」魯迅を「惜別」のなかに描きだした太宰は、『パンドラの匣』で結核療養所における死の絶望と生の希望を語るが、これは同じ療養所を舞台とする福永の『草の花』が、草のイメージを通して戦前戦後の共同体における生と死を語ることに通じる。自衛隊の演習場における擬似的戦場体験を描く野呂の『草のつるぎ』には、草と同化する兵士たちの生の体験と帰郷願望が描かれる。そして、植物的想像力というべきものに貫かれた大庭の『浦島草』や『ふなくい虫』では、戦争という恐るべき破壊と再生の物語や、故郷への執着が語られる。大庭の『花と虫の記憶』に認められる、故郷と自然に憧れる都会人の孤独こそが、まさに「野草の夢」を紡ぐことになるのである。

 以上のように要約されるガブラコヴァ氏の論文に対し、審査委員からは以下のような評価、批判が寄せられた。

 まず、ガブラコヴァ氏が発見した「雑草」というテーマの有効性と、それが日本近代文学史に問いかける問題の重要性が高く評価された。また、雑草のイメージが近代文学の作品群に雑草的な拡がりを持つという自己言及的性格の指摘にも強い関心が寄せられた。日本近代文学に焦点をあてた論考ではあるが、これが世界文学的視野のなかで十分に語られうる問題であることも確認された。

 一方で、「野草」「草」などの用語と併用される「雑草」の定義が必ずしも明確ではないこと、相互に関連する作品群の比較文学的対比記述が控えられているために読者の理解が妨げられることがあること、雑草のイメージの発展軸にそった時間的記述ではないために叙述に分かりにくさが残ること、「入れ子」の概念に不明な点が残ること、等々の難点が指摘された。

 個々の叙述について審査員といくつか議論があったほか、扱った作品群の選択や、今後の研究の展望について質問があった。また、全般的に日本語表現に分かりにくさが残ることが、遺憾とすべき点であると指摘された。ただし、これはガブラコヴァ氏の挙げ得た功績を本質的に損なうものではないことも確認された。

 したがって、本審査委員会は、ここにガブラコヴァ氏に対し博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定することに、全員一致で合意した。

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