学位論文要旨



No 122035
著者(漢字) 松尾,秀哉
著者(英字)
著者(カナ) マツオ,ヒデヤ
標題(和) 多極共存型民主主義の終焉 : 1960年代のベルギーの列柱と政治的エリート
標題(洋)
報告番号 122035
報告番号 甲22035
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第712号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 柴田,寿子
 東京大学 助教授 内山,融
 東京大学 教授 平島,健司
 千葉大学 助教授 水島,治郎
内容要旨 要旨を表示する

1.問題の所在

 ベルギーは複雑な歴史を有する西欧の小国である。建国以来、ベルギーは内的にフランス語を話すワロン民族と、オランダ語を話すフランデレン民族という二つの民族を抱え、19世紀末以降、フランス語話者の政治的・経済的優位に抵抗するフランデレン運動を経験しながらも、それでも政治的安定を維持してきた。この点でベルギーは、「多極共存型民主主義」国家の典型的な例として挙げられる。これらの国家では、深刻なクリーヴィッジを有しているため、安定的な民主的政治体制の達成と維持は困難だと考えられてきた。しかし、それでもこれらの国家群は、「卓越したエリート」の存在と行動によって対立を回避し、長期に亙る政治的安定を維持してきた。レイプハルトによれば、「多極共存型民主主義においては、多元社会に固有の遠心的傾向は、異なる分断区画のリーダーの、協調的態度と行動とによって相殺される。エリートの協調が多極共存型民主主義の第一の顕著な特徴」である。

 しかし1960年代に入り、ベルギーでは両言語の対立が激化した。とくに65年の選挙では言語主義政党の台頭を招き、カトリック、社会党という二大政党が一気に得票率を落とす。しばしばこれは「ベルギー多極共存型民主主義の終焉」と形容される、政党システム・レヴェルの歴史的分水嶺であった。その後、伝統ある(フランデレン地域にありながらフランス語を教育言語として使用していた)ルーヴァン大学の分割・移転問題をめぐり、1968年には政権が崩壊し、その処理をめぐって建国以来ほとんどの政権に加わっていたカトリック政党が地域政党へと分裂するに至る。その後、他の既成政党も次々と分裂するに至り、その対応としてベルギーは、分権化・連邦化改革を進めることになる。最終的に1993年、地理的な「地域」のみならず、属人的な「言語」の相違をも構成要素とする、多層的に構成される連邦国家となった。

 では、この「言語問題」が、「紛争」や「戦争」と称され、国家改革を余儀なくさせるほどにまで高揚したのは何故か。この点について、従来の研究では、経済不況やクリーヴィッジの変化など、いわゆるベルギーの政治社会的次元の変化に注目することで、言語問題の高揚を説明してきたと言える。しかしその高揚の原因を指摘するだけでは、おそらく説明は不十分であろう。実際に言語問題の高揚を、ベルギーは過去幾度と経験したからである。にもかかわらずこれらの高揚はその都度解決されてきた。しかし、60年代の高揚については、それに対処しえなかった。つまり、エスニック運動の高揚に加えて、そもそもそれを受け止めるべき体制側、国家側に、その時期、なんらかの問題が生じていたのではないか。

 ベルギーが古典的な多極共存型民主主義国家であることを考慮すれば、これらの国家群の安定を維持していくための最重要要件として挙げられている「政治的エリートの協調的行動」に注目して、この時期のベルギー政治を再考していく必要があろう。本研究では、ベルギー政治において中心的役割を果たしてきたカトリック政党(CVP・PSC)を中心に、それを代表する「政治的リーダー」と、他党の「政治的リーダー」との間で政権形成・維持や政策決定のためになされる「協調的行動」が、同一党内の「党内集団リーダー」との関係(列柱の動態)に及ぼす影響に注目し、60年代ベルギーの政治的不安定の再解釈を行なう。

2.歴史分析

 カトリックの政治家、エイスケンスは、58年に当時の「学校紛争」と呼ばれる、自由主義者とのあいだに生じていた政治的紛争の解決を担い、少数単独政権を形成し、その解決に尽力した。その和平協定の採択に際し、彼は本来キリスト教民主主義者(党内左派)であるにもかかわらず、従来対立していた自由党との連立形成策を採り多数派を形成した。戦後ベルギー政治を担ってきたのは、主としてカトリック内のキリスト教民主主義者と、社会党との連立であった。しかし、ここでエイスケンスは「連立するときには、最も弱い者と組むべきだからだ」と考え、従来の原則を放棄し、(相対的に勢力の劣る)自由党との協調的行動に尽力した。

 しかし、この連立形成交渉過程において、自由主義カトリック派(党内右派)のリーダーであり党首でもあるルフェーブルが、エイスケンスの主導権拡大を恐れ、自らの主導権を回復しようとしてエイスケンスに過干渉し、それを拒むエイスケンスとのあいだで対立した。すなわち、自由党との連立を機にカトリックは党内でキリスト教民主主義派と自由主義カトリック派とのあいだの、いわば主導権争いによって内的に不安定化するようになった。以降、ルフェーブルはエイスケンスを失脚させようと行動し、結局、党内支持を確保できず、まもなくエイスケンス政権は崩壊するに至る。

 その後、総選挙を経て、ルフェーブルを首班とする社会党との連立政権が成立した。これは、自由主義カトリック派の代表であるルフェーブルと、本来結びつきようのない社会党・スパークとが、当時のエイスケンスの行動に対する批判によって結び付いた、やはり原則放棄的、「不自然な」政権であった。本政権において、カトリックはさらに大いに動揺した。とくにルフェーブルは、自由主義カトリック派であったにもかかわらず社会党の要求する社会保障拡大政策に尽力した。こうした「不自然な」協調的行動に反発した自由主義カトリック派は、自らのリーダーであるルフェーブルに対する抵抗運動を展開し、65年選挙の際には、その多くが自由党へ離党することになった。これが、「終焉」と呼ばれる、65年選挙における政党システムの破片化・変移化の重要な要因である。つまり、協調的行動によって、逆説的にそれにたいする反発が生じ、政党システムの破片化が生じていたのである。

 「終焉」選挙以降、ベルギー政治は一層混乱する。まず、破片化は必然的に政権形成を困難とし、重要争点の「凍結」という協調的行動を要求する。さらに、ここまでの過程でカトリックの伝統的エリートは次々と失脚し、党の旧態依然とした体制打破を掲げた「反エリート」、ファンデンボイナンツが市民的支持を得て台頭することになる。彼は他の首相候補者が次々と辞退するなかで、言語問題の「凍結」によって自らの政権を形成する。ところが68年初頭、ルーヴァン大学を言語の別に分割しようとする問題が政治化する。この状況においても、彼は「ワンマン」として振る舞い、政権維持に固執しなおも「凍結」を継続した。言語問題を一切無視する政府にたいして、両言語運動の不満は一層高まり、むしろ一致した「反体制的」運動へと変化していく。その結果、ファンデンボイナンツ政権は崩壊し、またその過程で、カトリックは二つの地域・言語政党へと分裂することになった。ここでもやはり「凍結」という協調的行動が、カトリックを分裂させる重要な要因であった。以降、ベルギーは国家統治体制の改革へ向かうことを余儀なくされた。

3.考察

 60年代を通じて、カトリックの政治的リーダーは、危機的状況において「協調的行動」に従事していた。しかし、それにもかかわらず、否、むしろ、それによって内的不満が高まり、カトリックの離党を引き起こして旧来の政党システムを変化させた。また、さらに言語問題を一層先鋭化させ、党の分裂を促した。この点では「協調的行動」が、レイプハルトの主張とは逆に、列柱構造を不安定化させたと言える。とくに、彼が維持安定のために最も重視した「原則放棄」行動は、それが帰属列柱・党内の不満を高めやすい傾向にあった。

 以上の逆説的な帰結は、筆者の考察によれば、この時期のエリートが、不満を高めた党内集団への補完的動員を欠いていたために生じていた。さらに、とくに本研究で取りあげた時期の政治的リーダーは、自らのポストを獲得・維持することに過度に囚われたために、帰属集団にたいする補完的な動員行動を欠いていた。その意味では、ベルギーの60年代不安定とは、エリートの行動と、それを規定した動機、つまり主体的要因にも負うと言える。すなわち、列柱構造の不安定化がいったん生じたとして、それが必然的、不可逆的に自己崩壊へと進んだわけではなく、もうワンクッション必要だったのである。列柱の構造がいかなる状態であろうとも、主体は生き延びようとし、そして、相対的に平和裏な状況においては、主体は自らの支持集団を省みず、自らの権力欲に従い行動する。そこにベルギーが混乱した重要な要因があったのである。

 本研究は、本邦初のまとまったベルギー政治史研究であるとともに、60年代のみならず現在の、破片化を続けるベルギー政党政治へのイムプリケーションを含み、さらにはエスニック紛争における政治的アクターの行動の重要性と責任とを指摘する重要な論考である。

審査要旨 要旨を表示する

 松尾秀哉氏の「多極共存型民主主義の終焉」は、1958年のいわゆる「学校危機」から始まり60年代になって本格化したベルギー政党政治の不安定化を、主として政治リーダーたちの行動を焦点において、ワロン(フランス)語とフラマン(オランダ)語による議会や閣僚会議などの議事録、政党の党大会議事録やパンフレット、さらにリーダーの自叙伝やインタビューといった一次資料と、リーダーたちに関する伝記研究などの重要な二次資料とを検討し、それに加えて英語の文献も参照しながら、実証的に分析した政治史研究の労作である.

 提出論文の構成および要旨は次のようになっている.第1章「問題の所在とアプローチ」においては、レイプハルトが提起した「多極共存型デモクラシー」理論とベルギー政治史を簡潔に紹介した後に、60年代に安定を喪失していったベルギー政治に関する先行研究をその論点に従って整理している.著者によれば先行研究は、エスニシティ論、社会・経済的格差論、言語問題に力点を置く社会的クリ−ヴィッジ(分裂・亀裂)論、さらには、複数の社会的クリ−ヴィッジが作用して形成された「列柱(組織)」の弛緩を強調する「多極共存型」論に分類できるが、それらは共通して政治構造の変動が不安定をもたらしたという議論であり、レイプハルトが強調した「エリート間の協調行動」を軽視しているという.ここで著者はもう一度、「多極共存型デモクラシー」理論を検討して、従来の研究ではエリートの行動の分析が不充分であったと結論づける.著者の言葉を借りれば、「構造よりも主体」こそが重要だというわけである.つづく第2章「ベルギー政治の概要」では、あとに続く詳細な政治史分析の導入部として、多くの読者にはなじみのないベルギー政治の特徴が簡潔にまとめられている.

 第3章から第6章までは、ベルギー政治で中心的役割を果たしてきたカトリック政党(CVP/PSC)を中心にしながら、それを代表する政治的リーダーたちと他政党のリーダーたちとの間で、主として政府内で政権形成や政策形成のためにとられる協調的行動が、みずからの党における「党内集団のリーダーたちとの関係(=列柱の動態)」に及ぼす影響に力点を置いて、60年代にベルギー政治が安定を失っていった理由を分析している.

 第3章「相対的安定期I」では、1958年の第2次エイスケンス(CVP/PSC)単独少数党政権の成立から、教権主義と反教権主義の対立を招いた「学校問題」を解決するために、彼が歴史的伝統を破って自由党と連立して第2次連立政権を作るまでの意図や行動が分析されている.つづく第4章「相対的安定期II」では、第3次エイスケンス連立政権において、彼が従来の協調的行動の枠を超えて自由党に譲歩したので、次第にカトリック政党が不安定化していく過程が分析され、政府財政の赤字増大に対処するための諸政策をまとめた「一括法」を成立させる過程で、カトリック陣営がさらに不安定化していったことが分析される.

 第5章「移行期」では、同じCVP/PSCの右派サブ・リーダーであったルフェーブルがエイスケンスに替わって社会党との連立政権を率いるが、これも政治原則を軽視した政権であったことが指摘されている.これゆえにカトリック陣営はさらに動揺して、ルフェーブルを担いでいた自由主義カトリック派の党員の多くが65年総選挙に際してCVP/PSCを離れて、自由党に参加することに至る過程、すなわち「終焉」と呼ばれる政党システムの破片化・変移化への過程が実証的に分析されている. つづく第6章「分裂期」では、従来のリーダーたちとは経歴、個性、そして行動において異質な「反エリート」型リーダーとして、ファンデンボイナンツが登場した理由が分析される.さらに、彼がルーヴァン大学紛争に対処する際に、「ワンマン的」な手法を多用したことで、カトリック陣営の分裂がさらに大きくなっていく過程が実証的に分析される.

 終章にあたる第7章で、著者はそれまでの歴史的分析を踏まえて、次のように理論にもかかわる斬新な指摘をしている.第一に、分析対象にした約10年間において、エリートの「協調的行動」こそが、レイプハルトの主張とはむしろ逆に、列柱構造を不安定化させて、政治構造の変動を招いた.第二に、この時期に「協調的行動」が失敗した主たる原因は、彼らが政権の維持を最重要課題と認識し、その反面、従来から政党が掲げてきた原則を「放棄」したことと、さらには、不満をつのらせていた党内集団に対して、彼らエリートたちが補完的動員を行わなかったこと、に求められる.第三に、この時期の政治的不安定は、たんに列柱構造が不安定化したから必然的に生じたのではなく、リーダーシップの失敗という中間変数が大きく働いていたからこそ生じた.これらが著者の主張の要点である.

 本論文は綿密な実証にもとづいて斬新な議論を提起した労作ではあるが、以下のような弱点も審査委員会において指摘された.第1に、「構造よりも主体」が重要だという著者のテーゼに対して、主体は構造に組み込まれているのではないかという反論がなされた.確かに著者は一次資料を用いて政治リーダーたちの政治認識を検証しているが、史料に制約される実証研究という性格もあって、政治リーダーたちの権力維持志向がどこから生じたのかの分析にあまり踏み込んではいない.この意味で構造か主体かという定式化はやや誤解を招くものであり、むしろ列柱かリーダーの行動かと表現したほうがよいであろう.

 第2に、著者がカトリック陣営の不安定とか分裂を分析する際に、政党レベルの問題と社会集団レベルの問題をときに分離しないで分析している点が指摘された.列柱という概念は両方のレベルを含むものとしてふつう使われるので、たしかに著者がそれにやや引きずられたという印象を受ける.この点で、「終焉」に関して政党レベルの分裂は分析されているが、カトリック社会集団についての言及があまりなされていないことがやや惜しまれる.

 第3に、比較政治理論の側面から、ベルギーにおいて「多極共存型民主主義」は60年代末で終わったのではなく、むしろ形を変えて生き残ったのではないかという反論が提起された.この点については、著者が本論ではレイプハルトによる最初の定式化を重視するあまり、70年代以後の理論の発展と、それをめぐる多様な論争にまで視野があまり届いていなかった面があり、今後の研究を発展させる際のひとつの指針となるであろう.

 本論文には以上のような弱点はあるが、これらは論文の学術的価値をいささかも損なうものではない.本論文は日本で始めて書かれた、現代ベルギー政治史の本格的かつ実証的な分析であり、政治史研究だけでなく比較政治学の分野でも大きな学問的貢献をしていると評価できる.通読して強く印象に残ることは、実証分析の背後にある著者の誠実かつ真摯な知的態度であり、これが著者による政治リーダーたちへの批判的姿勢をより強固なものに、分析をより説得力のあるものにしている.以上のことから、審査委員会は本論文の提出者を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいと判断する.

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